古賀達也の洛中洛外日記
第598話 2013/09/21

「二年」銘刻字須恵器を考える

 本日、ミネルヴァ書房主催の古田先生の自伝刊行記念講演会に行ってきました。遠くから見えられた懐かしい方々ともお会いでき、楽しい一日となりました。東京古田会の藤沢会長や多元的古代研究会の和田さん、福岡からは上城さん、埼玉からは肥沼さんも見えられ、挨拶を交わしました。
 古田先生も三角縁神獣鏡の三角縁に関する新説の発表など、お元気に講演されました。ミネルヴァ書房の杉田社長と席が隣だったこともあり、二倍年暦に関する本を早く出すようご助言をいただきました。

 中国出張から帰国した19日のテレビニュースなどで、石川県能美市の和田山・末寺山古墳群から出土した5世紀末の須恵器2点に、「未」と「二年」の文字が刻まれていることが確認されたとの報道がありました。当初、わたしは「未」と「二年」が本体と蓋のセットとなった須恵器に刻字されていたと勘違いしていました。もしセットとしての「未」と「二年」であれば、二年が未の年である九州年号の正和二年丁未(527)ではないかと考えたのですが、報道では5世紀末の須恵器とありますから、ちょっと年代が離れています。
 その後、インターネットで詳細記事を読みますと、「未」と「二年」の刻字須恵器は別々であることがわかりましたので、正和二年丁未とするアイデアは根拠を失いました。それから、今日までずっとこの「二年」の意味付けに悩んでいたのですが、古田先生の講演を聞きながら突然あるアイデアが浮かんだのです。
 もし、ある年号の「二年」ということであれば、暦年を特定するためにその年号を記すか、干支を記す必要があります。そうでなければ「二年」だけでは暦年を特定できず、「二年」と記しても、それを見た人にはどの年号の二年か判断がつかず、意味がないからです。たとえば、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡の場合は、元年が壬子の年ですから、九州年号の白雉元年壬子(652)と特定でき、「元壬子年」と記す意味があるのです。ところが今回確認された須恵器には「二年」とあるだけですので、刻字した人が何を知らせたかったのか、その人の「認識」を考え続けました。
 そして、「二年」だけでも暦年を特定でき、刻字した人も、それを見た人にも共通の暦年を認識できるケースがあることに気づいたのです。それは最初の九州年号の二年に刻字されたケースです。具体的には、『二中歴』によれば「継体二年」(518)のケースです。その他の九州年号群史料によれば「善記二年」(523)となります。すなわち、倭国で初めての年号の時代であれば、「二年」の年は一つしか無く、刻字した人にも、それを読んだ人も、倭国(九州王朝)が建元した最初で唯一の年号の「二年」と理解せざるを得ないのです。
 おそらく、倭国(九州王朝)が初めて年号を制定・建元したことは国中に伝わっていたでしょうから、この須恵器に「二年」と刻字した人も建元されたばかりの九州年号を強烈に意識していたと思われます。こうしたケースにのみ、「二年」という表記だけで具体的な暦年特定が可能となり、意味を持つのです。
 編年上でも継体二年(518)であれば、6世紀初頭であり、須恵器の編年の5世紀末とそれほど離れていません。もちろん、これは九州王朝説多元史観に立った理解と仮説であり、他に適当な仮説が無ければ有力説となる可能性があるのではないでしょうか。まだ当該須恵器を実見していませんし、遺構の状況や性格も報道以上のことはわかりませんので、現時点では一つの作業仮説として提起したいと思いますが、いかがでしょうか。


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