古田武彦・古代史コレクション7『よみがえる卑弥呼 -- 日本国はいつ始まったか』ミネルヴァ書房)2011年9月刊行


第一篇 国造制の史料批判抄録
ーー出雲風土記における「国造と朝廷」

抄録には、表記の関係で第三章の陶土員問題はごく一部収録しておりません。

  結 び


 以上の論述を要約する。

 第一に、出雲風土記中に出現する「国造と朝廷」の用語は、「出雲国造と大和朝廷」の意と解されてきた。江戸期より、明治以降の各期の各歴史学者とも、その意味の基本史料としてこれを使用してきたのである。日本全古代史像の理論的構成の基礎の一とされてきたこともまた、論をまたぬところ。冒頭にあげた井上光貞氏の論文は、その筆頭をなす一例としてあげさせていただいたものである。
 しかしながら、「朝廷」の語の中国側史書(三国志)の用例から見ても、出雲風土記という文献内部の術語理解、文脈理解から見ても、ともに右のような使用法は不適正であったというほかないように、筆者には見えた。これ、本稿の論証の主眼点である。すなわち、これは「(八世紀の「郡」程度の)一国造と出雲朝廷(杵築宮)」との関係をしめすフレーズだったのである。

 第二に、見のがすことのできぬテーマとして「出雲風土記の改削」問題がある。冒頭の重大な一字「宮」字の改削にはじまる、国学者(荷田春満等)による一連の変改によって、出雲風土記のもつ根本の史料性格が人々の認識を曇らせることとなった。一言にしていえば、「杵築宮中心」から「近畿天皇家中心」への "史料の書き変え" が行われ、明治以降現代に至るまで、この「改削文」をもって「原文」であるかに錯覚させられてきたのであった(この点、出雲風土記内部において、他の諸所にも、同じ手法の「改削」が見られる。別稿で詳述したい)。

 第三に、右の問題は、単に出雲風土記のみに突出した現象だったのではない。他の出雲史料にも、多々同一もしくは関連する問題が存在した。たとえば、一に、古事記本文中の大国主命をめぐる「幸行・嫡后」という表記問題。二に、古事記序文の「帝紀」問題。三に、日本書紀及び続日本紀内部の「国造」記事についても、従来のような「近畿天皇家中心の一元主義」の史観からは十分な解明がえられなかったものが、本稿の到達した帰結たる「出雲朝廷のもとに創始された国造制」という淵源からの視点に立つとき、にわかに鮮明な認識に至る道が示唆されているのを見出すことができるのである。

 第四に、この問題は、単に文献上の史料批判の中にのみ認められるものではなかった。考古学上の徴証の中にも、これと相応ずべ問題を見出しうるのである。近年発見された大量の銅利器問題のみならず、陶土員*(弥生の土笛)問題や銅鐸問題からも、弥生期において古代出雲が(古代筑紫と並んで)一文明中心となっていたことをうかがわせるものがある。さらに、その背景として縄文期の黒曜石(隠岐島)問題の存在することからも眼を回避することは許されぬであろう。
 したがって右の文献分析が決して偶然でないこと、史実とのかかわりをもつこと、それが十分に察せられよう。

土員* は、土偏に員。ユニコード5864。

 以上の論証は、従来の、ことに戦後古代史学界で蓄積せられきたった諸研究の成果とは、容易に一致しうるものとはなしがたいであろう。筆者も、よくこれを知る。しかしながら、ことが根本的な史料批判、文献処理の方法に深くかかわるものである以上、この問題提起を回避する論者ありとすれば、日本古代史学界にとって極めたる不幸事となるのではあるまいか。
最後に付言する。戦後の古代史学界は、古典という名の文献史料に相対するとき、「造作」の概念をもって相対するを常としてきた。すなわち、「当文献にかく書かれている」ことをもって、直ちに史実と見なさず、「後代(主として六〜八世紀)の造作」であろうと、これを疑うのである。津田左右吉の「造作」説の洗礼をうけた戦後古代史学界として、当然の疑いであるともいいえよう。

 しかしながら、本稿のテーマに関しては、根源的に事情を異にする。なぜなら、すでに近畿天皇家が「朝廷」としての権威と権力を確立した八世紀に撰進せられた出雲風土記において、近畿天皇家以外の他家(出雲)を「朝廷」とするような「造作」が行われうるとは、およそ考ええないからである。
 「造作」史観の一般化した現代では、しばしば忘却されがちのことながら、「造作」とは畢竟 "近畿天皇家の、近畿天皇家のための、近畿天皇家による造作" に他ならぬこと、この眼晴をなす根本事実から見れば、この点は疑いえないところであろう。すなわちーー八世紀の出雲国造側が、「出雲朝廷とその配下の小国造」という"新概念"を「造作」して、そのような文献(「出雲風土記」)を近畿天皇家のもとに撰進した。ーーこのような想定は、人間の理性の前で不可能である。
 結局、わたしたちは、今や「朝廷、多元史観」を実証的課題として検証すべき時点に立ち至ったのではあるまいか。この点、率直に諸家の御批正をえたく、本稿を草させていただいた。もし先入に対して失礼の辞あらば、ここに深謝し、いったん筆を擱くかせていただきたい。


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制作 古田史学の会