報告 平成七年二月二一日 青森地方裁判所判決 付 別紙(九) (野村孝彦氏が主張する「邪馬台城」剽窃一覧
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資料 和田家文書 1

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東日流外三郡誌北方新社版(昭和六〇年一二月一〇日発行)
6東日流住古之謎史跡尋抄(寛政五年四月二日) 第六巻 諸項編 三二七〜三三一頁項

東日流往古之謎史跡尋抄

 東日流中山に踏入りて、南北に連なりき山の奥なるところに、今昔人の称す石塔山あり、その山々に啼く仏法僧鳥、春は里に花咲けど深山なりせば、渓に残雪いまだ清流を覆すところありて、山陽のぶな林のみ新芽を息吹けるを見る。山道あれど手入久しくして無路支に迷ふこと暫々なりて、史跡を探るも易得ならず、峰に見下して近けると感ぜしも、草木に分入りては方所を失覚し、徒らに歩くも至らぬ多し。わがよはい五十三歳にして、若き頃につかれ覚えぬ山面歩きも、今にして覚ゆなり。
 いま求むる踏尋の山は、飛鳥山なる耶馬台城なりしも、原誕の大森林天日をも幽閉して木陰の間より少かなる線光幾筋も暗地にゆらぎ放つるのみなり。千古不斧、人踏不覚の感せきせきとして心に打てり。いかでか日の光りに刻を見えざれば、空腹にたえかねてえり豆を噛れば、渓に呑水を欲す。
 雪解の溪水岩を縫ふが如く流れ、飛泉玉を散らして岩苔を洗ふ。流れに添ふや水煙り、山麓に漂ふ白雲に連らなり、老木の梢えは雲上に幽む仙境の景なり。
 春は遠からず、水岸にふきのとう三輪、その冷水にもめけずに芽吹きて香漂いり。
 一首つたなくも詠みける吾が心のままなりせば笑いめされるな。

 やまどりや 溪にこだまむ 水音と
  のどけき春ぞ 命芽吹きぬ
 むかし世の 秘めたる人跡 尋ねきて
  水の逝く末 われになけとぞ

 東日流中山に入りて樹下のかりねを二日に及び、いまだに見当らぬまぼろしの城跡ぞ、心いらだちて何気なく足もとなる五角の石井戸を見付たり。なんぞ、これ東日流古人が伝へしまぼろし城、耶馬台城跡なりける。
 悦びまた悦びなりて四辺を調らぶれば、延々たり石垣の苔草、千古の址を偲ばしむなり。もつきたる鍬にて土掘り見れば、出づる古物の遺品さながらにして荒吐族の世を偲ぶらん。さあれ何事も、秋田孝季翁に報ぜんと、山降りて中山遺跡を記し、土崎に飛脚せり。
 翁よりの返書に曰く。
 六日、飛脚便相届候て、東日流中山なる謎なる遺跡相知り申候。折りに依り菅井殿訊ね居り候所なれば、荒吐族の論々時におしみなく語り居候所なり。菅井殿の史観吾等と異なりせば、荒吐神なる存在、源九郎義経のアラハバキ、即ち脛当てのことなりと強性張り居り候。拙者かかる史観のよしがなきに候へば、笑止千万なりとぞ叱責をこらし候へて、菅井殿を追やり候も、詮方御坐なく候。されば、和田殿の調史、早速に東日流外三郡誌に記巻せしたれば、後々再度中山に登りて尋史あるべき旨、孝季が頼み請い候。
  寛政四年七月十日       孝季 華押
 長三郎殿参る
 かく悦びたる秋田殿の親書、心して東日流中山まぼろしの城跡に望みて本書筆置きぬ。


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斎藤隆一氏の史料批判について(古田史学会報 第十号)静岡市 上城 誠

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東北の真実ーー和田家文書概観(『新・古代学』第1集 特集1東日流外三郡誌の世界)

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