古賀達也の洛中洛外日記
第614話 2013/10/22

『赤渕神社縁起』の「常色の宗教改革」

 正木裕さんが『日本書紀』天武紀持統紀の記事に34年前の記事が移動挿入されているという「34年遡上」説を関西例会などで発表されたとき、34年前の記事なのか本来その年の記事なのかの判断に恣意性が入り、論証は困難ではないかと、わたしや西村秀己さんから度々批判がなされ、論争が続きました。そうした数年にわたる学問的試練を経て、正木さんの「34年遡上」説は検証され淘汰され、今日に至っています。関西例会参加者には、よくご存じのことかと思います。
 しかしそれでもなお「34年遡上」説の中には半信半疑のテーマもありました。たとえば『古田史学会報』85号(2008年4月)で発表された「常色の宗教改革」という仮説です。九州年号の常色元年(647)、九州王朝により全国的な神社の「修理」や役職任命、制度変更が開始されたとする説です。そしてその「常色の宗教改革」の詔勅が34年後の天武十年(681)に「神宮修理の詔勅」として『日本書紀』に記されているとされたのです。次の詔勅です。

 「天武十年(681)の春正月(略)己丑(十九日)に、畿内及び諸国に詔して、天社地社の神の宮を修理(おさめつく)らしむ。」

 この記事について、正木さんは次のように指摘されています。
 「この記事は本来三四年遡上した常色元年の『神社改革の詔勅』であり、以後順次全国的に実施されたと考えられる。」正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号(2008年4月)

 この正木説に対して、そうかもしれないが本当にそうだと断言してもよいのかと、わたしはずっと半信半疑でした。ところが、今回知った天長五年(828)成立の『赤渕神社縁起』に次の記事があることに気づき、わたしは驚愕しました。

 「常色三年六月十五日在還宮為修理祭礼」

 常色三年(649)に表米宿禰が宮に還り、「修理祭礼」を為したとあり、正木さんが指摘した通り、天武十年正月条の「宮を修理(おさめつく)らしむ。」という詔に対応しているのです。時期(常色年間)だけではなく、「修理」という言葉も一致しています。しかも『赤渕神社縁起』では九州年号の「常色三年」の出来事として記録されていますから、九州王朝による「神宮修理」の詔勅(常色元年の詔勅)が出されていたことの史料根拠となります。『赤渕神社縁起』により、正木さんの「34年遡上」説の一例としての「常色の宗教改革」が史料根拠を持つ有力説であることが判明したのです。「34年遡上」説、おそるべしです。
 この他にも『赤渕神社縁起』には重要な記事が記されていますが、引き続き検討して報告したいと思います。

(続く)


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