古田武彦講演録 新年賀詞交換会 二〇一三年一月十二日 於:大阪府立大学i-siteなんば 「邪馬壹国」の本質と史料批判  古田でございます。わたしのような者の話を聞いて下さるということで参りました。この前ミネルヴァ書房から出してもらった日本評伝選『俾弥呼ひみか』という本は、自分にとって「畢生の書」である。この本を書き終わったらいつ死んでも満足である。そういうことを言ったのですが、無事その本が出たのにもかかわらず、なぜかこのように生き残っている。そういうことで勝手にわたしが考えるのですが、これは神だか仏だか天だか知りませんが、やはりこのおいぼれのわたしにやらせたいことが残っているのではないか。勝手にそのように考えまして、その後を過ごして参りました。  そうしますと、この『俾弥呼ひみか』以後の新しいテーマがぞくそく出て参りました。今日でもお話ししたいテーマが、書き上げただけでも一〇項目ぐらい並んでいまして、とても限られた時間ではお話しできそうもない。またバラエティーに富んでいるというか量的にも質的にも非常に重要な問題が続出している状況でございます。幸いにこれらについては、いずれも文章に書き発表されたものがすでにお手元に行っています。それで本日お話ししたことを確認していただくことができる。その点たいへん幸いでございます。ですから今日は限られた時間で簡単明瞭に、要点をゆっくりと申しあげて、後日その内容を確認していただければ幸いです。このように考えています。  さて違う話に詣りますが、朝日新聞の夕刊に「邪馬台国をめぐって」という記事が出ることを、多元的古代研究会の下山さんからお知らせいただきました。今日の夕刊から開始されるはずだったのですが、紙面の都合で一週間遅れまして十五日火曜日あたりから始まるようでございます。これに果たしてわたしの説が載るかどうか。ヘンな言い方ですが、昨年週刊朝日で「邪馬台国」特集を数回連載しましたが、その数回にわたしの名前はもちろん「邪馬壹国」という考えかたがあるのだということはまったくノータッチで終わった。その例から見ると、この「邪馬台国をめぐって」の朝日新聞の連載は百パーセント“古田はいなかった”という形になる可能性もある。現実にはわたしのところに取材もありません。大阪の朝日新聞が中心だと思いますので、古田の説を取り上げないのはおかしいのではないか、そういう声を上げていただけたら幸いです。わたしの説に賛成とか反対とは新聞記者や新聞社の判断ですから、それは自由ですから、こうあるべきだという話ではまったくない。ただ古田の『「邪馬台国」はなかった』という本は最初大阪の朝日新聞社から出てかなりの部数が売れたことは事実です。さらに一昨年からミネルヴァ書房から再刊本を出してかなり売れているということも事実です。それをまったく存在しなかったように無視するとすれば朝日新聞社としていかがなものでしょうか。朝日新聞社は昨年の橋本さんの被差別部落問題で謝罪しましたがそれとは違う意味で、共通の面もありますが、その姿勢を問題にしていただければうれしい。皆さんも関心をお持ちいただければありがたい。   一 「邪馬壹国」の本質  まず第一は「邪馬壹国」問題ですが、ほったんは思いもかけないことから始まりました。  今年五月に東京の北多摩病院というところに、三週間ばかり検査入院した。加藤一良院長がわたしの大ファンです。それでおもしろいことには、昼間は検査したり手術する検査入院でしたが、夕食の時間から加藤院長がわたしの部屋に来て、わたしとの古代史の対談の時間になる楽しい入院生活でございました。 この稲荷山鉄剣銘文の読みを、今なぜ問題にするかと言いますと、  その第一日目だと思うのですが、加藤さんの言われたことの中に、稲荷山鉄剣の中に臣下の「臣」という字が二回出てくる。お配りしたものに書かれています。 臣(豆)の原図 2012年12月刊行 古田武彦・古代史コレクション14 邪馬壹国の方法『多元的古代の成立(上)』古田武彦ミネルヴァ書房 日本の生きた歴史(十四) 第一「邪馬壹国」の根本批判 p321 稲荷山鉄剣の銘文 昭和54.2埼玉県教委概報 斉藤忠変著『古代朝鮮・日本金石文集成』(吉川弘文館、昭和58年刊)より。 稲荷山鉄剣問題 〔プリント資料〕当初の解読 辛亥の年七月中記す。オノワケノオミ、上祖名(かみつおやのな)オオビコ、其の児の名カリノスクネ、其の児の名テイカリのワケ、其の児の名タカシシのワケ、其の児の名タサキワケ、其の児の名ハテイ、其の児の名カサヒヨ、其の児の名オノワケノオミ。世々、杖刀人(じょうとうじん)の首(かしら)と為して奉事(つか)え、今に至る。ワカタケル大王の寺(役所のこと)、斯鬼宮(しきのみや)に在りし時、吾、天下を左治(さじ)し、此の百練の利刀作らしめ吾、記し奉事するは□□なり。ーー埼玉県教育委員会発表ーー(狩野久、田中稔、岸俊男氏ら) オノワケノオミ・・・・其の児の名オノワケノオミ。 乎獲居豆(臣)・・・・其児名乎獲居豆(臣)  この「臣」という読解を、朝日新聞や毎日新聞などすべての新聞が臣下の「臣」と読んでいる。近畿天皇家の臣下だ。そういう解釈をしている。ところがそれに対して、わたしは利根川をはさんですぐ対岸にあるお隣の大前神社だ。そこの石碑に「磯城宮」がある。明治期のものですが石碑も建てられている。稲荷山鉄剣で「磯城の宮」と言っているのは奈良県大和の「磯城の宮」ではなくて、この利根川対岸の「磯城宮」である。『関東に大王あり -- 稲荷山鉄剣の密室』(新泉社)で、こういう主張を展開していた。ところがこの場合にわたしも「臣」と読んでいた。  しかし加藤院長が診察がすんで夕飯時まっ先に言われたのは、どうも自分には、この字は「臣」とは読めない。「豆」という字ではないでしょうか。このように言われた。わたしとしてはまったく意外だった。わたしは京都に帰って検討してみます。字形の関連の辞書を調べて見ますというご返事をした。しかしその夜何度も稲荷山鉄剣の銘文の写真版を前に見て考えてみて、その必要もなく答えが出てしまった。なぜなら「臣」という言葉は、「天子」の対語である。中国語では天子が存在していて、対語しての臣下がある。ところがこの稲荷山鉄剣の銘文には「天子」は出てこない。「大王」しか出てこない。大王は天子の家来である。天子の家来である大王に対する「臣下」では言葉として成り立たない。  もちろん皆さんご承知のように八世紀になって『続日本記』では天皇・大王に対する臣下としての「臣」は頻繁に出てくる。そこでは近畿天皇家の臣下だという言い方は常に言われている。それを元に、大野晋氏などは、この稲荷山鉄剣の銘文を解釈した。だから八世紀の文章で五・六世紀の文章を読み解釈した。このようになる。  ですが五世紀では有名な倭が出てくる、南朝劉宋の『宋書』。そこでは倭王武が南朝の順帝という天子に対して「臣」という言葉を二回使っている。だから「臣」は「天子」に対する対語という考えは、中国側では当たり前です。そして倭王武も、その「臣」という用語を中国側の用法と理解して用いている。五世紀の後半ですから、稲荷山鉄剣の銘文は倭王武の直前ですから重なっている。そうするとこの稲荷山鉄剣の銘文は、倭王武の上表文の立場で理解するのが筋である。そうすると、「大王」と「臣」という又家来というか「大王」に対する「臣」という立場で理解するのは正しくない。そのことを晩のうちに、加藤さんにあなたの言われるとおりですよ、とご返事しました。  さらに後日、その点は確認が取れました。新たに「金石文というのは第二資料である」というテーマが、わたしに生じてきました。これを皆さんお聞きになって、これはヘンだぞ。金石文は第一史料のはずだとお思いになる。これは書かれたものは写し間違いがあるのに対して、金石文は変化しないから第一史料である。それが今までの常識です。しかしそのレベルの考え方をもう一歩踏み込んで考えてみます。金石文を造る人が、いきなり頭のなかで文章を考えて金石文に彫り込むということはあまりないと思う。そのような金工細工人が全くいないとは言えないが、普通は紙に書いた文章を目の前においてそれを金石文に彫る。想像ですが普通はそうである。その場合紙に書かれた字のほうが第一史料、それを元に写した金石文が第二史料となる。そうしますと第一史料で紙に書かれた文字がどのようなものであったか。  仮にこれが臣下の「臣」と書いてあったら、その文字は「囗 国がまえ」の四方直線の一方が抜けたなかに、書き入れたのが「臣」です。だから第一史料の紙に「臣」と書いてあったら、金工細工人が「臣」を写し間違えて、このようなヘンな文字を書くだろうか。  ところが逆に「豆」という字なら、横棒の「一」を書いて、次に「口」を書く時に「たすき」が掛かる。もし筆で紙に墨で書いてあったとすると、初めに「一」を書いて、次に「口」を書くときに「一」から「たすき」が掛かる。その「たすき」が掛かったのを、金工細工人が文字の一部と判断して彫ってしまった。あまり文字に対する知識が豊富ではない細工人が写した。これならたいへん起こりやすい。  これと同じ経験をしたことがある。わたしは古代史研究に入る前に親鸞研究をしていた。そのとき親鸞の自筆を見ると、親鸞が誤字を書いていた。それは専修念仏にとって中心の言葉で「南無阿弥陀仏」という大無量寿命経の中心の言葉です。その「南無」は、略字では「南无 なむ」と書く。これは「二」を書いてから、真ん中からカタカナの「ノ」を書いて「ム」を書くと、「无 む」となる。親鸞はそれに「二」の左にまた「ノ」を先に付け加えて「南旡」と書く。そうすると別の意味の漢字となる。これは皆さんご存じの「概念」という言葉の、「概」という字の右端にある「旡 ガイ」という略字です。中国にはこの「旡」という文字はありません。ところが日本では「概」の略字として「旡」を使う。使った場合も、「 旡 ム」ではなく「旡 ガイ」です。「南无阿弥陀仏 ナムアミダブツ」なく「南旡阿弥陀仏 ナガイアミダブツ」となってします。ところ親鸞はそれを常に書く。なぜかと言いますと、おそらく間違いのない想像だと考えていますが、親鸞が大無量寿命経の仏典を見たのですが、その仏典は印刷でなく紙に墨で書いてあった。そうしますと「二」の二画に、続け字の「たすき」が掛かっていた。それを親鸞は「たすき」を誤解して、字の一部とみなした。それで親鸞は「南旡阿弥陀仏 ナガイアミダブツ」と書いた。親鸞のお弟子さんたちも同じ間違いをする。親鸞ですらというか、親鸞のような人物も、この稲荷山鉄剣の銘文とおなじ間違いをしている。  ですから稲荷山鉄剣の銘文も「豆」という字の第二画目の続け字の「たすき」が入ったのを、金工細工人は字の一部と誤断して稲荷山鉄剣の銘文を彫った可能性がたいへん高い。そうしますと、やはり加藤さんが考えられたように、「豆」であって「臣」ではない。こういう結論になった。  このことはさらに裏付けとしまして、銘文の最初から最後まで、先祖をお祭りするという祭祀の言葉ですべて終わっている文章です。それで真実の「真」と「豆」で、言葉として「真豆 マメ」です。魏志倭人伝に登場する「難升米 ナンシメ」と同類の言葉で、人名として非常にふさわしい。それをなぜ「豆 トウ」という字で表したのか。  これは神様を祀るお祭りの器が「豆 トウ」です。祭祀のとき神様に供える食べ物を置く台の形を、そのまま字形にしたのが「豆 トウ」です。ですから「豆 トウ」という漢字であれば、稲荷山鉄剣の銘文にたいへんふさわしい字です。だから第一史料を書いた人は漢文の素養があって、その「豆 トウ」という字を書いた。もしかしたら倭人伝を読んでいたかも知れない。  それで加藤さんの提起した問題は、無事にこれで落着した。ところがこの落着した問題は、わたしにとって、もっとも大きな問題の進展に結びついた。なぜかと言いますと、皆さんよくご存じの紹煕本・紹興本の『魏志倭人伝』に書かれているのは「邪馬壹国」の「壹」である。この「壹」はどういう意味か。「魏の天子に、二心無く忠節をつくす」というのが「壹」の意味です。「貳(二)」のほうは、魏・呉・蜀のあっちにも付いたりこっちにも付いたりする、二股膏薬のやり方が「貳」である。『三国志』の普通の文章に関してはそうです。  この考え方を推し進めますと、この「邪馬壹国」という言葉を使ったのは、卑弥呼(ひみか)の次の壹与(いちよ)ではないか。「壹」という字を、疑いようもなく魏に忠誠を尽くす。魏にのみ帰属する。そういう意味に使ったのではないか。卑弥呼の時は使っていなかったのではないか。このような考え方をしていた。  ところが先ほどの加藤命題の出現によって、話は一変してくる。なぜかと言うと「邪馬壹国」の「壹」は、「豆トウ」が入っているので「壹」は神様を祀る意味をもつからである。「邪馬」はもちろんmountainの「山」を表音で書いてある。その次の「壹」というのは、神様を祀る姿を表現している。魏・呉どちらに付くかという、現代風なそんなちっぽけな話ではなくて。もっと古い淵源を持つ概念、これが「壹」である。実はその証拠が見つかってきた。それは『三国志』東夷伝の序文にある。これは本来『三国志』全体の序文でしたが陳寿はそれを「東夷伝序文」に入れ込んで亡くなった。そのことを日本評伝選『俾弥呼(ひみか)』で力説いたしました。ところが最後のところに、こういう文章が最後に出てくる。 『三国志』東夷伝序文最後 ・・・・ 夷狄之邦と謂も、俎豆の象存、存す。中国、礼を失うも、之を求むるに、四夷に猶信ずるがごとし。 これは明らかに『論語』が背景になっている。八巻の先頭に「俎豆之事」という言葉が出てくる。 『論語』の衛霊公(えいれいこう)篇 衛霊公問陳於孔子、孔子対曰、俎豆之事、則嘗聞之矣。 衛の霊公、陳を孔子に問う。孔子対(こた)えて曰く、俎豆(そとう)の事は則ち嘗(かつ)て、これを聞く。  「俎豆之事」というには先祖を祀ることです。その祭祀については、かって(中国でも)先祖を祀る祭祀が行われていたということを孔子は聞いたことがある。そのように言っている。  その『論語』をバックにして、『三国志』「東夷伝」序文は書かれている。『三国志』を書いた陳寿も『論語』を読んでいるし、『三国志』を読む明帝を含む読者も、もちろん『論語』を読んでいる。もちろん「俎豆之事」というお祀りが、かって中国で行われていたことを知っている。  それに対し陳寿がここで言っていることは、実は「夷狄 いてき」の中に、われわれ中国ではすでに失われた祭祀の姿、孔子も有ったことを聞いたことがあるというレベル。中国ではすでに無くなっている。ところが夷狄の国に、先祖を祀るという祭祀のあり方が現在でも続いている。そういうことを陳寿は『三国志』「東夷伝」の序文で、夷狄の国を誉めている。けなしているのでなく、夷狄の国と呼んで、われわれ中国は馬鹿にしているが、夷狄のほうがわれわれ中国より立派だよ。先祖の正しい姿を今に伝えている。これが『三国志』全体の序文で最後になるところです。  それでは、そんなところが『三国志』全体で本当に出てくるのか。出てきます。一箇所だけ出てくる。「邪馬壹国」の「壹」です。この「壹」は先祖を祀る姿を字形にしたのが「壹」なのです。「壹」の上の「士」は、常に仕事としているという意味の「士」です。武士の「士」。人偏を付ければ「仕える」という意味となる。次のワ冠「冖」は、いわゆる器物を置く台。その下にある「豆」がいわゆる先祖を祀るための器物です。あの「壹」という文字全体が、先祖を祀る姿を文字にしたものです。それが倭人が言ってきた国名「邪馬壹国」です。  それで陳寿は驚嘆した。孔子ですら、「俎豆之事」は我が国では亡くなったと言っているのに、なんのなんの彼ら夷蛮の国のほうが「孔子」以前の「礼」を持っているではないかと言っている。この話はうそではない。『三国志』「夷蛮伝」の中では「邪馬壹国」だけです。他はない。どこを見てもそんな話は全くない。もうこれで「邪馬壹国」は揺るがない。決定です。  これに対して今まで、我が国の中心は近畿天皇家である。だから「大和 ヤマト」と読めなければならない。「大和 ヤマト」と読めなければ直せばよい。捨てればよい。ですが「邪馬臺 ヤマト」と読めるかどうかは問題です。大下さんが今『後漢書』で調べていただいてますが、はたして『後漢書』で「臺」を「ト」と読めるのか。わたしの感覚ではダメである。どうみても「臺 ダイ」を「ト」とは読めませんから。とにかく『異称日本伝』を書いた松下見林が「邪馬臺国」を採用することを宣言したのは、奈良県の「大和 ヤマト」に合わせるために「邪馬臺 ヤマト」と読めそうな『後漢書』の「邪馬臺国」を採用した。どうみたって『三国志』の「邪馬壹国」では「大和 ヤマト」と読めません。  それで今度は、新井白石に至っては晩年おなじ考え方で、ここだろうと九州の山門(ヤマト)と比定して書いた。しかし新井白石の名誉のために言っておきますが、公表されたのは新井白石にしてみればとんでもない話です。松下見林と同じイデオロギー的な考え方で、九州の山門(ヤマト)が邪馬台国であると言ってみてもしかたがない。言っては悪いが、新井白石はだいぶ頭が悪い。先人として素晴らしい人の悪口を言うのは恐れ多いが、皆さんですから言わしてもらえば話の筋が違っている。そういうことは新井白石も気がついていた。なぜなら新井白石が筑後山門を「邪馬臺国」に当てる論文は未公開だった。発表していなかった。それを近年の邪馬台国論者が新井家に派遣され、悉皆調査をしているうちに発見された。新井白石が九州説を書いているという形で、九州説の代表という扱いを受けた。しかしよく考えてみると、発見されたのにもかかわらず、新井白石は九州説を公表していなかった。公表されなかったのは、うっかりして公表していなかったということではないと思う。今言ったように話としておかしいということを新井白石は自覚していたから、一応当ててみたけれども公表しなかった。新井白石を贔屓するのでなく、わたしはそう思いたい。それを現代の学者が遡って九州説の代表にしてしまった。それを受け継いで明治時代、東大の白鳥倉吉は肥後にもヤマトがあると、ここだろうと九州に比定した。これはまったくダメです。新井白石が迷っていたのを東大説の代表として新井白石を持ち上げた。 要するに今のように「邪馬台国」論では、まったくダメである。  この点は、さらにダメ押しとして鏡の話をしたい。『三国志』「魏志倭人伝」では「鏡百枚」と書いてあるから、鏡をたくさんもらったことは間違いない。そうすると問題は倭国側はなぜ鏡をたくさん欲しがったのか。中国では簡単に言うと、鏡は上級官僚や貴族の女の人が顔を繕うのに使うお化粧道具です。中国では、鏡を一〇〇枚もほしがる人はいない。とうぜんこれらの鏡は、卑弥呼の側が欲しいと言ってきたから与えたものです。これは想像ですが間違いのない想像と考えます。そうすると卑弥呼はなぜ鏡をたくさん欲しいと中国に言ったのか。もちろん、これは言うまでもなく「三種の神器」(玉・剣・鏡)です。吉武高木、三雲、須久岡本、井原、平原、宇木汲田を初めとする六ヶ所の博多湾岸の弥生時代の遺跡から「三種の神器」が出土している。この出土は弥生時代において、「三種の神器」が神聖な存在とされていた証拠です。この中で「玉」は古来縄文時代から日本では尊重されていた。「剣」は権力者なら必ず持ってシンボルです。問題は鏡です。鏡という権力のシンボルを、今まで日本中持っているものがいなかった。それで鏡をプラスして「三種の神器」と称した。なぜ「三種」かと言えば、省略して言いますと、四国足摺岬で示したように「天、地、海」という三つを表す縄文時代の伝統がバックにある。そういう伝統をバックにして、それに代えて「玉」・「剣」に「鏡」を加えて、新しい弥生の卑弥呼の権力を誇示するシンボルにされたことは疑いがない。卑弥呼の王権のシンボルとして「三種の神器」と称したことは間違いがない。  ですから祭祀国家として「邪馬壹国」という言葉を使ったのは、祭祀を行うため太陽信仰の道具として鏡を使ったから、ぜひ頂きたいと魏朝に申し出た。  そういうことで加藤さんのおかげで「邪馬壹国」問題の認識が進展したのは、わたしとしてたいへん嬉しいことであります。   二 九州王朝の歴史学  古田武彦・古代史コレクション16 『九州王朝の歴史学 -- 多元的世界の出発』(ミネルヴァ書房)のはしがきを読み上げます。 はしがき -- 復刊にあたって          一  九州王朝。この一語なしに、日本の歴史を語ることはできない。真実の歴史を明らかすべき歴史学は成立不可能なのである。 君の机辺の「日本史」の本が、たとえ令名ある大家の著作であれ、全国の各学校で数多く用いられている教科書であれ、「九州王朝」にふれずして、否、中心のテーマとして扱うことなしに、史実を記すことは、土台無理としか言いようがないのだ。なぜか。  理由は、簡単だ。そして明瞭である。有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙つつがなきや。」の文言は、七世紀前半、初唐の歴史官僚、魏徴(ぎちょう 五八○〜六四三)が書いた歴史書、『隋書』に書かれている。イ妥(タイ)国伝だ。  これは、倭国の天子の多利思北孤(タリシホコ)が隋の天子、煬帝(ようだい)の所へ贈った「国書」の自署名である。「自署名」のない国書など、存在するはずがない。 年時は大業三年(六〇七)である。その多利思北孤には妻があり、彼女は「[奚隹]弥(キミ)」と呼ばれていた。だから、当然多利思北孤は男性である。      [奚隹]弥(キミ)の[奚隹]は、奚編に隹。JIS第4水準ユニコード96DE      イ妥国の[イ妥]は、人編に妥。ユニコード番号4FCO  しかるに、日本書紀では、この年は「推古天皇十五年」に当る。古事記も、その最末の天皇を、この推古天皇とする。女性である。 この「男女」別人の二人を「同一人」とすること、その「背理」の上に、本居宣長、そして彼を受け継ぐ、明治以来の「国家の定説」が形造られてきた。いわゆる「万世一系の天皇家」という政治目標の下で、それに「奉仕するための歴史学」だったのである。  以上は、『失われた九州王朝』(朝日新聞社、昭和四十八年刊)以来、のべ尽くしたところ。しかし学界・教育界のすべてはこれを「無視」し通してき続けた。これが隠れもなき研究史上の事実である。           二  文献だけではない。考古学的出土物の分布も、わたしの立論を支持していた。戦前から戦後にかけて「霊域か、山城か」の論争のあった「神籠石こうごいし山城群」は、「山城 さんじょう」であることが確定した。佐賀県教育委員会の綜合調査の結果だった。その山城群は、東は石城山(いわきさん 山口県)から西はおつぼ山(佐賀県)、南は女山(ぞやま 福岡県)まで。中心部は太宰府・博多湾岸と筑後川流域までの「筑紫」(福岡県)中心の分布だった。決して「大和」(奈良県)中心の分布ではなかったのである。  そのため、教科書にはこの「神籠石山城群」の分布地図は「カット」されてきた。「天皇家一元」や「万世一系」の理念を子供たちに教えこみにくいからであろう。ここでも、イデオロギー重視、真実軽視を根幹とする「国家の教育」が一世紀半近く「続行」されてきたのである。            三    (略) 平成二十五年一月十一日                              古田武彦   三 被差別部落の本質  これは古代史では重要な説話であるのに扱われずにいた問題を「歴史の革命 -- 被差別部落の本質」(『俾弥呼(ひみか)』(日本評伝選 ミネルヴァ書房) 第八章邪馬壹国研究の新たな世界)として論じてきた。 『古事記』上巻末尾 火照(ほでり)命の服従 是(ここ)をもちて備(つぶさ)に海の神の教へし言(こと)の如くして、其の鉤(つりばり)を與へたまひき。故、爾(それ)より以後(のち)は、稍兪(やや)に貧しくなりて、更に荒き心を起して迫(せま)り来(こ)ぬ。攻めむとする時は、塩盈珠(しおみつたま)を出して溺らし、それ愁へ請(まを)せば、塩乾珠(しほふるたま)を出して救ひ、如此(かく)惚(やな)まし苦しめたまふ時は、稽首(のみ)白(まを)して、『僕(あ)は今より以後(のち)は、汝(いまし)命(みこと)の晝夜(ひるよる)の守護人(まもりびと)と為(な)りて仕へ奉らむ』とまをしき。故(かれ)、今に至るまで、その溺れし時の種々(くさぐさ)の態(わざ)、絶えず仕へ奉るなり。 『日本書紀』巻二神代下第十段一書第二 ・・・・ 是に兄、其の弟神(あや)しき徳有(いきほひいま)すことを知りて、遂に其の弟に、伏事(したが)ふ。是を以て、火酢芹命(ホノスセリノミコト)の苗裔(のち)、諸の隼人等(ハヤトタチ)。今に至るまで天皇(すめらみこと)の宮墻(みかき)の傍(もと)を離れずして、代(よよ)に吠(ほ)ゆる狗(いぬ)して。奉事(つかえまつ)る者なり。  これは『古事記』『日本書紀』で明確に論じられてきたこと、つまり天皇家側にとって兄に当たる存在。天皇家側の弟との争いに敗れて、弟に奉仕する。一日中守衛したり、また墓守をしたりして奉仕する立場にさせられた。そういうことが書いてある。これは明らかに天皇陵をふくむ神武東征時の問題(奈良県)や、天孫降臨時の問題(福岡県)での被差別部落の問題を言っている。  しかし従来の被差別部落を論じているかたがたは、そのようなことにはノータッチ。死者を扱うなど職能の面から説明するのが大部分であった。しかしわたしはそうではない。逆に現在の天皇家より遙かに古く神聖な存在が被差別部落の人々である。それを結局ひっくり返した新参の天皇家が、彼らを被差別部落にしたのだ。そういうことを『俾弥呼(ひみか)』で、はっきり書きました。しかし誰からも何も言ってこない。被差別部落に対するわたしの提起に対して、差別したほうの人々や逆に差別された人々も、何もわたしに言ってこない。不思議ですね。しかしいくら言ってこないからと言って、わたしの提起した問題が消えるわけでもなく、逆転してひっくり返るはずもない。日本の歴史を語る場合、被差別部落の存在を抜きにして日本の歴史を語れない。そのようなわたしの提言を認めざるを得ないだろう。このように考えていました。 ところが、この問題はさらに進展を示します。  『俾弥呼(ひみか)』では、主として『古事記』で論証していたのですが『日本書紀』では別の要素が加わった。別の要素とは何かと言いますと、鹿児島県の隼人に対する差別の話と結びつけられている。その印象的な例が『古事記』「履中記」で述べられている曾婆訶理(そばかり)。読みは「曾婆加理」と「曾婆訶理」と二種類ありますが、おそらく同じでしょう。(『日本書紀』では刺領巾さしひれ。)彼は世にも奇妙なバカで悪人。バカと悪人はふつう結びつきませんが、履中(水歯別命)が曾婆訶理を天皇家側に登用してやると騙(だま)して、ご主人の墨江中王を曾婆訶理が殺した。その後天皇は、曾婆訶理をだまし討ちにして殺した。ですから主人を裏切るたいへんな悪人である。しかも天皇側が騙そうとしてしているのに気がつかない馬鹿者である。バカで悪人であるというレッテルを貼られた人物として曾婆訶理は描かれている。ところが、この曾婆訶理は「隼人」であると書かれている。このほかにも『日本書紀』では、その「隼人」に対する、差別が激烈に示されている。  薩摩隼人の「隼人 ハヤト ハヤヒト」として、曾婆訶理(そばかり)は、描かれている。これは何かと言いますと、もちろん「隼人」という字は当て字です。「ハヤト」の「ハ」は、“葉”。根や茎に対して“広い場所”。「ヤ」は“屋敷”の「ヤ」で、「神殿」を意味する。「ト」は神殿の戸口の意味です。より明瞭なのは「ハヤヒト」という言葉です。「ヒ」は太陽を意味する言葉が加わる。「ハヤヒト」は太陽を祀る神殿の戸口です。  これは誰がこの人々を、このように呼んだか。わたしは中国大陸と太平洋の間を流れる黒潮の分流である対馬海流上の海士族からの鹿児島県の呼び名である。その海士族から見て朝太陽が出るところは鹿児島県。そこが太陽を祀る広い神殿のあるところ、すなわち鹿児島県から出る朝日を祀る神殿があるところが「隼人 ハヤト ハヤヒト」と呼ばれていた。  そうすると、縄文時代の定義として「西低東高」というか、東日本が盛んで西日本は低調だと、以前は言われていた。現在は全く逆転致しまして、縄文のいちばん早い時期、一万数千年前の縄文早期からの遺跡が、鹿児島県の西岸部や鹿児島湾岸を中心につぎつぎと現れてきた。それが縄文早期の神殿で「隼人 ハヤト ハヤヒト」と呼ばれていた。  しかもその縄文早期の神殿が、縄文中期末の硫黄島の一大爆発によって、鹿児島県、熊本県といった九州の中・南部は、“壊滅”し、九州北部の長崎県・福岡県が“生き延び”た。島根県も“生き延び”た。ですから『古事記』『日本書紀』では、一番古いところを扱っているのが、まず出雲。次が筑紫。これらが一番古い場所として描かれている。それは逆にいうと、先ほどの縄文早期から観ると一番新しい。しかも先ほどの段階で鹿児島県が火山爆発により全滅し、その後の段階で第二次的に興隆したのが、火山爆発の影響が少なかった筑紫であり出雲だった。そういう分析は何回か書きました。 『古事記』『日本書紀』では、そのような古い淵源をもつ「隼人 ハヤト ハヤヒト」が、逆に馬鹿者扱いを受けている。その筑紫や出雲の後輩が、近畿である。逆に言うならば、その筑紫や出雲の、もう一段階前の神聖な存在が、「隼人 ハヤト ハヤヒト」であった。隼人の儀式が、犬の遠吠えのような、理解されなくなったにもかかわらず、「隼人 ハヤト ハヤヒト」の遠吠えが必要だと書かれている。  さらにもう一段、深く追求したのが九州という地名はどこから来たのかという問題です。  中国では、中心というか広大な領域を総合した呼び名を「九州」と呼ぶ。それに比べると日本ではちっぽけな島を「九州」と呼ぶのはおかしいではないか。そういう疑問が生じて当然。単なる島を九つに分けて数合わせだけなら「九州」と言わず、「四国」と同じく「九国」と呼べばよい。中国と同じ呼び名を付ける必要はない。  それに対して、わたしが分析しましたのは、「筑紫 チクシ」の問題です。「筑紫 ちくし」は、福岡県と島根県の人は、そのように呼ぶ。それに対して他の県の人は、「筑紫 ツクシ」と呼ぶ。指すところは同じであって、「筑紫 チクシ」の「チ」は神より古い神の呼び名のです。アシナヅチ、テナヅチ、ヤマタノオロチ。オウナムチの「チ」。より古い神の呼び名が「チ」です。これに対して、「クシ」は、千というかたくさんの櫛(くし)を模した博多湾岸の呼び名です。「筑紫 チクシ ツクシ」、呼び方は違うが、指している場所は同じ博多湾岸です。その「クシ」を元にして、似た音を当てたのが「九州 きゅうしゅう クシュ クシ」です。「クシュ」ですが「クシ」と呼ぶことも出来るかなり似た音になっている。中国の晴れがましい「九州」の当て字です。ですから本来は九州島全体ではなくて、現在の福岡県を中心に呼んでいた呼び名である。後には九州島全体に広がりましたが、本来は福岡県を指す言葉であった。  もう一つ、これについておもしろい見解があったので付け加えて終わりにしたいと思います。  それは宮崎県の「日向 ヒュウガ ヒムカ」という言葉。この言葉が、夕日なのか、朝日なのか、皆さんお考えになったことがありますか。われわれはこの「日向 ヒュウガ」という言葉をなんとなく夕日のように考えていた。東京で考えてたり、大阪で考えたり、瀬戸内海で考えたりしていたから、宮崎県は西の夕日の沈むところとして理解していた。わたしもなんとなく「夕日」のように考えていた。しかしよく考えてみると、これはおかしい。  先ほどの隼人の人々、また海上にいる人々の立場から考えてみると、どこから朝日が出るか。つまり鹿児島県の人々から見ると、太陽がどこから出るかと言うと、宮崎県との境霧島連峰から日が昇るに違いない。その立場の人々から見ると朝日である。その人々は言葉を持たなかったのか。それで大阪や瀬戸内海の人々の言葉を真似て、夕日を「日向 ヒュウガ ヒムカ」と呼んだのか。そんなことは考られない。そうすると「日向 ヒュウガ ヒムカ」という言葉、これは朝日ではないか。そうすると音は二種類、「ヒュウガ」・「ヒムカ」と二つある。「ヒ」は太陽の意味。「ム」は主としたの意味。「カ」は河の「カ」で神聖な水の出るところ。「ヒムカ」は太陽が出る神聖な水が出るところ。ですから「日向 ヒムカ」のほうは、われわれが知っている日本語です。  「ヒュウガ」というのは別の言葉です。「ヒュウ」という拗音(ようおん)を使っている。拗音(ようおん)も結構使われている。大阪では有名な十三(じゅうそう)。わたしの家の近く長岡京市・向日市にある縄文土器がでる十荘(じゅうそう)。信州長野県の有名な縄文の阿久(あきゅう)遺跡。そして琉球(りゅうきゅう)。このように関東から沖縄にかけて拗音(ようおん)の系列が続いている。この拗音(ようおん)がどこから来たかというのは、おもしろいテーマです。きっと日本列島の周辺に、拗音(ようおん)の言語地帯があると思う。日本で始まったとは考えられないので。これは琉球(リュウキュウ)・沖縄(オキナワ)も同じです。縄は縄文の縄でないと思います。「オ」は偉大な。「キ」は城・要害。「ナ」は、大地。「ワ」は広い場所。日本語らしい日本語です。ですが琉球(りゅうきゅう)も別系列の日本語です。中国語だと言われていますが、わたしは間違いだと考えています。中国語で、「琉球 リュウキュウ」という概念もない。「リュウキュウ」という発音にあの字を当てただけです。  つまり日本語も一通りではなくて、二つないし三つの淵源を持つ複合語であるという立場でわたしの元素論は成り立っている。としますと「日向 ヒュウガ ヒムカ」という言葉は、朝日を示し同じ場所を二つの言語で表している。  さらにもしかすれば、今日参加された皆さんのように、わたしの考えかたをよくご承知の方々ばかりだから思考実験として言いますが、「日向 ヒュウガ ヒムカ」は、もしかすれば「温泉」を表しているかもしれない。太陽の下の神聖な水とは温泉のことを表していると、一考しているところです。鹿児島県の地名などを当たれれば確定できるかも知れない。  ですから元に戻り、「日向 ヒュウガ ヒムカ」は、いずれも朝日ではないかという考え方にたっています。  ですがわたしが、朝日という考え方に立っているからと言って、わたしに従う必要はありません。「日向 ヒュウガ ヒムカ」は夕日であるという論証をされて頑張る人があれば大歓迎。別に止めろと言っているわけではありません。そんなことを言ったら学問の死滅である。お互いにしっかり論証すれば良い。これで前半は終了します。  これらの理論的詳細は、多元的古代研究会機関誌「多元」No.109〜No.116の元素論(30〜37)を参照して下さい。講演記録は解説です。 後半   四 失われた日本 まず最初に、古田武彦・古代史コレクション17『失われた日本』 -- 「古代史」以来の封印を解く(Japan behind Japan)の序文を読ませていただきます。講演会では三まで読み上げましたが、全文を収録。 はしがき -- 復刊にあたって          一 滅べ、人類よ。お前には、この地球に生き残る資格がない。みずから造り出した「放射能」の害毒で、この地球を何十万年も汚染する、そんなお前に、この地球をまかすわけにはいかない。  もし、「神 god」なる存在があって、お前にこの地球やこの宇宙の「支配権」をゆだねたというなら、それは「にせ者の神」だ。虚偽に奉仕する神、お前の“好き勝手”を合理化するために、お前が造り上げた「偽神」にすぎない。          二 滅べ、地球よ。人類によって、お前の大地、お前の大海が汚染され尽くす前に、消滅せよ、大宇宙の秩序の中で。何兆年が過ぎ、汚染なき星が生れ、希望(のぞみ)ある生き物が誕生する日が到来するまでに。お前のいまわしい歴史が忘れ去られるように。滅べ、地球よ。永劫の闇の中に。          三 滅べ、多数決よ。人類の愚かなルール。近隣の何名かが“もめごと”をおこしたとき、多数決で「方針」を決める。それは賢い“やりかた”だ。この地球の中で、生きてゆくための人類の知恵だった。 しかし、一歩退いて静かに考えてみよう。人類が「多数決」で「放射能汚染」への道を選択したとき、犬や猫や鯨や隼(はやぶさ)たち、もぐらや蛇たち、彼等はその「多数決」に参加していたのか。人類の「多数決」という名の独断で、永遠の害毒を身に浴びたのではないのか。所詮、多数決という名の、人類の「ひとりよがり」にすぎない。 ソクラテスも、多数決で処刑された。彼はその“危険性”を未来の人類に警告して死んでいった。イエスも、群衆の多数決で「バラバ」という盗賊の代りに処刑された。ガリレオも、「絶対多数」の天動説の包囲の中で処断された。 滅べ、多数決よ。ナチスが「多数決」のルールを悪用して「人類の敵」となった歴史を想起せよ。           四 けれども、わたしたちはあきらめない。希望を守る。たった一人になっても、あきらめることを拒否する。何がこの地球を襲おうとも、この大宇宙の一端に、一片の良心を守りつづけた「いのち」が存在したことを、万世に証言する。そういう生き方をしたい。 不幸な人々よ、心を寄せる身寄りがなく、他(ひと)に裏切られ、孤独の中で死んだ人々よ、わたしはあなた方を求め、そのそばで「同じ側」に立ちたい。決してあなた方は“見捨て”られてはいなかった。その一事をあなたに告げつづけたい。それが何兆年の何兆乗あとになろうとも、わたしは一切、それを苦にしない。そういう「いのち」がこの世に存在したことを、唇(くちびる)の奥で叫びつづけていたい。その証言者となりたい。それがわたしの願いだ。           五 嘲笑(わら)え、人々よ。「現実」とか「計算」とか「利害損得」とか、さまざまの“口実”、もっともらしい理由をもち出して、わたしを“あざけり”の的(まと)せよ。すべてO・Kだ。この世で、もっとも「馬鹿げた奴」の名を全面に浴びつつ、死んでゆこう。それがわたしの望み、唯一の生きがいなのであるから。  わたしに恐れるものは、すでに何もない。    平成二十五年一月十一日                                    古田武彦   五、女系天皇論  学術論文 「男系男子」の史料批判 古田武彦(Tokyo 古田会 News No.148 Jan. 2013)  最近ひさしぶりに学術論文のスタイルで「女系天皇論」について論文を書きました。学術論文というと、皆さんむつかしいとお考えですが、書くほうからすれば非常に優しい。なぜならば学術論文の場合は、読まれる方の対象のレベルが決まっていて、こう書けばどういう反論があるか計算できる。だから書きやすい。逆に不特定多数に対する文章はひじょうに難しい。どれもこれも焦点を当てると文章が散漫になる。反対に一点に焦点を合わせると、強い調子になってもマイナスの効果も出る。その時の焦点をこちら側が見定めなければならない。  どういうことを言っているか。結論は簡単であります。日本の伝統は女系天皇が伝統である。その一語に尽きます。なぜかと言うことはいまさらの感があり、当たり前の話ですが史料をもって論じます。お手元の史料、わずか四行か五行ぐらいの文書が根拠である。 『続日本紀』巻三 文武天皇(慶雲四年三月 -- 五月) ○壬午。詔曰。天皇詔旨勅〈久。〉汝藤原朝臣〈乃〉仕奉状者今〈乃未尓〉不在。掛〈母〉畏〈支〉天皇御世御世仕奉而。今〈母〉又朕卿〈止〉爲而。以明淨心而朕〈乎〉助奉仕奉事〈乃〉重〈支〉勞〈支〉事〈乎〉所念坐御意坐〈尓〉依而。多利麻比氏*夜夜弥賜〈閇婆。〉忌忍事〈尓〉似事〈乎志奈母。〉常勞〈弥〉重〈弥〉所念坐〈久止。〉宣。又難波大宮御宇掛〈母〉畏〈支〉天皇命〈乃。〉汝父藤原大臣〈乃〉仕奉〈賈流〉状〈乎婆。〉建内宿祢命〈乃〉仕奉〈覃流〉事〈止〉同事〈敍止〉勅而治賜慈賜〈賈利〉是以令文所載〈多流乎〉跡〈止〉爲而。隨令長遠〈久。〉始今而次次被賜將往物〈叙止。〉食封五千戸賜〈久止〉勅命聞宣。」      氏*は、氏の下に一。JIS第3水準、ユニコード6C10  それは「『続日本紀』巻三文武天皇」の「慶雲四年三月」の条です。文武天皇というのは、言うまでもなく七〇一年以後の天皇です。その文武天皇の詔勅という形で書かれている。詔勅であるけれども、相手は一人と決まっておりまして 、藤原不比等に対する詔勅である。不比等は女性で次の天皇である元明と、その次の天皇である女性の元正を助けバックアップしてくれている。これはちょうど不比等の父である藤原鎌足が、女性である持統天皇を補佐していたのと同じ仕事である。いわゆる大化改新でも、女性の天皇である皇極天皇を、おまえの親父の鎌足はバックアップしてくれた。 さらにそのことは、女性の神功皇后を助けた建内宿祢を見ればわかる。女性の神功皇后を助けて男性の建内宿祢が活躍した。そういう同じ仕事を、おまえ(汝)も、おまえ(汝)の親父もやってくれたし、これからもおまえ(汝)もそういう形でわたしを助けてくれるだろう。そういうことを詔勅で述べている。  しかもそれは『日本書紀』神功紀を観ると、さらに中身が出ています。神功皇后が近江に攻めのぼって行ったという話がありまして、そのときも神功皇后を武内宿禰(たけのうちすくね)がバックアップすることに、それが成功したのだ。(詳細は、後述しています。)そういう話につながっている。しかもその成功の背景には、天照大神のお言葉が背景にある。天照大神はとうぜん女ですし、少なくとも『日本書紀』では女です。その天照大神に対して、スサノオの尊が弟としてバックアップした。 しかも『日本書紀』神功紀のところに、『魏志倭人伝』の卑弥呼(ひみか)の話が出てくる。四回出てきて、最後の一回が壹与(いちよ)で、最初の三回は「倭国の女王」という形ですが、中身として名前は出ていないが『魏志倭人伝』を見れば俾弥呼(ひみか)です。卑弥呼も当然ながら女性で、この卑弥呼(ひみか)を助けて、男弟がこれを助けたとある。助けたのはとうぜん男である。 『日本書紀』上 神功紀(岩波古典大系に準拠)  三十九年。是年。太歳己未。魏志に云はく。明帝の景初三年の六月、倭の女王、太夫難斗米を遣して、郡(こおり)に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝獻す。太守登*夏、吏を遣して、将て送りて、京都(けいと)に詣らしむ。 ・・・  四十年。魏志に云はく。正始の元年に、建忠校尉梯携等を遣して、詔書印綬を奉りて倭國に詣らしむ。  四十三年。魏志に云はく。正始の四年、倭王、復(また)使太夫伊聲者掖耶訳等を遣して上獻す。  六十六年。是年。晋の武帝の泰初二年なり。晋の起居の注に云はく。武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、譯を重ねて貢せしむといふ。      登*は、登に阜偏。JIS第3水準ユニコード9127  してみると、おまえ(汝)が女性の王者を補佐するという仕事上の役割は歴史上の伝統に依るものである。  ですから我が国の本流は女性の天皇が本流であって、男性はその女性を補佐するのが正しい筋道である。その正しい筋道にたって、これからもおまえ(汝)に協力してもらいたい。これだけの話なのです。簡単に言うと藤原不比等に対する文武天皇の詔勅はそういう性格を持っている。  ですから文武天皇の意見として、『続日本紀』の文武天皇の条は元明天皇・元正天皇の時に造られるわけですから、女性の元明天皇・元正天皇は、藤原不比等に助けられながら政治をおこなうことは、今までの正しい伝統に立っている。そういう自己弁明であると行っても、もちろん言いすぎではないし、それには違いない。  しかしそれは単なる自己弁明ではなく、歴史の事実に反しているかと言いますと、わたしは反していないと考えている。なぜなら三世紀の卑弥呼の時代・弥生時代と、その前の永い段階は縄文時代です。縄文時代は女性中心の時代と言っても言い過ぎではない。なぜなら縄文時代の土偶には、おっぱいがある。だから縄文時代は女性中心の時代だった。そのことを疑うことはできない。 『日本書紀』神代上、第十一書(日本文学大系、岩波書店、訓は古田)  陰神(めがみ)先ず唱えていわく、「あなにえや、うましおとこを」と。すなわち陽神(おがみ)の手を握り、遂に夫婦(めおと)になる。淡路島を生む。次に蛭児(ひるこ)。  何回も引用しますが、『日本書紀』「神代上、第十一書」がその立場で、陰神(めがみ)が先に唱えて、陽神(おがみ)の手を握った。それで淡路島が生まれ、次に男性の太陽神である蛭児(ひるこ)が生まれた。大成功だった。  しかし他のところは、『古事記』でも『日本書紀』「神代上、本文第一書〜第十書」でも、女性が先に言ったから失敗したという話ばかりだ。ですから第十一章は女性中心の古い本来の神話で、女が中心だったら失敗するよと言う他の話は弥生時代以後改作された形である。そういうことは何回も論じてきました。  ですから永い縄文時代以来の日本の伝統は、女性が中心で男性が補佐すると言っているのは、決して八世紀の元明・元正天皇たちの自己弁明の独りよがりではない。少なくとも八世紀の元明・元正天皇たちの主張がその通りだったことは間違いない事実である。そして日本の伝統として、女性が中心で男性が補佐するという主張が、元明・元正という二人だけの主張でなく、何万年・何千年の永い伝統を背景に持っていることも明らかである。そういうことを学術論文の形で書いていった。  そうしますと最近、逆の言い方をする人がいます。やはり日本は男系の男子の天皇が中心でなければならない。江戸時代に少し女性の天皇がいるが、まにあわせにすぎない。本来は男系の天皇が本筋である。ですがこの人たちは『続日本記しょくにほんぎ』などを読んでいない。これだけはっきり書いてあるのに、『続日本記しょくにほんぎ』の文武天皇の詔勅は間違いだという論を張るのなら良いけれど、いきなり我が国は男系の天皇が中心だと叫んでいる。これは日本の歴史をあまり学んだことがない人たちが中心である。いきなり「男系中心」だとイデオロギーで論を連ねている。  もちろんわたしは男系より女系が中心であると、イデオロギーで論を張るつもりはまったくありません。片方のデータばかりを集めて論ずるのは、学問としての歴史学の死滅です。どちらかをヒイキにする一党一派のイデオロギーにしかすぎません。  それでは明治以後、なぜ天皇家が男系が中心だと言って来たのか。明治憲法と皇室典範のところで、男系が天皇になると明確に述べられている。それを元にしている。 なぜそうなったのか。これは簡単で明瞭です。近代、江戸幕府の将軍が征夷大将軍・軍事的な統率者だった。江戸幕府の将軍は100パーセント男性です。女性の征夷大将軍はいない。その江戸幕府の時代がすぎて天皇の時代になった。天皇はいわば明治将軍です。明治将軍だから、男子の天皇でなければならない。将軍としての天皇が女性では困る。それで天皇は男子に限ると、明治憲法と皇室典範の組み合わせで造った。明治憲法は廃止されても、皇室典範で「男系男子」が生き残った。それで皇室を運営している。しかしそのままでは無理に決まっている。  これは皆さん百もご承知で、江戸時代には、男性将軍を維持するための制度があった。一つは御三家という制度、もう一つは側室制度です。尾張・水戸・紀伊という御三家から将軍が出せる。側室をたくさん造って男性の将軍の子供を産ませる。だから母親の身分は問わない。どんな賤しい身分の女性にでも子供を産ませる。「女の腹は借り物」という女をばかにした表現がありますが、女はどんな女でもよろしい。男性の将軍であればよい。このやり方を続けたから徳川三〇〇年は続いた。明治政府も初めはそうだった。初めはお妾制度を否定しなかった。だから大正天皇が昭憲皇太后の子供でないことは、隠されているが誰でも知っている周知の事実です。だからと言って大正天皇がダメだと誰も言わない。ところが昭和天皇になってから、そういう側室制度を廃止した。これは昭和天皇のキャラクターが一つの背景にあった。そうなると先ほどのように男系で引き継ぐことは、もう論理的に無理です。一回男子が生まれたと言ってみても、失礼だが天皇になるまでご健在だという保証もない。誠に不安な制度です。  ですから江戸時代という将軍制度をまねたやり方と、側室制度の廃止というまねをしないやり方のミックスが生じた混乱であることは、少し考えればわかり切っている。それを無理やり日本は古来から男系天皇が伝統なのだという言い方で、すり替えをするから無理が生じている。  何回も言いますが、わたしは自分の好みやイデオロギーで歴史を解釈しても何にもならないと考えています。まともに『日本書紀』『続日本記』を読む。まともに日本の歴史を見る人からは、そんな嘘は直ぐにばれてしまうと思います。というふうに、非常に簡単明瞭な形になった学術論文でございます。 六、認識せられたものの再認識  さて話の調子を変えまして、最近わたしにとって嬉しいことがあった。それはこの本が手にはいったことです。  ドイツのアウグスト・べークのフィロロギーの上・下二巻の本です。  この本は、わたしの先生である東北大学思想史学科の村岡典嗣(つねつぐ)先生の教えの元となった本です。もちろん村岡典嗣先生自身から、このことをお聞きしました。  アウグスト・べークはどういうことを言っているか。「認識せられたものの認識」というか「認識せられたものの再認識」と言っても良いですが、それが彼のフィロロギーの要点です。「認識せられたもの」とは何かと言いますと、「過去に起きたその当時の文献や事件のすべて」。起こった事件を認識したからこそ、いろいろな文献や伝承が残った。「認識せられたもの」はそれらの全てを指す。もちろん古代ギリシャのソクラテスのことを書いたプラトン全集とか、トロヤのことを書いたイリヤッドとかはもちろん「認識せられたもの」です。のみならず古代ギリシャのオリンピア、そのオリンピックのお祭りも、みんなが行っていたから「認識せられたもの」です。もちろん戦争も平和も、全部含めて「認識せられたもの」です。「過去に存在したもの」と言ってもほぼ同じです。ですが「過去に存在したもの」だけではない。空想でも夢物語も、すべて「認識せられたもの」です。狭い意味の「過去に存在したもの」に限らない。そういう全てをまとめたものを「認識せられたもの」と呼ぶ。  その「認識せられたもの」を、現代、この場合は一九世紀のドイツのアウグスト・べークですが、もう一回正確に認識し直す。これがフィロロギーだという、アウグスト・べークの学問の定義なのです。  村岡典嗣先生はこの本を読んで、ドイツ語がわりと強かったようですが、そしてこの考えを元に日本思想史という学問を推進した。ですが村岡先生が言うのに、「わたしの場合は文献だけを扱っています。ほかの要素はわたしは扱っていません。」これも授業で明確に何回も言われた。「自分は全部を認識する力量がないから、その中の文献に限って、しかし方法としてはアウグスト・べークの方法によって行う。これがわたしの日本思想史だ。」そういう立場であった。  それでわたしは、卒業論文に「アウグスト・べークのフィロロギーについて」を書こうとした。三年生になって、初めの四月にこの卒業論文のテーマを出した。ところが九月の終わりか一〇月の初めになって、あれはダメだ。日本のテーマにしなさいと事務局から言われた。何を言っているのか。村岡先生が亡くなっているから、やろうとして意気込んでいるのになぜいけないのかと事務局に文句を言いました。事務局は担当の先生からそう言われましたの一点張りだった。日本思想史の先生は、仏教史の先生と国文学の先生しかいない。それに論文は、著書はドイツ語で書かれているし、翻訳が出ていないから審査するほうが読めないから困られたと思う。しかし八十六歳にもなった今のわたしから見ると、大学でも教授でいたから分かるのですが、やはりこのばあい、本人がどうしてもやりたいと意気込んでいるのなら、未熟であってもやらせるべきだ。どうせ論理の仕立てで無理なところがあれば無理と言えばいいのだし、良いところがあれば誉めればよい。本人が嬉しがって喜べばよけいに頑張る。今のわたしから見ると、そう見える。ですが当時五十代の先生方はドイツ語が得意でないこともあって悪意でなく事務局にそう言ったのだと思う。  わたしはたいへん出鼻をくじかれた感じで、十二月には卒業論文を出さなければならないと言われたので、三ヶ月ぐらいで何ができるか、新しいものは出来ませんよと精一杯の抵抗のつもりで「道元にをける利多思想の徹底」という論文を出して、卒業論文としては一応通った。  そういう経緯を知っている平松健さんというかたが、原本のあるロンドンのエジンバラ大学から注文したら、最近の方式であるオン・デマンドの書籍を取り寄せてくれ、その本をプレゼントしてくれた。当時の懐かしい雰囲気を回想しながら、本をめくっている。やりたいことはたくさんあるのですが、この本をそばに置いて最後をむかえるというのは、実についていると喜んでいる。  のみならず平松健さんは、もう一つプレゼントしてくださった。シュリーマンの著書『古代への情熱』に書いてあるのですが、シュリーマンをとことん攻撃した退役大尉がいた。あのシュリーマンの発掘は贋物だ。インチキで取るに足らない。あれは墓場にあったものを取り違えただけだ。そのように雑誌や本で言い続けた。シュリーマンはまじめな人ですから、それに対して、一生懸命説明して防戦する。最後は攻撃した本人をトロヤに連れて行って見せたりする。相手はのっけから反対ですから、最後まで納得しない。それでシュリーマンの晩年、六十代はそれで時間を費やし忙殺されたことが知られている。  この大尉がどんなことを言ってシュリーマンを攻撃したか。関連の本を見れば、このことは間接には分かりますが、直接どんなことを言って攻撃したか知りたいと思っていた。これも平松健さんが取り寄せて下さった。これはもう時間の余分のもう一つ余分な楽しみとして解読してゆきたい。いろいろな方が、それぞれの立場でいろいろの分野で応援して頂けるのはありがたい限りです。   七 「高天原」の史料批判 新訂増補 国史大系 前編 吉川弘文館 昭和57年 ◇『続日本紀』巻一巻 〈起丁酉年八月盡庚子年十二月〉   從四位下行民部大輔兼左兵衛督皇太子学士臣菅野朝臣眞道等奉勅撰。 天之眞宗豐祖父天皇〈文武天皇 第四十二〉 天之眞宗豊祖父天皇。天渟中原瀛眞人天皇之孫。日並知皇子尊之第二子也。〈日並知皇子尊者。寶字二年有勅。追崇尊號。稱岡宮御宇天皇也。〉母天命開別天皇之第四女。平城宮御宇日本根子天津御代豊國成姫天皇是也。天皇天縦寛仁。慍不形色。博渉經史。尤善射藝。高天原廣野姫天皇十一年。立爲皇太子。○八月甲子朔元年八月甲子朔。受禪即位。○庚辰。詔曰。現御神〈止〉大八嶋國所知天皇大命〈良麻止〉詔大命〈乎。〉集侍皇子等王等百官人等。天下公民諸聞食〈止〉詔。高天原●〈尓〉事始而遠天皇祖御世御世中今至〈麻弖尓。〉天皇御子之阿礼坐〈牟〉弥繼繼〈尓〉大八嶋國將知次〈止。〉天●〈都〉神〈乃〉御子隨〈母〉天坐神之依〈之〉奉〈之〉隨。聞看來此天津日嗣高御座之業〈止。〉現御神〈止〉大八嶋國所知倭根子天皇命授賜〈比〉負賜〈布〉貴〈支〉高〈支〉廣〈支〉厚〈支〉大命〈乎〉受賜〈利〉恐坐〈弖。〉此〈乃〉食國天下〈乎〉調賜〈比〉平賜〈比。〉天下〈乃〉公民〈乎〉惠賜〈比〉撫賜〈牟止奈母〉隨神所思行〈佐久止〉詔天皇大命〈乎〉諸聞食〈止〉詔。是以百官人等四方食國〈乎〉治奉〈止〉任賜〈幣留〉國々宰等〈尓〉至〈麻弖尓。〉天皇朝庭敷賜行賜〈幣留〉國法〈乎〉過犯事無〈久。〉明〈支〉淨〈支〉直〈支〉誠之心以而御稱稱而緩怠事無〈久。〉務結而仕奉〈止〉詔大命〈乎〉諸聞食〈止〉詔。故〈乎〉如此之状〈乎〉聞食悟而款將仕奉人者其仕奉〈礼良牟〉状隨。品品讃賜上賜治將賜物〈曾止〉詔天皇大命〈乎〉諸聞食〈止〉詔。仍免今年田租雜徭并庸之半。又始自今年三箇年。不收大税之利。高年老人加恤焉。又親王已下百下百官人等賜物有差。令諸國毎年放生。 ●〈尓〉、原作乎、今従下文神龜元年二月詔○御世、據宣長説補 ●〈都〉、原大書、今意改○聞看來、據宣長説補 ・・・  今度『古田史学会報百十四号』に、「「高天原」の史料批判」について、書かせていただいた。それでこの件は、キーポイントだけ述べてみたい。  お手元の資料に吉川弘文館の『続日本紀』があり、文武天皇について、巻一・二・三にわたり書かれている。ところで、この『続日本紀』「巻第一」であるが、これは本来の原文ではない。本来の原文を、吉川弘文館の本は、さんざんいじり直している。具体的には、注として上の段に「●〈尓〉・●〈都〉・・・」とある。「●〈尓〉」の注は本居宣長の説によって書き改めた。「●〈都〉」の注は本居宣長の説によって書き加えた。そのようにつぎつぎ書いてある。ですから元通りの写本でなく、本居宣長の意見により改竄した文章。それをわたしなども今まで、まともに扱ってきておった。頭が悪かったから、それに満足して使ってきておった。ですが、これではダメです。  本来の原文は、これも宮内庁に行って平松健さんが手に入れて下さった。「宮内庁 図書寮所蔵 竹森健夫氏旧蔵本」の『續日本紀 第一』が本来の原本です。  わたしは本居宣長自身をたいへん尊敬している。医者をやりながら、夜は二階の屋根裏部屋に籠もって、はしごを引き上げて人が来ないようにして『古事記伝』を書いた。わたしの先生村岡常嗣先生が尊敬しておられ、わたしは孫弟子に当たる。しかし彼を尊敬するということと、彼がやったことを認めることは別である。要するに彼は、底本を書き直す。有名な賀茂真淵から、有名な「松坂の一夜」で言われる。原本は間違いが多いから直して使わないとダメである。彼はそれを受けて賀茂真淵が直したものを、又さらに本居宣長が書き直す。何十倍の直しの底本を元に注釈を書いたのが『古事記伝』なのです。  簡単な例を上げますが、「高天原 タカアマハラ」という言葉が出てきます。原文は示したように「高天原●〈尓〉 高天原乎 タカアマハラヲ」とあり「乎 ヲ」と書いてある。ところが吉川弘文館の『続日本紀』巻一巻は、「乎 ヲ」を「尓 ニ」と書き直している。「高天原尓 タカアマハラニ」と、宣長の説により書き換えられている。なぜ、そのようなことをするのか。それが訳ありなのです。  本居宣長の「高天原 タカマガハラ」のイメージは、天空何万メートル上にある。「高 コウ」は高いところの意味、「天 テン」は空(そら)、「原 ハラ」は広い場所を意味する。つまり英語でskyに当たるのが「高天原 タカマガハラ」です。そこから神様が矛を突き下ろしたという。それこそ何万メートルの長さの柄(え)を持った矛を突き下ろした。それで海の中に浸けて掻き回したら、有名な「コオロ、コオロ」と掻き鳴らしたら固まって「州 シマ」が出来たという。しかしそれこそ、いくら矛を海に浸けて掻き回しても「コオロ、コオロ」と掻き鳴らすことは出来ない。わたしも福岡県教育委員会から本物の筑紫矛を借りてきて博多湾の海辺で実験した。どう回してみても、まったく「コオロ、コオロ」という音はしなかった。だからこれはまったくの嘘なのです。 『古代に真実を求めて』(第十四集)「『古事記』と『魏志倭人伝』の史料批判、一『古事記』の「天の沼矛」は、「天の沼弟 ぬおと」である。」参照  問題は宣長が自分の説を最後まで守れなかったことにある。なぜかと言いますと、「高 コウ」は、英語のhighという中国語の漢字です。「天 テン」も中国語です。日本語では「テン」とは言わない。「高 コウ」も「天 テン」も「原 ゲン」も意味は中国語です。それで広大なskyをと考えた。  しかし宣長が自分で言っているように和語というなら、日本語では、「タ」は太郎の「タ」のように「偉大さ」を意味する。「カ」は、神聖な水のあるところ。「おおいなる神聖な水」が、「高 タカ」。「天 アマ」は黒潮の分流である対馬海流上を活動領域にしていた海士族の「海士 アマ」。それを「天」という美しい字を当てただけだ。それで「原 ハラ」ではなくて「原 バル」と読む。九州では平原(ひらばる)、西都原(さいとばる)のように地名を「原 バル」と呼び、集落のことです。 「高天(海士)原 タカアマバル」は、日本語では「神聖な水の出る海士族の集落」のことです。  これに対して『東日流つがる外三郡誌』では、有名な中国浙江省の会稽山(かいけいざん)麓にある「高天原寧波ニンポー」という地名が出ている。海士族は、対馬海流上の両岸の水の出るところを「高天原 タカアマバル」と呼んでいる。海士族は水のあるところを確保しなければ生活できないので各地にあった。そのワンオブゼムが「寧波(ニンポー)」です。同じく『古事記』に出てくる「高天原」は、日本の壱岐島の北端部が天原(あまのはら)海水浴場ですが、ここを舞台にしたものです。神聖な水でなくとも、人間は塩水でなければ飲める。それを宣長は、壮大な空想で「高天原」を考えた。  それから『古事記』で「天浮橋」と書いてあるが、これも本居宣長が「天上から虹のような橋」が日本列島につながっていて、ニニギ命が降りてくる。わたしの小学校時代の教科書にそういう挿絵があった。本居宣長の考えをもとに挿絵にしていた。 しかしわたしが島根県の隠岐島の特産品売り場があって、一メートル半ぐらいの長い板、幅は三十センチぐらい、それが置いてあって、「天の浮き橋」と表示して書いてあった。これは船に飛び移るとき、船と陸地をむすぶ橋がいる。しかしこれは船に移るときだけの橋。移り終わったらすぐ外す。だからこれは海士族の使う浮いた橋。これは現在でも美保神社などで使われている。谷本茂さんが広島の生口島(いくちじま) 出身ですが、広島県でも現在同じ名前で使われているようです。  この点は「高天原たかあまばる」だけでない。「黄泉国」も、宣長は同じように壮大な超能力的な死者の国にしてしまった。これも『日本書紀』の原文のはじめは、「泉国」としか読めないのに「黄泉国」とむりやり読む。しかし実際は「泉国 センコク」というのは関西空港のある大阪府泉州。「黄国 キノクニ」というのは和歌山県。ですから「黄泉国」という字を当てただけです。書いてあるのは、和歌山から大阪府南部、そこを指している。イザナギとイザナミは「黄泉国」を出発して、九州博多湾岸の能古島(オノゴロシマ)にたどり着いた。いずれも実在の西日本の地名に基づいて語られている、ささかやかや地名譚に基づいた神話だった。それを宣長は知らなくて、壮大な空想で死者の国全部を指すという壮大な嘘の解釈をしてしまった。それは仕方のないことですが、それに基づいてつぎつぎ原文を改竄(かいざん)し、人間が死んだら行く何万メートルの地下の国を「黄泉国」という解釈で、宣長の『古事記伝』は書かれている。これではダメですね。 『古代に真実を求めて』第六集「<講演記録>神話実験と倭人伝の全貌四泉国(いずみのくに)と黄泉国(よもつくに)」(二〇〇二年七月二八日 大阪市 天満研修センター) 八 「仲哀・神功紀」の史料批判  その点は、初めに述べた『続日本紀』だけでなくて『日本書紀』もひどい。一例を言いますと、 岩波書店 日本古典文学大系 日本書紀 上 巻九 P三三〇〜三四四 『日本書紀』 巻九 神功皇后摂政前紀(仲哀天皇九年 二月) 氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと) 神功皇后 ・・・・ 春二月(きさらぎ)、足仲彦天皇、筑紫の橿日宮に崩(かむあが)りましむ。 ・・・・ 十二月の戊戌の朔辛亥に、譽田(ほむたの)天皇を筑紫に生(あ)れたまふ。故(かれ)、時人(ときのひと)、其(そ)の産處(みうみのところ)を號けて宇瀰(うみ)と曰(い)ふ。 ・・・・ 爰(ここ)に新羅を伐(う)ちたまふ明年春二月に、皇后領群卿(まつへきみたち)及百寮(つかさつかさ)を領(ひき)ゐて、穴門豐浦宮に移りたまふ。即ち天皇の喪を收(おさ)めて、海路より、して京(みやこ)に向(いでま)す。時に籠坂王・忍熊王、天皇崩りましぬ、亦(また)皇后西を征ちたまひ、并せて、皇子(みこ)新に生れませりと聞きて、密に謀りて曰はく、・・・。 ・・・・ 時に皇后(きさき)、忍熊王(おしくまのみこ)師(いくさ)を起して待てりと聞しめして、。武内宿禰に命(みことおほ)せて皇子(みこ)を懷(いだ)きて、横(よこしま)に南海(みなみのみち)より出(い)でて、紀伊水門(きのくにのみなと)泊らしむ。皇后の船(みふね)、直(ただ)に難波を指す。時に、皇后の船、海中(わたのなか)を廻(めぐ)りて、進むこと能わず。更に務古水門(むこのみなと)に還りまして卜(うら)ふ。是(ここ)に、天照大神、誨(おし)へまつりて曰(のたま)はく。「我(わ)が荒魂(あらみたま)をば、皇后(※居)近ずくべからず。當(まさ)に御心(みこころ)を廣田國に居(お)らむべし」とのたまふ。即ち山背根子が女葉山媛を以(も)て、祭(いわ)はしむ。  たとえば「皇居」とあるところを「皇后」に直している。北野本が一番古いのですがまぎらわしい字ですが「皇居」とある。つぎの熱田本・伊勢本も全部「皇居」です。それを岩波日本古典文学大系本では「皇居」を「皇后」に直して印刷してある。しかし「皇后」では意味不明です。なぜならば、ここも大変おもしろい場所です。筑紫で神功皇后が夫仲哀天皇を失った。彼女神功皇后というのは後付けの言葉ですが、実在の人間として彼女は、夫である仲哀天皇の何番目かの奥さんです。簡単に言えば若いお妾さんです。それで武内宿禰(たけのうちのすくね)が、軍司令官で一緒に付いてくる。武内宿禰は神功(じんぐう)を利用してと言っても良いですが、近江に攻め込んだ。その時の仲哀天皇の京(みやこ)は近江にあった。『日本書紀』景行紀最後に近江に京を移したとあります。その京に攻め上る反乱軍です。その反乱軍を美化するために天照大神を利用する。つまり天照大神が、このように言われた。「我(わ)が荒魂(あらみたま)をば、皇后(※居)近ずくべからず。當(まさ)に御心(みこころ)を廣田國に居(お)らむべし」、つまり自分は皇居に行くことが出来ないからお前が行けと。正式の皇后の、正式の息子二人(籠坂王・押熊王)、それに対して神功皇后軍は反乱軍。反乱軍だけど、何を隠そう天照大神がお出ましになり、行けと言われたから行ったのだ。つまり反乱の合理化というか美化の為に、そのために書かれている。ですから「皇后」でないと具合が悪い。「皇居」では意味がない。ところが岩波日本古典文学大系本では「皇后」を、すべて「皇居」に直して印刷してある。注には直したと書いてあるが、全部「皇居」と直して印刷してある。ですから神功皇后軍は反乱軍であるから美化・合理化しなければならないというイメージがない。万世一系の天皇家という明治のイデオロギーのイメージだから。だからこのような『日本書紀』編者の苦労・苦心を無視して、明治のイデオロギーに合わないのなら、合うように文を直している。このような改竄(かいざん)を至るところでおこなっている。  この問題に対して井上光貞さんは、岩波日本古典文学大系『日本書紀』(巻八 仲哀天皇 注一)のところで、最後に三ページにわたって長い補注(8ー一、 仲哀・神功紀の構成とその成立)を解説というかたちで付けている。要するに歴史の流れから判断して、不適当なところは原文を書き直したとある。 井上光貞・大野晋さんなどの史料批判とは、このような方法の史料批判を意味する。自分たちの観た歴史の流れから観て、合わないものを合うように直すことを史料批判と言っている。自分たちの観た歴史の流れから観て、合うものを取り、合わないものを捨てる。  これはわたしの立場とぜんぜん違う。わたしは原本を尊重して考える。原本を絶対とは言わないが、間違っている場合は証拠をはっきり上げる。直した場合は、その影響も明確に測定する。できる場合は良いが、できない場合は直しは絶対にしない。これは当たり前のことですが。  関連する話を始めると、おもしろすぎてキリがない。一つだけ付け加えておきます。 博多で朝日新聞主催、全日空協賛の邪馬台国シンポジウムが行われた。(第一回は一九七七年一月十五・十六日。第二回は、一九七八年の同じく一月十五・十六日)。そのシンポジウムの講師として、真っ先にわたしに依頼がありました。わたしは快諾しましたが、その後何も連絡がなくて、シンポジウムはわたし抜きで盛大に行われた。変だと思いましたが、同じことを考えたのはわたしだけではないようです。会場で質問の時間に、どうして古田さんが来られなかったのかと、質問された人がいた。そのときの司会者は松本清張さんでしたが、分かりました、残念ながら今日は古田さんは来られていない。次回は必ず古田さんをお呼びします。そう言って代わりに、古田説の説明を井上光貞さんにお願いされました。その第一回の「邪馬台国シンポジウム」は、やがて平凡社から刊行されました。一九八〇年三月二十五日(初版第一刷)です。そこでは、右のような経緯、聴講者からの質問などは「カット」され、代って井上光貞氏の「古田批判」が掲載されています。  「井上 ぼくは結論的には、古田さんの思い過ごしであるという結論です。その理由は、古田さんの論拠の根底に原文主義がある、原文通りによめというんです。ところが問題は、原文とは何ぞやということであります。原文というのは、『魏志』は三世紀に書かれたものですが、そのときの原文、これはないのであります。だから原文原文といっているのは非常に古い版本ということである。しかし古い版本は原文ではないのであります。校訂ということを学者はやるわけであります。おそらく古文をなさる方もいらっしゃるだろうと思いますが、それはいろんな写本やなんかから、元のそれこそ現物はどうであったかということを考えるために、いろんな本を校合して、元を当てていくわけです。これが原文に忠実なのでありまして、たまたまあった版本だの、後の写本に忠実であるということは、原文に忠実ということとは違うんだということですね。これは非常に基本的なことなのであります。ところが古田さんはそこのところが何かちょっと違っているんじゃないか。これは学問の態度の問題であります。これだけいえばもう私はほとんど何にもいう必要はないのであります。」(一七五〜一七六頁) 「敵祭 -- 松本清張さんへの書簡 第五回」古田武彦(『なかった -- 真実の歴史学』第五集 ミネルヴァ書房 2008年6月30日初版発行より)  ところが説明と言っても、このような古田攻撃です。古田さんは原文、原文と言っているが、原文というものはない。原文というものを正しく史料批判を使わなければならない。古田さんは原文と思って四角四面に直視すると言っている。それではダメですと。このような話をシンポジウムに出た人からお聞きしました。 これも印象的な話の一つです。  関連する話は、一番先に書いてくれと言われた研究自伝『真実に悔いなし』(親鸞から俾弥呼へ 日本史の謎を解読して ミネルヴァ書房)の「第五章 邪馬壹国と九州王朝説の展開 2 学界の無視との闘い 招かれなかったシンポジウム」で、くわしく述べています。 どうもありがとうございました。 質問  聖書の場合、原文では若い女性が子供を産んだのに、宗教上の翻訳ではあたかも処女が子供を産んだように改竄(かいざん)されている。原文改訂されている。聖書は神秘的に扱われている。このように宗教上の聖典であれば、そういう改竄は当たり前であると思う。 先ほど先生が言われたことは、『古事記』・『日本書紀』を国家神道の聖典としての解釈を行い、あたかも学問の顔をしていること自体が問題だと思います。先ほどの井上光偵さんも自分の立場を隠して、あたかも客観的な立場であるかの態度を取っているのが問題ではないでしょうか。この件についてうかがいたい。 (回答)  今言われたことに対するテーマの回答になるかどうか、必ずしも分からないですがお返事いたします。『日本書紀』に、ところどころに膨大な年数が書いてあります。それに対し家永三郎さんが史料批判として書かれたものがあります。これは仏教の経典を参考にして年数を取ってきたのではないかと。家永三郎さんは、そんなにくまなく仏教の経典を調べたものではありませんが。もしこの説を検証しようとしますと、幸いなことに大蔵経の教典がたくさんあり、あの中での数値はみなマチマチです。それを調べられて、その中でこの教典のこの数値の扱い方を真似したものだと論証する方法があります。家永さん以後、丹念に追求したものはありませんから、追求していただければ有り難い。精密に実証的に追求していただければありがたい。特に仏教の経典は、家永さん以後実証的な追跡が欠けています。この場合宮内庁の原本と比較して研究してみなければ、正確には言えない。本来は大学の研究者が、原本と比較して行わなければならない研究ですが、時間があるのにやっていないのがおかしい。本居宣長の改竄した文献を元に論じているように見えます。 質問2  本日お聞きしました女系天皇についてうかがいます。現在女系天皇と女性天皇について、定義を使い分けをして議論がなされているように考えています。女系天皇と女性天皇の定義の問題について古田先生はどのように考えておられますか。 (回答)  女性天皇というのは、わかり切っています。天皇が女性である。それに対して「女系天皇」という言い方は、むしろ明治以後の創作の言葉である。『古事記』・『日本書紀』には、「女系天皇」という言葉は出てこない。『続日本紀』にも「女系天皇」という言葉は出てこない。それを明治以後「男系男子」という言い方をして、それに対して男子の天皇であっても、「女系天皇」の男子ではダメなんだという議論が出てきているようだ。あくまで明治以後の新造語です。それも使う人により、概念がいろいろ違っている。それも吟味されたほうがよい。  女系天皇肯定論についても、東大の教授などで肯定されている方がいる。その場合も、わたしと定義が違っていて神武天皇は仮空だ。いわんや天照大神も仮空だ。そんな見地で、女系天皇を肯定されている方もいる。  定義を再吟味されて考えられたらよいと思います。 質問3  わたしは今日、古田先生に質問と言うよりも、以前から考えていることを皆さんにお話ししたい。  福島の原発事故が起り原子力ムラの姿を見て、まったく同じことが起こっているのが古代史ムラの姿であり、日本という国の姿を写しています。  わたしは福島の原発事故が起こってから朝日新聞を止めました。福島の原発事故の報道や古田先生の扱いについても、朝日新聞に質問しました。わたしは皆さんがもっと朝日新聞に対して電話するなり圧力をかけるべきではないか。そう思います。  わたしは福島の原発事故が起こってから、東京地検に電話を何回もしました。なぜ、東京電力を詐欺罪で告訴しないのか。放射能をばらまいているのに、なぜ告訴しないのかと。相手はあざ笑っていると思います。わたしはそれでも良いと考えています。言うことが大事だ。  同じく古田史学会でも、やはり一人一人の人が、放送局や新聞社、出版社、大学の教授などに、うったえることが大事だと思う。相手はあざ笑っていると思います。わたしはそれでも良いと考えています。喧嘩をする必要はないが、相手に言うべきことを言って、わたしたちのような立場の人が居ることを知らしめることが大事だと考えます。こんなことを言って、自分がどこまで出来るかということはまったく自信はありませんが。  わたしが皆さんに言いたいことは、千数百年も古田先生が現れるまでは日本の歴史は変わらなかった。古田先生が亡くなれば、また同じことが続くのではないか。わたしたちの子や孫の代になっても知らずに済ます。ですから闘わなければ日本の歴史は変わらない。皆さんにこれからも闘ってほしい。ぼくもこれからもやります。聞いていただいて、ありがとうございました。 (回答)  ありがとうございました。おっしゃるとおりです。ここに来るとき古賀さんと一緒に来、原発の問題について議論しました。原発については、武田邦彦さんが明確に述べられている。わたしも買って読みたいと思います。  ですが今のわたしは、この問題について大変楽観的である。今のようなやり方で、長続きするはずがない。古代史についても九州王朝抜きでやれるはずがない。また原発についても今のようなやり方で、やれ通せるはずがない。おかしいと思う人間が、どんどん増えていくに決まっている。ある一時点では、向こうが優勢、こちらが劣勢。そのように見えるが一時期のことである。先ほど言われたように、どうどうと、こちらの意志を表明していく。大人にも表明し、子供にもはっきりと伝えていく。子供には、やはり直感力があり、この人が言っていることが本当だ。そういう子供の直感が神秘的な力としてありますから、そこが本当の勝負だと考えています。  本日はどうもありがとうございました。