古田武彦著作集
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2012年12月刊行 古田武彦・古代史コレクション15

多元的古代の成立(下)

邪馬壹国の展開

ミネルヴァ書房

古田武彦

始めの数字は、目次です。

【頁】【目 次】

i はしがきーー復刊にあたって

001 第一篇 国家起源論批判

〈解題〉戦後社会における、一つの著明の対立点、それは国家起源をめぐる論争であった。戦前の紀元節を“継承”する戦後の建国記念日。その設定をめぐり認否の論が今も闘わされている。一は“国家には必ず起源があり、その象徴的なモデルを日本書紀の神武紀元記事に求めるは妥当。”とし、他は“神武架空は、戦後学界の定説、これを無視するような公的行事の設定は不当。”とするなど、容易に「論争」に結着のつきがたい様相を呈している。
     けれどもこれをわたしの視点から見れば、意外にも両対立者は“同じ土俵の仲間”であるように見える。なぜなら近畿天皇家中心の一元主義史観に立つ点において、両者軌を一にしているからである。さらに当記念日肯定論者の中にも、さすがに“神武天皇が日本列島を統一したもうた”ことを史実と見なした上での立論は少い。前述のように「シンボル化」した上での肯定論が多いようである。すなわち「神武の大和侵入」を実在視せぬ点、肯定論者側もまた意外にも、津田史学の「洗礼」をうけた、「津田以後」論者の風貌が濃いのである。
     これらに対してわたしの立場は異なる。神武は九州の一角、すなわち九州王朝(邪馬一国)の一辺境の一豪族の子として生まれた。ために九州という中枢の地において望みを失い、東なる銅鐸圏への侵入を企図した。そしていったん挫折(河内湾の敗北)したのち、迂回して大和盆地の一角への侵入に成功した小武装集団の長であった。これを史実と見なさぬ限り、大和盆地の弥生後期における銅鐸消滅という“孤立現象”を説明することは不可能である。同様に、九州なる「邪馬台国」の中枢権力が近畿へ移動したことを説くべき、いわゆる「邪馬台国東遷」論の非は、文献・出土物の双方によって厳格に立証しうる。
     「別冊歴史読本」(新人物往来社刊)二十三号に「国家の起源と『邪馬台国の東遷』」として掲載。なお同誌掲載の際誌面の都合で省略され掲載されなかった箇所を、本稿では補った。

 

017 第二篇 倭の五王の史料批判(故、野呂邦暢氏に捧げる)

〈解題〉敗戦によって戦前の皇国史観の古代史学はその命脈を絶たれ、代って津田左右吉の「造作」説が新たな「定説」となったのは、周知のところである。
      ところが、その戦後史学にとって一個の難問があった。かっての戦前史学の場合、「記・紀にかく記されている。」という記載事実は、すなわち「史実」と称しうる、そういう、いわば“幸福な”時代にあったといえよう。言を翻せば、史料操作安易の時代である。
      これに対し、津田命題によって記・紀史料の語る神話・説話類の「事実」性が基本において疑われた上、この命題をうけ入れることをもって出発点とした戦後史学の場合、記・紀史料をいかにして“利用”できるか、これが根本の難問となった。これに対する最大の救済策となったのが、倭の五王問題である。五世紀の宋書に記載された倭の五王、彼等は次々と南朝劉宋に朝貢し、その各年代が中国年号によって、明記されていた。従ってこれらの五王の全体がワンセットとして大体何天皇から何天皇までに当るか、これを比定できれば、記・紀史料、ことに大約五世紀以降の天皇系譜は“裏付け”をうる。すなわち史料としての信憑性をもつ。ーーこの基本認定が、戦後史学の担い手として登場した井上光貞氏等による、基本をなす方法論の“発見”だったのである。
      この場合、自明の大前提とされていたのは“日本列島に統一の王者は天皇家のみ。”という根本命題だった。
      けれども両者の比定にはあまりにも矛盾が多い。その点の指摘と共に、「定説」を補強せんとした、近来の各論者の各説に対し、克明な批判を加えた上、「倭の五王=九州王朝」を立証する論証(「衙頭の論証」)の成立することをのべたのが本稿である。
      序文と最終章(十以下)のみ、「季刊邪馬台国」八号(昭和五十六年四月)に掲載。

 

069 第三篇 九州王朝の証言

071          証言〈一〉
092          証言〈二〉
111          証言〈三〉ーー埼玉稲荷山古墳の「鉄剣」銘文について
130          証言〈四〉ーー「生口」論争について
146          証言〈五〉「定説」の崩壊
160          証言〈六〉後藤義乗氏と安本美典氏に答える
176          証言〈七〉安本美典氏と奥野正男氏に答える
192          証言〈最終〉

〈解題〉敗戦後“民衆の中に開放された古代史学”の時代が到来したかに見えたけれども、その実、論争は学界内にとどまっていたようである。たとえば、いわゆる「邪馬台国」論争を見ても、昭和二十〜三十年代の大半は、いまだその域内にあったといいうるであろう(藤間生大・井上光貞・直木孝次郎・上田正昭・牧健二氏等)。
      これに対し、三十年代より四十年代はじめにかけて、松本清張・宮崎康平・原田大六氏等の「邪馬台国」論が一般に公刊されるに及んで、関心は爆発的な拡がりを見せ、一挙に莫大な「著者群」の登場を見ることとなったこと、周知のところである。
      しかし反面、このような「流行」には、一個の問題点が蔵されていた。それは、各自各様の論議が展開されたことはまことに“慶賀”すべき現象であろうけれども、その各論間の応答、いわば論の噛み合わせとそれによる発展という、肝心の結実を欠いていたことである。この点、いわゆる古代史の専門家諸氏がこれらの間に提出された問題点を批判的に“くみ入れる”用意に欠けていたことも、見のがしがたいところであった。と同時に、他面、各発言者たち自身においても、先行発言者の論点を確実に受けとめて、これに対する賛否の論を的確に陳述する、そういう学的発展のために不可欠の用意に欠けていた、その点もまた、おそらく後代によって“責め”られねばならぬところであろう。
      このような見地から、わたしはわたしに対する批判説についてこれに対する認否と再批判の論述を行うべき必要を痛感してきた。
      この目的のために好個の機会の提供をえたものが「東アジアの古代文化」(大和書房刊)における八回(十六号〜三十号、昭和五十三年夏〜五十七年早春)にわたる連載であった。平易の口語文たるにつとめたものの、将来の研究者のために幾多の見のがしえぬ論点にふれているため、ここに特に収録させていただいた。

 

205 第四篇 古事記序文の成立について
       --尚書正義の影響に関する考察

〈解題〉本稿は、昭和二十年五月、東北大学法文学部、日本思想史科内部の研究会における口頭発表が、当時のまま集約し、再録されたものであるから、実質上、わたしの処女論文である。
      同年、同大学同科に入学し、恩師村岡典嗣先生より日本思想史特殊講義を受講した。テキストは、山田孝雄(よしお)氏の「古事記序文講義」であり、山田説の紹介とその批評を土台として先生自身の古事記観に及ばれた。山田説は漢文を重視しながらも、根本に日本の「精神」をうかがわんとする立場、村岡説は漢語・漢文は表面の修飾にすぎず、基本は古代的思想自体にありとする、いわゆる本居宣長の古事記理解を継承された立場であったように思われる。
      この講義を受講する間、わたしは大学図書館に関係書を渉猟するうち、「尚書正義」(漢、孔安国伝、唐、孔穎達疏)を見出し、その本文、上表(上五経正義表)の文脈・用語において、古事記の序文・本文(神代巻冒頭)との間に容易ならざる相似関係の存在するのを見出したのである。
      たとえば「習誦」(正義)と「誦習」(記)のような用語のみならず、両書(尚書と古事記)の成立事情まで、両者酷似していた。この問題については、武田祐吉氏等の先行研究があったが、問題は単なる“修辞の借用関係”にとどまりえぬ性格のものとわたしには見えたのである。
      先生にこれを報告すると、一新入生(十八歳)たるわたしのために研究発表会をもよおして下さった。その学問上の寛容に深く感銘したのを記憶する。
      後年(昭和三十年前後)、神戸の地より草創期の続日本紀研究会例会(大阪)に出席していた頃、直木孝次郎氏等のおすすめにより、「続日本紀研究」二 - 八(昭和三十年、八月)に掲載していただくをえた。

 

219 第五篇 古事記・日本書紀成立の根本問題
       --武烈・継体の断絶をめぐって

〈解題〉戦前史学(皇国史観)と戦後史学(津田史観)との対立が、現今古代史上の歴史学界の主要対立であるかのごとく見なしている論者、および一般の人々はいまだに多いことであろう。
     けれども学問上の真の内実において見れば、右のような大局の状況把握は、今やむしろ漸次旧見に属しつつあることを先ずのべさせていただきたい。なぜなら右の両者とも、近畿天皇家中心の一元主義史観にとって、あたかも両轍のごとき役割をもつものだからである。いいかえれば“一元史観にとって、昨日の支(ささ)え手は皇国史観であったが、今日の担い手は津田史観に他ならぬ”。 ーーこのように称しても、決して過言ではないのである。
     その証拠に、たとえば肝心の記・紀史料に対するとき、両史観側がともに「沈黙」して解明し能わぬ、重大なテーマが多々存する。たとえば、一に“なぜ古事記の説話は顕宗天皇記をもって断絶しているか。”という問い、二に“なぜ古事記に全く存在しない「景行天皇の九州大遠征説話」が、日本書紀には壮大なスケールで展開されているのか。”という問い、三に“なぜ、継体天皇が武烈天皇の正統の継承者でないという状況の明白な形(「品太ほむだ王〈応神〉五世の孫」等)で、記・紀ともにこれを明記しているのか。”という問い、また“筑紫の君、磐井は何等の「行動」をも実際にはおこしていないのに、なぜ記・紀はあえてこれを「反乱」と称しなければならなかったのか”という問い、また“継体天皇は、「反乱者」たるべき磐井を斬り、これに対して「完勝」したはずなのに、なぜ「糟屋屯倉の割譲」といった「些少の譲歩」をもって和睦せざるをえなかったのか。”という問いなどが今の焦点である。
     これらの重要問題に対する回答が極めて困難である点に、旧、一元史観根本のアキレス腱が存在した。新しき多元史観の立場からこれに簡明な解明を与えてみたい。未発表。

251         〈付〉記・紀のモデル

 

257 第六篇 考古学の方法
       --王仲殊論文をめぐって

〈解題〉日本古代史に対する学的研究の中に、中国側の考古学者の本格的な論作が加わるに至ったこと、その喜びを先ず特記したい。
 それは昭和五十六年の秋、日本側の各新聞に報ぜられ、大きな衝撃を考古学界・古代史学界に対して与えた王仲殊氏の「関干日本三角縁神獣鏡的問題」(「考古」第四期)である。
     氏は中国における古鏡の専門家としてつとにわが国に知られていた。その氏が今回、直接日本側の問題の鏡「三角縁神獣鏡」に対して直裁な研究を発表されたことの意義は大きい。しかもその内容は、第一に「当鏡は中国鏡(魏鏡)に非ず。」という明確な論断を含んでいたから、これが衝撃の最大の原因となった。ところが反面、当論文自身がしめし、かつ後ほど週刊誌・テレビ等で報ぜられたように、氏自身は依然「邪馬台国、近畿説」に立つことを明言せられたから、わが国の考古学界は、これに対し“朝に憂いを迎え、夕に喜びに遭う”かのごとき観を呈すると共に、混迷は一段と深まる様相を濃くしているのである。
     従来も、朝鮮半島側の学者側から日本古代史学界に対する批判があった(「分国論」等)。けれども、わが国の学的研究者の反応は必ずしも活発であったとはいいがたい。従って今回も、一喜一憂するに非ず、王氏の論点に対する検証を十二分に深めること、これが何よりの肝要事と思われる。
     実は日本列島内でも、王説と同一の提言(三角縁神獣鏡、非中国鏡説)が再三行われてきたにもかかわらず、考古学界の大勢はこれに対して“目をおおうて”黙殺しつづけてきた。
     今後この通弊をくりかえすことなきことこそ、日本の古代史学界・考古学界にとって、何よりも肝要であろうと思われる。
 わたしは本稿をもって王氏の机下に呈し、貴重な論文をわれわれのために公にされた、氏に対する謝辞に代えたいと思う。未発表。

 

283 第七篇 シルク・プルーフ(絹の証明)

〈解題〉考古学的出土物に対する最近の研究中、ことに瞠目すべきものに、弥生期における「絹」の出土の問題がある。
     京都において永年、古代絹に対する顕微鏡的・自然科学的研究に従事してこられた布目順郎氏の研究がこれである。氏によると、弥生期の日本列島における「絹」の出土は、筑前中域(わたしの命名。糸島・博多湾岸・朝倉を指す)に集中している。
     この事実は、倭人伝のさししめすところ、「絹の女王国」としての著明の特色をもつ卑弥呼の国(邪馬一国)は、この地帯以外にない、という帰結を率直にしめしている。わたしにはそのように思われる。
     けれども、そのさいの問題点は「年代」問題だ。右の「絹」出土時間帯はすべて弥生中期に集中し、これは考古学者が従来“一世紀前後”に当ててきたところであった。
     しかしながら人間の平明な理性に依拠して考える限り、中国文献に全く「絹の伝来」の記載のない、“一世紀前後”に「倭国絹・中国絹」の出土が集中し、逆に、両国の絹の豊富な交流の明記された(倭人伝)三世紀の時期(考古学者は「弥生後期後半」をこれに当てる)には、全く絹の出土事実がない、これは不審である。後代の研究者は、必ずこの背理・矛盾を指摘するであろう。
     そのさい肝心のポイント、それは「弥生期の絹の出土」は事実であるのに対し、その“一世紀前後”という「比定年代」は、一個の仮説に属する、という、この一点だ。仮説は、絶えず再検証をうけるにやぶさかであってはならぬ。これは学問上、根本の定則であろう。
     従来「年代比定」の一根拠とされてきた、王莽の「貨泉」類についても、新たな視野(後漢代の非公式使用及び製造。菅谷文則氏、昭和五十七年、日本考古学協会大会発表)の提示された現在、心ある考古学者の虚心の再検証を願い、あえてこの短文を末尾に付することとした。未発表

 

289 あとがきに代えて -- 江向栄氏の批判に答える

中国諸氏(王仲殊・ 江向栄)批判の応答 電子書籍(PDF)は、ここから

309 日本の生きた歴史(十五)

311          第一「弟と矛」の“まちがい”論
314          第二「天あまの沼弟ぬおと」論
318          資料『古事記』真福寺本における「矛」と「弟」(二)

1〜7 人名・事項・地名索引

*本書は『多元的古代の成立(下)』(駸々堂出版、一九八三年)を底本とし、「はしがき」と「日本の生きた歴史(十五)」を新たに加えたものである。なお、本文中に出てくる参照ぺージには適宜修正を加えた。

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古田武彦・古代史コレクション15

多元的古代の成立(下)
   -- 邪馬壹国の展開
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2012年 12月20日 初版第1刷発行

 著 者 古 田 武 彦

 発行者 杉 田 敬 三

 印刷社 江 戸 宏 介

 発行所 株式会社 ミネルヴァ書房

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© 古田武彦, 2012    共同印刷工業・兼文堂

ISBN978-4-623-06454-0

   Printed in Japan


はしがき ーー復刊にあたって

 前巻(「上」はしがき)に書いた。
 「多利思北孤(タリシホコ)は、己おのが祖、伸弥呼(ヒミカ)を誇りとしていた。」
と。この一文が、日本の歴史理解、真実の古代史を知るための、基点である。この基点に立たずには、古事記も日本書紀も、万葉集も風土記も、さらには古今集さえ、その真の姿、本当の「深相」を明らかにすることは、不可能なのである。
 しかし、明治以降の学界はもちろん、昭和二十年(一九四五)の敗戦以後の教科書も、大手メディアもすべて、百三十年間この「歴史の真実」に“目をおおうて”今日に至っているのである。

     二

 詳細は、改めてのべる。今はその出発点として、要旨のみ簡明にのべよう。
 第一、古事記の中に、外国、たとえば中国(北朝、南朝ともに)との“接点”が全く現われていないのはなぜか。「神代」より七世紀初頭(推古天皇の時代)まで、この日本列島が大陸の大国と「無関係」であったことなど、考えられない。当然、それらは「カット」されたからである。
 第二、日本書紀にもまた、当然存在した「南朝と倭国との交流」が除去されている。だから「倭の五王」(五世紀)も、「日出ずる処の天子」の「多利思北孤」(七世紀)も、一切出現しないのだ。虚構の歴史である。
 これは白村江の敗戦の、真の当事者である「九州王朝」をもって、「歴史に存在せず」とする、中国(北朝系の隋・唐)側の「望み」に答えたためである。北魏の「正史」としての魏書には、「倭国」は存在していない。その「伝統」を日本書紀は継受した。それで八世紀(七〇一以後)に成立した古事記や日本書紀には「九州王朝は全く存在しない」“形”になっているのである。

     三

 隋書は七世紀初頭、唐朝の「成立直後」に成立した。著者の魏徴等は「隋・初唐」の歴史官僚であり、倭国(「大倭たいゐ」を「イ妥たい」と表記)から贈られてきた「国書」を眼前にしつつ、隋書を書いた。その国書の「自署名」が「多利思北孤」だったから、そう書いた。それだけのことだ。例の「日出ずる処の天子」云々(うんぬん)の「名文句」は、その「眼前の保管資料」を前にして、“書き写した”のである。最高の史料価値をもつ。
 もちろんそれは「大和の推古天皇(女性)」などとは、全くの別人である。

     四

 同じ中国の史書でも、李延寿の書いた「北史」では、「多利思孤(タリシヒコ)」と書かれている。わが国の学界では、競うてこの「名前」を選び、日本書紀の誰・彼(聖徳太子や舒明天皇など)と“結び付け”ようと、腐心してきた。
 確かに、李延寿自身は「隋から唐の初期」にまたがる歴史家だ。その点、隋書の著者、魏徴とも「同時代人」である。
 しかし、「北史」の最後の「唐伝第八十八」に詳細に記されているように、七世紀中葉の顔師古たちが、これに多くの訂正を加えた。
 「私に修撰を為す」また「私に抄録を為す」といった“実状”が明記されている。それらは「備えて尋ね聞くを得た」ものに基づいた、という。今問題の「多利思孤」から「多利思孤」への「改ざん」も、その一つだったのであろう。倭国側で「卑狗(ヒコ)」が長官名であること(三国志の魏志倭人伝)などを“参照して”書き改めたのである。
 しがし、それは「多利思北孤」本人が自分の「自署名」を“まちがって”記載したわけでは、毛頭ない。その真相は、冒頭の一文にあった。これこそが「三世紀から七世紀にかけて」の、彼の基本の立場だったのである。
 この点、改めて詳述したい。

   平成二十四年九月十二日
                         古田武彦


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