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お断り:このホームページとブログ「古賀達也の洛中洛外日記」は別構成です。
      検索は別々に行ってください。

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 6月19日案内のみ改訂、

1,ブログ古賀達也の洛中洛外日記 へ

 「前期難波宮副都説反対論者への問い」や「二中歴」の問題は

上記のブログで展開しています。

 1413話1314話1315話1316話

 1317話1318話1319話を掲載

 

 

2,友好団体とのリンクならびに資料を整備しました。

九州古代史の会同上会報)とリンクしました。

藤田隆一氏が、和田家文書北鑑(きたかがみ)を公開。

 

 

Facebook古田史学の会 へ

多元的「国分寺」研究サークル へ

九州古代史の会同上会報) へ

英文ホームページBack to the Future へ

中国語ホームページ 史之路.网站

国際人間観察学会Phoenix - Goddess of truth never dies へ

 

◎「古田史学」研究サイト@なんば.opu案内
大阪府立大学I-siteなんばまちライブラリーの交通アクセスはここから
開館時間: 火〜土 13:00〜20:00
       上記のうち、祝日は13:00〜17:00

まちライブラリー@大阪府立大学をご利用いただくには会員登録が必要です。
会員登録時に、実費(500円)が必要です。

住所:大阪市浪速区敷津東2-1-41南海なんば第1ビル3階まちライブラリー内
 アクセスは、南海電鉄難波駅 なんばパークス方面出口より南約800m 徒歩12分
 地下鉄なんば駅(御堂筋線)5号出口より南約1,000m 徒歩15分
 地下鉄大国町駅(御堂筋線・四つ橋線)1号出口より東約450m 徒歩7分です。

「古田史学」研究サイトの蔵書目録です。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1413話 2017/06/05

ノートの書き方と論文の書き方

 わたしが勤務先で使用しているパソコンには社内外からの様々な情報や連絡メールが届きます。多い日には数十件のメールが届くこともあり、そんな日は朝から緊急メールの返信作業だけで半日かかります。
 そのようなビジネスレターの中に、古代史論文執筆にも役立ちそうな解説がありましたので、転載し若干の説明をします。『古田史学会報』への投稿論文執筆のご参考にしていただければと思います。

《以下、転載》
(前略)つまり、ノートの書き方など、みんなバラバラなのだ。
 ただし、一言断っておくと、どんなノートを取っていようとも、最終的に外部に出す文書を作成する場合には、「人に理解される」内容に仕上げられる能力がある。「文書化」の基本を押さえているからだ。
 文書化の基本となるのは、以下の7つの基本原則である。

 チャンキングの原則:情報を小さなかたまり(チャンク)に分割する
 関連性確保の原則:1つのチャンクでは1つのテーマだけを扱う
 ラベル付けの原則:チャンクの内容の概略がすぐに分かるように見出しを付ける
 継続性の原則:同じ言葉を同じ意味で揺るがせずに使う
 グラフの統合化:グラフや図をその内容の側に添付する
 参照先の添付:興味を持った人がさらに調べることのできる先を記しておく

 これらの基本原則は、本来、学生時代の卒業論文などで担当教授から徹底的に指導されマスターしておくべきものである。その経験がなくとも社会人になったのちに、会社の基本となる文書フォーマットに、この基本原則が反映されていることから、自然とフォーマットなしでもきちんとした文書が作れるようになっていたわけだが、昨今はパワポ文書の氾濫により、原則が完全に崩れてしまっている。その結果、生産性が劇的に下がっていることは以前の記事でも述べた通りである。エグゼクティブたちは、このあたりの原則は、確実にマスターしている。(転載終わり)

 古代史論文に関わらず、“「人に理解される」内容に仕上げられる能力”が重要なことは言うまでもありません。自説を支持していない人が読んでも、その内容を理解してもらえるように書く文章力は実践の中で身につけるしかありません。
 また、あれもこれも論じるのではなく、なるべくテーマを絞り込み、何を論証するのか、どのように読者に読みとってもらいたいのかという「読者理解のシナリオ」も重要です。そして、そのシナリオにそった項目分けと項目を明確に表現する「小見出し」の選定は必須です。長い論稿ほど効果的な「小見出し」が読者の理解を促すだけでなく、自らの論証シナリオの再確認にも役立ちます。
 わたしもこうしたことを意識しながら執筆するのですが、残念ながら誤字・変換ミスは無くなりませんし、今でも失敗の繰り返しです。その点、比較するのもはばかられますが、古田先生の執筆力と校正力は素晴らしいものでした。古田先生からいただいた鉛筆書きの原稿にはいつも校正の跡でびっしりでした。先生がどのような点を意識しながら原稿校正されていたのかがよくわかり、わたし自身も論文執筆の勉強になったものです。そのため、文体が古田先生に似てしまい、先生との共著を出したとき、出版社から文体を変えてくれとクレームがついたこともありました。まだ三十代の頃のことで、懐かしい思い出です。(つづく)

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1414話 2017/06/06

「太宰府」と「大宰府」の書き分け

 今朝は博多に向かう新幹線の車中で書いています。今週は仕事で九州5県(福岡・熊本・鹿児島・宮崎・長崎)を廻ります。若い頃とは違って、ハードな出張へのモチベーションを上げるのに時間がかかるようになりました。五十代の頃は海外出張で中国大陸をクルマに乗って1日に10時間移動できる体力と精神力があったのですが。

 「洛中洛外日記」1413話で紹介した、「文書化」の7つの基本原則の“継続性の原則:同じ言葉を同じ意味で揺るがせずに使う”に関して、最近の失敗談をご紹介します。それは「太宰府」と「大宰府」の書き分けについての失敗です。
 友好団体「九州古代史の会」の機関紙『九州倭国通信』に投稿した論文中に、「太宰府」と「大宰府」の書き分けにミスがあり、編集担当の方から拙宅までお電話をいただきました。わたし自身、かなり厳密に意識的に書き分けていたのですが、うっかり一カ所だけ変換ミスをしていたところを編集担当の方から指摘され、どのように対応すべきか問い合わせをいただいたのです。通常であれば見過ごしてしまうような箇所だったのですが、その方は的確に発見され、ご丁寧にお問い合わせの電話までくださったのです。さすがは九州王朝地元の研究会だと恐れ入りました。
 ご参考までに、わたしの「太宰府」と「大宰府」の書き分けの基準について紹介します。もちろん、わたしの考えに基づくものですから、他の基準とは異なるケースもありますので、この点、ご了解ください。

「太宰府」と表記するケース
○引用元の文章が「太宰府」となっている。
○地名の「太宰府市」や神社名「太宰府天満宮」の表記。
○九州王朝の官職名や役所名としての「太宰府」「太宰」。
○九州王朝説に基づく文脈での使用。

「大宰府」と表記するケース
○引用元の文章が「大宰府」となっている。
○考古学表記・用語として定着してる「大宰府政庁」など。
○一元史観の論稿や見解を要約するケース。

 他にもありますが、おおよそ上記の点に留意して書き分けています。中でも難しいのが「一元史観の論稿や見解を要約するケース」です。ここらへんになると、要約引用された側(人)への配慮と、九州王朝説を支持する読者への配慮とが矛盾することもあり、悩ましいところです。
 ちなみに、この「洛中洛外日記」の文章は複数の方のチェック(誤字・脱字・文章表現・論文慣習・事実関係・論理性等の当否)を受けた後にHPと「洛洛メール便」担当者に送るのですが、その際、「古田史学の会」役員へもccで送信しています。ですから、みなさんの目に留まる前に多数の関係者のチェックを受けているのですが、それでも文字や文章、論旨の誤りを完全には無くせません。中でも、今回の「太宰府」と「大宰府」の書き分けに至っては、チェック担当者から“当否を判断できない”と言われるほどの「難関」の一つなのです。「太」と「大」に、これだけこだわらなければならないのは、九州王朝説・古田学派の宿命ですね。
 なお付言しますと、「洛中洛外日記」の内容や仮説が学問的に誤りであったことが後に判明することがあります。その場合は、誤りであったことが判明した時点で、あるいは誤りとまでは言えないが他の有力説が登場したときに、あらためて「洛中洛外日記」で訂正記事を書いたり紹介することにしています。そうすることが学問的に真摯な対応であり、仮説の淘汰・発展を読者もリアルタイムで見ることができ、読んでいても面白いと思うからです。学問とはそうして発展するものだとわたしは考えています。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1415話 2017/06/06

原稿採否基準、新規性と進歩性

 福岡県での仕事を終え、鹿児島中央駅に向かう九州新幹線の車中で書いています。車窓からの景色はずいぶん薄暗くなりました。今日、九州南部が梅雨入りしたとのことです。

 先月の関西例会後の懇親会で、常連の会員さんから『古田史学会報』に掲載された某論文について、「古田史学の会」としてその論文の説に賛成しているのかという趣旨のご質問をいただきました。その質問をされた方は『古田史学会報』に採用されたということは編集部から承認されたのだから、その論文の説を編集部は賛成したものと理解されていたようです。こうした誤解は他の会員の皆様にもあるかもしれません。
 よい機会ですので、学術誌などの採用基準と学問研究のあり方について、わたしの考えを説明させていただきたいと思います。『古田史学会報』に採用する論稿の評価基準については、「洛中洛外日記」1327話(2017/01/23)「研究論文の進歩性と新規性」でも説明してきたところです。学術論文の基本的な条件としては、史料根拠が明確なこと、論証が成立していること、先行説をふまえていること、引用元の出典が明示されていることなどがありますが、もっと重要な視点は新規性と進歩性がその論文にあるのかということです。
 新規性とは今までにない新しい説であること、あるいは新しい視点が含まれていることなどです。これは簡単ですからご理解いただけるでしょう。次に進歩性の有無が問われます。その新説により学問研究が進展するのかという視点です。たとえば、その新説により従来説では説明できなかった問題や矛盾していた課題がうまく説明できる、あるいはそこで提起された仮説や方法論が他の問題解決に役立つ、または他の研究者に大きな刺激を与える可能性があるという視点です。
 こうした新規性と進歩性が優れている、画期的であると認められれば、仮に論証や史料根拠が不十分であっても採用されるケースがあります。結果的にその新説が間違いであったとしても、広く紹介した方が学問の発展に寄与すると考えるからです。
 『古田史学会報』ではそれほど厳しい査読はしませんが、『古代に真実を求めて』では採用のハードルが高く、編集部でも激論が交わされることがあります。しかし、その採否検討にあたり、わたしや編集委員の意見や説に対して反対か賛成、あるいは不利・有利といった判断で採否が決まることはありません。ですから、採用されたからといって、編集部や「古田史学の会」がその説を支持していることを意味しません。しかし、掲載に値する新規性や進歩性を有していると評価されていることは当然です。
 以上のように、わたしは考えていますが、抽象論でわかりにくい説明かもしれません。「洛中洛外日記」1327話ではもう少し具体的に解説していますので、その部分を転載します。ご参考まで。

【転載】
 (前略)「2016年の回顧『研究』編」で紹介した論文?の正木稿を例に、具体的に解説します。正木さんの「『近江朝年号』の実在について」は、それまでの九州年号研究において、後代における誤記誤伝として研究の対象とされることがほとんどなかった「中元」「果安」という年号を真正面から取り上げられ、「九州王朝系近江朝」という新概念を提起されたものでした。従って、「新規性」については問題ありません。
 また「近江朝」や「壬申の乱」、「不改の常典」など古代史研究に於いて多くの謎に包まれていたテーマについて、解決のための新たな視点を提起するという「進歩性」も有していました。史料根拠も明白ですし、論証過程に極端な恣意性や無理もなく、一応論証は成立しています。
 もちろん、わたしが発表していた「九州王朝の近江遷都」説とも異なっていたのですが、わたしの仮説よりも有力と思い、その理由を解説した拙稿「九州王朝を継承した近江朝廷 −正木新説の展開と考察−」を執筆したほどです。〔番外〕として拙稿を併記したのも、それほど正木稿のインパクトが強かったからに他なりません。
 正木説の当否はこれからの論争により検証されることと思いますが、7〜8世紀における九州王朝から大和朝廷への王朝交代時期の歴史の真相に迫る上で、この正木説の進歩性と新規性は2016年に発表された論文の中でも際だったものと、わたしは考えています。(後略)

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1416話 2017/06/07

天草と草津(滋賀県)の地名由来新考

 昨晩は鹿児島市のホテルに宿泊し、今朝は鹿児島空港行きの高速バスの車中で執筆しています。今日のスケジュールは超ハードで、宮崎・熊本・鹿児島の三県を巡回し、夜は天草のホテルで宿泊です。

 「洛中洛外日記」425話(2012/06/12)で「天草」の語源について考察したことがあります(下記に転載)。それは「あまくさ」の意味を、海(あま)の日(くさ)とする新説です。今でも有効な仮説と考えています。同様に滋賀県の「草津」の地名も、日(くさ)の津(つ)、すなわち「太陽の港」「朝日で照り輝く港」を意味するのではないかという作業仮説(思いつき)に至りました。
 この場合、この地名は草津側で命名されたものではないと考えられます。なぜなら、草津の住民にとって太陽は更に東側の山々から昇るものであり、自らの居住地(草津)を「太陽の港」などとは受け止められないからです。従って、もしこの作業仮説(思いつき)が正しければ、「日津(くさつ)」と命名したのは琵琶湖の対岸(西岸)の人々ではないかと思われます。その地域の人々であれば、朝日が琵琶湖の対岸(東岸)の草津方面から昇ることになり、草津を日(くさ)に照り輝く津(つ)と表現したとしても一応の理屈が通るからです。
 しかし、地名というものは誰かがそう呼んだからそう決まるというものではなく、周囲の誰もが納得できる理由や動機が必要です。そこでわたしは草津の琵琶湖対岸に、「くさつ」と命名した権力者が居たのであれば、その地名を周囲や当地の住民も納得せざるを得ないのではないかと考えました。
 それでは草津の琵琶湖対岸には何があるでしょうか。そうです。錦織遺跡(近江大津宮)です。ここにいた天子あるいは天皇が、自らの宮殿から見て東対岸の港方向から昇る朝日にちなんで、その港(津)を日(くさ)津(つ)と命名したのではないかと考えました。
 この草津の地名由来を「日津(くさつ)」とする作業仮説(思いつき)を学問的仮説として成立させるためには、少なくとも次の手続きが必要です。それは近江大津宮から朝日を見たとき、草津方面が日(くさ)の津、すなわち朝日に照り輝く港と呼ぶにふさわしいかどうかを実地検証する必要があります。
 そのことが確認できれば仮説として成立するのではないでしょうか。もちろんその場合でも一つの「仮説」ですから、検証や論争を経て、他の仮説よりも有力と認証されれば「有力仮説」となり、その考えが多くの人々に支持されたときに「定説」の地位を得ます。さて、今回のわたしの作業仮説(思いつき)はどのような運命をたどるのでしょうか。皆さんのご批判を心待ちにしています。

【転載】洛中洛外日記
第425話 2012/06/12
「天草」の語源

 第422話で紹介しましたように、先週、出張で天草に行ったとき、ふと考えたのが「天草」の意味でした。もちろん漢字は当て字で、「天にはえている植物」の意味ではないと思います。
 この疑問はわりと簡単に「解決」しました。「天(あま)」は「海」のことで、「草(くさ)」は太陽のことです。すなわち「あまくさ」とは「海の太陽」のことではないでしょうか。天草島の地理関係から考えると、「海に沈む夕日」が適切かもしれません。
 ちなみに、現在では上天草島や下天草島など全体を「天草」と称していますが、もともとは下天草島の西海岸側の一部の地名だったようです。ですから、そこは海に沈む夕日がきれいな絶景の観光スポットだと思いますし、「あまくさ」=「海の太陽」(が美しく見える地)という地名にぴったりです。ホテルでもらった観光案内パンフレットにも天草の紹介文として「東シナ海に沈む夕日が日本一きれいなところ」とありました。偶然とは思えない表現の一致です。
 「あま」が「海」というのはよく知られていますし、今も「海」を「あま」と読む地名は少なくありません。しかし、「くさ」が何故「太陽」なのか疑問に思われる方もおられると思います。
 実は昔、古田先生から教えていただいたことなのですが、「日下」を「くさか」、「日下部」を「くさかべ」と訓むように、「日」のことを古代日本では「くさ」と訓んでいたのです。すなわち、太陽のことを「くさ」」と訓んだ時代や人々が日本列島にあったのです。
 「あまくさ」の語源に対応した正確な漢字を当てるとすれば、「海日」ではないでしょうか。「海に沈む夕日が美しい島」、天草は古代史研究(装飾壁画古墳)でも重要な島なのですが、そのことは別の機会にふれたいと思います。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1417話 2017/06/08

『大宝律令』注釈書「古記」に

         「造難波宮司」「番役」

 先日、札幌市の阿部周一さん(古田史学の会・会員)からメールをいただき、『大宝律令』の注釈書である「古記」に「造難波宮司」「番役」の記述があることをお知らせいただきました。詳細は阿部さんの論文発表を待ちたいと思いますが、正木裕さんが発見された『伊予三島縁起』に記された常色年間の「番匠初」記事に対応するもので、このような記録が大和朝廷側の「公文書」に残されていたことに驚きました。
 阿部さんからのメールによれば、『大宝律令』(701年成立)の注釈書「古記」にあることなどから、この「造難波宮司」が造営した「難波宮」は8世紀(726年)に造営された聖武天皇の後期難波宮ではありえず、7世紀に存在した「難波宮」と考えざるを得ないとのこと。他方、この「古記」の記述からも、前期難波宮を大和朝廷が「難波宮」と呼んでいたことが、より一層明白となりました。
 阿部さんには『古田史学会報』への投稿をお勧めしました。とても楽しみにしています。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1418話 2017/06/09

前期難波宮は「難波宮」と呼ばれていた

 

 「洛中洛外日記」163話(2008.02.24)「前期難波宮の名称」や175話(2008.05.12)「再考、難波宮の名称」などで、わたしは前期難波宮(考古学的遺跡名称)が7世紀当時に「難波宮」と呼ばれていたのではないかと発表しました。他方、正木裕さんは前期難波宮の名称を「味経宮(あじふのみや)」とする説を発表され、この正木説も検討すべき有力説であるとわたしは「再考、難波宮の名称」で賛意を表しました。そして、今でも正木説は有力であるとの評価は変わりません。
 ところが、前期難波宮「味経宮」説をわたしの説であるかのごとく扱い、わたしを論難する方があります。学問は批判を歓迎するとわたしは考えていますが、同時にそれは真摯であるべきです。他者を批判する前に、その論文をよく読んで正しく理解してからにするべきと、わたしは古田先生から学びました。ですから、前期難波宮「味経宮」説は正木さんが発表されたものであり、そのプライオリティーを尊重して、「正木説」として批判されるべきです。
 わたしは前期難波宮の真上に造営された聖武天皇の後期難波宮が、『続日本紀』には一貫して「難波宮」と表記されていることを根拠に、同じ場所にあった前期難波宮も「難波宮」と呼ばれていたと理解しています。そしてこの度、札幌市の阿部周一さんから『令集解』所収「古記」に「造難波宮司」という表記があることを教えていただきましたが、701年成立の『大宝律令』の注釈書「古記」に「難波宮」とあるとすれば、7世紀の前期難波宮が「難波宮」と呼ばれていたと言えるでしょう。
 阿部さんからの情報に基づき、わたしも『令集解』の当該記事を確認するため、大阪梅田阪急の古書店で『令集解』(国史大系本)全4冊を購入しました。『令集解』引用の当該「古記」部分には次のように記されていました。

 「(前略)古記云、其外配者便送配所謂西方之民。便配造難波宮司也。以近及遠。謂先番役近國。次中國。次遠國也。依名分配。謂依名簿。木工者配木工寮。鍛師者配鍛冶司也。(後略)」『令集解』第二(国史大系本)「巻十四 賦役令」426頁

 難解な漢文ですが、『大宝律令』の注釈書と見られる「古記」からの引用文に「造難波宮司」や「番役」という表記があり、7世紀の前期難波宮に関する規定と理解されています。貴重な史料が残っていたものです。阿部さんの情報提供に感謝します。『古田史学会報』への投稿が待たれます。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1419話 2017/06/10

井上信正さんからの講演レジュメ済み

 6月18日(日)午後にエル大阪で開催される「古田史学の会」古代史講演会が近づいてきました。今回、講演をお願いしている井上信正さん(太宰府市教育員会)から当日の講演レジュメが届きましたので、概要をご紹介します。
 井上さんは大宰府条坊都市研究の第一人者で、大宰府政庁?期・観世音寺よりも大宰府条坊が先行して造営されたことを発見された気鋭の考古学者です。関西でのご講演は貴重な機会ですので、多くの皆さんのご来場をお待ちしています。「古田史学の会」の会員でなくても参加できます。
 当日は講演会終了後に「古田史学の会」会員総会と希望者による懇親会(有料、会場で受付)も開催します。

日時 6月18日(日)13:20〜16:00
会場 エル大阪(大阪府立労働センター5階第研修室2)
     交通アクセスはここから
講師 井上信正氏
主催 古田史学の会
参加費 無料
テーマ 大宰府都城について

1.はじめに
 ○大宰府の役割
 ○大宰府都城の形成

2.大宰府都城の系譜1(百済系都城としての大宰府)
 1)百済王都の変遷
 2)大宰府の外郭造営と百済

3.都城の系譜2(中国系都城=大宰府条坊の話)
 ○政庁跡 遺構の画期
 ○条坊成立期の区画遺構・整地層

4.二重設計になった理由(都をつくる、大宰府をつくる)
 ●粟田真人がみた。唐の長安城
 ●藤原京から 平城京へ
 ●南にのびる南北道と「南山」

5.儀礼をおこなう都市と客館(東アジア国際標準の賓礼の場)
 ●大宰府条坊内の客館
 ●古代の都の客館(鴻臚館)との比較
 ●類似する事例
 ●「客館跡」遺構図

 
 
史料として古田史学会報 113号まで公開しています。
 

 
 

講演会案内

 

 

 


集会案内

一度覗いてみて下さい。誰でも参加できます。(要、参加費)

古田史学の会・関西2017年 7月例会

期日

2017年 7月15日(土)
午前10時より午後5時まで

場所

ドーンセンター
(大阪府立男女共同参画・青少年センター)
階中会議室1

交通アクセスはここから

住所:大阪市中央区大手前1丁目3番49号

・京阪「天満橋」駅、地下鉄谷町線「天満橋」駅1番出入口から東へ約350m。
・JR東西線「大阪城北詰」駅下車。2番出口より土佐堀通り沿いに西へ約550m。

報告

会員発表例は例会報告参照

参加費 500円

8月は、iSiteです。
関西例会は、毎月第三土曜日です。

 


第147回古田史学の会・四国

総会・記念講演会

期日

2017年 7月 1日(土)
    午後2時40分〜4時30分(講演のみ

場所

愛媛県立男女共同参画推進センター
2階 視聴覚室

愛媛県松山市山越町450
(伊予鉄本町6丁目電停より徒歩3分)
Tel: 089−926−1633(場所の確認のみにして下さい)

演題
と講師

会員総会13時30分〜14時30分のち実施

記念講演
「プラタモリ」出演の愛媛大学名誉教授・高橋治郎先生

「温泉から探る愛媛の古代史」
    

連絡先 携帯090−8976−8399(事務局長・合田)

参加費 会員・非会員共に500円


古田史学の会・東海 例会

案内は古田史学の会東海のホームページでご覧ください。

 

 

 

 

 
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