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九州年号で見直す斉明紀 -- 安倍比羅夫の蝦夷討伐と有間皇子の謀反事件 正木裕(会報79号)
日本書紀の編纂と九州年号
(三十四年の遡上分析)
川西市 正木 裕
一、日本書紀「天武・持統紀」における「三十四年」遡上
私は、古田先生の「持統天皇の都合三十一回の吉野行幸記事は、白村江の戦直前の九州王朝の天皇の『佐賀なる吉野』視察記事から盗用されたものである(「壬申大乱」)」との発見をもとに、書紀において「天武・持統紀」では、吉野行幸記事同様「三十四年」遡った記事からの盗用が見られることを古田史学会報七七号・七八号で発表した。
その例として、
(1) 古田先生の示された「持統十一年(六九七年)六月の持統天皇吉野行幸は、三十四年前の天智二年(六六三年)白村江の戦直前の「最後」の行幸」(六九七—六六三=三四)、
(2) 持統二年(六八八年)十一月四日の「天武の葬儀記事」は、孝徳十年白雉五年(六五四年)の「孝徳天皇の葬儀」(六八八—六五四=三四)
(3) 持統二年(六八八年)から持統三年(六八九年)の蝦夷朝貢記事は、孝徳十年白雉五年(六五四年)及び斉明元年(六五五年)の出来事(同上)
(4) 朱鳥元年(六八六年)閏十二月の僧尼献上記事は、孝徳八年白雉三年(六五二年)冬十二月の難波宮遷都祈念行事(六八六—六五二=三四)等を挙げた。
しかし、「三十四年遡上する」という事実は確認できたものの、「何故三十四年か」という理由については「白村江以降三十四年間の九州王朝の歴史のカット」としか説明出来なかった。この点、会員各位より、これは「動機」の説明であって、「手法」についての十分な分析・解答にはなっていないのではとの指摘が寄せられた。
指摘を受け、検討を続けたが、「持統十一年が天智二年」、「持統二年から三年が孝徳十年及び斉明元年」、「朱鳥元年が孝徳八年」と「三十四年」を隔てて対応するという理由は、書紀にもとづく近畿天皇家の年表をどう見ても理解できなかった。しかし、今般書紀の「三十四年遡上」編纂手法が解明できたので、ご報告したい。私自身まだまだ「近畿天皇家」一元史観に囚われていたことを実感する結論となった。
二、「朱鳥・大化期」を「白雉・白鳳期」で置き換え
先ほど示した持統二年→白雉五年の例など、三十四年遡上には何の必然性もないように見える。しかしこれは「近畿天皇家」の「編年・暦」で見るからであって、一から「九州年号で見て、考える」と全く違った姿が浮かび上がる。以下の「書紀年号・九州年号・三十四年遡上対照表」をごらん頂きたい。
表一 書紀年号・九州年号・三十四年遡上対照表
西暦 |
干支 |
書紀 年号 |
九州 年号 |
34年前 (西暦) |
干支 |
書紀 年号 |
九州 年号 |
686 |
丙戌 | 朱鳥 15 | 朱鳥 1 |
652 |
壬子 | 白雉 3 | 白雉 1 |
687 |
丁亥 | 持統 1 | 朱鳥 2 |
653 |
癸丑 | 白雉 4 | 白雉 2 |
688 |
戊子 | 持統 2 | 朱鳥 3 |
654 |
甲寅 | 白雉 5 | 白雉 3 |
689 |
己丑 | 持統 3 | 朱鳥 4 |
655 |
乙卯 | 斉明 1 | 白雉 4 |
690 |
庚寅 | 持統 4 | 朱鳥 5 |
656 |
丙辰 | 斉明 2 | 白雉 5 |
691 |
辛卯 | 持統 5 | 朱鳥 6 |
657 |
丁巳 | 斉明 3 | 白雉 6 |
692 |
壬辰 | 持統 6 | 朱鳥 7 |
658 |
戊午 | 斉明 4 | 白雉 7 |
693 |
癸巳 | 持統 7 | 朱鳥 8 |
659 |
己未 | 斉明 5 | 白雉 8 |
694 |
甲午 | 持統 8 | 朱鳥 9 |
660 |
庚申 | 斉明 6 | 白雉 9 |
695 |
乙未 | 持統 9 | 大化 1 |
661 |
辛酉 | 斉明 7 | 白鳳 1 |
696 |
丙申 | 持統 10 | 大化 2 |
662 |
壬戌 | 天智 1 | 白鳳 2 |
697 |
丁酉 | 文武 1 | 大化 3 |
663 |
癸亥 | 天智 2 | 白鳳 3 |
九州年号で「朱鳥元年」は六八六年で、朱鳥は九年間続く。その三十四年前六五二年は書紀では白雉三年だが、九州年号では「白雉元年」にあたり、「白雉」も九年続く。朱鳥の後は九州年号では「大化」で「元年」は六九五年。その三十四年前六六一年は「白鳳元年」だ。
三十四年遡上すれば、朱鳥元年は白雉元年、大化元年は白鳳元年とピッタリ対応する。先に(2)に挙げた、持統二年(六百八十八年)は、九州年号で「朱鳥三年」、そして孝徳十年白雉五年は二年ずれていて、九州年号で「白雉三年」、朱鳥と白雉の「元号」の入れ替えとなっている。他の例もそうだ。
(1)では、持統十一年は九州年号「大化三年」にあたり、その三十四年前の天智二年は「白鳳三年」で、「大化 ーー 白鳳」での元号入れ替えとなっている。
(4)では、「天武十五年朱鳥元年」は九州年号でも「朱鳥元年」、三十四年前の「孝徳八年白雉三年」は九州年号「白雉元年」で、「朱鳥 ーー 白雉」の入れ替え。
(4)のうち、持統三年は言うまでも無く「朱鳥四年」、三十四年前の「斉明元年」は九州年号「白雉四年」で、これも「朱鳥 ーー 白雉」の入れ替えだ。
つまり書紀編者は、九州年号「白雉・白鳳期」の記事の一部を編者の都合にあわせて切り取り、「白雉を朱鳥」に「白鳳を大化」に「元号を入れ替え」、九州年号の「朱鳥・大化期」の該当年に貼り付けたのだ。
そうした上で、邪魔な九州王朝の「元号」を消去し、近畿天皇家の天皇の治世・年号にあわせて、「朱鳥」二年から九年までは「持統」元年から八年に、「大化」一、二年は「持統」九、十年に、というように年号を書き換え、書紀を編纂したわけだ。このような手法によって始めて「三十四年前」の事実が「天武・持統紀」に近畿天皇家の事跡として記述出来るのだ。
これは「九州年号で記述された史書」の存在を前提にしないと成立し得ない編纂手法だ。同時にそれはまぎれもなく「九州王朝の存在」の証明でもあるのだ。「三十四年遡上」を認める限り、「九州王朝の実在」はゆるがぬ事実となる。
七百二十年の書紀編纂後、既知の「九州王朝」の歴史との齟齬について、様々な疑問、抗議が出された事だろう。こうした声を抑圧し、書紀と近畿天皇家の正当性を主張するためには九州王朝の「痕跡」、中でも書紀で抹殺したその「元号」を、諸資料から消し去る事が不可避であった。
聖武天皇の詔報、「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。(『続日本紀』神亀元年冬十月条(七二四)」とは、九州王朝の「元号」を無視して、歴史を改ざんしたことを糊塗するための詔勅でもあったのだ。ここに「白村江以降三十四年間の九州王朝の歴史のカット」という書紀編纂の「目的」と「九州年号の元号入れ替え」という「手法」が結びつく事となった。「三十四年」が判らなかったのは「近畿天皇家」の年号をもとに考えたからだった。
三、「命長」と「白雉」にも置き換え(舒明十二年記事と書紀白雉三年記事の重複)
こうした手法は、書紀の舒明十二年記事と孝徳白雉三年記事の重複にも現れている。
(舒明十二年記事)
A(舒明十一年)秋九月、大唐学問僧恵隠・恵雲、従新羅送使入京。冬十一月庚子朔、饗新羅客於朝。因給冠位一級。十二月己巳朔壬午、幸于伊予温湯宮。是月、於百済川側、建九重塔。
十二年春二月戊辰朔甲戌、星入月。夏四月丁卯朔壬午、天皇至自伊予、便居廐坂宮。
五月丁酉朔辛丑(かのとうし五日)、大設斎。因以、請恵隠僧、令説無量寿経。
(岩波注)白雉三年四月十五日条の前半と酷似する。同事の重出か。
(孝徳白雉三年記事)
B夏四月戊子朔壬寅(みずのえとら十五日)、請沙門恵隠於内裏、使講無量寿経。以沙門恵資、為論議者。以沙門一千、為作聴衆。丁未(ひのとひつじ二十日)、罷講。
(岩波注)→舒明十二年五月条。内容もほぼ同じ。
舒明十二年五月の恵隠による無量寿経の講記事と、孝徳白雉三年夏四月の記事が重出していることは、岩波解説の通りだ。この重出の理由も、舒明十二年と孝徳白雉三年を比較していては何も分からない。これを九州年号に置き換えると、下表のとおり、舒明十二年=命長元年、孝徳白雉三年=白雉元年で両者とも「元年」になる。
表二・九州年号「命長」・「白雉」対照表
西暦 |
干支 |
書紀 年号 |
九州 年号 |
34年前 (西暦) |
干支 |
書紀 年号 |
九州 年号 |
635 |
乙未 | 舒明 7 | 僧要 1 |
647 |
丁未 | 大化 3 | 常色 1 |
636 |
丙申 | 舒明 8 | 僧要 2 |
648 |
戊申 | 大化 4 | 常色 2 |
637 |
丁酉 | 舒明 9 | 僧要 3 |
649 |
己酉 | 大化 5 | 常色 3 |
638 |
戊戌 | 舒明 10 | 僧要 4 |
650 |
庚戌 | 白雉 1 | 常色 4 |
639 |
己亥 | 舒明 11 | 僧要 5 |
651 |
辛亥 | 白雉 2 | 常色 5 |
640 |
庚子 | 舒明 12 | 命長 1 |
652 |
壬子 | 白雉 3 | 白雉 1 |
641 |
辛丑 | 舒明 13 | 命長 2 |
653 |
癸丑 | 白雉 4 | 白雉 2 |
ここでも九州王朝の元号「命長」と「白雉」の入れ替えが行われているのだ。元記事は命長元年。何故なら直前の舒明十一年秋九月に「大唐学問僧恵隠・恵雲、従新羅送使入京。」の記事がある。これは対外的資料で動かしづらいだろう。したがって同じ僧「恵隠」の登場する命長元年(舒明十二年)A記事のほうが本来なのだ。
しかもA記事「五月丁酉朔辛丑(五日)」の翌日の干支は「壬寅」。B記事「夏四月戊子朔壬寅(十五日)」の干支だ。「大設斎」の翌日の記事を九州年号白雉元年(孝徳白雉三年)に切り貼りしたのだ。残念ながら「孝徳白雉三年五月」には壬寅がない。それで直近の四月に貼り付けた、それがB記事なのだ。よく注意して見れば、A記事の日付のかかりは「大設斎。」まで。「因以」以下は別文、その骨子だけさらりと残して、本文は翌日の「干支」付きで移転させたのだ。そして九州年号の元号を消去し、書紀にあわせ「孝徳白雉三年」の出来事としたのだ。
結局、本来は、「九州年号『命長』元年(六四〇年)五月五日(辛丑かのとうし)大設斎始める。翌五月六日(壬寅みずのえとら)沙門恵隠を内裏に招請、講無量寿経を講ぜしめた。沙門恵資を論議者と為した。沙門一千を聴衆とした。五月十一日(丁未ひのとひつじ)講を罷める」という記事だったこととなる。
なぜそのような切り貼りをおこなったのか。以下は私見だが九州年号「僧要」から「命長」への改元では、九州王朝の天子が崩御し、命長元年五月五日の大設斎はその病気平癒祈願か葬儀の祭事だったのではないか。
その証拠に舒明十二年二月甲戌(七日)の記事に「星、月に入れり」とあるのをはじめ「雲なくして雷なる(十一年正月丙辰)」「彗星(同己巳)」等「凶事」を予感させる記事があり、さらに十年は有間湯、十一年は伊予湯と、冬季は必ず三月ほどの長期の湯治に出かけている。しかも十年冬は新嘗祭を飛ばしてまで湯治に出かけているのだ。「蓋し有間に幸せるに因りて、新嘗をもらせるか(十一年正月)」これは天子の体調の不良を現しているともとれる。書紀編者は「九州王朝の天子の崩御記事」を隠すために、このような切り貼りをおこなったのではないだろうか。
四、大化の謎も解けるか?
三十四年遡上について、九州年号同士の最後の入れ替えは日本書紀の最終年まで続く。持統十一年(六九七年)四月の持統天皇吉野行幸で、それは文武元年(八月一日即位)にもあたる。そして、「大宝」改元は七百一年、文武の五年三月二十一日だ。文武の元年から五年まで、足掛け五年。九州年号の研究から、この間は「大化」が続いている事がわかっている。注(1)
表三・書紀年号・九州年号「大化」対照表参照
西暦 |
干支 |
天皇 |
九州歴 |
西暦 |
書紀歴 |
干支 |
天皇 |
九州歴 |
|
694 |
甲午 | 持統 8 | 642 |
壬寅 | 皇極 1 | 命長 3 | |||
695 |
乙未 | 持統 9 | 大化 1 | 二年盗用 → 元号消去か → |
643 |
癸卯 | 皇極 2 | 命長 4 | |
696 |
丙申 | 持統 10 | 大化 2 | 644 |
甲辰 | 皇極 3 | 命長 5 | ||
697 |
丁酉 | 文武 1 | 大化 3 | 5年盗用 | 645 |
大化 1 | 乙巳 | 孝徳 1 | 命長 6 |
698 |
戊戌 | 文武 2 | 大化 4 | 646 |
大化 2 | 丙午 | 孝徳 2 | 命長 7 | |
699 |
己亥 | 文武 3 | 大化 5 | 647 |
大化 3 | 丁未 | 孝徳 3 | 常色 1 | |
700 |
庚子 | 文武 4 | 大化 6 | 648 |
大化 4 | 戊申 | 孝徳 4 | 常色 2 | |
701 |
辛丑 | 文武 5 | 大化 7 | 649 |
大化 5 | 己酉 | 孝徳 5 | 常色 3 | |
2年繰上 |
650 |
白雉 1 | 庚戌 | 孝徳 6 | 常色 4 | ||||
651 |
白雉 2 | 辛亥 | 孝徳 7 | 常色 5 | |||||
652 |
白雉 3 | 壬子 | 孝徳 8 | 白雉 1 | |||||
653 |
白雉 4 | 癸丑 | 孝徳 9 | 白雉 2 | |||||
654 |
白雉 5 | 甲寅 | 孝徳 10 | 白雉 3 |
そして、書紀の「大化」は孝徳元年六四五年から五年間だ。九州年号「大化」は六百九十五年に始まり、うち持統九、十年と十一年(文武元年)の八月までは書紀の「守備範囲」で、かつ「三十四年遡上」の対象区域として使われている。その直後の文武元年(九州年号「大化三年」)から、近畿天皇家の元号が始まる大宝元年(同「大化七年」)までの足掛け五年間を、孝徳元年から五年間の歴史として貼り付けたのが「孝徳大化」なのではないか。従って、書紀の「孝徳大化」記事は、九州年号「大化」三年(六九七年)から七年(七〇一年)までの記事の盗用だという事となろう。勿論「大化改新」もこの間の出来事なのだ。
諸氏指摘のとおり、改新の詔や諸制度改革の内容には、養老令や大宝令はじめ孝徳期では存在しない諸制度があり、「後年の修正か書き換え、または造作」があるとされるが、以上の検討結果によれば、「大化改新」は文武期の出来事なのだから至極当然のこととなるだろう。
それではなぜ文武元年(大化三年)を孝徳元年(六四五年)として貼り付けたのか。おそらく「皇極」から「孝徳」という女帝から男帝への皇位継承が、「持統」から「文武」という継承に一致したからと思われる。ところが九州年号の白雉は元年が六五二年で、六百四十五年との差は七年。文武元年から五年間を、孝徳元年(六四五年)から五年間に貼り付ければ、二年間足らない。そこで書紀では白雉元年を二年繰り上げて六五〇年のこととした。幸い白雉改元では煩雑な「皇位継承」手続きを伴わなかったので、「改元行事」のみ二年ずらして書紀に記述した。
これが古賀氏が「白雉改元の資料批判」で明らかにされた、白雉元年の二年ずれと改元記事の移動・盗用の真相だろう。
また、文武期から孝徳期へ大化三〜七年の五年分の移動だけでなく、女帝である「皇極紀にも、同じ女帝の持統末にあたる大化一、二年記事が一部持ち込まれ、そこの大化年号は消された」という可能性も高く、今後十分検討する必要があると思われる。「大化改新」期に「九州王朝から近畿天皇家」への公然とした王朝の交代があったのだ。「ある王朝の史書は後続の王朝が作る」、これが中国での史 書のあり方だ。近畿天皇家はその伝統に従った。ただし「史実に忠実に」という核心部分を捨て、全て近畿天皇家の事跡のように書き換えた。これが「日本書紀」が持統紀で終わっている理由なのだ。
注(1) 本会の古賀氏により「大化」は七百三年まで続くことが指摘されている。(古賀達也「最後の九州年号・大長年号の資料批判」二〇〇六年十二月八日 古田史学会報No.七七)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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