古賀達也の洛中洛外日記
第601話 2013/09/29

文字史料による「評」論(3)

 現存する唯一の全国的評制施行時期が記された史料として『皇太神宮儀式帳』(延暦23年・804年成立)は著名ですが、以前から同史料に関して気になっていた問題がありました。
 同書には「難波朝廷天下立評給時」という記事があり、7世紀中頃に難波朝廷か天下に評制を施行したことが記されています。そのため『皇太神宮儀式帳』は「評制」史料と思われがちなのですが、そうではなく同書は「郡制」史料なのです。幸い、インターネットで京都大学図書館所蔵本(平松文庫『皇太神宮儀式帳』)を見ることができますので、全ページにわたり閲覧したところ、やはり同書が「郡制」史料であることを確認できました。
 たとえば「難波朝廷天下立評給時」の記事が記されている部分の表題は「一、初神郡度会多気飯野三箇本記行事」とあり、度会・多気・飯野の「神郡」と、「郡」表記です。本文中にも「多気郡」「三箇郡」という「郡」表記が見えます。この項目以外でも「郡」表記です。成立が延暦23年(804)ですから、『日本書紀』の歴史認識に基づいて、一貫して「郡」表記となっているのです。
 それにもかかわらず「一、初神郡度会多気飯野三箇本記行事」の項目には、『日本書紀』には見えない「難波朝廷天下立評給時」や「評督領」「助督」などの「評制」記事が混在しています。こうした史料状況からすれば、これら「評制」記事は『日本書紀』以外の九州王朝系評制史料の影響を受けたと考えざるを得ません。「評」が全て「郡」に書き換えられている『日本書紀』をいくら読んでも、そこからは絶対に「難波朝廷天下立評」や評制の官職名である「評督」「助督」などの表記は不可能なのです。このことは言うまでもないほど単純な理屈ですが、このように考えるのが史料批判という文献史学の常道なのです。
 こうした史料批判の結果を前提にして、さらに「難波朝廷天下立評」記事が意味するところを深く深く考えてみましょう。「天下立評」という表現からわかるように、原史料は九州王朝による全国的評制施行に関する「行政文書」と考えられます。ある地方の「評(郡)」設立に関する記事は『常陸国風土記』などにも散見されますが、全国的な「評制施行」記事が見えるのは『皇太神宮儀式帳』だけです。したがって、九州王朝倭国はほぼ同時期に全国へ「評制施行」を通達したのではないでしょうか。
 次にその時期についてですが、「難波朝廷天下立評給時」とありますから、「難波朝廷」の時代です。『日本書紀』の認識に基づいての表記であれば、「難波朝廷」すなわち難波長柄豊碕宮にいた孝徳天皇の頃となりますから、7世紀中頃です。九州王朝の「行政文書」が原史料と思われますから、そこには九州年号が記されていた可能性もあり、7世紀中頃であれば「常色(647〜651)」か「白雉(652〜660)」の頃です。いずれにしても『皇太神宮儀式帳』成立時期の9世紀初頭であれば、その時代の編纂者が「難波朝廷」と記す以上、孝徳天皇の時代(7世紀中頃)と認識していたと考えられます。(つづく)


洛外洛中日記一覧

資料編に戻る

ホームページに戻る


制作 古田史学の会