古田武彦・古代史コレクション7『よみがえる卑弥呼 -- 日本国はいつ始まったか』ミネルヴァ書房)2011年9月刊行


第一篇 国造制の史料批判抄録
ーー出雲風土記における「国造と朝廷」

抄録には、表記の関係で第三章の陶土員問題はごく一部収録しておりません。

 第三節 考古学上の諸問題


   一

 以上の論証は、文献上の史料批判にもとづいている。しかし、これが史上の真実の反映であるとすれば、当然考古学上の出土物という物質的遺構や遺物においても、これと対応すべき事実の存在することが期待されよう。
 かつては考古学者や神話学や古代史研究者の間に、「出雲にさしたる考古学出土物なし」といった類の見解が流布されていた。(32)
 ためにこれが、出雲神話が史実と関係なき後世の造作物である証拠、そのように論ぜられるのを常としたのである。そしてやがては、この出雲神話を重要な発起点とする日本神話全体への不信、その虚構性を裏づけるもの、そのようにさえ思料されたようである。(33)記・紀神話後代造作説をその所説の核心にもつ津田史学を、研究思想の基盤においた戦後史学界において、右のような思考方法が流布されたのは、おそらく偶然ならぬものがあろう。
 けれども、一九八四年七〜八月、島根県簸川(ひかわ)郡斐川(ひかわ)町神庭(かんば)西谷(さいたに)荒神谷から三五八本の銅利器(34)が出土してから、状況は一変した。この事実に対する解釈は未定(35)であるものの、従来の日本列島内の銅利器分布状況を一変すべき出土であったこと、その事実を疑いうる論者はあり得ないであろう。ことに従来は、「記紀神話の主たる舞台たる西出雲には、ことに着目すべし出土物はなし」と信ぜられてきたけれど、その認識が大きく変更されることとなったのである。
さらに一九八五年七〜八月、同地より六個の銅鐸と一六個の銅矛が出土(36)した。先出の銅利器とあわせて量のみならず質においても、単純ならざる様相をしめしたのである。

 この問題については、本稿に詳論すべきところではないけれど、少なくとも本稿の論証に対し。「出土物上、出雲、ことに西出雲は空白の地」といった類の反論は、これを行いがたき時期に入ったこと、この一事に関しては、疑いがたいであろう。
 なお出雲をめぐる出土物に関し、従来看過されていた。あるいは軽視される傾きの多かった問題点の若干につき、識者の注意を喚起させていただきたい。

 その第一は、黒曜石問題である。出雲の隠岐島中の島後(どうご)が、西日本屈指の当該物出土地であることは知られている。日本列島内でも信州の和田峠と並ぶ質・量をもつ。その材質で作られた石器は、出雲本土、すなわち宍道湖周辺領域に濃密に分布している。すなわち、縄文前期の密集聚落遺跡として出土した阿久遺跡が和田峠の黒曜石出土領域と相対して、(その関東側に)現れたと同じ状況が出雲にも存在するのである。
ことに注目すべき点、それは和田峠の場合と異なり、西日本では、弥生期になって中国・朝鮮半島から金属器が伝播した。そのさい、縄文期における石器文化の中心、その中枢地が伝播・流入の一拠点となったらしいことである。たとえば、瀬戸内海領域の場合、縄文期に讃岐を中心として出土するサヌカイトを材質とする、石器文明がこの領域に分布していたこと、周知のごとくであるけれど、その讃岐が弥生期になると、全瀬戸内海領域中、屈指の金属器(銅利器・銅鐸・鉄器)出土地となったのである。この両時期の対応関係を無視するならば、弥生期の研究者としてもかえって不用意なのではあるまいか。
 これと対比するとき、西日本の日本海領域という、讃岐以上に中国・朝鮮半島に近接し、良質の石器材質(黒曜石)出土中心地たる出雲が、やがて大陸の金属器の伝播・流入初源期の一中心となりえたこと、その点あえて他奇とすべきところではないのではあるまいか。
 従来、出雲の出土物を論ずるとき、古墳時代以降に関して著目されることが多かった。しかし、古代出雲が一個の文明中心の位置を有しえたのは、弥生期である。したがって当の弥生期と、その前提としての縄文期に注目すべきこと、けだし当然ではあるまいか。

 その第二は、弥生の古代楽器問題である。日本列島西半部、日本海沿いの各地に「弥生の土笛」と呼ばれる土製楽器が出土している。綾羅木地方(山口県下関市)、出雲地方(島根県松江市等))、丹後地方(兵庫県峰山町)、筑紫地方(福岡県宗像市)等である。この古代楽器が、実は中国において殷・周以来伝統されきたった「土薫*(=土員*)」(音ケン)と呼ばれる祭式楽器であることが確認されている(後代名、陶土員*)。(37)

「土薫*(=土員*)」(音ケン)は、土薫*は、土編に薫。草冠なし。ユニコード58CE 同じく土員* は、土偏に員。ユニコード5864、かつ別字もあります。


・・・
<以下、論証は漢字表示がインターネットでは難しいため略、電子書籍を見てください。>
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 右のしめすところ、日本列島西半部日本海岸の弥生期(前半)出土の「土笛」の形状・孔穴数と一致しているのである。
したがって、出土の弥生前半期、この地帯に、中国古代文明(殷・周・秦・漢)の祭式楽器が伝播流入し使用されていたこと、これは疑うべからざる史実なのである。
このような祭式土器は、庶民の日用器具ではない。一定の政治制度が存在し、その支配層があり、彼等が一定の儀礼を行っていたからこそ、この伝播流入がありえた。そのように見なす以外の道は存在しないであろう。

・・・
<同上>
・・・

  右は、周の天子の儀礼において、この「土員*」という楽器が用いられたことをしめしている。「小師」の職にある楽師が盲人にこれを教えたことがしるされている。
 以上のような周朝の儀礼制度を、たとえその一部にせよ、日本列島中、もっとも早い時期に伝播・継承した地域、それが右の日本海岸(西半部)領域であったこと、その事実をわたしたちは疑うことができないのである。そしてこの印象的な領域、中国文明伝播の草創の地域、その中心が古代出雲にあったこと、それは出土量から見て肯定せざるをえぬ、そういう出土状況がしめされているのである。


    二

 右の陶墳問題と関連して考察すべきは、銅鐸伝播の淵源間題であろう。中国における「鐸」は、やはり祭式楽器として周代の古典、礼記に登場している。

正枢、諸侯、執[糸孛]五百人、四[糸孛]、皆御枚、司馬執。左八人・右八人。
   升正枢者、謂葬朝干祖棺於廟也。
〔疏〕司馬執鐸左八人・右八入者、司馬夏官、主武。故執金鐸衆。左右各八人。夾柩以号令於衆也。〈礼記、雑記下ーー注疏第四十三ーー〉

[糸孛]は、糸偏に孛。ユニコード7D8D



 右によれば、「鐸」は諸侯が祖廟を祀るさいの祭式楽器であったことが判明する。しかもそれが祭弍に用いられる理由は、意外にも軍事にあったというのである。確かに、金鐸は軍事火急のさいに用いられた(38)とされているから、それが祭式の場で用いられる所以は、死者(諸侯)やその祖先の武功をたたえるためだったのであろう(右の文のあと「大夫之喪」のさいには、「執鐸者、左右各四人」と記せられている)。
 三国志の魏志倭入伝や後漢書の倭伝によれば、倭国が周代の制度としての「大夫」の制度を継承してしたことが報告されている。この点から見ても、「諸侯ーー大夫」の制に関連する「鐸」の制もまた導入されたとしても、何の他奇もなきところかもしれぬ。
 その後の発展において、中国側の本来の用法とはなれた用法が生れる、そういった事態も、当然ありえよう。しかし、その伝播の原初期において、先ず中国側の使用法付きで伝播し、流入してきた。そのように考えることは、むしろ至当なのではあるまいか。(39)
 この銅鐸間題とその発展の全体を探ることは本稿の目的ではないけれど、今回出土した六個の初期銅鐸のしめすところは、先にのべた陶圏問題と同じく中国の周制にもとづく儀礼制度が、この古代出雲を一中心として開花しはじめていたという、その可能性は決して少なくないであろう。ここでも弥生前半期中国の周・漢の制度中の文物の影響が、出雲とその周辺に存在する事実が認められるのである。(40)


(32)たとえば、松前健『出雲神話』五十
三ぺージ参照。

(33)たとえば、鳥越憲三郎、『出雲神話の成立』百二十三ページ参照。

(34)従来の考古学界の用語では、「中細形銅剣」とされているけれど、筆者はこれを「出雲矛」ないし、「出雲戈」に当るものではないか、という問題提起を行った(「古代出雲の再発見」『古代の霧の中から』所収)。

(35)たとえば、『斐川町・荒神谷出土、銅剣三五八本・銅鐸六個・銅矛一六本の謎に迫る』(島根県簸川郡斐川町発行)参照。

(36)これは「筑紫矛」と言われるものであり、鋳型が博多湾岸を中心とする筑紫に集中している。

(37)国分直一「弥生陶土員*ーー下関市綾羅木郷及び出雲・丹後出土の陶土員*をめぐって」(『弥生の土笛』下関市、赤間関書房)参照。

(38)「鐸。おほすず。舌を木鐸、金舌を金鐸といふ。古、教令を宣べる時に振って衆を警めるに用ひ、文事には木舌、武事には金舌を用ひた。」(諸橋大漢和辞典)

(39)福岡県嘉穂町馬見の原田遺跡出土の小銅鐸(弥生時代前期から中期半ばのものとされる)は、甕棺墓地群中に丁重に埋置されていた点、本来の使用方法に関連するものとして注目されよう。

(40)いわゆる「国ゆずり」説話が、単なる後代人(近畿天皇家の史官。六〜八世紀)による「造作」に非ずして、「出雲王朝から九州王朝へ」という権力中枢の移動にかかわる史的事実を背景としていること、すで早く筆者の予告したところであった(昭和五十年『盗まれた神話』)。この点、今回の大量銅器出土によって、容易に抗しがたい一連の徴証をうることとなった。当問題を考察するさい、注意すべきは左の二点であろう。

 第一、三五八本の銅利器が果して「剣」であるかどうかは未定である(註34参照)。従って記・紀の出雲神話中の剣(たとえば「神戸剣」)のみを摘出して論ずるのは妥当ではない(この点、門脇禎二氏『日本海域の古代史』三四二ぺージ参照)。

 第二、従って問題は本質上、巨視的に考察することが必要である。すなわち、日本列島の弥生期において、出雲と筑紫とが二大銅利器出土地帯であること、この考古学的出土事実に対し、記・紀神話もまた、出雲と筑紫を二大中心舞台とする利器(矛・戈・剣等)文明の神話であること、この文献的史料事実とが、二者よく相対応していること、この基本の事実が重要である。主神大穴持命を「鉾」に関連して説く出雲風土記もまた同軌に立っている。

【お断り】「禰・祇」の、「ネ(ころも)」編は、原文は「示(しめす)」編です。


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