入会案内
お断り:このホームページとブログ「古賀達也の洛中洛外日記」は別構成です。
検索は別々に行ってください。
▼ 案内 講演会 例会関西、東海▼
2021年 1月18日改訂、
1,ブログ古賀達也の洛中洛外日記へ
ブログも2353話まで掲載。
「前期難波宮副都説反対論者への問い」、「二中歴」、「二倍年暦」、および「九州王朝の「東大寺」問題はブログで展開しています。「九州王朝の現地説明動画がすごい」ブログ1256話に移行、関西古田史学講演報告と平行して、クラウド@服部静尚を掲載
大和朝廷と「九州王朝系近江朝」との関係は、ブログ「近江京」に集約しています。
2347話、2348話、2349話、2350話、
2351話、2352話、2353話、2354話を掲載
2,2019年9月〜2020年3月
関西古田史学協賛講演会報告を設置
3,関西古田史学協賛講演会 案内 ・報告を設置
2020年 6月度講演会報告
6月13日(土)、古代史講演会in八尾で服部・茂山氏講演報告
6月23日(火)、古代大和史研究会で「古代の疫病と九州王朝の対外戦争」と題して正木氏報告
2020年 7月度講演会報告
7月28日(火):午前10時〜12時、古代大和史研究会で正木氏講演報告
2020年 8月度講演会報告
8月 1日(土):午後2時〜4時30分、古代史講演会in八尾で服部氏講演報告
8月18日<火> 午後1時〜5時、古代大和史研究会で日本書紀完成1300年記念講演報告
2020年10月度講演会報告
10月27日(火):午前10時〜12時、古代大和史研究会で正木氏講演報告
2020年11月度講演会報告
2020年12月度講演会
12月22日(火)午後6時半〜市民古代史の会・京都(キャンパスプラザ京都)で、古賀氏講演報告
12月22日<火> 午前10時〜古代大和史研究会(奈良県立図書情報館交流ホール)で正木氏講演報告
2021年 1月度講演会
1月 9日 <土> 午後2時〜4時30分、古代史講演会in八尾で服部氏講演報告
1月12日(火)午後2時〜4時、和泉史談会で正木氏講演報告
2021年 2月度講演会
2月 2日(火)午後6時30分〜8時 誰も知らなかった古代史の会で正木氏講演
会場:大阪市福島区民センター
2月 3日(水曜日)午後1時〜5時
古代大和史研究会(会場:松慶山 浄照寺(近鉄田原本町駅東口から徒歩2分))で正木・服部氏講演
2月23日<火> 午前10時〜12時 古代大和史研究会で正木氏講演
会場:奈良新聞社西館3階(奈良県奈良市 法華寺町2番地4)
英文ホームページBack to the Future へ
国際人間観察学会Phoenix - Goddess of truth never dies へ
中国語ホームページ史之路 へ
◎「古田史学」研究サイト@なんば.opu案内
大阪府立大学I-siteなんばまちライブラリーの交通アクセスはここから。
開館時間: 火〜土 13:00〜20:00
上記のうち、祝日は13:00〜17:00
まちライブラリー@大阪府立大学をご利用いただくには会員登録が必要です。
会員登録時に、実費(500円)が必要です。
住所:大阪市浪速区敷津東2-1-41南海なんば第1ビル3階まちライブラリー内
アクセスは、南海電鉄難波駅 なんばパークス方面出口より南約800m 徒歩12分
地下鉄なんば駅(御堂筋線)5号出口より南約1,000m 徒歩15分
地下鉄大国町駅(御堂筋線・四つ橋線)1号出口より東約450m 徒歩7分です。
「古田史学」研究サイトの蔵書目録です。
仏法僧の受戒・得度制度の多元史観 |
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本日、i-siteなんば(大阪府立大学なんばサテライト 2F)にて「古田史学の会」関西例会が開催されました。次回はドーンセンターで開催します。今回の例会でも、Zoomシステムによるハイブリッド型(会場参加+リモート参加)例会のテストを実施しました。リモート配信システムが完成しつつありますので、関西例会リモート参加費・同規定(参加資格)などの運用面と必要経費負担(イニシャルコスト・ランニングコスト)について検討・調整を進めています。 〔1月度関西例会の内容〕 ◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費1,000円(「三密」回避に大部屋使用の場合) 《関西各講演会・研究会のご案内》 ◆「古代大和史研究会」特別講演会(原 幸子代表) 参加費500円 02/23(火) 10:00~12:00 会場:奈良新聞本社西館3階 ◆「古代史講演会in八尾」 会場:八尾市文化会館プリズムホール 参加費500円 ◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター(中集会室) ◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター 参加費500円 |
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倭人伝〝道行き読法〟の「至」と「到」 |
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昨日の令和三年新春古代史講演会では次の三つの講演がありました。いずれも、「古田史学の会」の研究者による最先端研究の報告でした。 ①古賀達也 古代戸籍に見える二倍年暦の痕跡 今回の講演会では、古田先生が提唱された『三国志』倭人伝における〝道行き読法〟の素晴らしさを、谷本さんの発表により改めて認識させられました。なかでも、「至」と「到」の字義の違いに着目された解説は見事なもので、驚きました。 ○歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國 古田説では、狗邪韓國へは韓国内を南へ東へとジグザクに陸行するとされ、直接コースではありません。伊都国へも末盧国から一旦は東南方向へ道沿いに始発するという曲線コースです。その古田説に対応するかのようにこの2ケースのみに「到」が使われているわけです。 「到 (中略) この字義に気づかれた谷本さんに脱帽するとともに、古田説がいかに優れたものであるかを改めて認識しました。冥界の先生もこの講演を喜んでいただいていると思います。 |
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古田武彦先生の遺訓(27)―司馬遷の認識「歳三百六十六日」のフィロロギー |
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「歳三百六十六日、以閏月正四時。」『新釈漢文大系 史記1』39頁、明治書院(注)。 この記事から、聖帝堯の暦法は一年が三百六十六日と伝えられていると、司馬遷は認識していたことがわかります。もちろん、司馬遷の時代(前漢代)の暦法では、一年が三百六十五日と四分の一日であることは司馬遷も知っています。それにもかかわらず、「五帝本紀」には「歳三百六十六日」と書いたのですから、これは誤記誤伝の類いではなく、何らかの古い伝承や史料に基づいて、司馬遷はそのように記したと考えざるを得ません。しかしながら、通常の暦法からは一年を三百六十六日とすることを導き出すことはできません。そこで、わたしは一見不思議なこの「歳三百六十六日」の記事に、二倍年暦の暦法を推定復原するヒントがあるのではないかと考えたのです。 (1)二倍年暦では一年(365日)を二分割するわけだが、春分点と秋分点で日数を分割するのが観測方法からも簡単である。〔荻上紘一さんの見解〕 以上のように、司馬遷の認識経緯をフィロロギーの対象として検討し、推定しました。この推定が正しければ、後半の「以閏月正四時」についても、同様に二倍年暦の暦法にも「閏月」が存在していたとする史料を司馬遷は見たことになります。(つづく) (注)吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記1』明治書院、1973年。
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古田武彦先生の遺訓(28)―二倍年暦の「以閏月正四時」― |
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『史記』「五帝本紀」で、堯(ぎょう)が定めたとする暦について、司馬遷は次のように記しています。 「歳三百六十六日、以閏月正四時。」『新釈漢文大系 史記1』39頁、明治書院(注①)。 この前半部分の「歳三百六十六日」が二倍年暦の影響を受けた表記であることを前話で説明しました。続いて、後半の「以閏月正四時(閏月を以て四時を正す」について考察します。平凡社の『史記』(注②)では、この部分を次の通り現代語訳しています。 「一年は三百六十六日、三年に一回閏月をおいて四時を正した。」『中国古典文学大系 史記』上巻、10頁。(注②) 太陰太陽暦では、月の満ち欠けによる一箇月と太陽周期による一年を整合させるために、閏月を定期的に設ける必要があります。そのため、原文にはない「三年に一回」という閏月の周期を平凡社版『史記』には書き加えられたものと思われます。その〝出典〟は恐らく明治書院版『史記』の解説に見える次の記事ではないでしょうか(注③)。 「○以閏月正四時 太陰暦では三年に一度一回閏月をおいて四時の季節の調和を計った。中国の古代天文学では、周天の度は三百六十五度と四分の一。日は一日に一度ずつ進む。一年で一たび天を一周する。月は一日に十三度十九分の七進む。二十九日半強で天を一周する。故に月が日を逐うて日と会すること一年で十二回となるから、これを十二箇月とした。しかし、月の進むことが早いから、この十二月中に十一日弱の差を生ずる。故に三年に満たずして一箇月のあまりが出る。よって三年に一回の閏月を置かないと、だんだん差が大きくなって四時の季節が乱れることになる。」『新釈漢文大系 史記1』41頁。 この閏月について、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)より、二倍年暦の閏月のことと思われる『周易本義』の次の記事が紹介されています。 「閏とは、月の餘日を積んで月を成す者なり。五歳の間、再び日を積んで再び月を成す。故に五歳の中、凡そ再閏有り、然して後に別に積分を起こす。」朱熹『周易本義』 同書は南宋の朱熹が『周易』に注を付したもので、この五年経つごとに再び閏月が来るという暦法は、三十日を一月として、その六ヶ月を1年とする二倍年暦にのみ適合することを西村さんは論証されました(注④)。司馬遷が『史記』に記した堯の暦法記事の分析結果とこの西村説を総合すると、古代中国における二倍年暦の暦法が復原できるのではないでしょうか。以上、推論的作業仮説として提起します。(つづく) (注)
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古田武彦先生の遺訓(23)―没年齢記事が少ない「周本紀」以前― |
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『史記』(注①)を読んでいて気づいたのですが、「周本紀」以前の登場人物の没年齢記事が少ないのです。史書ですから、基本的には中心王朝の「王年」(各王の即位何年)で『史記』は編年されています。ですから、登場人物の年齢や没年齢の記載が必ずしも必要ではありません。そのような史料性格にあって、例外的に没年齢が推定できる次の年齢記事が見えます。 ○堯(百十八歳)「堯は即位して七十年たって舜をみいだして挙用し、それから二十年たって年老いて引退し、舜に天子の政を摂行させて、これを天に推薦した。つまり、事実上、舜に位をゆずって二十八年たつて崩じた。」五帝本紀、『中国古典文学大系 史記』上巻、12頁。 次いで「秦本紀」になると、先に紹介した百里傒の記事を含めて次の例があります。 ○寧公(二十二歳)「寧公は生まれて十歳で立ち、立って十二年で死んだ。」秦本紀、同、57頁。 以上の史料状況から、歴代秦公(王)の没年齢は一倍年暦と考えて問題なく、二倍年暦では没年齢が若くなりすぎて不自然です。司馬遷の時代(前漢代)は既に一倍年暦であり、「秦本紀」の秦公(王)の年齢も一倍年齢と司馬遷は理解していたはずですから、百里傒の百余歳については超高齢の珍しい例として『史記』に特記したのではないでしょうか。 「余(われ)聞く、上古の人は春秋皆百歳を度(こ)えて動作は衰えず、と。今時の人は、年半百(五十歳)にして動作皆衰うるというは、時世の異なりか、人将(ま)さにこれを失うか。」(『素問』上古天真論第一) 二倍年暦による「百歳」を一倍年暦表記と誤解し、「今時の人は、年半百(五十歳)にして動作皆衰う」のは「時世の異なりか」とあります。この記事からも前漢代での人の一般的寿命は五十歳と認識されていたことがうかがえます。なお、『黄帝内経素問』の書名は『漢書』芸文志に見えます(注②)。(つづく) (注)
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古田武彦先生の遺訓(24)―周王朝の一倍年暦への変更時期― |
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『史記』の採用暦については山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)がブログ上(注)で精力的に仮説を展開し、検討を続けています。古代暦法や暦日計算に疎いわたしは、山田さんの研究の行方を見守っている段階です。 ①西周建国前後の周王四代にわたって約百歳の寿命であり、このことから西周は二倍年暦を採用していると考えざるを得ない。 西村さんの見解は、『史記』に付されている黄帝から周の共和までの年表「三代世表」を根拠に、西周末期の共和までが二倍年暦で、その後に一倍年暦に改暦されたというものです。すなわち、司馬遷が『史記』編纂にあたり参照した史料を整理した結果が「三代世表」であり、それ以降の年表とは性格が異なっていることから、二倍年暦から一倍年暦という改暦による激変がこの間にあったと考えると、年表の大きな変化を説明できるというものです。
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古田武彦先生の遺訓(25) ―周代主要諸侯の暦法推定― |
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西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)とは、〝周王朝は二倍年暦を一倍年暦にいつ変更したのか〟という改暦年代の他に〝周代の主要諸侯が採用していた暦法〟についても意見交換を続けています。周代における主要諸侯国には、初代武王の同母弟の周公旦を開祖とする魯をはじめ、次の諸侯が知られています。ウィキペディアより転載します。 【主要諸侯】 ○魯 姫姓侯爵 開祖:周公旦(武王の同母弟) これら諸侯は西周時代は周と同じ二倍年暦を採用していたと推定していますが、西周末あるいは東周に至り、周が一倍年暦に改暦すると、それに従ってほぼ同時期に一倍年暦を採用した諸侯と、二倍年暦を継続使用した諸侯があったと、現時点では考えています。 (注)
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二倍年齢研究の実証と論証(6)―『延喜二年阿波国戸籍』の二倍年齢による偽籍説―
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『延喜二年(902)阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』の超高齢者群の存在と若年層の少なさという史料事実を「偽籍」という仮説により説明(論証)できることを平田耿二『日本古代籍帳制度論』(1986年、吉川弘文館)により知ったわけですが、同戸籍を精査すると「偽籍」説だけでは完全に説明することができないことがわかりました。それは次のような「戸」があるからです。 【延喜二年『阿波国戸籍』、粟凡直成宗の戸】 この戸主の粟凡直成宗(57歳)の両親(父98歳、母107歳)の年齢と、その子供たちの年齢(47~68歳)が離れすぎており、もしこれが事実なら、母親はかなりの高齢出産(出産年齢39~60歳)を続けたことになります。このような高齢出産は考えにくいため、この戸主の両親の年齢は、没後に年齢加算し続けたためとする単純な偽籍では、一世代間の大きな年齢差の発生を説明できないのです。
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斉明紀の「宮」と「難波朝」記事の不思議 |
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昨年末から『史記』を始め、中国古典を集中的に読んできたのですが、今日は久しぶりに『日本書紀』を読みました。その為か、とても新鮮な感覚で新たな発見が続きました。とりわけ、斉明紀に今まで気づかなかった面白い記事が見つかりましたので、その概要だけをいくつか紹介します。その一つは、斉明元年(655)十月条の次の記事です。 「小墾田(おはりだ)に、宮闕(おほみや)を造り起(た)てて、瓦覆(かはらぶき)に擬將(せむ)とす。又、深山廣谷にして、宮殿に造らむと擬(す)る材、朽ち爛(ただ)れたる者多し。遂に止めて作らず。」『日本書紀』斉明元年十月条 小墾田に宮殿を作ろうとしたが材木が朽ちていて遂に造れなかったという、どうということのない記事ですが、よく考えると通説では説明しにくい記事ではないでしょうか。というのも、この三年前の652年には巨大な前期難波宮がそれこそ大量の木材を使って造営されており、約四十年後の694年には更に巨大な瓦葺きの藤原宮を造営し、持統がそこに遷都しています。ですから、なぜか655年には材木がなかったので小墾田に宮を造れなかったなどということは、一元史観の通説や従来の古田説では説明できないのです。 「難波朝に於いて、北〈北は越ぞ〉の蝦夷九十九人、東〈東は陸奥ぞ〉の蝦夷九十五人に饗(あへ)たまふ。併せて百済の調使一百五十人に設(あへ)たまふ。仍(なほ)、柵養(きこう)の蝦夷九人、津刈の蝦夷六人に、冠各二階授く。」『日本書紀』斉明元年七月条 ※〈〉内は細注。 難波朝とありますから、前期難波宮で各地の蝦夷と百済からの使者を饗応したという記事です。この記事も九州王朝説に立つのであれば、九州王朝が前期難波宮で蝦夷国と百済国の使者をもてなしたと考える他ありません。従って、前期難波宮は九州王朝の宮殿と解さざるを得ないのです。
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古田武彦先生の遺訓(26)―平凡社『史記』の原文にない記事「三年に一回」― |
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「洛中洛外日記」2344話(2021/01/09)〝古田武彦先生の遺訓(22) 「一年は三百六十六日、三年に一回閏月をおいて四時を正した。」『中国古典文学大系 史記』上巻、10頁。(注①) この記事から、司馬遷が伝説の聖帝堯の時代から一年を三百六十六日とする一倍年暦であったと理解していることがわかるのですが、なぜ一年を三百六十六日としたのかが謎のままでした。「洛中洛外日記」2344話では司馬遷の暦法認識についての考察がテーマでしたので、この疑問については深入りしませんでした。 「歳三百六十六日、以閏月正四時」『新釈漢文大系 史記1』39頁、明治書院(注②)。 当該文について、同書には次の解説があります。 「○以閏月正四時 太陰暦では三年に一度一回閏月をおいて四時の季節の調和を計った。中国の古代天文学では、周天の度は三百六十五度と四分の一。日は一日に一度ずつ進む。一年で一たび天を一周する。月は一日に十三度十九分の七進む。二十九日半強で天を一周する。故に月が日を逐うて日と会すること一年で十二回となるから、これを十二箇月とした。しかし、月の進むことが早いから、この十二月中に十一日弱の差を生ずる。故に三年に満たずして一箇月のあまりが出る。よって三年に一回の閏月を置かないと、だんだん差が大きくなって四時の季節が乱れることになる。」同、41頁。 この解説によれば、太陰暦では三年に一度の閏月を置かなければならないということであり、そのため、原文にない「三年に一度」という解説を平凡社版『史記』では釈文中に入れてしまったということのようです。太陰暦の閏月の説明としては一応の理解はできますが、司馬遷が「歳三百六十五日」ではなく、「歳三百六十六日」とした理由はやはりわかりません。(つづく) (注)
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講演会案内
なし
集会案内
2021年
古田史学の会・関西2月例会
期日 | 2021年 2月20日(土) 午前10時〜午後5時まで |
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場所 | ドーンセンター 交通アクセスはここから 住所:大阪市中央区大手前1丁目3番49号 ・京阪「天満橋」駅、地下鉄谷町線「天満橋」駅1番出入口から東へ約350m。 |
2021年3月例会は、福島区民センターで20日おこないます。
関西例会は、毎月第三土曜日午前10時より午後5時です。
古田史学の会・東海 例会
案内は古田史学の会東海のホームページでご覧ください。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから