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 2021年 6月20日改訂、

1,ブログ古賀達也の洛中洛外日記

 ブログも2495話まで掲載。

 「前期難波宮副都説反対論者への問い」、「二中歴」、「二倍年暦」、および「九州王朝の「東大寺」問題はブログで展開しています。「九州王朝の現地説明動画がすごい」ブログ1256話に移行、関西古田史学講演報告と平行して、クラウド@服部静尚を掲載

 大和朝廷と「九州王朝系近江朝」との関係は、
会報「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1) (その2) (その3)
 ブログ「近江京」をご覧下さい

 、2486話2487話2488話2489話2490話2491話2492話2493話

 new2494話2495話を掲載

2,2019年9月〜2020年3月
  関西古田史学協賛講演会報告を設置

 

3,2020年4月〜2021年4月
  関西古田史学協賛講演会報告を設置

 

4,関西古田史学協賛講演会 案内 ・報告を設置

     4月度講演会

 4月10日 <土> 午後2時〜4時30分、市民古代史の会・東大阪で服部氏講演報告

 4月13日(火)午後2時〜4時 和泉史談会で正木氏講演報告

 4月24日<火> 午後1時〜5時 古代大和史研究会(奈良新聞本社西館3階)が
卑弥呼と邪馬壹国『「邪馬台国」はなかった』出版50周年記念講演会を開催

 4月27日(火)午前10時〜12時 古代大和史研究会で正木氏講演報告

     5月度講演会

 5月25日(火)午前10時〜12時 古代大和史研究会で正木氏講演報告

 

     6月度講演会

 6月22日(火)午前10時〜12時 古代大和史研究会で正木氏講演
 会場奈良新聞社本社西館3階


 6月26日 <土> 午後2時〜4時30分、市民古代史の会・東大阪で服部氏講演


Facebook古田史学の会 へ

英文ホームページBack to the Future へ

国際人間観察学会Phoenix - Goddess of truth never dies へ

中国語ホームページ史之路 へ


◎「古田史学」研究サイト@なんば.opu案内
大阪府立大学I-siteなんばまちライブラリーの交通アクセスはここから
開館時間: 火〜土 13:00〜20:00
       上記のうち、祝日は13:00〜17:00

まちライブラリー@大阪府立大学をご利用いただくには会員登録が必要です。
会員登録時に、実費(500円)が必要です。

住所:大阪市浪速区敷津東2-1-41南海なんば第1ビル3階まちライブラリー内
 アクセスは、南海電鉄難波駅 なんばパークス方面出口より南約800m 徒歩12分
 地下鉄なんば駅(御堂筋線)5号出口より南約1,000m 徒歩15分
 地下鉄大国町駅(御堂筋線・四つ橋線)1号出口より東約450m 徒歩7分です。

「古田史学」研究サイトの蔵書目録です。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第2491話 2021/06/14

「倭の五王」大和説と南・北九州説

 『宋書』に記された「倭の五王」を九州王朝(倭国)の王とする古田説は文献史学に基づく最も妥当な説ですが、他方、通説では大和の王達(後の大和朝廷)のこととされ、それは考古学に基づいた説とされています。たとえば、「邪馬台国」北部九州説を支持されている関川尚巧さん(元橿原考古学研究所員)は『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)において、4世紀に大和で政権が成立し、その政権が5世紀には「倭の五王」へ続くと述べられています。その根拠は他地域を凌駕する河内・大和の巨大古墳群の存在です。この論理(解釈)が、大和朝廷一元史観成立のための重要な根拠となっています。
 古田説と通説の他に、「倭の五王」南九州説というものもあります。江戸時代の学者、鶴峯戊申は『襲国偽僣考』(文政三年、1820年の序文を持つ。注②)において次のように主張しています。

 「允恭天皇十年。襲の王。讃。使を宋につかわす。」

 鶴峯は襲国を南九州の薩摩・大隅地方に比定していますから、「倭の五王」南九州説に立っています。
 このように、管見では「倭の五王」について、古田先生の北部九州説(九州王朝説)と通説の大和説、そして鶴峯の南九州説があります。これら三説にはそれぞれに根拠があり、それは次のようなことです。

〔古田説:王都は北部九州〕
 『宋書』の史料批判により、北部九州にあった邪馬壹国の後継王朝であることは明らか。→文献史学の成果に基づく。

〔通説:王都は大和〕
 5世紀における河内・大和の巨大古墳群の存在や、列島最大規模の都市遺構も難波から出土しており、それらは倭国・倭王の墳墓・都市にふさわしい。→考古学的事実に基づく。

〔鶴峯説:王都は南九州〕
 『宋書』など中国正史に見える倭国は大和朝廷ではない。南九州には九州島内最大規模の西都原古墳群がある。→文献史学と考古学的事実に基づく。

 ちょっと大雑把な説明ですが、おおよそ以上のようになります。三説の中で、文献史学と考古学の双方に根拠を持つのが、江戸時代の鶴峯説であることは意外な感じがします。わたしたち古田学派にとっても、この三説の優劣を検証することが、一元史観の論者を説得するためにも学問的に必要な作業です。(つづく)

(注)
①関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②鶴峯戊申『襲国偽僣考』「やまと叢誌 第壹号」(養徳會、明治二一年、1888年)所収。

2021/06/14 「倭の五王」大和説と南・北九州説  『宋書』に記された「倭の五王」を九州王朝(倭国)の王とする古田説は文献史学に基づく最も妥当な説ですが、他方、通説では大和の王たち(後の大和朝廷)のこととされ、それは考古学に基づいた...

Tatuya Kogaさんの投稿 2021年6月14日月曜日
 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第2492話 2021/06/15

「倭の五王」以前(4世紀)の畿内大和

―大和の銅鐸の終焉を示す纒向遺跡―

 関川尚巧さん(元橿原考古学研究所員)は『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)において、4世紀に大和で政権が成立し、その政権が5世紀には河内・大和の巨大前方後円墳群を造営した「倭の五王」へ続くとされ、最古の大型前方後円墳とされる箸墓古墳の造営時期について4世紀後半頃とされています。

〝最古の大型前方後円墳である箸墓古墳の年代というものは、実際の所、前期後半とされる4世紀後半頃より大きく遡ることは考えられないということになる。〟131頁

〝箸墓古墳と纒向遺跡の発展は4世紀
 このようにみると、箸墓古墳の造営が始まり、纒向遺跡が最も拡大化する庄内式末期から布留式の初めにかけての時期というものは、やはり4世紀に入ってからのことであろう。近畿大和に邪馬台国の痕跡というものが確認できない以上、ここに邪馬台国の同時代の箸墓古墳や纒向遺跡が存在するなどということは、ありえることではないからである。〟158頁

 そして箸墓古墳がある纒向遺跡について、示唆に富む数々の考古学的事実を紹介されています。その一つが、大和における〝銅鐸圏勢力の滅亡〟についてです。

〝大和の銅鐸と銅鏡
 (前略)大和地域は、「銅鐸文化圏」とされる近畿地方の中で、銅鐸の出土数や生産においても、その中心地といえることはない。
 また大福・脇本遺跡では、鋳造関連遺物と出土した銅鐸片により、青銅製品の原料としての再利用が考えられているが、その時期はほぼ弥生時代の終末であり、庄内期には銅鐸の使用は終わっているとみられる。
 銅鐸は大和の弥生社会では重要な役割を果たしたと思うが、その出土地は、西方地域から導入されながらも次第に東方地域を志向しており、後半期には近江・東海系の銅鐸も出土しているのである。(中略)
 そして、大和の銅鐸使用の終焉を示すところが纒向遺跡であるということは、最も象徴的なことといえよう。銅鐸自体も、本来、銅鏡のように大陸と共通する遺物ではなく、その発達も九州以東の地域の中でのことであり、古墳につながるような遺物ではないことは明らかである。〟69~70頁

 〝纒向遺跡が最も拡大するのは、箸墓古墳の造営時期という、かなり新しい時期のことであることも、古墳群との関係性をよく示している。
 また、出土遺物についても、これまでの大和の弥生遺跡の傾向と、ほぼ同様であることが知られる。それは、金属器や大陸系遺物の少なさ、それに対する東方地域の土器の多さなど、いくつもの共通性に現れているのである。(中略)
 このように、弥生時代から続く大和の遺跡のもつ特質というものが、箸墓古墳の造営の直前までそのまま受け継がれていることは、大型前方後円墳出現の基盤ともなる遺跡の内容としては、やや意外ともいえる。〟74頁

 ここで関川さんが述べられていることは重要です。要約すれば次のことを意味しています。

(1)弥生時代の大和の遺跡は北部九州や大陸の影響がほとんど見られず、むしろ東海地方などの東方地域との交流の強さを示している。
(2)弥生時代の近畿は銅鐸圏に属しているが、大和はその中心地ではない。
(3)纒向遺跡は、箸墓古墳の造営が始まる直前(4世紀前半頃か)までは銅鐸圏としての様相を見せている。
(4)箸墓古墳が造営されるときには銅鐸勢力は大和から駆逐され、纒向遺跡は銅矛圏の領域として最も拡大した。

 以上の事実は、弥生時代終末期には大和から銅鐸勢力が駆逐され、箸墓古墳などの巨大前方後円墳を造営する勢力が侵攻・台頭したことを示しています。
 古田先生は『盗まれた神話』『ここに古代王朝ありき』(注②)において、神武東征説話は銅矛圏(天国勢力。後の九州王朝)から銅鐸圏への軍事侵攻であるとされました。そしてその数百年後、神武の子孫達は奈良盆地を制圧し、更に銅鐸圏の中枢領域である大阪方面(大阪湾岸・淀川流域)へと支配領域を拡張したことが『古事記』(神武記・崇神記・他)に記されていることを論証されました。この文献史学による古田説と、関川さんが紹介された考古学的出土事実は対応しているのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』「第十章 神武東征は果たして架空か」朝日新聞社、昭和五十年(1975)。ミネルヴァ書房より復刻。
 古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』「第二章 銅鐸圏の滅亡」朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第2493話 2021/06/16

近畿の古墳時代開始の古田説と関川説

 「倭の五王」研究においては、文献史学と考古学の双方の整合と両立が不可欠です。特に考古学においては、古墳時代の編年の問題を避けては語れません。この点、古田学派の研究動向をみると、考古学分野の論考が残念ながら充分とはいえません。何よりも、わたし自身の勉強不足を痛感してきたからです。そうしたこともあって、元橿原考古学研究所員の関川尚巧さんの『考古学から見た邪馬台国』(注①)はとても勉強になっています。
 同書をもう十回近くは読みましたが、面白いことに気づきました。それは古田先生の見解と重要な部分で一致、あるいは対応しているケースが散見されることでした。一例をあげれば、近畿(畿内)における古墳時代の開始年代が一致しているのです。それは次の通りです。
 「洛中洛外日記」で紹介してきたところですが、関川さんは最古の大型前方後円墳とされる箸墓古墳の造営年代について次のように述べられています。

〝最古の大型前方後円墳である箸墓古墳の年代というものは、実際の所、前期後半とされる4世紀後半頃より大きく遡ることは考えられないということになる。〟『考古学から見た邪馬台国』131頁

 古田先生は『ここに古代王朝ありき』(注②)で、次のように説明されています。

〝噂はともあれ、確かなこと、それは”近畿の「弥生中期」「弥生後期」は九州の「弥生中期」「弥生後期」よりもおくれている”――この事実だ。そのことは当然、次のことを意味するであろう。”近畿の古墳時代の開始は、九州の古墳時代よりもおくれているのではないか”という問いだ。
 (中略)
 そしてそのことは、近畿における古墳時代の開始は、右の三一六年よりもあとに、ずれおちることを意味する。つまり、近畿における古墳時代の開始は、早くても、四世紀中葉を遡らない、ということになるのである。〟『ここに古代王朝ありき』251頁

 表現は若干異なりますが、両者とも従来説とは異なる視点により、近畿(畿内)の古墳造営開始を四世紀前半頃とされています。古田先生の著作は昭和五四年(1979)のものですから、四十年以上も前の論理的考察結果が、最新の橿原考古学研究所による考古学的発掘事実に基づいた、関川さんの見解にほぼ一致していることに驚きました。
 この一致は、ただ単に近畿(畿内)の古墳時代の開始年代にとどまるものではありません。というのも、古田先生は続いて次の重要問題を提起されているからです。

〝このことは一体、何を意味するか。――すなわち、応神ー仁徳ー履中ー反正ー允恭ー安康ー雄略の各「天皇陵」を、五世紀の倭の五王と結びつけてきた、あの時間帯の定点――考古学上の根本定式の崩壊である。〟『ここに古代王朝ありき』252頁

 このように「倭の五王」を考古学的に検証するにあたり、古墳時代編年そのものから検証し、論じなければなりません。これにはかなりの研鑽が必要となります。本年11月に開催される八王子セミナーまでに、どれだけ勉強が進むかはわかりませんが、古田先生の関連著作だけはしっかりと精読するつもりです。

(注)
①関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』「第四部 失われた考古学」朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。

※「考古学上の根本定式」などについては別の機会に詳述します。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第2494話 2021/06/17

「倭の五王」の王都、もう一つの古田説

―「南朝劉宋時代」(5世紀)は朝倉・小郡市中心―

 本年11月開催予定の八王子セミナーにて、〝「倭の五王」の時代の考古学 ―古田武彦「筑後川の一線」の再評価―〟という研究発表をさせていただく予定ですが、その準備として古田先生の関連著作の精読を続けています。中でも、その時代(5世紀)の王都の所在地についてがテーマの一つとされていますので、古田説がどのように変遷してきたのかについて調査し、「洛中洛外日記」2470話(2021/05/24)〝「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(11) ―古田説の変遷とその論理構造―〟で次のように報告しました。要約して転載します。

(1)『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。
〝五世紀末には、太宰府南方の基肄城あたりを中心としていた時期があったように思われる。〟同書「第五章 九州王朝の領域と消滅」「遷都論」、557頁

(2)『古代の霧の中から 出雲王朝から九州王朝へ』徳間書店、昭和六十年(1985)。
〝以上の分析によってみれば、この倭国の都、倭王の居するところ、それは九州北岸、すなわち博多湾岸以外にありえないのではあるまいか。〟同書「第五章 最新の諸問題について」、308頁

(3)「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」『東アジアの古代文化』61号、平成元年(1989)。
〝これに対し、もし、遠く時間帯を「五世紀後半~七世紀」の間にとってみれば、いわゆる装飾古墳が、まさに、「筑後川以南」に密集し、集中している姿を見出すであろう。(中略)直ちに北方より「侵入」されやすい北岸部を避け、「筑後川という、大天濠の南側」に“神聖なる墳墓の地”を「集中」させることになったのではあるまいか、(後略)。〟同書115~116頁

(4)『古田武彦の古代史百問百答』東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、ミネルヴァ書房、平成二六年(2014)。
〝「博多湾岸が中心であったのは弥生時代。高句麗からの圧力を感じるようになってからは後退していきます。久留米中心に後退します。(中略)筑後川流域に中心が移るわけです。移ったからと言って、太宰府を廃止して移ったのではなく、表は太宰府、実際は久留米付近となるわけです。二重構造になっているわけです。」〟同書「Ⅶ 白村江の戦いと九州王朝の滅亡」「32 九州の紫宸殿について」、212頁

 このように、古田先生はそのときどきの著作で、「倭の五王」の王都について論じられてきました。昨日、古田先生の晩年の著書『俾弥呼』(注①)を再読したところ、次の記述があることに気づきました。

〝「女王国」を、弥生時代の博多湾岸中心と考えても、あるいは「南朝劉宋時代」の朝倉・小郡市中心と考えても、いずれにせよ「東方、千里」は、瀬戸内海をはるかに越え、大阪府茨木市の「東奈良遺跡」を中心とする領域へと至らざるをえない。そういう表記なのである。〟144頁

 これは狗奴国の所在地を、『後漢書』「倭伝」(注②)に記された「東方、千里」を長里とみなして、大阪府茨木市の「東奈良遺跡」を中心領域とする説明部分です。ここでは、〝「南朝劉宋時代」の朝倉・小郡市中心〟とあるように、『宋書』の「倭の五王」時代(5世紀)の王都を「朝倉・小郡市中心」とされています。同書は2011年発刊ですから、古田先生最晩年頃の見解と思われます。
 なお、『古田武彦の古代史百問百答』(注③)では王都の所在地が「久留米市付近」とありますが、同書は東京古田会で『古田武彦と「百問百答」』として、2006年に出版されたものをリニューアルして2014年に刊行されたものです。2006年の旧版には(4)の記事はみつかりませんから、再版に際して付加されたようです。従って、どちらの見解が古田先生の最終的な認識かは、今のところ不明です。

(注)
①古田武彦『俾弥呼(ひみか)』ミネルヴァ書房、平成二三年(2011)。
②范曄(398~445年)『後漢書』では「拘奴国」と表記。
③古田武彦『古田武彦が語る多元史観』ミネルヴァ書房、東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、平成二六年(2014)。

2021/06/17 「倭の五王」の王都、もう一つの古田説 ―「南朝劉宋時代」(5世紀)は朝倉・小郡市中心―  本年11月開催予定の八王子セミナーにて、〝「倭の五王」の時代の考古学...

Tatuya Kogaさんの投稿 2021年6月16日水曜日
 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第2495話 2021/06/18

「倭の五王」以前(3~4世紀)の銅鐸圏

―倭国(銅矛圏)と狗奴国(銅鐸圏)の衝突―

 関川尚巧さん(元橿原考古学研究所員)が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)で、弥生時代の纒向遺跡がその終末期には銅鐸使用の終焉を迎えており、4世紀になると箸墓古墳の造営が始まったことを紹介されました。これは大和における〝銅鐸勢力の滅亡〟を意味する考古学的出土事実と思われます。
 古田先生が考古学について著された『ここに古代王朝ありき』(注②)を併せ読むと、弥生時代終末期には西日本各地の銅鐸勢力(狗奴国:古田説)が圧迫され、箸墓古墳などの前方後円墳を造営する勢力(倭国)が東へ東へと侵攻したことがわかります。
 こうした、銅矛勢力(倭国)から銅鐸勢力(狗奴国など)への軍事侵攻説話が『古事記』『日本書紀』中に記されていることを、古田先生は『盗まれた神話』(注③)で明らかにされてきました。近年では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が、近江の後期銅鐸勢力圏への侵攻説話が『古事記』『日本書紀』にあることを発表されました。〝神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」とは何か〟(注④)という論文で、近江の銅鐸圏への侵攻説話が神功紀(記)に取り込まれているとする仮説です。
 この正木説は有力と思うのですが、正木稿では近江の銅鐸圏征討の年代を3世紀末とされており、大和の銅鐸終焉時期を弥生時代末期とする関川説と整合しているのか、精査が必要です。いずれにしても、銅鐸圏を制圧しながら、古墳文化が東へと拡大を続けるわけですから、九州王朝の全国制覇の時代として古墳時代を検討する必要に迫られています。
 なお、通説ではこの現象を〝大和政権による全国統一の痕跡〟とするのですが、関川さんによれば、北部九州の鉄器製造技術が箸墓造営時期に大和に入ったとされますから、やはり古田説のように、北部九州の勢力が大和の勢力(神武の子孫ら)を伴って銅鐸圏を制圧しながら全国統一を進めたと理解せざるを得ないと思います。鉄器製造技術を北部九州から導入した大和の勢力が同時期にその北部九州にも侵攻し、前方後円墳を造営しながら、東西へ将軍を派遣し全国統一したとする通説は論理的ではありません。それでは、北部九州の勢力があまりに〝お人好し〟過ぎるからです。
 そうすると、大阪難波から出土した古墳時代中期(5世紀)最大規模の都市遺構(注⑤)は、九州王朝(倭国)による東征軍の軍事拠点とする理解へと進みそうです。この理解は、通説だけではなく、従来の古田説(近畿天皇家による関西地方制圧)にも修正を迫ることになりますので、別途、詳述したいと思います。

(注)
①関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』「第二章 銅鐸圏の滅亡」朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』「第十章 神武東征は果たして架空か」朝日新聞社、昭和五十年(1975)。ミネルヴァ書房より復刻。
④正木裕〝神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」〟『古田史学会報』156号、2020年2月。
⑤杉本厚典「都市化と手工業 ―大阪上町台地の状況から」(『「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―」資料集』、大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2018年12月)に次の解説がある。
 「難波宮下層遺跡は難波宮造営以前の遺跡の総称であり、5世紀と6世紀から7世紀前葉に分かれる。大阪歴史博物館の南に位置する法円坂倉庫群は5世紀、古墳時代中期の大型倉庫群である。ここでは床面積が約90平米の当時最大規模の総柱の倉庫が、16棟(総床面積1,450㎡)見つかっている。」
 南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」(『研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年3月)には次の指摘がなされている。
 「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。」
 「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」

2021/06/18 「倭の五王」以前(3~4世紀)の銅鐸圏 ―倭国(銅矛圏)と狗奴国(銅鐸圏)の衝突―  関川尚巧さん(元橿原考古学研究所員)が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)で、弥生時代の纒向遺跡がその終末期には銅鐸使用の終焉...

Tatuya Kogaさんの投稿 2021年6月18日金曜日
 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第2486話 2021/06/11

「邪馬台国」〝非〟大和説、伊都国の証言

―関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説』―

 関川尚巧さん(元橿原考古学研究所員)の『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)を読んで、改めて気づかされた重要な論点がありました。その中でも、なるほど面白い視点と思ったのが「邪馬台国」と伊都国との位置関係についての次の指摘でした。

〝邪馬台国と伊都国
 『魏志』によれば、邪馬台国の外交は伊都国を窓口としている。ここには「一大率」が置かれ、また帯方郡使が留まり、さらに魏王朝からの重要な文書・賜物の点検が行われ、その後に邪馬台国への伝送を行うところであったという。この北部九州の伊都国から近畿大和までは、帯方郡から伊都国までの距離に及ぶほどの遠距離である。
 魏王朝との通交において直接かかわるような、きわめて重要な港津がある伊都国は、地理的に邪馬台国とは、かなり遠隔の地にあるとは考え難い。伊都国で厳重な点検を受けた魏の皇帝からの重要文書や多種多量の下賜品を、さらにまた近畿大和のような遠方にまで運ぶようなことは想定できないからである。
 これら国の外交にかかわる重要な品々の移動を考えれば、伊都国は邪馬台国と絶えず往還できるような、比較的遠くない位置にあったとみるべきであろう。〟177頁

〝仮に邪馬台国が大和であるならば、後の事例からみてその外港の位置は、おそらく河内潟や大阪湾岸地域であろうから、伊都国が外港である邪馬台国は大和ではありえない、ということにもなる。〟178頁

 倭国と魏王朝との外交の窓口(外港)とされる伊都国は、倭国の都である邪馬台国(原文は邪馬壹国)と遠くない位置になければならず、したがって、「邪馬台国」大和説は成立しないという論理は単純明快で、反論が困難です。このテーマは、『三国志』倭人伝に関する文献史学の論理的問題ですので、考古学者の関川さんからこうした指摘がなされていることに驚きました。このことが、同書を「わたしがこれまで読んだ考古学者による一般読者向けの本としては最も論理的で実証的な一冊」(注②)と評した理由の一つでした。(つづく)

(注)
①関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2480話(2021/06/06)〝邪馬台国畿内説の終焉を告げる〟

2021/06/11 「邪馬台国」〝非〟大和説、伊都国の証言 ―関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説』―  関川尚巧さん(元橿原考古学研究所員)の『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)を読んで、改めて気づかされた重要な論点がありました...

Tatuya Kogaさんの投稿 2021年6月10日木曜日
 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第2487話 2021/06/11

「邪馬台国」大和説と畿内説の落差

―関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説』―

 「邪馬台国」大和説が成立しないとする根拠として、関川尚巧さん(元橿原考古学研究所員)か指摘された〝鉄器の証言〟〝伊都国の証言〟の他にも、いかにも実証的な考古学者らしい指摘が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)にはあります。たとえば同書のタイトルにも用いられている「大和説」という表現です。学界では、ほぼ同じ意味で「畿内説」とも呼ばれていますが、関川さんは両者をあえて区別されています。次のとおりです。

〝畿内説と大和説
 邪馬台国の位置問題においては、九州説に対して近畿地方にその所在地を求める説を、畿内説と呼ぶことが多い。これは、主に近畿圏外からの呼び方という印象がある。
 しかし、近畿中部にあたる畿内と一言でいっても、その範囲は大和・河内・山城など、広域にわたっている。しかも、これら古代近畿の域内においても、かなりの地域差がみられるので、それらの遺跡や古墳を一律に扱うことはできない。畿内という名称自体も、以後の時代の用語である。
 また、近畿の中でも大和周辺地域では、ここ以外に邪馬台国の有力な候補地は挙げられてはいない。小林行雄も、邪馬台国の所在地を明確に大和としているので、ここでは大和説としておきたい。〟17~18頁

 このように述べ、具体的な地域差として、次の例をあげられています。

〝金属製品の少なさ
 大和地域の弥生遺跡から出土した鉄製品は、今のところ唐古・鍵遺跡では4点、そのほか六条山や三井岡原遺跡のような丘陵性遺跡出土の鉄鏃等、大型集落の平等坊・岩室遺跡の鉄斧をはじめ、総数10点余りにすぎない。隣接する大阪府下では、総数はすでに120点を超えており、それと比較しても格段に少ないというのが実態である。
 さらに、鉄器の製作にかかわる遺構や遺物は、まだ知られていない。大和では、弥生後期の始め頃までは石器が使用されており、鉄器の少なさは、その普及の状況を示すものとなる。
 また、青銅製品については、調査例の多い唐古・鍵遺跡で32点が報告されている。(中略)この中で最も多いのは、24点の銅鏃であり、また銅鏡がほとんどみられないことも大和の弥生遺跡総体にみる傾向である。(中略)近畿の中で、その遺跡数をみると、河内を中心とする大阪府が10カ所を越えて最多となる。
 大和地域は、近畿圏の中で金属器は少なく、また青銅器生産も盛んなところとは云い難い。〟35~36頁

 このような関川さんの、いわば「内部告発」のような指摘を読んで、わたしは驚愕しました。〝弥生後期の始め頃までは石器が使用されており、鉄器の少なさは、その普及の状況を示〟し(注②)、〝金属器は少なく、また青銅器生産も盛んなところとは云い難い〟大和地域に、倭国女王(俾弥呼)の都、「邪馬台国」(原文は邪馬壹国)が存在したとする「邪馬台国」大和説なるものが、なぜ学問的仮説といえるのか、なぜ考古学界では多数意見となるのか、わたしには到底理解しがたいのです。
 「王様は裸だ」。これが、関川さんの著書を読み終えての、わたしの第一の感想です。(つづく)

(注)
①関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田先生も『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社、昭和五四年〔1979〕)で、このことを指摘されている。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第2488話 2021/06/12

文献史学はなぜ「邪馬台国」を見失ったのか

―関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説』―

 考古学的出土事実と倭人伝の史料事実に基づき、「邪馬台国」大和説を鋭く批判している関川尚巧さん(元橿原考古学研究所員)ですが、肝心の「邪馬台国」の位置については、その論理的だった姿勢に揺らぎがみえます。たとえば、『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)には「邪馬台国」の所在について次の記述があります。

〝文献史学の大勢である邪馬台国九州説〟86頁

〝邪馬台国の位置問題についても、このような北部九州を起点とする、大きな文化の流れの中にあることは明らかで、その中で近畿中部の優位性を説くことは不可能である。〟160頁

〝邪馬台国は、このような対中国外交を専権として、他地域とは隔絶した内容をもつ、北部九州地域の中においてのみ出現することが可能であったと理解するのが、やはり順当な見方といえよう。
 このような趨勢においては、邪馬台国大和説は成り立つ術はないのである。〟161頁

〝当時の中国の政治情勢をみると、日本列島の中においては、九州以外に邪馬台国の存在を考えることはできないことになる。〟171頁

〝また、『魏志』は中国正史であるため、位置問題についても、それまで特に東洋史家を中心とした解釈と大局的な観点により、文献上からは、ほぼ九州説が大勢であるといえるのが主な邪馬台国論考を通覧してみた感想である。〟188頁

 このように、関川さんはご自身の専門分野である考古学だけではなく、文献史学・東洋史・地政学など多方面にわたる関連諸学の知見も取り入れて、「邪馬台国」の所在地を北部九州とされています。ところが、北部九州のどこかという問題には答えておられません。
 その理由は、文献史学の学者が、列島内最大規模の博多湾岸遺跡群を奴国(二万余戸)に比定してしまったため、奴国以上の規模(七万余戸)の「邪馬台国」(倭人伝原文は邪馬壹国)の候補地とできる弥生時代の大型遺跡など日本列島にはなく、そのために比定地を見失ってしまったことによります。その結果、関川さんは次のような結論へと向かわれました。

〝邪馬台国の戸数、「七万余戸」の文言は、文献上のことである。奴国をはるかに超えるという大遺跡は、弥生時代の北部九州・近畿大和、いずれの地域においても認め難いといえそうである。〟180~181頁

〝卑弥呼の宮殿の行方
 このような遺跡の現状をみると、女王が都する所とされた邪馬台国中枢に相当する遺跡は、必ずしも湾岸地域にある奴国級の大型遺跡であると想定することはできないであろう。〟181頁

〝結論は、九州説の内容を肯定するというよりも、大和説は成り立たないという、いわば消去法による邪馬台国位置論という結果になった。〟187頁

 すなわち、関川さんのような文献にも詳しい考古学者でも、文献史学の〝誤解〟に躓かれたと言わざるを得ません。
 それではなぜ文献史学ではこのような結論、「邪馬台国」の位置不明となる博多湾岸「奴国」説に至ってしまったのでしょうか。それは、古田先生が『「邪馬台国」はなかった』(注②)で提唱された、魏西晋朝における「短里」(1里約76m)の概念が、古代史学界にはなかったことによります。倭人伝の里程記事は短里で書かれており、それによれば、邪馬壹国の位置は博多湾岸となり、弥生時代最大規模の博多湾岸遺跡群を倭国の都に比定でき、文献史学と考古学の結論が整合できるのです。
 関川さんの古代史講演会(注③)もいよいよ一週間後となりました。この奴国の位置比定の根拠と当否について、ぜひともお聞きしたいと思います。(つづく)

(注)
①関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。
③「古田史学の会」他、関西の古代史研究団体の共催による古代史講演会。6月19日(土)13:30~16:30。奈良新聞本社ビル。
 講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―
 講師 古賀達也(古田史学の会・代表)
 演題 日本に仏教を伝えた僧 仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人

 

古賀達也の洛中洛外日記
第2489話 2021/06/13

古田学派における「倭の五王」研究

 大和の考古学的出土事実と倭人伝の史料事実に基づき、関川尚巧さん(元橿原考古学研究所員)は「邪馬台国」大和説批判を圧倒的な説得力で展開されました。その関川さんによる4世紀と5世紀の歴史認識が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)にも少しだけ示されていますので、紹介します。

〝箸墓古墳と纒向遺跡の発展は4世紀
 このようにみると、箸墓古墳の造営が始まり、纒向遺跡が最も拡大化する庄内式末期から布留式の初めにかけての時期というものは、やはり4世紀に入ってからのことであろう。近畿大和に邪馬台国の痕跡というものが確認できない以上、ここに邪馬台国の同時代の箸墓古墳や纒向遺跡が存在するなどということは、ありえることではないからである。〟158頁

〝対外交流の盛んな大和・河内の5世紀
 このような対外的な交流をめぐり、大和地域の弥生後期・庄内期の遺跡と全く対照的な内容を示すのは、古墳時代中期・5世紀の状況である。
 5世紀は、中国宋王朝との通交が行われ、半島諸国とも大きな関わりをもつ、いわゆる「倭の五王」の時代である。この時期、大阪平野や奈良盆地には巨大古墳が群生し、当時の政権の中枢が近畿中部に存在したことは明らかである。
 そして古墳にみる副葬品はもちろん、この時期の遺跡を発掘すれば、それ以前にはみられなかった半島系の韓式・陶質土器や古式の須恵器、さらには馬の歯・骨などが出土するのである。
 この時代の大和・河内が、政治ばかりでなく、対外交流の面でも、その中心にあり、それと共に新来の文物が到来する様を、古墳や遺跡からまぎれもなく実感することができる。〟77~78頁

 このように、「邪馬台国」が北部九州にあったとする関川さんでも、4世紀には大和で政権が成立し、その政権が5世紀には「倭の五王」へ続くと理解されています。その根拠は他地域を凌駕する河内・大和の巨大古墳群の存在ですが、こうした結論に至る、関川さんの学問の方法は一貫しています。考古学的事実と文献史学における史料事実の解釈が整合すれば、その解釈を最有力説とする方法です。具体的には次のように述べられています。

〝箸墓古墳は墳丘長300m近い大型前方後円墳である。そして同じような墳形・規模をもつ古墳は、5世紀の百舌鳥・古市古墳群にもみることができる。これらの古墳群には、この時期最大級の現仁徳・応神陵を始めとする大型古墳がみられるが、その中には中国史書に倭国王として登場する人物の古墳が含まれていることは確実であろう。
 それならば、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではありえない。箸墓古墳の被葬者は、このような倭国王と同じ系列の古墳につながる、大和政権にかかわりのある人物であるとしか言いようがないのである。〟163頁

 こうした関川さんの理解は、大和朝廷一元史観成立の最大の根拠になりつつあります。「邪馬台国」論争は、関川さんの著書に示されたように、ほぼ古田説と同方向(北部九州説)へと収斂しつつあるようですが、「邪馬台国」の後継勢力が4世紀に大和へ進出し、大和政権の基礎を築き、5世紀には圧倒的な巨大古墳群を築造した「倭の五王」に続くとする通説を形成しているのです。
 これこそ、わたしが提起した「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」(注②)の《一の矢》に他なりません。これは、古田先生が提唱された多元史観・九州王朝説を是とする、わたしたち古田学派にとって避けることのできない課題です。考古学的事実に基づいて成立した「倭の五王」=「河内・大和の巨大前方後円墳の被葬者」という通説に、どう対峙するのかが問われています。本年11月の八王子セミナーで、この問題についてどのような議論が行われるのかが、わたしにとっての最大の関心事です。(つづく)

(注)
①関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古賀達也「九州王朝説に刺さった三本の矢」(『古田史学会報』135、136、137号。2016年8、10、12月)、古賀達也「洛中洛外日記」1221~1254話(2016/07/03~08/14)〝九州王朝説に刺さった三本の矢(1)~(15)〟において、古田学派が説明しなければならないテーマとして、次の3点を指摘した。
【九州王朝説に突き刺さった三本の矢】
《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿(河内・大和)。
《二の矢》六世紀末から七世紀にかけての列島内での寺院(現存・遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿。
《三の矢》全国に評制施行した九州王朝最盛期の七世紀中頃において、国内最大の宮殿・官衙群遺構は北部九州(大宰府政庁)ではなく大阪市の前期難波宮(面積は大宰府政庁の約十倍。東京ドームが一個半入る)であり、国内初の朝堂院様式の宮殿でもある。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第2490話 2021/06/14

『古田史学会報』164号の紹介

 先週、『古田史学会報』164号が発行されましたので紹介します。一面に掲載された服部稿は、わが国おける仏教や仏典受容に関する考察で、古田学派における同分野での先駆的な研究の一つです。古田史学での仏典受容史研究については、古田先生が『失われた九州王朝』(第三章 高句麗王碑と倭国の展開 「阿蘇山と如意宝珠」)で触れられたのが最初です。そこでの示唆を受けて、わたしも論稿(注)を発表したことがあります。
 今回の服部稿は、九州王朝の時代において、女性が法華経と無量寿経(阿弥陀信仰)をどのような経緯で受け入れたのか(支持したのか)という従来にない新たな視点で論じられたもので、注目されます。女性の仏教信仰や関連仏典に関しては、「女人成仏」をテーマとした多くの論考が宗教関連学界で発表されていますが、多元史観・九州王朝説に基づく研究はまだ少なく、過去には古田先生が講演会で、「トマスの福音書(ナグ・ハマディ文書)」研究に関わって触れられたことがあり、今井俊圀さん(古田史学の会・全国世話人、千歳市)により、「『トマスによる福音書』と『大乗仏典』 古田先生の批判に答えて」(『古田史学会報』74号、2006年6月)が発表されたことがある程度です。今後の後継研究の登場が待たれます。

 164号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』164号の内容】
○女帝と法華経と無量寿経 八尾市 服部静尚
○会員総会と古代史講演会のお知らせ
○九州王朝の天子の系列(中) 川西市 正木 裕
 利歌彌多弗利から、「伊勢王」へ
○何故「俀国」なのか 京都市 岡下英男
○斉明天皇と「狂心の渠」 今治市 白石恭子
○飛鳥から国が始まったのか 八尾市 服部静尚
○「壹」から始める古田史学・三十
 多利思北孤の時代Ⅶ ―多利思北孤の新羅征服戦はなかった― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己

(注)古賀達也「九州王朝仏教史の研究 ―経典受容記事の史料批判」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。

2021/06/14 『古田史学会報』164号の紹介  先週、『古田史学会報』164号が発行されましたので紹介します。一面に掲載された服部稿は、わが国おける仏教や仏典受容に関する考察で、古田学派における同分野での先駆的な研究の一つです。古...

Tatuya Kogaさんの投稿 2021年6月13日日曜日
 
 

史料として古田史学会報147号まで公開しています。



講演会案内

なし

 


 

集会案内

2021年

古田史学の会・関西7月例会

期日

2020年 7月17日(土)
午前10時より午後5時まで

場所

福島区民センター
会議室は案内で確認願います

交通アクセスはここから

住所:〒553-0006
大阪府大阪市福島区吉野3丁目17−23

・地下鉄/千日前線「野田阪神駅」下車、7番出口上がる
・阪神電車/「野田駅」下車、改札左手を出る。西へ200m 
・JR/環状線「野田駅」下車、徒歩8分
・東西線「海老江駅」下車、徒歩5分
・バス/市バス大阪駅より幹59酉島行「福島区役所前」下車

報告

会員発表例は例会報告参照

参加費 500円

2021年8月例会は、21日おこないます。
関西例会は、毎月第三土曜日午前10時より午後5時です。



古田史学の会・東海 例会

案内は古田史学の会東海のホームページでご覧ください。


新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから