最後の九州年号ーー『大長』年号の史料批判(会報77号)
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最後の九州王朝 鹿児島県「大宮姫伝説」の分析(『市民の古代』第10集) へ
続・最後の九州年号
消された隼人征討記事
京都市 古賀達也
はじめに
先に発表した「最後の九州年号ーー『大長』年号の史料批判」注(1)において、終末期の九州年号原形試案を提案した。七〇一年以後にも九州年号が継続し、最後の九州年号として大長が七〇四年から七一二年までの九年間続いたというものである。次のとおりだ。
西暦 干支 古賀試案 大和朝廷
六五二 壬子 白雉元年
六六一 辛酉 白鳳元年
六八四 甲申 朱雀元年
六八六 丙戌 朱鳥元年
六九五 乙未 大化元年
七〇一 辛丑 大化七年 大寶元年
七〇四 甲辰 大長元年 慶雲元年
七一二 壬子 大長九年 和銅五年
大長を最後の九州年号と判断した理由の一つに、『二中歴』を除いた九州年号群史料の多くが、大長を最後の九州年号としていたことにある。注(2) 同時に大長が九年間続いていたと判断したのも、大長の元年を六九二年とし七〇〇年まで九年間続くケースが多かったことによる。すなわち、最後の九州年号である大長を、大和朝廷の最初の年号、大寶に繋ぎ合わせるために、大長を七〇〇年以前に繰り上げる「史料操作」が後代に於いてなされたと考えたのである。
従って、大長は七〇一以後に実在したと論じ、その史料根拠として『運歩色葉集』「柿本人丸」注(3) の項に見える大長などを紹介した。 このようなわたしの仮説が正しければ、九州王朝は大長年号が終わる七一二年まで存在していたことになり、その終末期は大和朝廷に対して最後の抵抗を試みていたものと想像できる。そこで、本稿では大長が終わった七一二年頃、南九州において九州王朝と大和朝廷との一大決戦が行われたと考えざるを得ない史料痕跡について報告する。
消された隼人征討記事
『続日本紀』和銅六年(七一三)七月条に次のような不可解な授勲記事がある。
「秋七月丙寅、詔して曰く、『授くるに勲級を以てするのは、本、功有るに拠る。若し優異せずは、何を以てか推奨めむ。今、隼の賊を討つ将軍、并せて士卒ら、戦陣に功有る者一千二百八十餘人に、並に労に随ひて勲を授くべし』とのたまふ。」
記事の内容から、隼人征討に対する行賞記事であることは明白だ。しかも、授勲の対象者が一二八〇余人という、大人数であることから、かなり大規模な戦闘と考えられる。しかるに、肝心の戦闘記事が『続日本紀』には記されていないのである。
『続日本紀』には大寶二年(七〇二)八月の薩摩への征討記事と同九月での授勲記事が記されている。あるいは、養老六年(七二二)四月条には、その前々年から
前年にかけて行われた蝦夷・隼人(大隅・薩摩)征討に対する授勲記事が記されている。ところが、この和銅六年の授勲記事に対応する征討記事がカットされているのである。
授勲と同年の和銅六年四月に、大隅国設置記事が見えることから、大和朝廷は隼人征討に勝利したことがうかがえるが、それならばその戦闘記事をカットしなければならない理由はないはずである。にもかかわらず、カットされているという史料事実は、九州王朝との関連を考えざるを得ない。すなわち、九州王朝を最終的に滅亡に追いやった一大決戦の記事が、九州王朝の存在そのものを隠すために意図的にカットされたとしか考えられないのである。
そして、この授勲記事の前年が和銅五年(七一二)であり、わたしが提案した最後の九州年号大長の最終年、大長九年なのである。『続日本紀』からカットされた一大決戦が前年の和銅五年のこととすれば、まさにその年に九州年号は終了したのだ。これは偶然の一致とは思えない。大長九年に、南九州に於いて大和朝廷は九州王朝の息の根を止めたのであり、それにより九州年号も終わったと考えざるを得ないのである。
宮崎県王の山出土の玉璧
このような、九州王朝が南九州の地で終焉を迎えたとする仮説を支持する考古学的傍証がある。宮崎県南端の王の山から出土したとされる玉璧である。この玉璧の見事さは日本列島において他に類例を見ない。璧としては突出した遺物である。天子の象徴である玉璧が南九州から出土している事実は、九州王朝がこの地で滅亡し、最後の九州王朝の天子がこの地で没したことと深く関連しているのではあるまいか。
また、宮崎県や鹿児島県に残る大宮姫伝説の「天智天皇」到来伝承も、九州王朝の最後の天子がこの地に来たことを伝えたものであろう。注(4『襲国偽僭考』の大長
最後に、大長が大和朝廷の年号と併存していたという説には先行説があったことを報告しておきたい。鶴峯戊申の『襲国偽僭考』である。そこには「文武天皇大寶二年。かれが大長五年。」(七〇二年)と記されており、私の説とは大長元年の位置が異なるが注(5)、大和朝廷の大寶年号と併存していたと鶴
従来の九州年号研究では、『襲国偽僭考』の大長は六九八年から七〇〇年までの三年間と認識されていたが、今回読み直してみて、そうではなかったことが判明した。
(注)
(1) 『古田史学会報』No.七七。二〇〇六年十二月。
(2) 九州年号を記した年代記などについては、丸山晋司『古代逸年号の謎─古写本「九州年号」の原像を求めて』(アイピーシー刊、一九九二年)を参照されたい。
(3) 『運歩色葉集』元亀二年(一五七一)京都大学本。
(4) 古賀達也「最後の九州王朝─鹿児島県大宮姫伝説の分析」(『市民の古代』第十集、新泉社刊、一九八八)において、大宮姫伝説に現れる「天智天皇」を筑紫の君薩野馬のこととする説を発表した。
(5) 『襲国偽僭考』では大長元年を文武天皇二年戊戌(六九八)とする。
第100話 2006/09/30
九州王朝の「官」制
古賀達也
第九七話「九州王朝の部民制」で紹介しました、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」について、もう少し考察してみたいと思います。
古田先生が『古代は輝いていたIII−法隆寺の中の九州王朝−』(朝日新聞社)で指摘されていたことですが、法隆寺釈迦三尊像光背銘中の「止利仏師」の「止利」を、「しり」(尻)あるいは「とまり」(泊)と読むべきであり(通説では「とり」)、地域名あるいは官職名であるとされました。
後に、同釈迦三尊像台座より「尻官」という墨書が発見され、この古田先生の指摘が正鵠を射ていたことが明らかになるのですが(『古代史をゆるがす真実への7つの鍵』原書房参照)、尻官が九州王朝の官職名であり、「尻」が井尻などの地名に関連するとすれば、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」の「見乃官」も地名に基づく官職名と考えられます。そうすると、九州王朝は六〜七世紀にかけて「○○官」という官制を有していた可能性が大です。
このように「尻」や「見乃」部分が地名だとすると、第九七話で述べましたように、久留米市の水縄連山や地名の耳納との関係が注目されるでしょう。この「地名+官」という制度は九州王朝の「官」制、という視点で『日本書紀』や木簡・金石文を再検討してみれば、何か面白いことが発見できるのではないでしょうか。これからの研究テーマです。
ところで、昨年5月より始めたこの「洛中洛外日記」も、今回で一〇〇話を迎えました。これからも、マンネリ化しないよう、緊張感や臨場感、そして学的好奇心を刺激するような文章を綴っていきたいと思います。読者の皆様のご協力と叱咤激励をお願い申し上げます。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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