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季報唯物論研究 第138号 ● 2017/2より掲載

「戦後型皇国史観」に抗する学問

古田学派の運命と使命

古田史学の会・代表 古賀達也

一.日本古代史学の宿痾

 日本古代史には宿痾とも称すべき不動の通念がある。それは神代の昔から日本列島の中心権力者は近畿天皇家であるという通念(近畿天皇家一元史観・古田武彦氏による造語)である。『日本書紀』成立以来、現在に至るまで続くこの通念は「近畿天皇家が日本列島の代表権力者とする『日本書紀』の歴史像の大枠は真実である」というものだ。そしてこの通念は学問的論証を経ていないにもかかわらず、戦前はおろか戦後の「民主教育」においても疑われることはなく、この通念に基づいて日本古代史が論じられてきた。
 その結果、通念にあわない史料事実や考古学的事実は無視ないし軽視され、ひどい場合は史料事実を誤りとして退け、原文改訂さえも学界は厭わなかった。その著名な例が、『三国志』倭人伝に見える倭国の中心国名「邪馬壹国(ヤマイ国)」を「邪馬臺(台)国(ヤマタイ国)」とする原文改訂である。
 この原文改訂は江戸時代の学者、松下見林によりなされており、その理由は日本国は古来よりヤマトの天皇家が代表者であるから、ヤマトと読めない倭人伝の原文「邪馬壹国(ヤマイ国)」をヤマトと読めそうな「邪馬臺国(ヤマタイ国)」に改めればよいというものであった。これは近畿天皇家一元史観というイデオロギーに基づくものであり、学問的論証の結果ではない。この見林による、近畿天皇家一元史観に不都合な史料事実は書き換えてよいとする非学問的な方法はそれ以後の日本古代史学の宿痾となった。

 

二.「邪馬台国」ブームの興隆と悲劇

 松下見林による近畿天皇家一元史観に基づく原文改訂という方法はその後の歴史家にも受け継がれた。しかも原文改訂は倭人伝の中心国名だけにとどまらない。その位置を示す方角記事「南に至る邪馬壹国」の「南」をも「東」としたのである。倭人伝に記された邪馬壹国への行程記事は朝鮮半島から対馬・壱岐を経て松浦半島・糸島平野・博多湾岸へと進み、その南に邪馬壹国があるとされているのだが、この方角が「南」では奈良県(ヤマト)に至らないので、「東」の誤りとする原文改訂がなされた。
 基本文献(基礎データ)を自説に都合よくあわせるために好き勝手に改訂(研究不正)するという方法が学者により公然と採用され、学界もまたそれを受け入れたのである。この瞬間、倭人伝研究は学問ではなく素人でも簡単に参入できる「趣味」の領域となった。アマチュア研究者による「邪馬台国」論争ブームの幕開けである。
 学者による原文改訂という方法を知ったアマチュア研究者が、自らの思いつきで自由に原文を改訂したり学問的手続きを経ずに自由に倭人伝を解釈した結果、全国各地に「邪馬台国」候補地の乱立という「百家争鳴」の様相を示したのはご存じの通りである。たとえば前述のように「南」を「東」に改訂してよいのなら、同様に「西」や「北」など三六〇度どこにでも「邪馬台国」の所在地を想定可能だからだ。
 おりからの出版ブームがそれを後押しし、その出版された非学問的な著書を読んだ別のアマチュア研究者が更に奇想天外な思いつきを競い合い、それを「学問的仮説」と称して出版するという学問的負の連鎖が一世を風靡した。学者が行っているような方法(論証抜きの原文改訂)を駆使し、自らの思いつきを「邪馬台国」ブームに乗って世に発表したいと考えるのは無理からぬことであり、出版社もそうした人々を「自費出版」というビジネスモデルの格好のターゲットとしたこともまた否定できない側面であろう。
 戦後の「邪馬台国」ブームにおいて最も悲劇的だったことは、原文改訂などの非学問的方法を古代史研究者自身が正せなかったことにある。どのような学問分野でも科学的根拠や学問的根拠を持たない俗説・誤論が世にはびこったとき、卓越した知識や専門性を持つ学者が「その方法や結論は誤っている」と警鐘を打ち鳴らすのが普通であろう。そうした責任と実力を有していることがプロとしての存在価値だからだ。ところが日本古代史学では学者が率先して自説に都合よく原文改訂するという「研究不正」に手を染めてしまっていたため、アマチュア研究者による同様の方法とその結果至った奇想天外な結論を「学問的仮説」と称することに真正面から批判できなかったのである。

 

三.邪馬壹国説の登場

 一九六九年九月、日本古代史学界に衝撃的な論文が発表された。古田武彦氏の「邪馬壹国」(『史学雑誌』)だ。それまで研究者の誰もが疑うことなく使用していた『三国志』倭人伝の中心国名「邪馬台国」は原文改訂されたものであり、原文通り「邪馬壹国」が正しいとする論文であった。従来、「邪馬壹国」は本来は「邪馬臺国」であり、「壹」と「臺」の字を書き間違えたものと論証抜きで取り扱われてきたのだが、古田氏は『三国志』にある「壹」と「臺」の字を全て調査され、この二つの字は正確に使い分けられており、誤って取り扱われた例がないことを証明された。従って、必要にして十分な論証なしで基本史料(倭人伝)の原文改訂を行うことは「否」であるとされた。更に当時「臺」の字は天子の宮殿を表し、魏の天子その人をも意味する神聖至高の文字であることを明らかにし、夷蛮の国名に使用されることはありえないとされたのである。確かに「邪馬壹国」のように「邪」や「馬」のような「卑字」を国名に使用しておきながら、自らの天子その人を意味する「臺」の字を『三国志』の著者陳寿が夷蛮の国名に使用するとは考えにくい。
 この『三国志』の「壹」と「臺」の全数調査という誰も試みなかった方法や、神聖至高文字という漢字の持つ時代背景と論理性の重視という古田氏の指摘や学問の方法は、それまでの「邪馬台国」研究とは比較にならないほどの圧倒的な説得力をもって読者に受け止められた。まさにこの古田氏の著書の出現はそれまでの恣意的な原文改訂を「是」としてきた学界の常識を否定し、古代史研究を異次元の高みへと引き上げたのである。
 この論文「邪馬壹国」はその年の最も優れた古代史論文と評価されたことからも、日本古代史学界に与えた衝撃の大きさがうかがえよう。そして一九七一年十一月には古田武彦氏の古代史処女作『「邪馬台国」はなかった 解読された倭人伝の謎』が朝日新聞社から出版された。同書は版を重ね、洛陽の紙価を高からしめた。その後も角川文庫・朝日文庫と出版社を変えながら復刻され、現在もミネルヴァ書房から古田武彦古代史コレクションの一冊として書店に並んでいる。

 

四.九州王朝説の登場

 『「邪馬台国」はなかった』に続き、古田氏は古代史第二著『失われた九州王朝 天皇家以前の古代史』(一九七三年)を同じく朝日新聞社から出版された。これら二書は『盗まれた神話 記・紀の秘密』(朝日新聞社、一九七五年)とともに「古田武彦初期三部作」と読者から呼ばれることになる。中でも『失われた九州王朝』は博多湾岸に存在した邪馬壹国の後継王朝「九州王朝(倭国)」について論じたもので、古代中国史書に記録された日本列島の代表国「倭国」は近畿の大和朝廷ではなく北部九州に君臨した「九州王朝」であることを中国史書などから明らかにされた。
 たとえば『旧唐書』には「倭国伝」と「日本国伝」が別国として表記されており、倭国は邪馬壹国の後継王朝としてその歴史が略述され、日本国は「倭国の別種」で小国だったが倭国の地を併合したと紹介されている。また『隋書』「倭国伝」(注(1) )も倭国の紹介記事に阿蘇山の噴火の様子が記されており、倭王は阿毎多利思北孤(アメ・タリシホコ)という男性であり、近畿天皇家の推古天皇(女性)とは異なる(注(2) )。このように古代中国史書に見える倭国は北部九州にあった国(注(3) )であり、近畿の「大和朝廷」ではありえない。また「九州王朝」は独自の年号(注(4) )を採用しており、その王族の末裔が現代に続いていることなども後に明らかとなった。
 このように、古代の日本列島において「九州王朝」を初めとして複数の「王朝」が並立あるいは勃興を繰り返したとする歴史理解を古田氏は「多元史観」と命名し、近畿天皇家一元史観に対抗する概念として提唱された。戦前のむき出しのイデオロギーに基づく皇国史観は、戦後史学においても「実証性」の装いをまとった「戦後型皇国史観」として継承された。それに対して古田氏は「多元史観」をもって日本古代史学界の宿痾に挑戦されたのである。

 

五.市民運動と古田史学

 古田史学・多元史観は、通説の基礎となる一元史観を完全否定するものであり、ともに天を戴くことが不可能な学説であった。このような古田史学は、通説やその学問の方法に疑問を抱いていた多くの古代史ファンやアマチュア研究者に多くの支持者を得たのみではなく、その論理的な学問の方法や学説に基づいた研究者をも陸続と生み出した。そしてその潮流は古代史分野における市民運動として日本各地に波及していった。同時に、学界や古代史ファンに衝撃を与えただけではなく、たとえば『「邪馬台国」はなかった』の最初の書評が池田大作創価学会会長(当時)により発表されたのをはじめ(注(5) )、各界の人士から少なからぬ賛意が表明された。
 一九八〇年頃には古田氏の読者・支持者により関西では「市民の古代研究会」が、関東では「古田武彦と古代史を研究する会(東京古田会)」が発足し、古田氏の講演会開催や会紙・研究誌の発行などの活動が盛んに行われるようになった。わたしも一九八六年に「市民の古代研究会」に入会し、幹事・事務局長を歴任するとともに、古田氏に師事し、日本古代史研究を始めた。入会当時は二百名ほどの会員数で推移していたが、事務局長就任以来会員拡大と全国の支部創設をわたしは意識的に行った。古代史ブームも重なり、「市民の古代研究会」は会員が千名近くまで急成長したのだが、古田史学・多元史観への支持とその影響力の増大に危機感を感じた古代史学界からは露骨な古田武彦外しが始まった。

 

六,学界からの無視と「古田外し」

 おりからの「邪馬台国」ブームと古田史学・邪馬壹国説の人気はマスコミからも注目をあび、たとえば朝日新聞社主催の「邪馬台国シンポジウム」のパネラーとして事前に古田氏に参加要請がなされたが、そのたびに「古田が参加するなら自分たちは参加しない」という他の一元史観のパネラーから圧力がかかり、古田氏に参加要請していたにもかかわらず二度にわたり古田氏抜きでシンポジウムが開催されたこともあった。
 学会誌に掲載される論文や書籍から古田説への言及や批判はおろか、引用文献・参考資料の項目からも古田氏の著作・論文は姿を消していった。それはまるで古田説の存在そのものを最初から無かったことにしようと、古代史学界で申し合わされたかのようであった。「古田外し」の現場をわたし自身も目撃したことがあるほどだ(注(6) )。こうした学界の対応は、古田説の根幹である「多元史観」が、旧来の通説(一元史観)を全否定するという論理性を有しており、従来説の部分修正などでは済まないという学説であったために必然的に招いた現象ともいえる。
 他方、一九九〇年頃には古田説を支持する最大の市民団体に成長した「市民の古代研究会」も様々な謀略に晒された。急激に増加した会員数と会活動を支えるために運営組織を肥大化させたことにより、心中では古田説を支持しない人々が「市民の古代研究会」の中枢(理事会)に入ってきたのである。

 

七.「古田史学の会」の創立と発展

 古田氏は『真実の東北王朝』(駸々堂出版、一九九〇年)において、青森県五所川原市飯詰の和田喜八郎家に伝わった「和田家文書」(注(7) )を紹介され、貴重な近世文書であると評価された。ところが、「和田家文書」を所蔵者による偽作とする「偽作キャンペーン」が勃発し、同文書を評価した古田氏も偽作に加担したとする熾烈な事実無根の古田バッシングが、古代史論争で古田氏と対立した安本美典氏らを中心として開始された。それはNHKの報道番組や「右翼」雑誌とされる「ゼンボウ」をも取り込んだもので、周到かつ執拗に続けられた。
 この古田バッシングと偽作キャンペーンに「市民の古代研究会」も翻弄され、理事会内部は反古田派と古田氏と距離を置こうとする中間派、そして古田氏を支持するわたしたちとに分かれて激しく対立した。中間派を取り込んだ反古田派が理事会で多数派となったため、藤田友治会長(故人)と事務局長のわたしは古田支持の理事と共に「市民の古代研究会」を退会し、一九九四年四月に「古田史学の会」(注(8) )を創立するに至った。この騒動の後、古田氏から離れた「市民の古代研究会」は内部分裂を繰り返し、解散した。
 迫害や中傷に屈しない筋金入りの古田史学支持者と研究者により創立された「古田史学の会」は順調に発展し、会紙『古田史学会報』(隔月刊)と論文集『古代に真実を求めて』(明石書店、年刊)などを発行し、ホームページ「新・古代学の扉」やfacebook「古田史学の会」も開設している。会員による地域組織として「古田史学の会・北海道」「古田史学の会・仙台」「古田史学の会・東海」「古田史学の会・関西」「古田史学の会・四国」が活動しており、今日では各地でその影響力を高めている(注(9) )。こうして古田説を支持・研究する古田学派は体勢を立て直し、「古田史学の会」は日本古代史研究団体として底辺を広げ、優れた研究陣を輩出するに至っている。会員の研究成果として会誌『古代に真実を求めて』の他、ミネルヴァ書房から『「九州年号」の研究』(二〇一二年)『邪馬壹国の歴史学』(二〇一六年)の二冊を上梓したことを特筆しておきたい。

 

八.古田学派の運命と使命

 二〇一五年十月十四日、古田武彦氏が亡くなられた。享年八九歳。奇しくも古田氏が深く敬愛された親鸞の没年齢と同じであった。わたしたち古田学派は亡師孤独の時代を迎えた。
 涙が乾く間もなく、翌二〇一六年一月十七日、大阪府立大学なんばサテライトにて「古田武彦先生追悼会」を執り行った。主催は「古田史学の会」「古田武彦と古代史を研究する会(東京古田会)」「多元的古代研究会」の三団体。共に志を同じくする人々だ。古田氏の著作を復刻された株式会社ミネルヴァ書房の協賛もいただいた。
 追悼会には全国各地からファンや研究者が参集された。次の方々からは追悼文が寄せられた(注(10) )。古田氏生前の親交の一端をうかがわせるものである。

 荻上紘一氏(大妻女子大学学長)、池田大作氏(創価学会インターナショナル会長)、佐藤弘夫(東北大学教授、前・日本思想史学会々長)、高島忠平氏(学校法人旭学園理事長、考古学者)、中山千夏氏、桂米團治氏(落語家)、森嶋瑤子氏(故森嶋通夫ロンドン大学教授夫人) ※順不同。肩書きは当時のもの。

 続いて一月二四日には東京の文京シビックセンターにて「古田先生お別れの会(東京)」を開催した。ここにも関東や東日本の会員やファンが多数集った。
 「古田史学の会」は困難で複雑な運命と使命を帯びている。その複雑な運命とは、日本古代の真実を究明するという学術研究団体でありながら、同時に古田史学・多元史観を世に広めていくという社会運動団体という本質的には相容れない両面を持っていることによる。もし日本古代史学界が古田氏や古田説を排斥せず、正当な学問論争の対象としたのであれば、「古田史学の会」は古代史学界の中で純粋に学術研究団体としてのみ活動すればよい。しかし、時代はそれを許してはくれなかった。そのため、多元史観という真実の古代史と古田氏の学問の方法を広く世に訴えるという社会運動も続けざるを得ないのである。従って、組織として二つの異なるテーマを用心深くバランスよく意識的に取り組まねばならないという複雑な運命を背負っているのだ。
 次いで、学問体系として古田史学をとらえたとき、その運命は過酷である。古田氏が提唱された九州王朝説を初めとする多元史観は旧来の一元史観とは全く相容れない概念だからだ。いわば地動説と天動説の関係であり、ともに天を戴くことができないのだ。従って古田史学は一元史観を是とする古代史学界から異説としてさえも受け入れられることは恐らくあり得ないであろう。双方共に妥協できない学問体系に基づいている以上、一元史観は多元史観を受け入れることはできないし、通説という「既得権」を手放すことも期待できない。わたしたち古田学派は日本古代史学界の中に居場所など、闘わずして得られないのである。
 古田氏が邪馬壹国説や九州王朝説を提唱して四十年以上の歳月が流れたが、古代史学者で一人として多元史観に立つものは現れていない。古田氏と同じ運命に耐えられる古代史学者は残念ながら現代日本にはいないようだ。近畿天皇家一元史観という「戦後型皇国史観」に抗する学問、多元史観を支持する古田学派はこの運命を受け入れなければならない。
 しかしわたしは古田史学が将来この国で受け入れられることを一瞬たりとも疑ったことはない。楽観している。わたしたち古田学派は学界に無視されても、中傷され迫害されても、対立する一元史観を批判検証すべき一つの仮説として受け入れるであろう。学問は批判を歓迎するとわたしは考えている。だから一元史観をも歓迎する。法然や親鸞ら専修念仏集団が国家権力からの弾圧(住蓮・安楽は死罪、法然・親鸞は流罪)にあっても、その弾圧した権力者のために念仏したように(注(11) )。それは古田学派に許された名誉ある歴史的使命なのであるから。
 本稿を古田武彦先生の御霊に捧げる。
        (二〇一六年十二月三十日記)

 

(注)

 (1) 『隋書』の原文では「イ妥(タイ)国」とする。「大委(タイイ)国」の「一字国名」表記と思われる。

 (2) 九州王朝の天子、多利思北孤については『盗まれた「聖徳太子」伝承』(古田史学の会編、明石書店。二〇一五年)に詳述されているので参照されたい。

 (3) 倭国(九州王朝)の首都は七世紀においては太宰府(福岡県太宰府市)と考えられている。

 (4) 倭国の年号(九州年号)は「継躰元年(五一七)」から「大長九年(七一二)」まで続いたことが後代史料や金石文の研究により判明している。詳細は『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房。二〇一二年)、『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(古田史学の会編、明石書店。二〇一七年三月)を参照されたい。

 (5) 池田大作「批判と研究」(一九七二年一月十五日『週刊読売』掲載)。その後、池田大作著『きのうきょう』(一九七六年、聖教新聞社)に収録。

 (6) 滋賀大学で開催された古代の武器に関する学会に古田氏と共に聴講したときのことだが、会場からの質問を受け付けるとき、何度も挙手を続ける古田氏を司会者は無視し続けた。他の質問者もなく古田氏のみが「お願いします」と挙手を続けるのだが、司会者の無視の態度を不審に思った会場の参加者からどよめきが起こり、とうとう司会者は古田氏を指名するに至った。古田氏の質問を認めたときの司会者のこわばった表情を忘れ難い。同学会の「重鎮」たちの顔色を気にしながらのことだったようである。

 (7) 江戸時代の主に寛政年間頃に秋田孝季により著された史料(『東日流外三郡誌』他)の写本(多くは明治・大正期の書写)を初めとする文書群。わたしは約二百冊ほどを実見した。

 (8) 「古田史学の会」代表は水野孝夫氏、古賀は事務局長として参加した。その後二〇一五年六月に古賀が代表に、正木裕氏が事務局長に就任し、今日に至る。

 (9) 「古田史学の会」主催講演会では会員のみならず、著名な考古学者・自然科学者を講師に招いている。他方、久留米大学や愛媛大学などで会員が講師として招かれ、古田史学を紹介している。

 (10) 追悼文は『古田武彦は死なず』(古田史学の会編、明石書店。二〇一六年)に収録した。

 (11) 親鸞研究は古田氏の母なる学問領域であり、優れた研究業績を残されている。次の著書が有名である。『親鸞 -- 人と思想』(清水書院、一九七〇年)、『親鸞思想 -- その史料批判』(冨山房、一九七五年。後に明石書店より復刻)


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