2007年 2月10日

古田史学会報

78号

武烈天皇紀に
おける 「倭君」
 冨川ケイ子

万葉集二十二歌
 水野孝夫

カメ犬は噛め犬
 斉藤里喜代

朝倉史跡研修記
 阿部誠一

朱鳥元年の僧尼
 献上記事批判
三十四年遡上問題
 正木 裕

夫婦岩の起源は
邪馬台国にあった
 角田彰雄

続・最後の九州年号
消された隼人征討記事
 古賀達也

洛中洛外日記より転載
九州王朝の「官」制

年頭のご挨拶
ますますの前身を
 水野孝夫

 事務局便り

 

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朝倉史跡研修記

古田史学の会・四国 副会長(今治市) 阿部誠一

 愛媛県今治市朝倉(旧・越智郡朝倉村)には、古墳が三百基以上も現存していて、「三種の神器」を伴った王墓もある。そして、各所に天皇地名があり、中でも斉明天皇に関する地名が最も多く、「斉明天皇行宮跡(木丸殿)」「伝・斉明天皇陵」まである。また「中大兄皇子神社」もあり、舒明天皇行幸伝承記録まである。隣接の旧・東予市(現・西条市)には「永納山古代山城」があり、旧・今治市内に「古国府跡」「国府跡」もある。
 ここは、伊予国内では多くの歴史問題を孕んだ特異な地である。
 そこで、二〇〇六年十一月四日に古田史学の会・四国の主催により、この地の史跡研修を行ったので以下にご報告する。
 参加者は会員十九名、一般十九名の計三十八名であった。松山市北条から十三台の車を連ね約一時間で朝倉到着。
 先ず、ふるさと古墳美術館の学芸員・窪田利子氏より、美術館の展示品の説明を受ける。次いで、窪田氏及び現地在住会員・今井久氏のご案内により史跡の見学となった。史跡の解説は『風早国・越智国考察の新展開』(『風早』第五四号所収、風早歴史文化研究会編)で、朝倉(越智国)を論述している合田洋一氏(古田史学の会・四国事務局長)が行った。

 一、「多伎神社古墳群」—現存十五基(六〜七世紀築造、元・三十八基あった)。五号墳は横穴式、石室は相当広く、天井・側面の巨石に圧倒される。六号墳は上から石室がのぞける竪穴式。鳥居近くの祢宜古墳から馬の轡が出土。境内には陰陽石の見事な松茸石があった。時間の関係上行くことはできなかったが、奥の院には巨大な磐座(いわくら ふすべ岩)がある。

 二、「樹之本古墳」—平地に幅十メートルの二重の堀を巡らし、墳丘は長径四十メートル・短径三十メートルの楕円形の円墳(五世紀初期)。周りは田んぼ。「三種の神器」が出土している。合田氏は「越智国の王墓」と言う。鏡は見事な「漢式獣帯鏡」、銘文は「長相思常母忘楽未央」(長く相思い、常に忘る母(なか)れ、楽しみ未央(いまだなかば)ならず)。仁徳天皇陵出土の鏡とよく似ている名品で、現物は東京歴史博物館に保存されており、ここ「ふるさと古墳美術館」にはレプリカが展示されている。勾玉・管玉あり。剣は発掘当初はあったらしいが現在は行方不明。また、朝顔式や人物の埴輪が多く出土している。すぐ近くの田んぼから平形銅剣が五本出土している。近くの「タオル美術館」で昼食。

 三、「伝・斉明天皇陵」—朝倉の太之原(たいのはら 元の名は皇之原)の小高い塚の上に宝塔二基あり。ここ太之原才明(さいめい)地区の住民が大事に祀ってきたものという。とても天皇陵とは見えないが、かえって伝承の真実感がある。すぐ近くに斉明天皇を祀る「伏原正八幡神社」があり、斉明天皇行在所跡とも言われている。また、行司原「木の丸殿このまるでん」は斉明天皇行宮跡とも言われている。

 四、「無量寺—無量寺文書」—上朝倉水之上区にあり、前身は両足山安養院車無寺。当初は三輪宗で現在は真言宗。斉明天皇に同行された無量上人の開基と言う。
 ここには不思議な古文書(巻物)『無量寺由来』が所蔵されていて、特別な計らいにより拝観することができた。斉明天皇行幸の記述と共に「長坂天皇」「長沢天皇」「朝倉天皇」「牛頭天皇」などが出現。舒明天皇行幸説話も記録されている。奇妙な天皇名、摩訶不思議である。合田氏は、斉明天皇行幸説話と共に九州王朝の天子「多利思北孤」の当地への行幸説話が、はめ込まれた可能性もある。とのこと。そのようにも思えてくる。
 また、このお寺には薬師如来の小像が安置されているが、この巻物に小像の由来について面白いことが記されていた。合田氏によると、北条の文化財で「庄の薬師堂」にある県下最大の薬師如来坐像(高さ二・五メートル、室町時代後期作)は、元は無量寺にあって、北条の河野氏の命により、この小像と交換させられた。この坐像がどこから持たらされたのか、北条では全く不明であったのが解った。このことは伊予の大族・朝倉の越智氏の勢力が衰退し、それに替わって伊予全土を手中におさめていた北条の河野氏の権力により、大と小の仏像を入れ替えさせた。と、言っている。
 旧族越智氏が新興勢力河野氏の意に従わされたことになり、伊予の勢力転換の証拠を物語っている。そしてこれによって、この「無量寺文書」の記述の信憑性を、垣間見ることができる。

 五、「矢矧やはぎ神社」—朝倉大谷の地にある。ここにも『伊予不動大系図巻二十五』と言う古文書(巻物)が遺されている。これに記されている伊予の古代の大族越智氏の祖・小千天狭貫(おちのあまのさぬき)王を、この神社の祭神としている。「天のなにがし」であるので、海峡国家「九州王朝」との関連を見ることができる。また、神社紋は「梅の花」、九州王朝のにおいがする。
 合田氏は、王称号に注目。他の越智氏関連の系図には見られないことから、天国(あまくに)の王族による伊予への「降臨」ではないか、と言っている。
 本殿入口には、南北朝の戦乱をかいくぐったと言われている相当古い門守神像一対が鎮座していた。

 六、「野々瀬古墳群」—『朝倉村の文化財』には古墳百基・現存二十基。『朝倉村誌』では百五十基・現存四十基としている。群集墓(多伎宮古墳群と同様)である。大小の墳墓が混ざり合い、身分の差が歴然としている。
 中でも七間塚古墳は、県下最大のもの(県の重要文化財)、高さ四メートル、径二十メートル余りの盛り土の円墳。玄室は長さ五・三メートル、幅一・七〜二・二メートル、高さ二メートル。石の組み合わせの技術、石の大きさに圧倒される。巨石をどこからどう運び、それをどのようにして組み立てたのか、古墳づくりの技術と労力、そしてその熱意が偲ばれる。
 次いで五間塚古墳、王塚とも呼ばれている。これも巨石組み立てのすごさを見せつける。この円墳には陪塚があり、朱塗りの人骨が出土しているが、その玄室の奥面と側面に何やら人面か動物かは判然としないが、レリーフらしきものを、合田氏ほかそこにいた人が発見。後日拓本を採ろうと言うことになった。本当に石の浮彫りなら、飛鳥石彫のようなもの、この朝倉の地は「伊予の飛鳥」を思わせる。
 また、この野々瀬の地から欠損のあるゆがんだ鏡が出土している(ふるさと古墳美術館に展示)。これについて、愛媛県埋蔵文化財調査センターの柴田氏は、鏡の縁にある突起物に注目。これは鋳型に溶かした青銅を流し込む「湯道部」と見た。この欠損し、ゆがんだ鏡は、こわれて捨てられたものではなく、鋳造に失敗して投棄されたものと判断している。弥生時代後期にこの朝倉の地で、青銅鏡が作られていたのではないか、と問題をなげかけている。もし、炉跡・鋳型・青銅の鋳くず等が出土すれば確実となる。だが残念ながらまだ出ていない。

 七、「天皇橋」—朝倉には斉明天皇行宮の所として、神社が七ヵ所ほどある。そして廟も。この橋名の由来は定かではないが、合田氏は、野々瀬古墳群・野田古墳群(現存四十基)に渡る地に架かっているので、天皇がそこに参拝したので名付けられたとも考えられる。と言っている。

 八、「宮ケ崎八幡神社—中大兄皇子神社」—旧・今治市と朝倉村の境の宮ケ崎にある。一山に多数の神社・仏閣があり、全てを拝観するには数時間もかかる。斉明天皇行幸伝承もあるが、ここに中大兄皇子神社がある。この地方で中大兄皇子を祀っている所はここだけである。伝承として中大兄皇子が「白村江の戦い」に赴く途次、この地に来たのでそれを尊び神社を建立したとのこと。

 ここで時間は夕方五時となり、夜のとばりも降りてきた。まだまだ見たい所は数々あれど、史跡研修は解散となった。
 それにしても、朝倉はすごい所、遺跡の宝庫である。合田氏は前掲書で、「朝倉は「越智王国の都・王家の谷・聖地」である。「永納山古代山城」はこの朝倉の地を守るために築かれた。また、『日本書紀』に舒明天皇が「伊予の温湯宮に幸す」とあり、五ヶ月も伊予に滞在していたと記している(六三九年十二月〜六四〇年四月)。そしてまた『伊予国風土記』逸文(『万葉集註釈』所載)に、舒明天皇とその皇后(宝皇女、後の皇極・斉明天皇)が伊予の湯に來湯したことを記している。更に『日本書紀』には斉明天皇が「白村江の戦い」に参戦する途次(六六一年)、「伊予熟田津(にぎたつ)宮の石湯(いわゆ)の行宮(あんぐう)に泊る」とあるが、現在の道後(地名命名は奈良時代)には「温湯の宮・熟田津宮」などの遺跡も、行幸伝承もない。温泉というとすべて道後に比定するのはおかしい(道後温泉は石湯とは言えない)。朝倉にも温泉があったのである(風呂のもと・湯場城・湯の口の地名遺存)。この温泉は天武天皇七年十二月(六七八)と同十三年十月(六八四)の二度にわたる大地震で、温泉の湧出は止まった。また同時に、越智王国の都・朝倉の古谷(こや)が、この地震により壊滅したことから、都を今治市側新谷(にいや)、その後古国府に移したようである。と。そして、このようなことから『日本書紀』舒明紀・斉明紀の伊予の行幸地について、当時の「越智王国」の都は、まだ朝倉古谷にあり、遺跡や伝承及び『国造本紀』にある伊予国内の国々や古代豪族の支配地域などの政治状況を鑑みると、両天皇(当時は大王)の道後來湯を全く否定することはできないが、行幸の主要舞台は朝倉であつた可能性が極めて大である。」と、述べておられる。
 正に、「越智王国の実像」を目の当たりにした朝倉史跡研修であった。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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