古田史学の会編
「巻頭言 真実を求めよう」、「編集後記」は下にあります。最後の数字は目次です。
1 九州年号の史料批判
2 九州年号と日本書紀の関係について
3 日本書紀の構成法
4 斉明天皇論
5 九州年号と神籠石山城
1 「三壬子年」木簡
2 「三」か「元」か
3 「元壬子年」だった
4 九州年号木簡の「発見」
1 「元壬子年」木簡の証言
2 「元壬子年」木簡の論理
3 「大化五子年」土器の証言
4 「白鳳壬申」骨蔵器の証言
1 鬼室集斯墓碑の朱鳥年号
2 大化五子年土器と干支のずれ
3 残された課題
1 『続日本紀』『類従三代格』の白鳳
2 改変された白鳳年号
3 改変型白鳳年号金石文
4 白鳳年号盗用の論理
1 法興年号の時代と地域
2 イ妥国の支配領域
3 法王の語義と『法華経』の伝来
1 変質した「学問の自由」
2 実在した九州年号
3 朱鳥改元記事の謎
4 盗まれた九州年号
5 朱鳥元年の徳政令
6 戦後賠償と大地震による筑紫の疲弊
7 新王朝による「徳政令」の追認
8 朱鳥元年に没した天武と虎丸長者
1 実在した白雉年号
2 盗用された白雉年号
3 二年ずらされた白雉年号
4 白雉改元の宮殿はどこか
1 難波宮跡に立つ
2 太宰府と前期難波宮
3 天武の副都建設宣言
4 難波宮炎上と朱鳥改元
5 前期難波宮の名称
6 副都の定義
1 大化改新と前期難波宮
2 「大化改新」論争と西村命題
3 「大化二年」改新詔の真実
4 評から郡への移行
5 「大化改新詔」五十年移動の理由
1 天武・持統紀の三十四年遡上と九州年号
2 九州年号と書紀に関する先行研究
3 九州年号同士の入れ替え事例
4 九州年号と書紀年号の入れ替え
5 残された九州年号
6 三十四年遡上編纂の「目的」
1 辛酉年改元の淵源
2 甲子年革令の淵源
3 十七条憲法と九州王朝の構造改革
1 仏教伝来はいつか
2 『二中歴』に見える一切経伝来記事
3 『二中歴』と『日本書紀』の仏教関連記事の比較
4 善光寺「命長七年文書」の史料批判
5 九州年号に見られる仏教の影響
1 九州年号の誤写誤伝
2 倭京縄の意味
3 聖徳太子伝中の遷都予言
4 「太宰府」建都の年代
1 『海東諸国紀』の九州年号
2 わたしの方法論
3 『二中歴』との比較
4 九州王朝の太子殺害事件
5 九州王朝の近江遷都
6 九州王朝記事抽出の展望
1 九年間続いた「大長」
2 消された隼人征討記事
3 宮崎県王の山出土の玉璧
4 『襲国偽僭考』の大長
1 盗用された九州年号
2 九州年号改元の契機・要因
1 一変した「学問の自由」
2 古田史学、九州王朝説の誕生
3 九州王朝の筑後遷宮
4 筑後地方の九州年号
5 イデオロギーから学問へ
1 年代歴の史料批判
2 人代歴の史料批判
1 九州の宗廟
2 「善紀元年記」
3 筑紫の年号
1 九州年号真作論の系譜
2 新井白石の理解をめぐって
3 「九州年号」への言及
4 貝原益軒の理解をめぐって
5 益軒・好古の学問の方法
6 益軒以後の偽作論
「巻頭言 真実を求めよう」 書き下ろし
「序 九州年号論 --日本書紀批判」 書き下ろし
第 I 部 金石文・木簡に残る九州年号
1 「木簡に九州年号の痕跡 --「三壬子年」木簡の史料批判」 『古田史学会報』七四 二〇〇六/六/六
2 「『元壬子年』木簡の論理」 『古田史学会報』七四 二〇〇六/八/八
3 「二つの試金石 --九州年号金石文の再検討」 『古代に真実を求めて』二 一九九八/一〇/三〇
4 「盗まれた年号 --白鳳年号の史料批判」 『多元』四七 二〇〇二/一
5 「法興年号の一視点」 『古田史学会報』四 二〇〇六/一二/二〇
第II部 九州年号から見た日本書紀
6 「朱鳥改元の史料批判」 『古代に真実を求めて』四 二〇〇一/一〇/一〇
7 「白雉改元の史料批判 --盗用された改元記事」 『古田史学会報』七六 二〇〇六/一〇/一〇
8 「前期難波宮は九州王朝の副都」 『古田史学会報』八五 二〇〇八/四/八
9 「大化二年改新詔の考察」 『古田史学会報』八九 二〇〇八/一二/一六
10 「日本書紀の編纂と九州年号」 『古田史学会報』七九 二〇〇七/四/一三
第 III部 九州年号による九州王朝研究
11 「『両京制』の成立 --九州王朝の都域と年号論」 『古田史学会報』三六 二〇〇〇/二/一四
12 「辛酉革命と甲子革令の王朝 --九州年号と十七条憲法の史料批判」 『古代に真実を求めて』五 二〇〇二/七/一〇
13 「九州王朝仏教史の研究 --経典受容記事の史料批判」 『古代に真実を求めて』三 二〇〇二/一一/三〇
14 「太宰府」建都年代に関する考察 --九州年号「倭京」「倭京縄」の史料批判」 『古田史学会報』六五 二〇〇四/一二/九
15 「九州王朝の近江遷都 --『海東諸国紀』の史料批判」 『古田史学会報』六一 二〇〇四/四/一
16 「最後の九州年号 --「大長」年号の史料批判」 『古田史学会報』七七 二〇〇六/一二/八
17 「続・最後の九州年号 --消された隼人征討記事」 『古田史学会報』七八 二〇〇七/二/一〇
18 「隠された改元 --九州年号の改元から探る九州王朝の歴史」 書き下ろし
第IV部 後世に遺された九州年号史料
19 「筑後地方の九州年号 --古代九州王朝の真実」 『耳納』二三六 福岡県浮羽・三井耳納教育会 二〇〇一/二
20 「『二中歴』の史料批判 --人代歴と年代歴が示す九州年号」 『古田史学会報』三〇 一九九九/二/二
21 「本居宣長『玉勝間』の九州年号』 --「年代歴」細注の比較史料」 『古田史学会報』六四 二〇〇四/一〇/一二
22 「『宇佐八幡宮文書』の九州年号」 『古田史学会報』五九 二〇〇三/一二/三
23 「『平家物語』の九州年号 --「安徳台」余話」 『古田史学会報』五八 二〇〇三/一〇/一〇
第V部 九州年号研究史
24 「九州年号」真偽論の系譜」 『古代に真実を求めて』八 二〇〇五/三/三〇
25 「九州年号・九州王朝説 --明治二十五年」 『古田史学会報』六五 二〇〇四/一二/九
「編集後記」 書き下ろし
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シリーズ<古代史の探求>9
「九州年号」の研究
近畿天皇家以前の古代史
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2012年 1 月10日 初版第1刷発行
著 者 古田史学の会
発行者 杉 田 敬 三
印刷社 江 戸 宏 介
発行所 株式会社 ミネルヴァ書房
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©古田史学の会ほか, 2012 共同印刷工業・藤沢製本
ISBN978-4-623-06141-9
Printed in Japan
古田史学の会・代表 水野孝夫
わたしの生年は昭和十年です。このようにいうときの、この「昭和」が年号(または、元号)です。歴史上の年代を数えるとき、「何々王の治世。第何年」という数え方は、かつて世界中で行われました。その数え方の基準に、特定の名前をつける。たとえば「上元」という元号は中国で始まったといわれます。日本列島では、『日本書紀』に孝徳天皇のとき「大化」という年号(または、元号)があったと記録されており、これが日本の最初の年号であると学校では教えられます。年号と元号の定義は厳密には違いますが、普通は混同して使われていますので、以下は「年号」と記すことにします。
年号を、ある国家で歴史上初めて定めることを、「建元」といいます。国定の歴史書『続日本紀』には、「大寶(当用字では大宝)」と「建元」したと書かれています。西暦七〇一年にあたる年です。そうすると日本国が正式に「建元」する前に「大化」などの年号があったことになります。調べると、いろいろな本や、寺社の棟札や記録などに古代の年号が記録されており、大化より古いものも多く、江戸時代などには盛んに研究されていました。
年号(または元号)は、日本では天皇(の政府)だけがこれを定める権限があります。明治以後は、こんな古代年号を研究することは、天皇の尊厳を損なうという理由で制限されてきました。戦後はそんな制限はありません。真実を明らかにすべきです。しかし真実が「天皇家に失礼」であるとは限らないと思います。
古田武彦氏は著書『失われた九州王朝』のなかで大宝以前、大化以前の年号を発掘されました。これに刺激された人々の研究を集めたものが本書です。古代の年号にはまだまだ不明のことがらが一杯あるし、それらが記録されている文献などがどれほどあるか不明です。関心のある方々の研究の刺激になることを願っています。
この本の題名『「九州年号」の研究』に取り入れた「九州年号」という用語を説明します。これは古田武彦氏が『失われた九州王朝』で提唱された「九州王朝」(日本列島の九州島のなかに都を置いた王朝、名目上は全日本列島を支配領域と主張していたと思われるが、実質上の支配領域は未解明、中国文献には「倭国」などと記される)が、使用した年号の意味で使用していますが、この本の共著者たちの発明した用話ではなく、直接には江戸時代の学者・鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)が著書『襲国偽僭考』で、「今本文に引所は九州年號と題したる古寫本によるものなり」としたことを基準にしています。つまり「九州年号」という用語は、江戸時代にはすでにあったということです。この「九州年號と題したる古寫本」は鶴峯以外に見た人の報告はないとされ、本も発見されていませんから、鶴峯が古写本を見たことを疑う意見もありました。しかし鶴峯は『襲国偽僭考』のなかに「九州年號」の語を七回も使用し、堂々と世間に通用していた有名な学者ですから、疑うべき理由はないでしょう。また、明治二十五年(一八九二)の今泉定介「昔九州は独立国にて年号あり」という論文では、その古代年号を書名『九州年号』により列挙していることは、本書中の冨川氏論文にあります。
鎌倉時代ころに編集された『二中歴』という書物があります。『掌中歴」と『懐中歴』という二種類をひとつにまとめたから『二中歴』です。名前から明らかに「携帯用歴史辞典」です。そんなポケット辞典を必要とするのは誰でしょうか。貴族や官僚たちでしょう。『二中歴』のなかの「年代歴」という部分が「大宝」以前の年号集、つまり「九州年号集」です。明治政府のプロジェクトとして明治十二年から編纂がはじまり、明治二十九年から刊行された『古事類苑』という膨大な歴史辞典のなかには『二中歴』中の「年代歴」や『襲国偽僭考』も収められています。このころはまだ有力学者たちも大宝以前の年号をよく知っていたのです。ただ日清・日露戦争の時代となると、「書紀絶対主義=皇国史観」に反すると考えられる事実などの研究は攻撃を受け、帝国大学教授とか教科書編纂官とかであっても首が飛ぶ時代となったのです。
「大化改新」というのは明治期に作られた教科書用語ですが、「改新詔」という用語は『日本書紀』にあり、改新詔は孝徳天皇の年号・大化二年に発せられたように書かれています。
ただし現代の学生・生徒は「大化改新=虫の如く(六四五年)入鹿を殺す」の語呂合わせで年代を記憶します。つまり、入鹿を殺したクーデターが大化改新の本質であるかのように捉えられているのです。
改新とは政治制度の改革であって、クーデターはその中心的な事柄ではないはずなのに、人々の心にそのように残るのです。歴史学ではクーデターのことは「乙巳の変」と呼び、政治制度改革「大化改新」とは区別しますが、この政治制度改革が六四五年にはまだ起こっていなかったという研究がいろいろあり、「大化の改新はなかった」という立場の研究者もおられます。
たとえば行政区画の呼び方は、改新詔では「郡」と呼ばれたはずです。ところが木簡などの資料は、行政区画の呼び方は七〇〇年までは「評」であったことを示し、七〇一年以降やっと「郡」になったと考えられています。ここには歴史の真実に迫ることのできる断片が、露呈されているものと思います。
歴史研究に必要な史料は、かつては学者たちのものでした。図書館や博物館が整備されても史料がいつも公開されているとは限りませんでした。コンピュータとインターネットの発達が、こんな状況を変えつつあります。古典や資料集などが続々と電子データとして整備され、文化財の写真データなども公開されつつあります。
かつて古田武彦氏は「邪馬壹国」を研究するために、中国の歴史書『三国志』の全文から「壹」という文字と「臺」という文字をすべて拾い出して、「壹」と「臺」字が良く似ているからといって混同されてはいないことを証明されました。大変な作業で、拾い出し誤りもありました。いまでは『三国志』は全文が電子データとして無料で利用できます。
『三国志』テキストには斐松之がつけた注釈があり、紙の本では注釈の文字は小文字になっていて、小文字のほうが本文の数倍あると思われていました。いまでは本文の方が、注釈よりも文字数が多いことが明らかになっています。
もちろん電子データも人間が加工したものですから、誤字の間題などはありますし、確認は欠かせませんが、作業が軽減されることは確実です。たとえば「大正新修大蔵経テキストデータベース」、これは世界中の仏教経典を集めたものですが、仏典といっても歴史書から物話まで含んでいる。図書館の棚一杯を占領している厚い本八十五冊分のテキストが一瞬に検索できます。試しに「大化」を検索すると三二〇件ありました。もちろん年号と関係があるとは限りません。前記の『古事類苑』も電子テキスト化されています。
つまり素人でも発想さえよければ、新しい研究が、学閥などにとらわれることなくできるのです。固定観念がないだけ、素人の方が歴史の真実に迫れるのかもしれません。生まれたときからコンピュータやインターネット環境に親しんでいる若い人達が、年号の研究から、歴史の真実に辿っていただけたらと念願して、この本を世に送る次第です。
古田武彦先生が日本古代史学の分野に多元史観を提唱され、その中核をなす九州王朝説はそれまでの大和朝廷一元史観の閉塞を打ち破り、真実の古代史像をわたしたちの眼前に示されたのであるが、その主要テーマの一つが九州王朝(倭国)の年号「九州年号」であった。
以来、古田先生を初め古田説支持者による九州年号研究は、各地に遺存する九州年号や九州年号史料の調査発掘という第一段階を経て、その年号立ての原形論研究という第二段階へと発展したのであるが、『二中歴』所収「年代歴」の九州年号が最も原形に近いとする一定の「結論」を迎えた後は、その九州年号に基づいた九州王朝史の究明というテーマを中心とする第三段階へと進んだ。本書はその第三段階での主たる研究論文などにより構成されている。
本書には、正木裕さんと冨川ケイ子さんの秀逸の論文を収録できた。お二人は「古田史学の会」における優れた研究者であり、わたしも関西例会などで繰り返し意見を闘わし、共に研究を進めてきた学問的同志である。
正木さんの、九州年号を足がかりとした『日本書紀』の史料批判による九州王朝史復原研究は、近年の古田学派における質量ともに優れた業績である。冨川さんによる、明治時代における九州年号研究の発掘は、古写本「九州年号」の実在を鮮明にしたものであり、同写本の再発見をも期待させるものである。
最近の十年間における最も大きな九州年号研究の成果といえば、やはり「元壬子年」木簡の「発見」であろう(芦屋市三条九ノ坪遺跡、一九九六年出土)。当初、この木簡は『日本書紀』の白雉年号にあわせて「三壬子年」と解読されてきたが、わたしたちによる再検査により、その文字は「元壬子年」であり、『二中歴』などに記されている九州年号の白雉元年壬子(六五二)に相当する九州年号木簡であることが判明したのである。
同木簡の写真と赤外線写真(大下隆司さん撮影)を本書冒頭に掲載した。九州王朝や九州年号を認めない大和朝廷一元史観の古代史学界はこの九州年号木簡の 「発見」に対して、今も黙殺を続けているが、それでこの木簡が消えて無くなるわけではない。九州王朝と九州年号の真実の歴史の「生き証人」として、この木簡は古代史学界を悩ませ続けるに違いない。
本書の序文は「古田史学の会」代表水野孝夫さんからいただいた。水野さんもまた「古田史学の会」草創の同志であり、人生の先輩でもある。本書を「古田史学の会」の事業として出版することに御賛同いただいたものであり、感謝に堪えない。古田先生からは巻頭論文を新たに書き下ろしていただいた。ありがたい御配慮である。
わたしが古田武彦先生の著作に感銘し、その門を叩いたのは今から二五年前のことである。以来、古田先生の学説や学問の方法に学び、主たる研究テーマの一つとして九州年号の研究に没頭してきた。その二五年間の集大成ともいうべき本書を上梓することにより、学恩に僅かでも報いることができれば、まことに幸いとするところである。
二〇一一年七月二四日 記 古賀達也
九州年号 --古文書の証言 古田武彦(『市民の古代』第11集1989年)