古田武彦・古代史コレクション7『よみがえる卑弥呼 -- 日本国はいつ始まったか』ミネルヴァ書房)2011年9月刊行

1987年10月作成

インターネット事務局注記 2006.2.28
 これは論文のコピーです。あくまでも参考です。本来は縦書きの文書を横書きにしております。表示は正確に努めておりますが、困難なところがあります。論証には直接影響ありませんが、誤解を招くこともある表示しかHTML版では出来ません。ですから、これを元にして史料批判はおやめ下さい。古田氏の書籍から史料批判をお願いします。
 また本論文を掲載したのは、新しい古田氏の卑弥呼・筑後風土記中の甕依姫の理解の一助です。


第四篇 卑弥呼(ひみか)の比定
ーー「甕依姫」説の新展開 六〜八


    六

 筆者はすでに、従来の「卑弥呼比定」論について分析したことがある(『古代は輝いていた』第一巻)。今、この問題を、本稿の論証と対比するため、左に簡約し、列記してみよう。


 (一)日本書紀の神功紀では、卑弥呼を「倭の女王」として挙げ、魏志を引文することによって「神功皇后=卑弥呼」の立場に立っている。しかし、この立場は到底成立しえない。なぜなら、

 〈その一〉卑弥呼は三世紀前半ないし中葉、神功皇后は四世紀前半ないし中葉の人物である。

 〈その二〉神功紀に「倭の女王」として引文されているもののうち、一回(魏志)は卑弥呼、他の一回(晋起居注)は壱与である。

 このいずれをとっても、両者が同一人物でありうるはずはないのである。けれども、それ以上に、この問題は重要な局面、日本書紀という史書の本質を指示している。
 第一。日本書紀の編年の止め金、そのキイ・ポイントは、右の「卑弥呼=神功皇后」の背理の上におかれている。いわゆる「皇暦」において、神功皇后は「八六〇〜九二九」の間の“摂政在位”とされている。これを西暦によってみれば、(「六六〇年」の差であるから)「二〇〇〜二六九」となっている。すなわち、三国志のしめす「卑弥呼と壱与の時代」に当てられているのであった。これ、「時問軸上の虚構」の一原点となっているのである。
 第二。「神功皇后」と「卑弥呼・壱与」とが別人物である、というテーマは、すなわち、神功皇后の属した近畿天皇家以外に、東アジアから日本列島代表の王者として公認されてきた「倭国」が実在する、という事実をしめす。すなわち、“両王朝の地理的別在”の事実である(そして神功皇后の「王朝」は、九州の一端〈日向〉から分岐した、と称する、いわば「分王朝」であった)。
 しかも、日本書紀の編者は、その事実を十分に知りながら、その「王朝」の記事を“とりこむ”ことによって、この「壮大な正史」の編集(正確には、「集」)を行ったのである。これ、「空間軸上の虚構」である。
 先の「時間軸上の虚構」とこれとは、当然ながら、不可分の結びつきをもつ。そして「皇暦」という名で、それは日本書紀全体を貫いている。とすれば、右の「空間軸上の虚構」もまた、日本書紀全体を貫いている。ーーーーそういう論理的必然性をになっていたのである。
 このような「論理的必然性」を回避しようとして“案出”されたアイデア、それがいわゆる「神武東遷」論や「騎馬民族」論やその修正説であった。
 そこでは、三世紀の「倭国」については九州に認めなから、四世紀以降の「倭国」については近畿に認めようとする、そのための「苦肉の策」、そういう方法論上の意義をになうものなのであった。
 しかしこのアイデアには、唯一の、そして最大の弱点がある。それは、日本側の史書にも、中国側の史書にも、朝鮮半島側の史書にも、一切その記事を見ないことである。「これこれは、その反映だ」といった類の説は多く出されているけれども、古事記・日本書紀が天皇家の正史である以上、自分たちの由来中の最大ポイントたる、その「歴史」を堂々と語らずして、「正史」を作る意義は見出しえないのではあるまいか。(6)
 いわんや中国や朝鮮半島の史書、とくにもっとも隣接した朝鮮半島の史書に、それが明記されないはずはなかったのである
(この点、本書第七篇「日本国の創建」参照)。


 (二)次に、「邪馬台国、近畿説」の論者の場合、卑弥呼に当る人物として「倭姫命」や「倭迹迹日百襲姫命」の名があげられたけれども、これらも全く当りえないであろう。なぜなら、彼女たちは、「中心の第一権力者」ではなかったからである。ところが、これこそ「両者比定」のための第一条件なのである。いわんや彼女たちの「即位」に関して、画期をなす大争乱と彼女の活躍による鎮静、彼女の後継の王朝の開始と継承、そういった説話は何等存在しないのである。


 (三)次に、「天照大神」比定論について。こちらは、「国ゆずり」説話など、一見類似しているかに“解釈”する向きもあろうけれど、静思すれば、さに非ざることが判明する。なぜなら、

 〈その一〉卑弥呼の出現は、「住まること七・八十年」という、長期間在任の男王が終結したあとの大争乱の中から生れた。そのように倭入伝には記せられている。
 これに対し、「国ゆずり」の場合、全く内容を異にする。大国主命(大穴持命)の在位末期、天照大神側からの交渉(当然武力が背景に存在したであろう)によって、その「権力移譲」が“承諾”された、という。これがこの説話の性格の本質である。
 両記事の「権力変動の様式」は別種類、率直に観察すれば、そのように評せざるをえないであろう。

 〈その二〉卑弥呼の生涯の最大事業の一、それは「中国の天子への遣使とその成功」にあったこと、倭人伝を読む人の誰しも疑いえぬところであろう。
 ところが、天照大神の場合、それが古事記・日本書紀中の最大の主神であり、他の何神よりも詳しく叙述されているにもかかわらず、「中国遣使」説話のかけらも見出せない。これは「天照大神神話の完結性」という、根底をなす史料性格から見て、到底看過しえぬ、重大差異である。

 〈その三〉卑弥呼が「錦の女王」であり、「中国錦」と「倭国錦」をまとう存在であったこと、倭人伝から見て、疑いがたい。しかるに、天照大神の場合、「布の女神」であって、「錦をまとうた大神」といった姿は、全く描かれていない。両者、同じ弥生期の存在であるけれども、前者は「絹の時代」、後者はそれに先立つ「布の時代」として、かなり所属時間帯を異にしているのである。

 〈その四〉見のがしえぬ、もう一つのポイント。それは名前である。天照大神説の場合、卑弥呼を「ヒミコ」と読んで「日の御子」と解することが多かったのではないか、と思われる。太陽神のイメージが共通する、というわけであろう。

 けれども、名前の場合、「意味」や「イメージ」が一致したからといって、何等意味をもたない。たとえば、「武彦」と「猛夫」と、“武勇すぐれた男”といった「意味」や「イメージ」が一致したからといって、両者同一人の証拠となしうるであろうか。全く非である。
 名前の場合、当然ながら、もっとも重大なのは「音」である。「武彦」と「たけひこ」なら、字面は異なっていても、両者同一人である可能性は高いのである。
 この点、従来説の場合、いずれの説も、この最低の基本要件を満たしえなかった。そして筆者の提起する「甕依姫」説がはじめて、この要件を満たしたのである。

    七

 すでに別稿や別書でのべたごとく、風土記には、全く史料性格を異にする二種類があった。一は「郡(こおり)風土記」、他は「県(あがた)風土記」である。(7)(8)
 前者は、近畿中心の視点で書かれてあり、ときは八世紀以降、和銅六年(七一三)の「元明天皇の詔」にもとづいて作製されたものと考えられる。B型の風土記である。(9)
 これに対し、後者は九州中心の視点で書かれてあり、右のB型以前の時期に作られたもの、と認められ、六〜七世紀の間の成立、と思われる。A型の風土記である。 (10)
 このA型の風土記は、「筑紫風土記」と呼ばれている。筑前・筑後・肥前・肥後など、各国の風土記を包括して、右のように「筑紫」の名が冠せられているのである。ここが九州の政治中心であり、かつ当風土記の編集地がここであることをしめすものであろう。
 さらに、九州の場合、すでにA型の風土記が成立していたのであるから、「元明天皇の詔」の出たあと、右のA型を、「近畿中心の視点」から“手直し”して、A' 型ともいうべきものに「改定」された。当然そのような経過が考えられよう。これが、九州におけるB型風土記の成立である。今、問題の筑後国風土記中の「甕依姫」史料の場合、「県」も「郡」も出現せぬから、A型・B型いずれとも判定できないけれど、いずれにせよ、「A ー A' 」型であることは疑いない。
 ことにA型の「筑紫風土記」の場合、「筑紫」の名の由来を説く、この個所は、本風土記中、もっとも重要な個所であることは自然な理解の至るべき思考であろう。その全体を左にあげてみよう。

公望に案ずるに、筑後国風土記に云う、筑後の国は、本、筑前の国と合せて、一つの国たりき。昔、此の両(ふたつ)の国の間の山に峻(けわ)しく狭(さ)き坂ありて、往来の人、駕(の)れる鞍[革薦]を摩(す)り尽(つく)されき。土人、鞍[革薦](したくら)尽しの坂と曰(い)いき。

[革薦]は、革編に薦、JIS第3水準 ユニコード97C9

 三に云う、(以下「甕依姫記事」、略)
 四に云う、其の死にし者を葬らむ為に、此の山の木を伐りて、棺輿(ひとき)を造作(つく)りき。茲(こ)れに因りて山の木尽さむとしき。因りて筑紫の国と曰いき。後に両(ふたつ)の国に分ちて、前と後と為す。

以上である。
 冒頭の「公望」については、岩波古典文学大系本の上欄注に、次のようにのべられている。

「日本書記の講莚に矢田部公望が紀伝学生として列席した延喜四年度の手記、または博士となった承平四年(実は天慶六年)度の講莚手記。日本紀私記の一で釈日本紀はそれからの孫引き。」
〈四五二ぺージ、上欄注一〉

 要するに、これは“抜粋された手記”の形の史料であるから、形式としては断片史料(逸文)である。右で、「三に云う」「四に云う」があって、「一に云う」「二に云う」がないのも、そのせいであろう(あるいは「二に云う」のみ欠か。冒頭部が「一に云う」に当る場合)。
 したがって、その全貌はうかがいがたいものの、結局は「尽(つくし)の坂」「筑紫神」「筑紫国」の名号起源譚であることは、疑いがない。とすれば、いわゆる「筑紫風土記」において、中枢をなすべき中心説話の一、そのように考えてあやまらないであろう。
 ことに、「三に云う」の「甕依姫記事」の場合、「筑紫神、起源譚」なのであり、それが「四に云う」の「筑紫国、起源譚」につながっている点から見れば、右のような判断は動かしがたい。
すなわち、近畿天皇家にとっての先縦、「元明の風土記( A型)」の手本となった、この筑紫風土記(B型)の中の中枢をなす説話、その筑紫国起源譚の中の説話中心の人物、それこそがこの「甕依姫」だったのである。
 この点、「西海道風土記逸文の一」といった、一見片々たる印象に、目をあざむかれてはならないであろう。

    八

 邪馬壹国のありかを求める努力、それは江戸期以来、営々と重ねられてきた。この中心国名を「邪馬台国」と改定して、「大和」や「山門」に比定する。これも、その努力の一であった、とも称しえよう。
 しかしながら、その中心の女王として、あまりにも印象的な姿を、海外の史書にさえとどめている卑弥呼、その人が海内史料中の誰入に当るか、この中心問願に対する探究があまりにも乏しかったことに、筆者は驚かざるをえない。
 それは主として、古事記・日本書紀という近畿天皇家の中心の正史にのみ、これを求める傾向の抜きがたかった、従来の史家の通弊によるものであろう。しかし同時に近畿天皇家中心の一元史観、その先入観が眼前に実在する史料、この「風土記逸文」の真価に対して目を蔽(おお)わしめてきたのでなければ、幸である。
 その上、「今」の一字を「令」の字へと軽易に「改定」した、井上通泰の古典処理の手法、それをそのまま継承した現代の校訂者、ここに現われた、日本古典学の方法論にも一因の存したことを指摘することも、必ずしも無益ではないであろう。なぜなら、あの倭人伝において「邪馬壹国」を軽易に「邪馬臺国」と改定した、その近世古典学の手法と全く同一の方法論だからである。
 最後に、二点を指摘したい。
 第一。もし他の論者が、この「卑弥呼=甕依姫」という、中心の人物比定を拒否せんと欲し、また容認しがたしと思うならば、なすべきことはただ一点のみである。
 それは、右の比定の各点以上に、密接な一致をしめすべき、他の人物を日本列島内の文献の中から指し示すこと、この一事である。それなしに、ただ本稿の比定を非難したり、無視したりするならば、思うにそれは、フェアーな探究者とは決していいえないであろう。
 第二。この比定のしめすところは、その根幹において次の二点である。その一は、「邪馬壹国」の中心が「筑紫」にあったことである。その二は、その中心の権力者(筑紫の王者)は卑弥呼(甕依姫)以来、「今」(筑紫風土記成立時現在。六〜七世紀)まで、継続していたこと。すなわち、「九州王朝」と筆者の呼んだものがこれである。
 なお、別稿において、本来の「倭国」が「チクシ」を意味すること、それは七世紀までつづいたことを、朝鮮半島の史書、三国志から論証したが、この帰結とも、軌を一にするものであろう。 (11)
従来の近畿天皇家中心の一元主義史観が畢竟(ひっきょう)、東アジアの諸史料群の諸事実に合致しえないこと、逆に、この先入観から解放されたとき、諸史料群は清明な処理によって、その本来の面目を回復するであろうこと、この事実を日本古代史の研究界と世人に提示すべく、本稿の論証をしるしたのである。



(6)『古代は輝いていた』第二巻、第二部、第二章、参照。
(7)本書第七篇「日本国の創建」。
(8)古田『よみがえる九州王朝』(角川選書)および『古代は輝いていた』第三巻(朝日新聞社刊)。
(9)井上通泰は「第一類」(郡風土記)、「第二類」(県風土記)と呼び(他に「第三類」)、前者を先、後者を後、とした。これに対し、坂本太郎氏は第三類の存在を否定した上、第二類が先、第一類が後とし、一般の従うところとなった。この第二類を「A型」、第一類を「B 型」と呼んだのは、筆者である。年代順の呼称の方が妥当だからである。
(10)坂本太郎氏、『大化改新の研究』による。
(11)本書第三篇「続・部民制の史料批判」。

後記
「麁猛神」は、岩波古典文学大系本では「あらぶるかみ」と訓ぜられているが、肥前国風土記の基肄郡の項で「有荒神(荒ぶる神ありて)」(三八二〜三八三ぺージ)とあって、表記を異にしている。したがって「麁猛神」は「荒神」とは異なり、「ソタケルノカミ」もしくは「ソノタケルノカミ」と訓じて、固有名詞なのではあるまいか。神社名鑑(神社本庁刊。八四八ぺージ、福岡県〈一三四〉)によると、
筑紫神社 旧県社
   筑紫郡筑紫野町原田 鹿児島本線原田駅より   〇・三粁
〈祭神〉 白日別尊 田村大神 八十猛尊 宝満大神
〈由緒沿革〉…もと城山の頂上にあったが後山麓に移さる。…

右の「八十猛尊」に当るものではあるまいか。素菱鳴尊の子とされる「五十猛神」(日本書紀、神代巻、第八段、第四、一書)との関係が注目される。
                        〈一九八七・四・十四稿了〉


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制作 古田史学の会