古田武彦・古代史コレクション7『よみがえる卑弥呼 -- 日本国はいつ始まったか』ミネルヴァ書房)2011年9月刊行


第一篇 国造制の史料批判抄録

ーー出雲風土記における「国造と朝廷」
抄録には、表記の関係で第三章の陶土員問題はごく一部収録しておりません

 

 第二節 出雲史料の再吟味

     一

 古事記神代巻に次の記事が見られる。

(a) 此八千矛神、将高志国之沼河比売幸行之時、・・・。〈古事記上巻、沼河比売求婚〉

(b) 又其神之嫡后、須勢理毘売命、甚為嫉妬。〈古事記上巻、須勢理毘売の嫉妬〉

右の文中に用いられている「幸行」(もしくは、幸」)及び「嫡后」の用語は、当該文献の中で、特定の身分の対象にのみ用いられていることは、周知のごとくである。

(A) 「幸」「幸行」の用例(出現回数、三十五回)
八千矛神  一回(右の例)
神武天皇  九回
倭建命   六回
応神天皇  三回
応神の大后 一回
仁徳天皇  五回
雄略天皇  九回
仁賢天皇  一回
(なお、応神・雄略や仁賢の場合、太子・王子時代の表記をふくむ)

(B)「嫡后」の用例(出現回数、二回)
八千矛神  一回(右の例)
神武天皇  一回(23)

 右について分析しよう。
 先ず、「幸」「幸行」の用字について。この表記が用いられうるのは、天皇・皇后・太子(王子)という身分の存在に限られることは、(八千矛神の例を除き)疑う余地がない。したがってこの表記が、同じく用いられている八千矛神の場合も、右と同類の尊位にあり、と見なされている。そのように理解する他はない。

 それだけではない。「幸・幸行」用例の先頭に立つのが、この八千矛神の例なのであるから、この用例を "天皇・皇后・太子(王子)" のケースに準じた、と見なすのは、必ずしも穏当ではない。逆に、近畿の天皇や皇后・太子(王子)についても、出雲なる八千矛神の先例に準じた。そういう順序になっているのである。この点、江戸期の国学のイデオロギーを批判しても、その実、注釈的・実証的側面では、ほぼその足跡を踏襲してきた観の深い戦後史学の立場からは、一見奇矯に見えようとも、もっともすなおに古事記の説話の流れを読みすすむとき、右の進行上の前後関係を否定すること、それは当然ながら不可能である。

 次の「嫡后」問題は、もっと簡明である。先ず用いられているのが、出雲なる八千矛神のケースであり、これに次いでいるのが神武天皇のケースである。この場合、用語の性格上、太子や王子に用いうるものではない。少なくとも穏当ではない(単に「后」というケース以上に "正規の皇后" の意義を帯びよう)。事実、右にしめす通り、(八千矛神以外に)この用語の用いられている実例は、神武天皇のみなのである。

 以上によってみれば、出雲なる八千矛神が、大和なる神武天皇に先行する「正規の中心権力者」として遇せられている、その文献上の証拠を、ここにもまた見出しうるのである。
しかも、古事記が近畿天皇家内部で産出された文献であることは確実であるから、 "出雲なる中心権力の存在は、近畿天皇家に先行するもの。すなわち、近畿は出雲に対する模倣者である"、このような歴史進行上の位取りを、近畿側自身が自己告自している。そのように見なしても、過言ではないと思われる。


     二

 一見意想外に見える右の分析も、実は近畿天皇家内部の天皇自身の発言と合致、もしくは密接な対応を見せているようである。この点について左にのべよう。

是天皇詔之、朕聞、諸家之所齎*帝紀及本辞・既違正実、・・・。<古事記序文・天武天皇の詔〉

 右の「帝紀」の用語について、これの後に出てくる著名の用語左の「帝紀日継」の語と同一視もしくは同類視するのが通例のようである。

齎*は、(もたら)すの意味。強いていえば[喪]の下が貝編、士編に口二つ入れます。ユニコード8CF7、齎の略字。この字は有名な字です。

即、勅語阿礼、令帝皇日継及先代旧辞。〈同右〉

たとえば、「帝紀」の語に対し、

「次の帝皇日継・先紀と同じもので、各天皇の即位から崩御に至る皇統譜のような記録。」〈岩波古典文学大系本、四五ぺージ注釈三〇〉

と注釈されているのも、その一例であろう。

 しかしながらこの「帝紀」の一語は、東アジア世界においてすでに早く成立していた、周知の成語である。なぜなら、たとえば史記・漢書・三国志等歴代の中国の史書は、すべてこの「帝紀」を中核とし、そのあと「列伝」を付している。すなわち、各天子
の各代の治績、それを記述した、当該史書の心臓部こそ「武帝紀」「文帝紀」「明帝紀」等と呼ばれるものなのである。「帝王の本紀」(諸橋大漢和辞典)と釈される所以である。従ってただの「皇統」の類とは、規模と文書性格の構造を異にしているのである。とすれば、このような、東アジア世界の成語中の成語ともいうべき用語が用いられているのに対し、これとあまりにも異なった "日本風の意義" をあてる、ここには客観的に見て、大きな方法上の不安定性が存在するといいえよう。

 もう一つの問題点、それは「齎*」という、かなり特殊な用字の意義である。この文字は本来、「もたらす」と訓じ、 "もってくる""もってゆく" の意義をもつ。「齎」と同義であるから、「齎、持也。(広雅、釈詰三)」とあるように、「もつ」の意義もあるけれど、もちろん一般的な「持」と全同ではない。次のような熟語がしめすように、 "A地からB地へもち運ぶ" の意義を基本にもつ。

齎*表官(セイヘウクワン)上意の文書を持参する係の官員をいふ。〈諸橋大漢和辞典。「桃花扇、迎駕」の引文あり〉

 より古い文例では、「齎送」(もたらしおくる。漢書旬奴伝)、「齎物」(もたらしもの。史記大宛列伝・漢書張騫伝)などがそれに当ろう。二国間、移送の例である。

齎*、持遺也、从貝齊声。〈説文〉

というごときである。

このような「齎*」字の用例から見ると、天武詔のいうところは、次のようであった。
(A)この「帝紀」は、本来、近畿天皇家ならざる "他地" にあった。
(B)それを、その地の「諸家」が、大和なる天皇家のもとへと、もたらし来たった。

 厳密に言って右のような論理構造をもつ文脈なのである。けれども、従来の近畿天皇家中心の一元史観の論者にとって、"大和以外の地を中心として成立した帝紀" などという概念は、予想外というより、許容不可能な概念であったであろう。そのため、宣長はこの「齎*」に "もたる" という、一種意味不明の訓を与え、後代の諸家もまた、これに習うこととなったのである。

 しかしながら、本稿の論証のしめすところ、出雲風土記の本来の姿、その史料性格の実態は、まさに「帝紀」そのものであった。なぜなら、そこには大穴持命という卓絶した主神があり、彼は「天下を巡行」していた。「天の下を造らしし大神」と呼び習わされていた。そして彼の宮処たる杵築の宮は、「朝廷」と呼ばれていたのである。諸国には諸国の「国造」がいた。「風土記(24)」などという、後代(八世紀)の天皇家側から付せられたレッテルにまどわされずに史料事実を正視すれば、これは "出雲を中心とする帝紀" 以外の何物でもなかったのであった。


    三

 この帰結はまた、先述の、出雲風土記におけるメイン・ストーリーのもつ下限問題に対しても、明晰な解明を与えることとなろう。なぜなら、大穴持命の登場する第一回は、先にあげた「母理の郷」である。そこでは、彼が越の八口を平げて帰りきたったあとの詔があげられている。その中には、以後、自分が征服し、統治した国々、すなわち天下を、すべて皇御孫(ニニギノミコト)に遜るべきことがのべられている。記・紀にいう「国ゆずり」である。そしてみずからは、出雲一国に隠退すべきことが告げられている。この「出雲」も、大穴持命の詔中の表現であるから、いわゆる「出雲風土記」の出雲、すなわち「大出雲」ではなく、八世紀当時の出雲に当る「小出雲国」なのではあるまいか。もとより杵築の宮、出雲大社は、この「小出雲国」の中にあった。
 さて、大穴持命の「国ゆずり」後、出雲は「統一中心」たることをやめた。代ってニニギの居した「天孫降臨」の地、筑紫(25)こそ、新しき「統一中心」となった。とすれば、この時点以後、出雲では「帝紀」は語りえないこととなろう。これが、出雲風土記において、"大穴持命の晩年の一時点" 以後のストーリーが断絶した、すなわち「下限」のあらわれた所以なのではあるまいか。
(以後、代って筑紫が「朝廷」の地と目せられることとなる。記・紀神代巻の帰結するところ、その一点に他ならないのである。当風土記の世界はすなわち、記・紀神代巻における、「天孫降臨」説話ヘと接続すべき、その前景をしめす、そういう時間帯の説話性格をもつものなのであった。)(26)


    四

 次に、出雲風土記巻末奥書を見よう。

天平五年二月卅日 勘造
             秋鹿郡人 神宅臣金太理(27)
国造意宇郡大領外正六位上勲十二等 出雲臣広嶋

 右の奥書において、広嶋は自己の肩書きの冒頭に「国造」の二字を冠している。しかしこれがいかなる由来の、またいかなる領域の「国造」であるか、一切解説していない。むしろ、下文からすれば、一見「意宇の国造」であるかとも見える筆法である。
もちろん、最末に「出雲臣」なる称号があるけれど、この同一称号が当該風土記署名中、頻出すること、周知のごとくである。

1. 郡司・主帳・无位・出雲臣〈意宇郡〉
2. 少領.従七位上・勲十二等・出雲臣〈同右〉
3. 擬主政・无位・出雲臣〈同右〉
4. 郡司・主帳・无位・出雲臣〈嶋根郡〉
5. 大領・外従七位下・勲十二等・出雲臣〈楯縫郡〉
6. 少領・外従八位上・出雲臣〈飯石郡〉
7. 少領・外従八位下・出雲臣〈仁多郡〉

 以上のごとくである。すなわち、全出雲内に少なしとせぬ "出雲臣の一" 、そういう性格をもつているのである。
他の称号たる「郡の大領」「外正六位上」「勲十二等」等によっても、他の署名者たちに比して、必ずしも、突出した代表者とは見なしえないのである。(28)
 右の奥書のみの観察からは以上のごとくであるけれども、本文に目を転ずれば、光景は一変しよう。なぜなら、本稿で縷々析出しきたったごとく、そこには「国造の由来と淵源」が、はるか大穴持命の治世に遡って説かれていた。「天下造り」と称された、この神のもと、各地に「一国造り」の始祖たちがいて、定期的に大穴持命の「朝廷」たる、杵築宮、出雲大社に参向していたのである。
 奥書とは、畢竟、本文に対する奥書なのであるから、この最末尾の広嶋の自署名は、"以上のごとき、誇りある、由緒ある、われは国造家の者"という意義の自称、そのように見なすのが、ことの筋道ではなかろうか。当該文書における奥書のもつ史料性格から見て、そのような理解は決して他奇なきところ、といわねばならぬ。
 これに対して一方、近畿天皇家側がこれを遇した道、それは同時代(天平をふくむ八世紀)の史書たる続日本紀に明示されている。

神亀元年春正月戊子(廿七)、出雲国造外従七位下出雲臣広嶋奏神賀辞。己丑(廿八)、広嶋及祝神部等授位賜禄各有差。

 右は、広嶋の初出であるが、他の二回とも「出雲国造」の称号が冠せられている。近畿天皇家側が、 ひとり広嶋に対してかく遇し、広嶋もこれを受容したごとくであるけれど、逆に、ここに成立した(29)八世紀の「大和朝廷、対、出雲国造」なる図式を、はるか古えの大穴持命の時代を語る、本文の解釈にまで遡らせようとしたこと、それが従来説のもつ基本の非歴史性だったのではあるまいか。

 実は、右の天皇家の八世紀の正史たる続日本紀の「国造」記事を精視するとき・「国造の古代出雲淵源」を裏づける状況が現われている事実をのべねばならぬ。同紀の・国造」記事の国名別出現回数は、左のようである。

1出雲ー一四回
2因幡ーー二回
3紀伊ーー四回
 飛騨ーー四回
4大倭(大和)ー三回
5伊豆ーー二回
 備前ーー二回
 陸奥ーー二回
6摂津・山背・多[ネ執]後・尾張・吉備・武蔵・相模・伊勢・常陸・美濃・上野・丹後・阿波・海上・美作・駿河・讃岐 ーー 各一回
7その他ー七回(国名を記さぬもの五回、「諸国」二回)

[ネ執] は、袮*(ね)の旧字。禾編に[勢]の力無し。ユニコード8939

 右の表を通視するとき、出雲と因幡という日本海岸山陰の二国があまりにも圧倒的な比重で、というより偏奇で出現している事実に一驚せざるをえぬであろう。このあまりにも目ざましき史料事実を、無視ないし軽視せざる限り、「この『国造』の称号は、山陰の右の二国と特別の縁由をもつ」、この命題をわたしたちは回避することができぬのではあるまいか。
 なぜなら、本来、もしこれが「近畿天皇家治下の称号」であったとしたならば、右のような "片寄った出現分布" は、到底客観的かつ公平に解説し能わぬところと言わねばならぬ。もし、いずれの論者かこれをあえてなさんと欲するならば、「天皇家が出雲の神事(「奏神賀辞」)を重視し賜うたから」といった類の、原理上畢竟するに同語反覆の類たるに陥る他ないと思われるからである。

 なお、右の表中、出雲と因幡の出現の仕方には、二つの差異のある点に注意しておきたい。

(一) 因幡の「国造」記事がはじめて出現するのは、宝亀二年(七七一)三月九日である。すなわち、これ以前の時間帯においては、「出雲国造」はすでに一〇回の出現を見ているにもかかわらず、「因幡国造」記事は皆無である。いいかえれば、続日本紀全体の初・中期においては、「出雲国造」の "独占" ぶりは一段ときわ立っているのである。

(二) 続日本紀中の、他の「国造」記事のほとんどが「任命」記事の類であって、さしたる事件もしくは記事内容が記載されていないのに対し、「出雲国造」のみは、その過半(一四回のうち九回)が、先述のような「奏神賀辞」とそれにともなう朝廷側の嘉納・賞美の記事がしるされている。量的のみならず、記事の質においても、異色かつ特出しているのである。この点、「因幡国造」の場合、回数はかなり多いけれども、その内容は任命記事の類にとどまり、「出雲国造」の場合とは、その質的内容を異にしている。

 以上の分析によって、わたしたちは知ることができる。第一に、「国造」という称号は、古代出雲文明に淵源する、特異の称号であった。第二、当時、天皇家は片域(日向か。後に大和)における小首長にすぎず、この出雲文明への畏敬の中にいた。第三、したがって出雲臣広嶋(その先代、果安以来)たちの "近畿天皇家への帰服" を喜び、彼等に「出雲国造」の称号を当てると共に、みずから統治下の各国への「国造」任命権を行使し、確立してゆくこととなった。以上の認識である。


    五

 次に、日本書紀における、「国造」記事にふれておきたい。
 この史書の場合、記事に「造作」の跡いちじるしく、そのまま "当該年紀の当該天皇の該当史実" として処理しがたき点、すでに津田左右吉の批判したごとくである。しかしながら反面、全く架空に "絵空事" を記載したものではなく、すでに存在した既存の他家の記事を転用した形跡の少なくないこと、すでに筆者の史料批判を行ったごとくである。(30)このような点に注意して、今簡明に問題点を要記してみよう。
第一。全六一回の「国造」出現例を、左の三つのケースに大分類しうる。

(1) 遠祖・祖・始祖ーーーー 九回
(2) 一般形ーーーーーーー二十五回
(3) 国名をしるすものーー二十七回

 右の(1) は同書の執筆時現在(八世紀初頭)の「国造」の祖先として、記載しているものであり、(2) は具体的な国名を記さぬ、一般形の記事である。したがって、具体的な国名付きで出ているもの((3) )は、全体の半数に満たない。
第二。具体的な国名の出現頻度は、

1 武蔵ーーーー四回
2 伊甚ーーーー三回
 倭(大倭)ーー三回
 筑紫ーーー 二回
3 火葦北ーーー二回
 紀ーーーーー二回
4 葛城・美濃・火・闘鶏*・吉備・穴戸・出雲・伊賀・伊勢・志摩各一回

であって、続日本紀の場合のような突出国がない。第一位の武蔵も、第二位の伊甚も、同一事件中に、それぞれ四回、三回、「国造」の名が用いられているにすぎない。

鶏*は、鶏の別字。鶏(にわとり)の鳥の代わりに、隹(ふるとり)編。ユニコード96DE

 第三。ところが、注目すべきは、次の国名である。

火葦北(及び闘鶏*・伊甚)

 右の「火葦北」は、明らかに「火の国の、葦北」という二段国名である。これが「火国造」と相並ぶ国造であるとは、考えがたい(「火国造」も、景行十二・十二・五丁酉に出現している)。すなわち、両者、国造制度上の発展段階を異にしている。そのように考えるほかはないのである。ところが、そのような「制度の成立や発展(31)」について、書紀は記載するところが全くない。ということは、

この制度の成立と発展の中心権力が、近畿天皇家ではなかったのではないか。そういう暗示を与えているのである。

 第四。さらに不審なのは、「紫国造」、「出雲国造」について、 "実名を知らぬ" ケースの存在することである。

(A) 有能射人、筑紫国造。・・・余昌(百済王、聖明王の子)讃国造射却囲軍、尊而名曰鞍橋君。(鞍橋、此云矩羅膩。)〈欽明紀、十五年十二月〉
(B) 是歳、命出雲国造、(闕名)修厳神之宮 。〈斉明紀、五年〉

 (A) のケースは、百済の王子から付けられた異名で記しながら、その実名が記されていないのが、異様である。(B) のケースは、簡要な記事であり、この場合当人の実名こそ主要記事内容の一であるはずであるのに、「闕名」ですませている。いずれも、この原史料が本来、近畿天皇家内のものであった、とすれば、考えがたい様相ではなかろうか。
とすれば、本来、他家(たとえば筑紫の「朝廷」の史料群)の中の一史料であり、それを一部分のみ、断片的に入手し、利用しようとしたために生じた不手際ではなかったか、と疑われる。
 要するに、書紀の「国造」記事は、近畿天皇家以前に、他の中心権力のもとに「国造」制が存在し、発展しつつあったことを暗示する。そういう史料性格をもっているのである。したがってこれらを安易に「近畿天皇家統治下の『国造』記事」として再利用する、もしそのような形での史料利用が江戸期の国学以来今日まで、一種の使用慣例となっていたとすれば、厳正な史料批判上、根本的な問題性をもつ。そのようにいわざるをえないのである。



(20)「(多禰郷)所造天下大神、大穴持命与須久奈比古命、巡行天下時稲種堕此処。故云種。」〈飯石郡〉

(21)常陸国風土記等、他の風土記中の「国造」については、別に論ずる。

(22)この点、中国史書等にこの用語の出現せぬ以上、当然であるけれども、なお注目すべきは、「造」の語の用法である。
1. いたる。ゆく。(小爾雅、広詁「造、適也。」戦国策、宋策「而造大国之城下」〈注、『造、詣也。』〉」)
2. つくる。なす。(爾雅、釈言。「造、為也。」礼記、玉藻、注「造、謂新也。」)
3. はじめ。はじめる。(広雅、釈詰一「造、始也。」呂覧、下覧「文王造之而未遂。〈注、『造、始也。』〉」)
等、「造」字の古い用法に依拠した「造語」であることが注意せられる。

(23)「大后」も、「嫡后」と相並ぶ用字であろう(神武天皇の場合、この用法も使われている)。ただ「后」については、王子(倭建命)の場合にも用いられている。

(24)すでに中国でこの用語は用いられている。「賜以終年所著默語三十篇及風土記并撰集呉書。」〈晋書、周処伝〉

(25)本居宣長等が「天孫降臨」の地を、日向国(宮崎県)に当てたのは、神武発進の地たる日向国にこれをおき、もって「天照大神〜神武以降」問の「万世一系」を "宣布" せんがためであった。しかし、客観的な文献批判によれば、筑紫(福岡県)の高祖山連峯(日向ひなたのクシフル山)に当ること、かつて論証した(古田『盗まれた神話』及び『古代は輝いていた』第一巻参照)。

(26)この「筑紫の朝廷」の概念は、文献上の明晰な徴証がある。祝詞の「遷却崇神」「六月晦大祓(十二月准此)」中の「皇御孫之尊能天御舎」「皇御孫之命乃朝庭」がそれである。この点、別に詳論する。

(27)細川本・日御埼本には「金太理」。倉野本では「全太理」(ただし、この部分は後筆)。万葉緯本は本文「全」校異「金」。

(28)他にも、「大領、正六位上、勲十二等、勝部臣」がそれである。

(29)続日本紀巻七、元正天皇霊亀二年の項に、「丁巳。出雲国々造外正七位上出雲臣果安。齋意奏神賀事。神祇大副中臣朝臣人足。以其詞奏聞。」とある。

(30)古田『盗まれた神話』第四・五章参照。

(31)たとえば、「火葦北国造」の方が初期、「火国造」の方が後期、といった形の、制度の「発展」も予想しうるところであろう。


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制作 古田史学の会