『失われた九州王朝』
『よみがえる九州王朝』
(二中歴による)九州年号 総覧

八女郡星野村行 古賀達也(『新・古代学』第6集)


古田史学会報 2001年6月6日 No.44
筑後地方の九州年号

古代九州王朝の真実

京都市 古賀達也

 はじめに

 私が子供の頃、わが国における年号の最初は、孝徳天皇の時代の「大化」(六四五〜六四九)からと教えられた。そして「白雉」(六五〇〜六五四)と続き、その後断絶し、「朱鳥」(天武十四年、六八六)が一年だけ存在し、「大宝」(元年は文武五年、七〇一)から現在の平成まで連綿と続いたとされている。これがわが国における一般的な年号教養であろう。元号の使用や法制化への賛成・反対を問わず、こうした理解が不動の通念として、明治以後の公教育の絶対的指針とされてきた。もちろん、戦後民主教育においても、この点、微動だにしていないところ、周知の事実である。
 江戸時代はそうではなかった。鶴峯戊申や藤井貞幹、貝原益軒など天皇家の史書に見えない年号の存在について論じ、著していた。たとえば、鶴峯戊申は著書『襲国偽潜考(そのくにぎせんこう)』において、六〜七世紀にかけて九州地方で使用された古代年号群を紹介している。鶴峯戊申はそれら古代年号群を古写本「九州年号」という書物から写したと述べている。このように江戸時代の学者達は天皇家以外の権力者が公布使用した年号について自由に論じ合った。
 しかし、明治維新以後こうした「学問の自由」は一変した。天皇家は古代より唯一の卓越した列島の代表者であり、年号を公布出来る唯一の公権力者であるという明治政府のイデオロギー(皇国史観)により、鶴峯戊申らが紹介した古代年号群は後代に偽作された偽年号とされ、論争はおろか学問(歴史教育)の対象にもされなくなったのである。この近畿天皇家一元史観による古代年号の「抹殺」は、戦後の「民主教育」においても踏襲された。すなわち、右翼も左翼も、戦前も戦後も、近畿天皇家一元史観という歴史理解の大枠を遂に疑わなかったのである。 古田史学、九州王朝説の誕生 歴史学者、古田武彦氏がこうした天皇家以外の古代年号を、志賀島の金印を貰った倭国の王者の後継である九州王朝が公布した年号、「九州年号」であるとする説を、その著書『失われた九州王朝』(朝日新聞社刊、現在は朝日文庫に収録)で発表したのは一九七三年のことであった。以来、九州年号研究は全国の古田武彦氏を支持するその読者により、深められていった。その中で、現存する最古の九州年号群史料として、『二中歴』(平安時代の辞典類、尊経閣文庫に鎌倉期古写本収蔵)に収録されている「年代歴」が九州年号の原型である可能性が高いことが判明した。「継体」から「大化」(西暦五一七年〜七〇〇年)まで連綿と続く、この見慣れぬ年号群こそ古代九州王朝により建元され改元された九州年号である。天皇家が「建元」したと『続日本紀』に記されている「大宝」に先立つこと、約百八十年前のことである。なお、『日本書紀』に記されている「大化」「白雉」「朱鳥」の三年号はいずれも「改元」とされており、初めて年号を立てたときに使用する「建元」という表記は使用されていない。すなわち、「大化」が天皇家の最初の年号ではないことを、『日本書紀』自身も告白していたのである。これら三年号はいずれも九州年号からの盗用だったのだ(「大化」はその時間的位置も五十年ほどずらして盗用されている)。
  九州年号の中でも最も著名な年号は「白鳳」であろう。それは現在でも、「白鳳時代」とか「白鳳文化」といった用語として使用されている。この「白鳳」こそ九州年号中、最長の二十三年間(六六一〜六八三)続いた年号である。この「白鳳」年号は実は天皇家の史書『続日本紀』に、聖武天皇の詔報として記録されている。
次の通りだ。

「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。」
『続日本紀』神亀元年冬十月条(七二四)

 聖武天皇自らが「白鳳」「朱雀」という九州年号の存在を前提として発言していたのである。九州年号実在の証言として、これ以上の証言はないのではあるまいか。九州王朝を滅ぼした側の王朝の代表者が述べた言葉なのであるから。

 

 九州王朝の筑後遷宮

 九州王朝とは、志賀島の金印を貰った委奴(いど)国王、邪馬壱国(やまいちこく 注1)の女王卑弥呼、中国南朝に朝貢した倭の五王、筑紫の君岩井、日出ずる処の天子として国書を隋に出した阿毎多利思北孤(あめたりしほこ)、白村江戦で敗れ唐の捕虜となった筑紫の君薩夜麻と、弥生時代から七世紀末まで連綿と続いた日本列島を代表する倭王の王朝である。
その主たる都は太宰府だ。太宰府とは本来、中国の天子の直轄行政府のことでるが、その太宰府が九州島(福岡県太宰府市)にあることこそ、この九州島に天子が居た証拠でもある。また、太宰府都府楼跡には「紫宸殿」「大裏(内裏)」など、天子の居所を意味する字地名が現存する(注2)
 ところが四世紀から五世紀にかけて、九州王朝(倭国)は高句麗、新羅と交戦状態に入り、糸島・博多湾岸まで戦火は広がった。こうした異国からの攻撃の伝承が北部九州の寺社縁起などにも頻出するが、この時期、九州王朝はより安全な筑後地方へ遷宮したようである。筑後川を天然の大濠としたのだ。装飾壁画古墳が筑後川以南の水縄連山や阿蘇外輪山に現れるのも、この筑後遷宮の時期に一致しているようである。また、三瀦の大善寺には「天皇屋敷」という屋敷があったことが『太宰管内志』に紹介されているし、九州王朝の末裔とされる稲員家系図(高良玉垂命の子孫)には、「○○天皇」「○○天子」といった名称が見える。さらに、久留米市山川町には高良玉垂命の九人の子供が「九躰皇子」という尊称で祀られている。これらは、九州王朝筑後遷宮説の傍証ともいえる史料である。
 万葉集にも次の歌が見え、三瀦に都が置かれたことを示しているようである。

「おおきみは 神にしませば 水鳥のすだく水沼を皇都となしつ」
     『万葉集』巻十九 四二六一 作者不明

 

 筑後地方の九州年号

 筆者等の調査によれば、九州年号は北は青森県五所川原市の「三橋家文書・系図」(善記)から南は鹿児島県指宿市の『開聞故事縁起』(白雉・白鳳・大化・大長)まで、全国各地の古文書に現れているが、やはり九州王朝の都があった北部九州に濃密に分布する。本稿では筑後地方の文書に見える九州年号を紹介したい(次頁の一覧参照)。この他に読者がご存じの九州年号使用文書(筑後地方)があればご教示賜りたい。

【筑後地方の九州年号使用史料一覧】
 九州年号   西暦     出典・備考
 善記 元年  五二二     大善寺玉垂宮縁起
 明安戊辰年  五四八    久留米藩社方開基、三井郡大保村「御勢大霊大明神再興」 ※『二中歴』では「明要」。
 貴楽 二年  五五三     久留米藩社方開基、三井郡東鰺坂両村「若宮大菩薩建立」
 知僧 二年  五六六     久留米藩社方開基、山本郡蜷川村「荒五郎大明神龍神出現」 ※『二中歴』では「和僧」。
 金光 元年  五七〇      柳川鷹尾八幡太神祝詞、久留米市教育委員会蔵。
 端正 元年  五八九     大善寺玉垂宮縁起軸銘文・太宰管内志 ※二中歴では「端政」。
 白鳳 九年  六六九     筑後志巻之二、御勢大霊石神社※元年を六七二とする後代の改変型「白鳳」の可能性も有り。
 白鳳 九年  六六九     永勝寺縁起、久留米市史。久留米市山本町 ※同右。
 白鳳 元年  六七二     全国神社名鑑、八女市「熊野速玉神社縁起」 ※元年を六七二とする後代の改変型「白鳳」。
 白鳳十三年  六七三     高良玉垂宮縁起
 白鳳十三年  六七三     高良山高隆寺縁起
 白鳳十三年  六七三     高良記 ※他にも白鳳年号が散見される。
 白鳳 二年  六七三     二十二社註式、高良玉垂神社縁起。 ※元年を六七二とする後代の改変型「白鳳」。
 白鳳 二年  六七三     高良山隆慶上人伝 ※元年を六七二とする後代の改変型「白鳳」。
 白鳳 二年  六七三     家勤記得集 ※元年を六七二とする後代の改変型「白鳳」。
 白鳳 二年  六七三     久留米藩社方開基、竹野郡樋口村「清水寺観世音建立」 ※後代の改変型「白鳳」。
 白鳳中    六六一〜六八三 大善寺古縁起二軸 外箱蓋銘
 白鳳年中   六六一〜六八三 筑後志巻之三、御井寺
 白鳳年中   六六一〜六八三 久留米藩社方開基、山本郡柳坂村「薬師堂建立」
 白鳳年中   六六一〜六八三 高良山雑記
 朱雀二年   六八五     宝満宮年譜、井本家記録。三池郡開村新開。
 朱雀年中   六八四〜六八五 高良山雑記
 朱鳥元年丁亥 六八六     高良山隆慶上人伝 ※干支に一年のずれがある(注3)。『二中歴』では朱鳥元年は丙戌(注)

 

 おわりに

 わたしが古田武彦先生に出会ったのは、今から十五年前のことであった。それまでは、化学を専攻(久留米高専)したわたしにとって日本古代史はさっぱり理解困難な非論理的な学問分野であった。しかし、氏の著書に触れて、目から鱗が落ちたように、真実の日本古代史の姿がくっきりと見えてきたのである。本稿では、古田氏の学説の一部分を紹介したが、恐らく多くの読者諸賢には初めて聞くテーマに違いない。にわかには受け入れがたいかも知れぬ。しかし、次の史料事実について考えていただきたい。古代の日本列島のことを記した隣国の史書、たとえば『旧唐書』には倭国と日本国を明確に別国表記している。そしてその地理描写として、倭国は四方を海に囲まれた島国と表記し、日本国は東北に大山があり、西と南は海であると記している。すなわち、倭国は九州島であり、日本国は近畿を示しているのだ。更に、倭国は志賀島の金印以来歴代中国の王朝と交流があった列島の代表者であり、日本国は倭国の別種で、倭国の地を併合したと、両国の歴史的背景をも記録しているのである。
 『旧唐書』の前の史書、『隋書』も同様である。倭国を訪れた隋の外交使節の情報(実地見聞)に基づき、倭国には阿蘇山があり噴火している情景が記録されている。阿蘇山があるのは九州島であり、近畿ではない。そして倭王は阿毎多利思北孤という男性であり、その国書にあった「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という表現が無礼であると隋の煬帝が激怒したことが記されている。この国書のことが教科書では聖徳太子の対等外交として特筆大書されているのだ。聖徳太子の時代の天皇は推古であり、女帝である。阿毎多利思北孤という名前の男性ではない。しかも『日本書紀』には、この国書の記事は全く記されておらず、聖徳太子の派遣した小野妹子が行った国は「唐」と記されており、隋ではない(推古十五年条)。「小野妹子の遣隋使、対等外交」として教科書に記されていた事件の内実は、隣国史書の史料操作という学問の「禁じ手」の上に成り立った、虚構なのである。昨年、問題となった発掘者による旧石器の捏造を、天皇家一元史観に立つ日本の歴史学者に非難する「資格」などありはしない。
 ようするに列島の代表者は古代から近畿天皇家のみというイデオロギーにより、隣国史料を情報操作した上で教科書が作られ、検定合格となっているのである。そして、教科書検定に批判的な教職員も、その誤てる教科書を疑うことなく、祖国の過てる「歴史」を若き魂に日々教えているのである。日教組の教育研修会などでこの天皇家一元史観による古代史の記述が一度でも問題として取り上げられたことがあったか。論議されたことがあったか。寡聞にして、わたしはそれを知らない。戦前はもちろん戦後に至っても、さらには文部省も日教組も共に近畿天皇家一元史観という戦後型皇国史観を疑うことなく、対立あるいは協調してきた、これが「戦後民主主義」下における歴史教育の実体だったのではあるまいか。
 教育に携わられる会員・読者を多数持つ、『耳納』誌に本稿を掲載していただいたことに深く感謝申し上げ、教育関係者からの御批判を待ちたい。これはわたしにとってイデオロギーの問題ではなく、純然たる学問と歴史の真実の問題なのであるから。
 平成十三年(二〇〇一)一月三日記了

 

注(1)「邪馬台国」は、倭人伝中の中心国名をヤマトと読むための、「邪馬台国」畿内説論者による原文改訂表記であり、学問の方法論上許されない史料操作である。三国志魏志倭人伝の現存全版本は邪馬壱国(旧字体では壹)あるいは邪馬一国とあり、「邪馬台国」 (旧字体では臺)と記すもの絶無。自説に不都合な字句を勝手に書き換えて良いのなら、どのような説でも立てられるが、それはもはや学問ではない。古田武彦氏以外の歴史学者は畿内説・九州説を問わずこれら原文改訂を至る所随意に行っている。「邪馬台国」は倭国の中心国名「邪馬壱国」の共同原文改訂であり、史料操作もここに極まれり、である。古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(一九七一年、朝日新聞社刊。現在は朝日文庫に収録)を参照されたい。

注(2)京都府向日市の字地名「大極殿」から、長岡京の大極殿跡が出土したこと、著名である。平城京跡の字地名「大極の芝」も同様であった。「紫宸殿」や「大極殿」など最高権力者に関する字地名など、個人が勝手に命名し、その誇大名称を他者が認めるようなものではない。従って、太宰府の「紫宸殿」「大裏」といった最高権力者に関係する字地名も、長岡京跡や平城京跡と同様の論理性を帯び、九州王朝説の有力な「史料根拠」と言い得る。
 この点、「太宰府」という地名も同様であり、さらには「九州」という広域地名も同様である。「九州」とは、単に国が九に分かれているといった意味ではなく、天子の直轄支配領域を意味する古代中国の政治用語である。従って、九州島は古代九州王朝の直轄支配領域を意味する広域政治的地名の名残であり、九州王朝実在説の根拠となる論理性を有している。
 拙著『九州王朝の論理』(二〇〇〇年、明石書店。古田武彦氏らとの共著)を参照されたい。

注(3)干支の一年のズレ問題については、拙稿「二つの試金石 ーー九州年号金石文の再検討」 『古代に真実を求めて』2集(明石書店)を参照されたい。 編集部:本稿は『耳納』二三六号(二〇〇一・二、福岡県浮羽・三井教育耳納会発行)より転載させていただいたものです。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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