古賀達也の洛中洛外日記
第555話 2013/05/05

筑後川の一線

 今日は特別な「子供の日」です。長嶋監督と松井選手の国民栄誉賞表彰式をテレビで見ています。わたしは巨人ファンではありませんが(西鉄時代からのライオンズファンです)、長嶋さんと松井さんの受賞を心よりお祝い申しあげたいと思います。

 九州王朝史研究において、その歴史を概観するうえで古田先生の重要な論文があります。「『筑後川の一線』を論ず」(『東アジアの古代文化』61号、1989)です。古田学派でもあまり知られていない小論文ですが、筑後川を挟んでの九州王朝王都の移動変遷に関する重要論文です。
 その要旨は、弥生時代の倭国の墳墓中心領域は筑後川以北であり、古墳時代になると筑後川以南に中心領域が移動するというもので、その根拠としてそれぞれの時代の主要遺跡(弥生墳墓と装飾古墳)分布が、天然の濠「筑後川の一線」をまたいで変遷するという指摘です。その理由として、主敵が弥生時代は南九州の勢力(隼人)で、古墳時代になると朝鮮半島の高句麗などとなり、神聖なる墳墓を博多湾岸から筑後川以南の筑後地方に移動させたと考えられています。
 この「筑後川の一線」という指摘に基づいて、わたしは「九州王朝の筑後遷宮」という仮説を提起しました。そして、高良大社の玉垂命こそ古墳時代の倭国王(倭の五王ら)であったとする論文を発表しました。古田先生も「『筑後川の一線』を論ず」において、「弥生と古墳と、両時代とも、同じき『筑後川の一線』を、天然の境界線として厚く利用していたのである。南と北、変わったのは『主敵方向』のみだ。この点、弥生の筑紫の権力(邪馬壱国)の後継者を、同じき筑紫の権力(倭の五王・多利思北弧)と見なす、わたしの立場(九州王朝説)と、奇しくも、まさに相対応しているようである。」とされています。

 毎年、五月五日には拙宅の前を上御霊神社の子供御輿が通ります。少子化の時代、元気な子供たちのお祭りを見ると、心が和みます。


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