古賀達也の洛中洛外日記
第552話 2013/04/28

「五十戸」から「里」へ

 今日は全聾の作曲家、佐村河内守(さむらこうち・まもる)作曲の交響曲第1番(HIROSHIMA)を聴きながら洛中洛外日記を書いています。重苦しい旋律とその先に見える「希望」が表現された名曲で、最近ではテレビでも取り上げられ有名になりました。

 さて、郡評論争に決着をつけたのが藤原宮跡から出土した干支木簡でしたが、同様に「評」の下部単位である「さと」表記についても出土木簡により、その変遷が明らかになりつつあります。
 古代地名の表記方法は時代とともに変化していますが、七世紀後半は「○○国△△評××五十戸」と表記されることが木簡により判明しています。その後、683年頃から「○○国△△評××里」への変更が見られることから、「五十戸」は「里」に相当し、「さと」と訓まれていたことがわかります。
 『日本書紀』大化二年(646)の改新詔に「五十戸を里とす」とありますから、「里」の成立はそれまでの自然発生的な集落(『日本書紀』では「村」「邑」の表記例が見えます)を、国家により「五十戸」単位に編成されたことによります。五十戸単位で徴兵などの役務を決めたのでしょうが、恐らくそれは戸籍の作成と平行して行われたのではないでしょうか。その「さと」が当初は「五十戸」と漢字表記されていたことが、木簡により明らかになっているのです。
 このように『日本書紀』大化二年(646)の改新詔に「里」の表記が見えますが、出土木簡からは683年頃に「里」が現れ、それまでは「五十戸」表記ですから、この大化二年改新詔はやはり九州年号の大化二年(696)に出されたものが50年ずらして盗用されたものと推察されます。それではこの行政単位名「五十戸」の成立と、さらには「里」へと変更したのは九州王朝でしょうか。そしてそれはいつ頃のことでしょうか。(つづく)


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