古田武彦・古代史コレクション9 『古代は沈黙せず』 ミネルヴァ書房 2012年1月刊行 中刷


第二篇「法華義疏」の史料批判抄録

その史料科学的研究

(抄録には第一章の「日本書紀、不記載」問題、「法隆寺、焼失」問題については、掲載しておりません。PDF版は全文収録)

 日本の古代史世界において、最古の自筆原本がある。「法華義疏」と呼ばれる。 「聖徳太子の真筆草稿本であり、法隆寺に伝来せられたもの」ーーこれが「定説」的見地であった。(明治維新後、皇室に献上。)
 この見地に対して疑問をいだき、史料批判と共に、自然科学的研究方法でこれに対面した。顕微鏡及び電子顕微鏡写真の撮影並びに観察である。その結果、予想もせぬ幾多の事実を検証するに至ったのである。(未発表)

第一章

    序

 真筆本、「法華義疏」は、わが国最古の文献である。紙に書かれた最古の文書であり、墨で記せられた最古の史料である。
 それは永年、法隆寺に秘蔵せられてあったものが、明治十一(一八七八)年、皇室に献上せられ、爾来、御物として今日に至っている。
 その上、本資料は、聖徳太子の真撰、かつ真筆本としての評価を学界及び一般に有してきた。他の二著、勝鬘経義疏、維摩経義疏の自筆本がすでに失われて年久しい現在、唯一無二との令名をほしいままにしている。
 この貴重なる古史料に対し、一片の疑問をもち、史料批判と共に、史料科学的検証を加え、一定の解答に到達しえた。
 よってここに報告させていただくこととする


   第一章

   一

 わたしの疑問としたところ、それを先ず記させていただこう。本史料に対する研究史において、いわゆる真偽論争の存したこと周知のごとくである(後述)。今は、新たな視点よりする、わたしの問題点を左に挙げることとする。

 第一。「南朝偏依」問題。

 真筆本「法華義疏」(以下、当本と呼ぶ)において、「本義」「本疏」「本釈」「本」という表記が頻用され、それらがすべて、梁の法雲法師の「法華義記」を指していることは、花山信勝氏等の詳密な研究によって、すでに江湖に著名となっている。その例を記してみよう(頁数は岩波文庫本による)。

A「本義」
 1. 此のなかの文を釈すること、「本義」は分ち重ねて解釈す。〈三六ページ〉
 2. 「本義」に云わく、「樹王」とは、波利質多羅樹なり。〈三七ページ〉
 3. 「本義」に云わく、「舎利仏よ、 如来は能く種種に分別して」より以下は、言を止めて歎ずるとなす。〈七六ページ〉
 4. 「本義」に云わく、「諸法」とは、権智の照らすところをいい、三々の境のなかの三教をいう。〈七七ページ〉
 5. 「本義」に云わく、「新発」は只だ三のなかの凡夫菩薩を謂(い)い、「不退」も亦た只だ初地以上、六地以還(いげん)を言うなり、と。〈八二ページ〉(下略──末尾「補」)

B「本疏」「本釈」「本」
 1. 然るに、此の義は「本疏」に甚だ広し。今は、但だ略して記せるなり。〈一九八ページ〉
 2. 然れども、此は是れ私の意なり。「本釈」は、少しく異なる。〈一七九〜八〇ページ〉
 3. 「本」に云わく、自ら知らざるに合わせしを頌す、と。〈三一ページ〉

 右の諸表現が、すべて例外なく、法雲の「法華義記」を指していること、現存の当該本(法華義記)と対照すれば、明白である。この点、花山氏の指摘通りである。 (1)
これに対し、法雲以外の諸注釈に対しては、もっぱら「余疏」「他疏」といった表記法が用いられている。

C「余疏」「他疏」
 1. 王舎城の事は、「余疏」に広く釈す。而れども、今は記さず。〈一五ページ〉
 2. 諸の比丘の名を得たる所以は、「多疏」に広く釈す。而れども、此には記さず。〈一七ページ〉

  右の「余疏」「他疏」が、具体的にどの注釈を指しているかは、不明であるけれども、“「本疏」(法雲の「法華義記」)以外の、 もろもろの、 他者の注釈” を指した表現であることは、文意上、疑いがたい。
“これらのことは、すでに、われら仏教学習者にとっての常識であるから、ここに敢えて記すことをしない”
という意味の文脈中に出現しているからである。

 以上のような用語使用法を一言に要約するもの、それは冒頭から出現する「一家」の表記である。
D「一家」
 1. 此の通と別との二序を釈するに、亦た種々あり。而るに、今は但に一家の所習に拠り、煩わしく多記せず。〈一三ページ〉
 2. 「是の如きを」とは、釈するに多種あり。而れども今は但だ、一家の所習に拠る。〈一四ページ〉

 右の「一家」の表現は、当本の著者の拠って立った、その立脚点を端的に物語っている。──「南朝、梁の法雲一家」の立場である。

   二

 これに対し、聖徳太子の場合を考察してみよう。

(推古三年)五月戊午朔丁卯、 高麗僧の慧慈帰化す。則ち皇太子、 之を師とす。〈「日本書紀」、推古紀〉

 右につづいて、百済僧慈聰が来り、共に「三宝之棟梁」と称されたこと、両僧が法興寺に住したことが記されている。けれども、聖徳太子にとって、仏法習得上、第一の師が高麗僧慧慈であったことは、疑いがない。
 この点は、有名な、慧慈の「同月同日逝去」説話によっても、裏づけされよう。

(推古二十九年二月)是の月、上宮太子を磯長陵に葬る。是の時に当り、高麗僧の慧慈、上宮太子の薨ずるを聞き、以て大いに之を悲しむ。皇太子の為に、僧に請いて齋を設く。仍りて親ら経を説くの日、誓願して曰く、「日本国に於て聖人有り。上宮豊聰耳皇子と曰う。……我、来年の二月五日を以て必ず死せむ。因りて以て上宮太子に浄土に遇い、以て共に衆生に化せむ。」と。
 是を以て、時人の、彼・此、共に言うに、「其れ、独り、上宮太子の聖なるのみに非ず。慧慈も亦聖なり。」と。〈「日本書紀」、推古紀〉

 右は、「聖徳太子伝説」の一種であるから、そのまま“史実”としがたいこと、当然であるけれども、反面、「慧慈と聖徳太子」の師弟関係の濃密さを語るものであり、両者は「師弟一体」のごとく見なされていたこと、その事実は、これをよく証言するものと言えよう。

 ところが、慧慈の故国、高麗の仏教とは、いかなる性格の仏教だったのであろうか。

「三国史記」の高句麗本記に現われた、仏教関係記事を左にあげてみよう。
 1. (小獣林王二年、三七二)夏六月、秦王符堅、使を遣わす。及び浮屠順道、仏像・経文を送る。王、使を遣わし、廻謝し、以て万物を貢す。
 2. (同四年、三七四)僧、阿道来る。
 3. (同五年、三七五)二月、始めて肖門寺を創め、以て順道を置く。又、伊弗蘭寺を創め、以て阿道を置く。此れ、海東仏法の始めなり。
 4. (公開土王二年、三九二)九寺を平穰(壌)に創む。〈「三国史記」、高句麗本紀、第六〉

  右について、「三国遺事」では次のようにのべられている。

興法第三。
 順道肇麗(道公之次、亦法深・義淵・雲厳の流有り。相継ぎて教を興す。然れども、古伝、文無し。今亦敢えて編次せず。詳しくは、僧伝を見よ。)

高麗本紀に云う。
 小獣林王即位二年(三七二)壬申、乃ち東晋の威安二年、孝武帝即位の年なり。前秦の符堅(建元八年)、使及び僧順道を遣わし、仏像・経文を送る。(時に、堅の都は関中。即ち長安なり。)
又四年(三七四、寧康二年か)甲戌、阿道、晋より来る。
明年(三七五)乙亥二月、肖門寺を創め、以て順道を置く。又伊弗蘭寺を創む。以て阿道を置く。此れ、高麗仏法の始めなり。
 僧伝作るに、二道来るに、「魏より」と云うは、誤まれり。実は前秦よりして来る。(下略傍点、古田)〈「三国遺事」、巻三〉

  右によって、高麗への仏教伝来の淵源の地が、北朝に属する「前秦」の都、関中、すなわち長安にあったこと、それがよくうかがわれよう。

  また、有名な、我道説話において、次のようにのべられている。

 阿道基羅(一に我道を作る。又阿頭。)
「我道本碑」を按ずるに、云う。「我道は高麗人なり。母は高道寧。正始の間(二四〇〜四九)、曹魏の人、我(姓、我なり)崛摩、使を句麗に奉ず。私して還る。因りて娠有り。師生じて五歳、其の母、出家せしむ。年十六。魏に帰し、崛摩を省観す。玄彰和尚の講下に投じ、業に就く。年十九、又母に帰寧す。母謂いて曰く、「此の国、今に仏法を知らず。」と。〈「三国遺事」、巻三〉

  右は、いわば「仏教私伝」の伝承であるけれども、ここでも、三世紀の魏の都、洛陽が淵源とされている。ここは、後漢の明帝の時、白馬寺が建てられ、中国における仏法伝来の始源の地と称されるところである。

  以上、いずれによってみても、高麗における仏教が、華中の領域、北朝側と深い関係をもつ、この事実を疑うことは不可能なのである。

  高麗への「仏教公伝」の淵源の地、長安はまた、法華経研鑽の中心地でもあった。その事例をあげよう。
(一)鳩摩羅什(くまらじゅう 三四四〜四一三)
亀慈国の出身で、四〇一年姚秦の興によって、国師の礼をもって長安に迎えられた。四〇六年、「妙法蓮華経」七巻二十七品を長安の大寺で訳出した。羅什の門に集うもの三千余僧、訳場には沙門二千余人がいた、という。
(二)僧叡(三五五〜四二〇)
羅什門下。関中の四傑の一。「法華経後序第九(『出三蔵記集』巻第八、収録)が現存している。 随の吉蔵は、この所説を引いて「衆師に冠絶す」と称讚した。
(三)竺道生(三五五〜四三四)
同じく、関中の四傑の一。「妙法蓮花経疏二巻」を撰し、中国における現存最古の法華経註釈書である(はじめ、廬山の慧遠のもとにあり、のちに長安の羅什に参じた)。
(四)慧観(三六八〜四三八)
羅什の門下。四英の一。「法華宗要序第八」(『出三蔵記集』巻第八、収録)が現存する。随の吉蔵はこれを引用し、「文旨充に契えり。什の歎ぜし所の如きなり」と称讚した。
(五)道融(三七二〜四四五)
羅什の門下。四傑の一。法華等の『義疏』を著わす。現存せず。
(六)曇影(三七二〜四四五)
羅什の門下。四英の一。『法華義記』四巻を著わす。現存せず。
(七)僧肇(三八四〜四一四)
羅什の門下。四傑の一。『法華翻経後記』(『法華経伝記』巻第二、収録)を著わす。 (2)
(八)道朗
河西の人。曇無讖(三八五〜四三三)の涅槃経翻訳事業に参加す。『法華統略』を著わしたが、現存せず。
(以上、丸山孝雄氏の『法華教学研究序説──吉蔵における受容と展開』に拠る。第一章第三節「中国の法華教学」第二項) (3)

  四〜五世紀において、長安を中心に、法華教学の盛行した状況が知られよう。五〜六世紀はすなわち、その孫流の時代であったのである。

 以上の考察を左にまとめてみよう。

 第一。当本の立場は、「梁の法雲一家」の立場に属するものであり、いわば「南朝偏依」の主張に立っている。
 第二。聖徳太子が仏教学習の師とし、「師弟一味」を称せられた慧慈は、高句麗の僧である。
 第三。高句麗の仏教は、その伝来の歴史上、「北朝主、南朝従」ともいうべき伝統に立つ。少なくとも北朝系(長安・洛陽等)の、仏教の濃厚な影響をうけていることは、否みがたい。
 第四。また、長安を中心として、法華教学が、北朝の地に盛行したことは、中国仏教史のしめすごとくである。

 以上のような認識に立つとき、“北朝系の法華教学やその諸注釈”に対して、冷然とこれを採らず、ひたすら「南朝偏依」「法雲一辺倒」の立場をとる当本の著者を、高句麗の僧侶に傾倒していた聖徳太子に当てること、それはいかにも不自然の観を拭いえないのではあるまいか。率直にいって「矛盾である」といわざるをえない。


   三

 第二の矛盾は、時間上の問題である。

 当本が、「法雲一辺倒」の立場に立ち、法雲の「法華義記」を「本義」「本疏」「本釈」「本」といった表現で引用していることは、すでにのべた。それは総計、約五〇回にも及んでいる。 (4)

 また、法雲の実名をもって、その所説を引くケースも、四回にわたって出現している。

(一)法雲法師
今、法雲法師の云わく、父は是れ能誨なれば、如来に譬うと為す。〈一九三ページ〉
(これに類同する文面は、「法華義記」に出現している。)。

(二)光宅法師(法雲を指す。法雲は光宅寺の所住)
 1. 此の伏難は、是れ光宅法師は謝次の次法師より伝え、次法師はまた江北の招法師より伝う。すでに是れ名匠の伝うるところなれば、後生の学士は宜しく実に尊(遵)奉すべし。〈四〇ページ〉
(「法華義記」中よりの引用。注釈部分か) (5)
 2. 光宅法師は、解して言わく、「知見」とは、只だ是れ一りの衆生の当来の仏の果なり。〈一〇三ページ〉
(「法華義記」より)
 3. 光宅法師は、また善捨寺に於て解して言わく、因の義を明かすなかに、略して三を開いて一を顕わし、漸く寿命の長遠なることを表すを、「開」となす。〈一〇三ページ〉
(「法華義記」より)

 いずれも、法雲の「法華義記」中からの引用、もしくは取意である。 (6)
 右の史料状況自体の示しているように、「法華義記」は「光宅寺沙門、雲法師撰」と標されているもの (7)の、通常の意味での「著書」ではなく、彼の「講義の集大成 (8)」であったこと、すでに周知のごとくである。すなわち、法雲の存在年代たる「四六七〜五二九」の年時内の成立とは限らず、その没後、すなわち六世紀中葉前後の時間帯における成立(面受の門弟等による“結集(けつじゅう)”)である可能性が高いのである。

 当本中、他に人名(注釈学僧)の出現するケースは、左の一例のみである。
一には、印法師の云わく、我が化道(けどう)の及ぶところの人なり、ゆえに「我と及び諸子」と言う、と「適しく我」と言うには非ざるなり、と。〈一九三ページ〉
(「法華義記」よりの引用)

 右の引文は、現存の「法華義記」では、次のようになっている。

伝印法師云。我化道所及之人故言我及諸子。〈「法華義記」大正蔵経、 第三十三巻経疏部一、 六一七ページ、中段〉

  ここで「印法師」といわれているのは、のちに隋の吉蔵が、

 第五に、光宅法師は印公の経を受け学び、而も師公の釈を用いず。〈大正三四、三八〇ページ〉 とのべた、僧印のことであろう。すなわち、法雲の師である。

  なお先に挙げたの 1. のケースも、これと同じく、「法華義記」中からの引用である。

然此伏難是光宅法師伝謝寺次法師次法師又伝江北招法師解既名匠所伝後生学士実宜遵奉也。〈大正新修、大蔵経、第三十三巻経疏部一、五八六ページ、下段〉

  以上によって、当本では、人名(注釈学僧)はすべて、法雲の「法華義記」中に現われるものに限られる、という事実が確認される。すなわち六世紀中葉を“明確に下る”人名を見出すことができないのである。


   四

 右の認識をさらに裏づけるもの、それは「天台大師、欠落」問題である。

 隋の天台智者大師智[豈頁](ちぎ 五三八〜九七)は、六世紀後葉に活躍した学僧として著名である。七歳にして法華経の「普門品」を暗誦した、といわれるごとく、その生涯において、法華経の研鑽は、彼にとっての中心課題の一をなしていた。
その成果として、次の諸篇が名高い。

 A妙法蓮華経玄義(げんぎ)二十巻(天台智者大師説)
 B妙法蓮華経文句(もんぐ)二十巻(天台智者大師説)
 C摩訶止観二十巻(隋天台智者大師説、門人灌頂記)

 右は「天台三大部」(または「法華三大部(さんだいぶ)」)と称されている。Aは「法華玄義」または単に「玄義」と呼ばれ、Bは「法華文句」または単に「文句」と呼ばれている。また、

 D法華三味懺儀一巻(釈智[豈頁](ちぎ)撰)

がある。このDは、智[豈頁]の親撰であるが、他は弟子の章安灌頂(かんちょう 五六一〜六三二)の筆録・修治によるもの、とされる。 (9)
 したがって、右のA〜Dは、六世紀後葉から七世紀初頭の間に成立したもの、といえよう。しかるに、当本中には、これらは一切その姿を見せていない。率直にいって、当本は「天台大師、以前」の法華経研究である──そのように判定せざるをえない。
 すなわち、この「天台大師、欠落」問題からも、前節にのべたごとく、当本は「六世紀中葉、以前の成立」である、という結論が裏書きされているのである。

注)天台大師智[豈頁](ちぎ)の[豈頁](ぎ)は、豈編に頁です。

 これに対し、聖徳太子は「敏達天皇三年(五七四)〜推古天皇三十年(六二二)」の間の生存として、通例理解されている(「十二年の誤差(10)」問題によれば、「五八六〜六三四」となろう)。
 いずれにせよ、その活躍期は七世紀前葉にあり、同時代(隋もしくは初唐 (11) )の仏教経典等を求めて、小野妹子を中国に派遣したことは、周知のごとくである。その前年に、法華経購読が行われていることから見て、この「中国遣使」の“主”たる聖徳太子が「法華経に深い関心を持つ人物」であったこと、これを疑うことができない。左にその関連記事をかかげよう。

天台大師(各項に、その年齢を記す。)
 1. 陳、禎明元年(五八七)五十歳。「法華文句」講説。
  ──陳滅亡、隋統一(五八九)
 2. 隋、開皇十三年(五九三)、五十六歳。「法華玄義」講説。
 3. 隋、開皇十四年(五九四)、五十七歳。「摩訶止観」講説。
  ──隋、開皇十七年(五九七)、智[豈頁](天台大師)卒す。六十歳。
 4. 修治本の成立
 「法華玄義」修治本、成立〔五九七〜六〇二〕
 「摩訶止観」修治本、成立〔六〇七〜三二〕
 「法華文句」修治本、成立〔六一四〕

聖徳太子
 1. 推古十四年(六〇六。「十二年誤差」によれば、六一八)、三十三歳。
 是歳、皇太子、亦法華経を岡本宮に講ず。
 天皇大いに喜び、播磨国の水田百町を皇太子に施(せ)す。因りて以て斑鳩寺に納む。
 (この項の直前に、次の記事がある。「秋七月、天皇、皇太子に請い、勝鬘経を講ぜしむ。三日 にして説き竟(おわ)る。」)
 2. 推古十五年(六〇七。「十二年誤差」によれば、六一九)三十四歳。
 秋七月戌申朔庚戌、大礼小野妹子を大唐に遣わす。鞍作福利を以て通事と為す。
 3. 推古十六年(六〇八。「十二年誤差」によれば、六二〇)
 夏四月、小野臣妹子、大唐より至る。唐国、妹子臣を号して蘇因高と曰(い)う。即ち大唐の使人裴 世清・下客十二人、妹子臣に従って筑紫に至る。
  ──「日本書紀」、推古紀。隋滅亡、唐建国(六一八)。

  「十二年後差」の場合、
 唐、武徳元年(六一八)=推古十六年
 唐、武徳二年(六一九)=推古十七年
 唐、武徳三年(六二〇)=推古十八年

 となっている。
 右によれば、聖徳太子の中国遣使が「天台大師」の赫々たる法華研鑽の生涯を終えたあと、その修治本の成立したとき、行われていることが判明しよう(この点、従来説の場合も、「十二年誤差」の立場の場合も、本質的に変わるところはない)。先にのべたように、天台大師の親撰による「法華三昧懺儀一巻」はすでに六世紀末(五九七)以前に成立している。その上、右にしめしたように、「法華玄義」修治本も、開皇十七年(五九七)から仁寿二年(六〇二)」の間に成立していたのである。
 従って、いわゆる「遣隋使」が、天台大師の法華経講読の「修治本」編成の“熱情”の期間に当っていたことは疑いがない。まして「十二年誤差」問題の立場に立てば「摩訶止観」や「法華文句」の修治本もまた完成した。その直後の時期、すなわち「天台大師の業績の全貌」が江湖の目の前に明らかにされた、その時期に当たっていたのである。
 そして聖徳太子の「中国遣使」は、法華経講読の翌年に行われた。しかも、その講読に対して、推古天皇は大いに賞美し、播磨国の「水田、施入」という挙に出た、という。天下に“近畿天皇家の法華経護持”をPRすべき政治行為、そのように見なしても、大過ないであろう。
 しかも、翌年の「中国遣使」の一目的が大陸における仏教の最新文物の摂取にあったとすれば、それは一面において「法華遣使」の性格さえ帯びていた、そのように解しても、大きくあやまるところはないのであるまいか。「法華経護持を天下に公布した直後の、中国遣使」──この事実からして、そのように考えざるをえない。
 とすれば、その聖徳太子の「著作」とされる当本に、「天台大師の赫々たる法華研鑽」に対し、これを引用し、これに配意し、これに言及した形跡が全く見られないことは、太子親撰説に立つ場合、解きがたい不審、そのように言わざるをえないのである。
 これに対し、次のような弁明を行う論者があるかもしれぬ。いわく、「聖徳太子は、推古十四年の法華経講読のさい、すでに当本を完成していた。それゆえ、推古十五年以降の中国遣使の成果(天台大師等の法華経注疏)は“反映”されていないのであろう」と。
 けれども、当本の史料事実を観察すれば、右の推測の成り立ちがたいことが判明する。なぜなら、すでに花山信勝氏も力説されたごとく、当本には“修正”や“加削”の跡がいちじるしい。 (12) 決して“完稿清書本”の趣ではないのである。 このような史料状況から見れば、 当本の著者は、 当本の成立後、新たな法華経注疏が大陸からもたらされたとすれば、迷わずこれを “加削”し、“評論”を新たにしたことと思われる。
 第一、聖徳太子の場合、せっかく新興の仏教国家の情熱をもって「中国遣使」を断行したのだから、「その成果を “反映”せずして、何の遣使か」、そのように発問せざるをえないのではあるまいか。

 以上の考察の結果、この「天台大師、欠落」問題からも、当本の著者を聖徳太子に比定するには、重大な疑惑の存在することが知られたのである。(13)


   五

 右の疑惑は、「嘉祥大師、欠落」問題によって、さらに決定的に増幅し、裏づけされるのである。
 嘉祥(かしょう)大師吉蔵(きちぞう 五四九〜六二三)は隋朝を代表する一大注釈家であったが、法華経研鑽は、その中心課題の一をなしていた。

A法華玄論十巻(胡吉蔵撰)
B法華義疏十二巻(胡吉蔵撰)
C法華遊意二巻又は一巻(胡吉蔵造)
D法華統略六巻(胡吉蔵法師撰)
E法華論疏三巻(胡吉蔵撰)
 ──天神造、菩提留支訳、「妙法蓮華経憂波提舎」(法華論)の注釈書。
F「一乗義」(「大乗玄論」巻第三)
 ──法華経開会(かいえ)思想についての吉蔵の見解を要約。

 右のように、吉蔵の法華経研鑽には絢爛たる一大樹開花の趣がある。まことに、

「三論を講ずること一百余遍、法華三百余遍」〈続高僧伝〉

と称されるごとくである。彼自身も、

「余、少(わか)くして四論を弘め、末には専ら一乗を習い、私と衆との二講、将に三百遍ならんとす」〈吉蔵「法華統略」冒頭〉

  とのべている。彼の法華経に対する傾倒ぶりをうかがえよう。
 吉蔵は金陵(南京)に生れ、隋の統一後、東の泰望に行き、嘉祥寺にあって法灯を継いでいた。
 開皇十七年(五九七、吉蔵四十九歳)頃、吉蔵は晋王広(後の煬帝)に召されて揚州の慧日(えにち)道場に入った。
 開皇十九年(五九九、吉蔵五十一歳。一説にその前年)、晋王広の招きにより、京師長安の日厳寺に入った。

 「京師は欣び尚びて妙に法華を重んず。其の利に因って即(つ)いて開き剖(ひら)く。」〈続高僧伝〉

 といわれているごとく、隋の都、長安は “法華経の都” であり、その中枢に吉蔵は立った。そしてその保護者こそ、隋の第二代の天子、煬帝(ようだい)だったのである。その治下、大業初歳(六〇五)、二千部の法華経を書写したという。

 通説のごとく、小野妹子が長安に至った「推古十五年」が「隋の煬帝の大業三年(六〇七)」に当たっていたとすれば、それは「法華経の輝ける講説者、嘉祥大師、吉蔵」の名声におおわれた都だったのである。
 この点、「十二年の誤差」の立場に立ったときも、事態は全く不変である。問題の 「推古十五年」は「唐の高祖の武徳二年(六一九)」に当たっていることになるが、吉蔵は、隋の滅亡(六一八)後も、唐帝(高祖)に尊崇せられた。「十大徳」の一人に選ばれたのである。そして武徳六年(六二三)五月、七十五歳の生涯を閉じた。その年時別著述をあげれば、左のようである。

 1. 陳滅亡、隋、開皇九年(五八九)、吉蔵四十一歳。──「法華玄論」(続いて「法華義疏」か)撰述。
 2. 隋、開皇十七年(五九七)、吉蔵四十九歳。──智[豈頁](天台大師)に、「請講法華経疏」を奉る(八月二十一日付、嘉祥寺吉蔵)。
 3. 隋、開皇十九年(五九九、もしくは前年)、吉蔵五十一歳。──長安、日厳寺に入り、以後「法華遊意」「法華論疏」撰述。
 4. 隋、大業元年(六〇五)、吉蔵五十七歳。──法華経二千部を写す。
 5. 隋、大業五年(六〇九)、吉蔵六十一歳。──僧粲と討論す。(「法華統略」撰述説)

 以上によってみれば、 先の「天台大師、欠落」問題以上に、 この「嘉祥大師、欠落」問題は、「当本、聖徳太子撰述説」に対して、致命傷を与えるべき衝撃力をもつこと、この一言が知られよう。

 なぜなら、この嘉祥大師、吉蔵は、隋の煬帝にとって「国師」というべき存在であり、その傾倒ぶりは尋常ではなかった。従って有名な、隋書[イ妥](たい)国伝の一節、

大業三年(六〇七)、その王多利思北孤、 使を遣わして朝貢す。使者いわく、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ」と。(この直後、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや……」の国書につづく)

 の傍点部(海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す)は、前々年(大業元年)、煬帝が嘉祥大師、吉蔵をバック・アップして “行わしめた” 「法華経、二千部書写」の大事業を知聞した上での発言、そのように解すまいとしても、それは不可能なのである。
 なぜなら、それ以前は、前代(第一代)の文帝(ぶんてい)の治世であるから、その時期の仏教保護政策を指したのでは、現在の天子(第二代)たる煬帝に対して「菩薩天子」の敬称を呈すべきいわれは存しないからである。従ってこの敬称は、「法華経、二千部書写の大事業を、嘉祥大師に行わしめた、大発願の天子」という意義を、その中核に蔵していた、と見なして大きくは誤らないのである。

 このように省察を加えきたるとき、

〈その一〉この多利思北孤を聖徳太子(少なくとも近畿天皇家の王者)と見なし、
〈その二〉当本を聖徳太子の著述と見なす。

 この「従来の通説」がいかに重大な背理、致命的な自縄自縛の状況にあるかが察せられよう。なぜなら、当本の中に、「嘉祥大師」「吉蔵」の名は一切出現せず、その独特の法華講説の諸経疏名も、一切その書名を見せていないからである。

  これに対して、論者あって、次のように弁ずるかもしれぬ。「吉蔵の経疏中の一説に当たるものが、引用されているではないか」と。これを検しよう。
 確かに、当本の中に次のような一段がある(引用は岩波文庫本(上)のまま。二三〜四ページ)。

第二に入定(にゅうじょう)を須(もち)いることは、(吉蔵「法華義疏」入定十義中の第三、 第四、 第七。 大正巻三十四P.468 下参照)将(まさ)に一因一果の理を明かさんと欲す。……

 右のように、当本の中には吉蔵の「法華義疏」中の所説と共通のものが現れている。この点、花山氏の指摘どおりである。けれども、それは決して、吉蔵自身の説、いいかえれば独自の挙説ではない。従来説としてあげられ、これを吉蔵が“非”もしくは“不十分”として斥け、その上で自家の立説に至る、そういう経過における「従来説」なのであった。
 そのような史料事実から見ると、吉蔵の「法華義疏」中に出現するからといって、これをこの書の成立年時たる六世紀末葉頃(先述の成立年時参照)の所説でなく、かえってそれ以前、すなわち六世紀中葉(法雲の門弟段階)において、すでに成立していた所説が、当本に出現しているもの、そのように見なすべきなのである。(14)

 以上の考察によって、当本には、隋朝仏教の一大中心華ともいうべく、隋の天子煬帝の巨大な庇護をうけたばかりでなく、早くして陳末より、晩(おそ)くして唐初に至るまで、常に各朝の朝廷の賞美をうけ、“日のあたる場所”を歩みつづけ、中国仏教界の太陽のごとき地歩を占めた吉蔵の法華教学の、明確な痕跡を全くとどめない。──この事実が確認されたのである。
 それ以上に明晰なこと、それは、法華研鑽に令名ある、天台大師智[豈頁](ちぎ)と、嘉祥大師吉蔵の名を全く“記載せぬ”──この事実の意義は、いかに注目しても、注目しすぎることはないのではあるまいか。

 なぜなら、この事実は、“通説によれば、「隋の煬帝」のとき(私の「十二年の誤差」説によれば、唐の高祖のとき)、中国遣使を行った”とされる聖徳太子、その人の著作として当本を見なすこと、それが全く不可能であることを明確に証言しているからである。(15)


   六

 第三は、すでに従来から注目せられてきた点である。「日本書紀、不記載」問題だ。
 推古紀には聖徳太子の勝鬘経・法華経講説について特筆されていること、すでにのべた通りである。しかるに、今問題の「当本著作」に関しては、一切論及されていない。他の二本、勝鬘経・維摩経著作に関しても、一切記載されていない。要するに、法華・勝鬘・維摩の三本とも、これを「聖徳太子撰述」とする立場は、「日本書紀」の編者(舎人親王等)には存在しないのである。
・・・

<略>

・・・
 この事実から見ても、大野仮説のように“三経義疏の述作は、私的な研究であるから削除した”というような想定は、到底成り立ちえないことが知られよう。もし、「日本書紀」の編者群に、「太子の三経義疏製作」の事実が知られていたとすれば、必ずや太子がいかに「知者・聖者」であったかをしめす“好材料”として使用したこと、この一事を疑うことがわたしには不可能なのである。
 以上、大野仮説に対する反論に紙数をついやしたのは、他でもない。「太子真撰説」論者にとって、いかに重視しても重視しすぎることのないもの、それはこの「日本書紀、不記載」問題であるからだ。しかるに各真撰論者が必ずしもこれに “論証の努力”を集中しなかったことは、右にあげたごとくである。その点、ひとり大野氏はこのテーマに対して、正面から「仮説」を立てようとされた。それゆえ、これに対して再検証を加えさせていただいた。氏に深く感謝したい。

 さて、この問題の最後に、わたし自身の見解を率直にのべさせていただきたい。
──「日本書紀、不記載」問題のしめすところ、 それは、「日本書紀」の成立時点(七二〇)において、「三経義疏」は聖徳太子の著作に非ず、これが舎人親王を中心とする編述者群の共通見解であった ──この簡明な帰結である。


   七

 第四は「法隆寺、焼失」問題である。
 
 「日本書紀」の天智紀に次の記事がある。

 (天智九年)夜半之後、法隆寺に災あり。一屋余す無し。

 右の一文をめぐって有名な法隆寺再建論争が行われた。その帰結は、若草伽藍跡の発掘によって、再建説の正しかったことが確認せられたこと周知のごとくであるけれど、今の問題は、当本の伝来との関係である。
・・・

<略>

・・・
 以上の省察によってみれば、 この「法隆寺全焼失」問題からも、 当本の「聖徳太子親撰」説は、 「前門の虎、後門の狼」ともいうべき、両面の矛盾に包まれていることが知られよう。


   八

 第五の矛盾は、「太子、不親近(ふしんごん)」問題である。

 法華経に親しんだ人には周知のように、 安楽行品(ぎょうほん)第十三(あるいは第十四 (20) )には、 十項目の「不親近」の対象があげられている。仏道修行者にとって、近づくべからざる「禁忌」の存在である。それは次のようだ。

 第一の希有(きう)に親近せざれという中に就いて、十種の親近せざれべきものあり。
 一には、国王や、 王子や、 大臣や、官長に親近せざれ、と。(是れ驕慢の縁なればなり。)(括弧内は「法華義疏」の著者の文。以下、同じ)
 二には、諸(もろもろ)の外道に親近せざれ、と。(是れ耶〈邪〉見の縁なればなり。)
 三には、諸の戯(たわむれ)の境に親近せざれ、と。(是れ悪(あ)しき業(おこない)の縁なればなり。)
 四には、諸の殺生に親近せざれ、と。(是れ悪しき穢の発(おこ)す縁なればなり。)
 五には、声聞を求むるものに親近せざれ、と。(是れ〈大〉大乗を求むる為めには最も妨ぐる縁にして、今日の『法花』の為めにも、亦た最も宜しからざればなり。)
 六には、諸の女人、及び処女や寡女、少女に親近せざれ、と。(是れ愛染の縁にして、道を求むる為めには最も妨ぐればなり。)
 七には、五種の不男(21)に親近せざれ、と。(是れ不定の縁なればなり。)
 八には、独り他の家に入らざれ、と。(是れ疑を生ずる縁なればなり。)
 九には、年少の子等を畜うることを楽(ねが)わざれ、と。(是れ散乱の縁なればなり。)
 十には、常に坐することを好む少(小)乗の禅師に親近せざれ、と。
 『本義』は、 前の九は、 皆是れ応(まさ)に親近せざるべきの境とすれども、 「常に禅定(坐禅)を好みて」より以下は、応に親近すべき境なりと明かす(中略)
 此の中の文を釈するに、『本義』は、上の長行に配し、重ぬることを作して解釈す。而れども、私意は少しく安らかならず。ゆえに、但だ直頌して、重ぬることを作さざるなり。但し、「顛倒して分別す」より以下、二行の偈は、上の「常に坐禅を好む」といえるを頌す。初の一句(行)は、禅を好むの由(よし)を明かし、次の一句(行)は、正しく上の「常に坐禅を好む」といえるを頌す。言うこころは、顛倒分別の心有るに由るが故に、此を捨てて彼の山間に就(ゆ)きて、常に坐禅を好むなり。然れば則ち、何の暇(いとま)ありてか此の『経』を世間に弘通することをえん。ゆえに知りぬ、「常に坐禅を好む」は、猶応に親近せざるの境に入るべきことを。『本義(22)』に云わく、此の二行は「常に坐禅を好む」を頌するに非ず、「顛倒して分別す」より以下、五行の偈は、皆上に「実法有に親近せざれ」といえるを頌(あら)わす、「顛倒して分別す」の一行は、但だ非を挙げて是を顕わすなり、と。〈「法華義疏」、下巻。岩波文庫本一八四〜九〇ページ。傍点は古田〉

 右において、「義疏」の著者の特異の主張が現れている点に注目されたのは、花山信勝氏であった。
 法華経の本文では、問題の「常好坐禅」の一句は、肯定すべき境地として描かれている。

若し女人のために、法を説くときは、歯を露(あらわ)にして笑わざれ。胸臆(むね)を現わさざれ。乃至、法のためにも、猶、 親厚せざれ。況んや、また余の事をや。楽(ねが)って年少の弟子・沙弥・子児を畜(やしな)わざれ。亦、与に師を同じくすることを楽(ねが)わざれ。常に坐禅を好み、閑(しずか)なる処に在りて、その心を摂(おさ)むることを修(なら)え。文殊師利よ。これを初(はじめ)の親近処と名づくるなり。〈「法華経」、中巻。岩波文庫本二四六〜八ページ。〉

 この点、梁の法雲法師の「法華義記」も、右の本文の趣意に沿った注釈を行った。ところが、これに対して、「義疏」の著者は敢然と「反論」した。それが、右の傍点部(言うこころは、顛倒分別の心有るに由るが故に 〜 猶応に親近せざるの境に入るべきことを)である。「世間弘通」という法華経の立場、すなわ大乗仏教の根本義からして、「常好坐禅」の項は「不親近」の境に入るべし、としたのである。これは、漢文の、

不楽畜年小弟子、沙弥小児。亦不楽与同師。常好坐禅。在於閑処。修摂其心。文殊師利。是名初親近処。

 という文脈で、二回の「不楽」の文脈を「与同師」までで“切る”か、それとも「常好坐禅……其心」の丸点部まで懸けるか、という“解釈”上の問題にかかわっている。
 しかし、末尾の「是名初親近処」が、その直前の、右の丸点部を指していると解せざるをえない点から見て、この「義疏」の著者の「新解釈」には無理があろう。やはり法雲の「法華義記」の理解が正当なのである。

 けれども、問題は、このような 「文法上の破格」まで冒して「新解釈」を行う精神上の姿勢にある。 「世間弘通」を重んじ、ただ“己が心裡をととのえる”姿勢を非とする、大乗精神の発露ともいいえよう。「義疏」の著者は、単なる「祖述者」ではないのである。敬慕する法雲師に対して敢えて「異」をたてるのみか、場合によっては「法華経」の本文自体に対してさえ、「異」を唱えかねぬ気迫を蔵しているのである。

 この一点に注目し、力説、強調されたのは、他ならぬ、花山信勝その人であった。

「言由 有 顛倒分別心 。故捨 此就 彼山間 常好 坐禅 。然則何暇弘 通此経於世間 。と太子一大乗仏教の真精神を披瀝したまひ、『故に知んぬ、常好坐禅は猶応に親近せざるの境に入るべきことを』と結論せられ、義記が常好坐禅を応親近境とする説を極力排せらるゝものは全く太子御独自の御見解であって……。経文に対する太子の御自解はこゝに最も徹底して顕れてゐるので、御己証の体解に照しては如何なる伝統古釈にも、又経文の字句にも拘束されない真に自由な天地を行かるゝの観がある。而して、これが実に太子仏教の御理想であり、実際御生活の軌道であったこと、言を俟たぬ。」〈『法華義疏の研究』三八六〜七ページ〉
「……しかも本書のなかに見られるところの極めて大胆なる批判精神と、経文や先匠の諸註釈義に執らわれない独自の解釈の発表など、いろいろな点から考察して、やはり『日出づる処(くに)の天子、書を日没(かく)るる処(くに)の天子に致す、云々』と最初の大使を送り、南北の大陸を統一してまさに半島にまでも侵入せんとしていた大隋国の皇帝に対して少しも臆しなかった上宮太子のような大人物にして、はじめて私集することのできた書物であると結論する以外には道がないのである。」〈「法華義疏」、下巻、岩波文庫本、解説三九五〜六ページ〉

 以上のように、この点が、 花山氏にとって重要な、「義疏の著者の個性」を表わすものとせられたこと、疑いはない。この著者が、果たしてその個性の故をもって「聖徳太子」と特定しうるか否かは、いざ知らず、ともあれ、この著者が“歯に衣を着せぬ”大胆な主張明示の個性をもつこと、その一点はまさに肯定せられよう。

 さて、このような見地に立つとき、問題になるのは、右の第一個条である。
 法華経本文の趣意は、“国王・王子・大臣・官長などの権力者層の人々には接近するな、好みを結ぶな”という点にある。
 これに対して、義疏の著者は、“その通りだ。そのような事態は、(権力者を背景として、虎の威を借りる狐のたとえのごとく))おごりたかぶる、その機縁となるから、彼等に接近するな、好みを結ぶな──それが仏道を求める者にとって大切な心得である”との意を、簡潔な短文によって明示しているのである。
 ところが、聖徳太子自身が「王子」であることは明白である。その「王子」が右のような注釈を記するとしたら、これは“一個の喜劇”“極めたる自己矛盾”──そのように評する他ないのではあるまいか。
 しかも、この「義疏の著者」は、“おなざりな注釈者”ではない。敬愛する法雲師に対してすら、敢然と「反論」する人物だ。時あって「釈尊」自身にすら“迫る”勢いをしめす。その人物が、自己との対決の、その場において、何気なき顔をして“やりすごす”ような不誠実な祖述者の道を採るであろうか。不可解という他はないであろう。
 これに対し、自然な理解、先入観なき理解からすれば、この「義疏の著者」は、“「国王・王子・大臣・官長」にあらぬ、在野の僧団の一員であり、「権力に対する潔癖」を主張する、純粋な仏道者”である、このように解する他はないのではあるまいか。
 一方で「常好坐禅」への逃避をしりぞけ、民衆の間にあっての伝道・布教を強調しながら、他方では、時の権力者集団との隔絶と孤立の道を説く。──確かに凡庸の人間ではない。傑出した魂の持主だ。だが、これが「王子」たる聖徳太子に非ざること、この一事に関しては、わたしは一瞬もこれを疑うことができない。むしろ、この明文がありながら、なぜ今まで人々がこれを「聖徳太子の真作にして真筆」などと信じえたか、これを不審とせざるをえないのである。


(1) 花山信勝氏『聖徳太子御製、法華義疏の研究』(東洋文庫)、『法華義疏』岩波文庫本解説 (下巻)等参照
(2) 偽作説がある。
(3) 典拠は「高僧伝」等による。
(4) 直接「本義」等の表記なくとも、法雲の説を受けているものも存在しよう。
(5) この部分について、東大寺本では、「本文」に作っている(大正新修、大蔵経、第三十三巻、 経疏部一、五八六ページ下欄参照)。
(6) 異文(版本による)のため、とも考えられる。
(7) 大蔵経(右の (5)のもの)参照(五七二ページ)。
(8) 『法華義疏』岩波本、解説(三九八ページ)参照。
(9) 丸山孝雄氏の前掲書、二二〜二三ページ参照。
(10)『古代は輝いていた』第三巻参照。
(11)右参照。
(12)たとえば、第四巻末近くに別紙が貼布され、「若……守護」の二十一字が加筆されている(別 筆)。
(13) この点、丸山孝雄の御教示をえた。
(14)他にも、同類の例がある。
(15)これに対し「隋朝の美術」等の影響の「欠如」をもって、天台大師・嘉祥大師等の「名」も「説」も登場せぬ事態を“合理化”もしくは“当然視”しようとする論者があるならば、おそらく不当であろう。なぜなら、多利思北孤の遣隋使も、聖徳太子の遣唐使も、いずれも「仏教の新知識」を求むることに一中心課題のあったこと、疑いえないからである。他の何がなくとも、仏教の新知識まで「共ずれ」にしたのでは、何のための遣使だったか、といわざるをえないのである。
・・・
<略>
・・・
(20)当本が依拠している法華経は、七巻二十七品のもの。現在は八巻二十八品が知られている。それぞれによって、「品立て」に若干変動がある。(当本は、「提婆達多品」と「観世音菩薩普門品」の偈頌を欠く型式のもの。岩波文庫本解説、参照)
(21)不男(1生まれつき根欠の者。2半年間不能の者。3嫉妬によらなくては不能の者。4婬を行う時に当たって不能の者。5後天的根欠の者)。岩波文庫本、一八四ページ参照
(22)『本義』(『義記』P.664 中、参照。但し、「此の二行は『常に坐禅を好む』を頌するには非ず」の原文九字は、疏主の付加した句であり、原本では特に右傍添加の細字である)岩波文庫本、一九〇ページ参照


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