2007年 2月10日

古田史学会報

78号

武烈天皇紀に
おける 「倭君」
 冨川ケイ子

万葉集二十二歌
 水野孝夫

カメ犬は噛め犬
 斉藤里喜代

朝倉史跡研修記
 阿部誠一

朱鳥元年の僧尼
 献上記事批判
三十四年遡上問題
 正木 裕

夫婦岩の起源は
邪馬台国にあった
 角田彰雄

続・最後の九州年号
消された隼人征討記事
 古賀達也

洛中洛外日記より転載
九州王朝の「官」制

年頭のご挨拶
ますますの前身を
 水野孝夫

 事務局便り

 

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武烈紀における麻那君・斯我君記事の持つ意味永井正範(会報79号) へ

「楽府」の成立 ーー「来目歌」から「久米舞」へ 冨川ケイ子(『古代に真実を求めて』第

「河内戦争」 -- 心の自由を求める戦士と名前のないミカドが歴史を変えた 冨川ケイ子
『古代に真実を求めて』第十八集『盗まれた「聖徳太子」伝承』


武烈天皇紀における「倭君」

相模原市 冨川ケイ子

1 「百済国主の骨族」

 『日本書紀』武烈天皇の七年四月、百済から「斯我君」という使者が「調進」に来た。「表」によると、前年の使者「麻那君」は「百済国主の骨族」ではなかったので、改めて「斯我君」を派遣したという。『日本書紀』は、その「斯我君」は「遂に子有りて、法師君と曰(い)ふ。是れ倭君の先なり」と記す。(注1) 「遂に」というが、「子有り」に至るいきさつの記述は見当たらず、説明不足の感がある。それどころか、その前年九月一日に天皇は「朕、継嗣無し」と嘆いている。これに対して「斯我君」の「子有り」は、これ見よがしで、無礼ではあるまいか。
 岩波書紀は「麻那君」を継体天皇の二三年三月是月条に見える「麻那甲背」と同一人物とする。また欽明四年四月条「城方甲背昧奴」と同年一二月条「中佐平木茘*麻那」をも同一人かという。 付記1
 「斯我君」「倭君」については「他に見えない」としながら、「斯我君」は「百済の王族であろう」とし、「倭君」については、『新撰姓氏録』左京諸蕃から「和朝臣、出百済国都慕王十八世孫武寧王也」を引いて、「この和朝臣は、武寧王の子の純陀太子の子孫で、ふつう和史の末とされているが、或はこの倭君と和朝臣とが結び付くのかもしれない」という。
 ちなみに、『続日本紀』桓武天皇の延暦八年一二月壬子(一五日)の条に、「皇太后、姓は和氏(やまとのうじ)、諱(いみな)は新笠。・・・・后の先は百済の武寧王の子純陀太子より出づ・・・・宝亀年中に姓を改めて高野朝臣とす。・・・・その百済の遠祖都慕王は、河伯の女、日精に感でて生める所なり。皇太后は即ちその後なり」とある。(注2)
 岩波書紀の注が言うように、武烈紀の「倭君」と姓氏録の「和朝臣」とが結び付くとしたら、「和朝臣」を媒介として、「倭君」と高野新笠は先祖ーー子孫関係ということになるのであろうか。
 上田正昭氏によると、「倭」が「和」と表記されるようになったのは、養老令が施行された天平宝字元年(七五七)以後のことである。「以前には「倭王」と書いていたのを「和王」と記述するのも、天平宝字年間からであったし、「倭舞」を「和舞」と記すのも、それより後のことであった」という。(注3) つまり、高野新笠の「和氏」は、天平宝字より前には「倭氏」だったのであり、『姓氏録』の「和朝臣」もまた「倭朝臣」だったわけである。
 岩波続紀は、高野新笠の「和氏」に補注を付して「ウジ名は大和国城下郡大和郷(現奈良県天理市)の地名によるか」と述べている。なぜ大和国大和郷の生え抜きの豪族から出て「大和朝廷」を打ち立てたはずの近畿天皇家がみずから「和氏」を名乗らず、なぜ「よそ者」の百済王の子孫が大和国大和郷の地名を横取りして「和氏」を名乗るのであろうか。
 同様の疑問が、武烈天皇紀における「倭君」にもある。なぜ百済王の「骨族」の子孫が「倭君」を名乗るのであろうか。そもそも「倭君」とは何者であろうか。
 本稿は『日本書紀』武烈天皇の六年から八年までの記事を本文に即して内在的に読み解くことで、一つの仮説を提案するものである。

付記1 インターネット事務局注記 佐々木真氏の指摘により訂正(2018.10.16)、併せて茘*字も訂正

誤:また欽明二年四月条「城方甲背昧奴」と同年一二月条「中佐平木茘*麻那」をも同一人かという。
正:また欽明二年四月条「城方甲背昧奴」と四年一二月条「中佐平木茘*麻那」をも同一人かという。

茘*は、草冠なし。JIS第3水準ユニコード5215

 

2 仮説

 原文は次の通りである。(岩波書紀による。条ごとに改行した。)

六年秋九月乙巳朔、詔曰、傳國之機、立子爲貴。朕無繼嗣。何以傳名。且依天皇舊例、置小泊瀬舎人、使下爲代號、萬歳難上忘者也。
冬十月、百濟國遣麻那君調。天皇以爲、百濟歴年不貢職。留而不放。
七年春二月、使人昇一レ樹、以弓射墜而咲。
夏四月、百濟王遣斯我君調。別表曰、前進調使麻那者、非百濟國主之骨族也。故謹遣斯我、奉於朝。遂有子、曰法師君。是倭君之先也。
八年春三月、使下女[身果]形、坐平板上、牽馬就前遊牝上。觀女不浄、沾濕者殺。不濕者沒爲官婢。以此爲樂。及此時、穿池起苑、以盛禽獣。而好田獵、走狗試馬。出入不時。不大風甚雨。衣温*而忘百姓之寒一、食美而忘天下之飢。大進侏儒倡優、爲爛漫之樂、設奇偉之戯、縱靡々之聲。日夜常與宮人湎于酒、以錦繍席。衣以綾[糸丸]者衆。

冬十二月壬辰朔己亥、天皇崩于列城宮

[身果]形(ひたはだ)の[身果]は、身に果。JIS第4水準ユニコード8EB6
温*の別字。JIS第3水準ユニコード6EAB
[糸丸]は、糸偏に丸。JIS第3水準ユニコード7D08

 七年四月の記事を系図にしてみよう。

     《?》
      ├───法師君──倭君
百済王・・・斯我君

 「斯我君」が百済王の「骨族」であるとしたら、普通にいけば(つまり男系の身分相続システムによれば)、その子の「法師君」とその子孫は必然的に百済王の一族である。この系列から「百済君」と呼ばれる人が出ることはあっても、「倭君」が出ることはあり得ないはずである。では、なぜこの系図に「倭君」が出現するのか? 百済の血統を男系と考える限り、答えはない。発想を変えよう。「法師君」が「倭君」の「先」であるのは、「法師君」の父もまた「倭君」だからではないか? つまり、系図で《?》で記した人物は「倭」姓の男性で、「斯我君」は女性であった。二人の間に「法師君」が生まれた。そうすれば、「法師君」が「倭君」の「先」であることは不思議でもなんでもなくなる。さらに、百済王が「表」を添えて「遣」した「斯我君」を娶ることができた《?》は、ただの貴族や豪族であるはずがない。ここで「倭君」とは単なる「倭」姓にとどまらず、「倭国」の君主を指すにちがいない。この仮説を順次解きほぐして行こう。

 

3 「継嗣無し」

 「斯我君」が女性であるとしたら、先に来た「麻那君」も女性であろう。「留めて放さず」と記されている。百済王はなぜ二人もの女性を送ったのであろうか。そのカギは武烈六年九月一日の天皇の発言にある。「国を伝ふる機は、子を立つるを貴しとす。朕、継嗣無し」
 これを武烈天皇は若くして死に、跡継ぎを残さなかった、とする解釈がある。岩波書紀によると、武烈の没年齢は十八歳、五七歳、六一歳などの諸説がある。継体天皇の即位前紀に、「小泊瀬天皇」(武烈)には「元より男女なく、継嗣絶ゆべし」とあり、同じく元年三月条には継体天皇は手白香皇女を皇后として欽明天皇を生んだ、とある。武烈が若年で没したのでなければ、武烈の姉に当たる手白香皇女は極端な高齢出産を強いられたことになるわけであろう。
 しかし、たとえば小学生が自分には子がいないと言ったら笑止であるように、「継嗣無し」を悲しむ王は若年のはずがない。しかも元来、(『日本書紀』は口をつぐんでいるが)子はあったのであろう。しかしおそらく、父より先に息子が死亡したのであり、老王はもう子を得る見込みがないと思うからこそ「朕、継嗣無し」の嘆きが痛ましいのである。
 周囲の者にできることは若い側室を薦めることであり、百済王もまたつきあいで、「骨族」ではない配下の貴族の娘であろう「麻那君」を送った。「年歴て貢職脩らず」とあるように、しばらく疎遠だったのを埋め合わせるつもりだったかもしれない。ところが「麻那君」は留め置かれた。百済王はあわてた。もし「麻那君」に子が生まれて、その一族が隣国の君主の親類になったりしたら、百済国内の政治バランスがくずれてしまう。改めて「骨族」の娘である「斯我君」を送り込むことにした理由であろう。
 このような背景を想定した時、無礼のようにも見えた「遂に子有り」の文が不自然でなくなる。「朕、継嗣無し」と「遂に子有り」は対で読まなければならなかったのである。

 

4 「朝に事へ奉る」

 「遂に子有り」を唐突な文にしている原因は、冒頭に述べたように、いきさつの記述が見当たらないことである。しかし、よく見ると、その直前に「奉事於朝」の文がある。岩波書紀はここまでを百済王が「表曰」したことと解し(注4)、「朝に事へ奉らしむ」と読んで、この文の主語を百済王に置く。では、「遂に子有り」の主語は誰であろうか。単純に「斯我君」としてよいのであろうか。
 七年二月条に「使人昇一レ樹、以弓射墜而咲」とある。主語は明示されていないが、『日本書紀』の読法として、時の天皇を主語として読むことになっている。つまり、武烈天皇は人を木に登らせておいて、弓で射落とし、笑った、というのがこの記事である。
 右のような『日本書紀』の文法からして、「奉事於朝」と「遂有子」の主語はいずれも天皇であろう。この「奉事於朝」と「遂有子」は因果関係で結び付いているのではあるまいか。つまり、「朕無繼嗣」と嘆いた君主は、「斯我君」を「朝に事へ奉」らせたことによって「遂に子有り」にいたったことになる。
 こうして、前掲の系図の《?》に当たる人物は、「朝みかど」だったことが明らかになる。

 

5 「麻那君」と「斯我君」

 「麻那君」「斯我君」を女性であると考えた場合、「麻那君」は、継体天皇二三年三月是月条「麻那甲背」、欽明二年四月条「城方甲背昧奴」、同年一二月条「中佐平木?麻那」とは別人としなければならない。そもそも彼らには「君」という称号がない。
 『隋書イ妥国伝』に「號阿輩鷄*彌」「王妻號鷄*彌」とあるように、「きみ」が王や王妻の称号であるならば、軍人や外交官などの実務官僚が「君」を名乗ることはあり得ない。『日本書紀』雄略天皇紀でも、百済の蓋鹵王に「加須利君」、武寧王に「嶋君」の称があったことを記している。
鷄*は、「鳥」のかわりに「隹」。JIS第三水準、ユニコード96DE

 「百済国主の骨族」である「斯我君」が「君」の称で呼ばれるのは当然として、「百済国主の骨族」ではないとわざわざ明記された「麻那君」に「君」の称があるのは、「留めて放さず」の「朝」との関係のためではなかろうか。

 

6 「法師君」

 「法師君」とは何者であろうか。岩波書紀は注一つ付けず、「他に見えず」と記すこともなく、八〇余年後の用明二年四月乙巳朔丙午(二日)条の「豊国法師」を「法師の号の初見」とする。
 「法師君」は男性であろう。その理由の第一は、「遂有子」に「女子」とないことである。「子」は通常「男子」を意味する。第二に、女性を「法師」と呼ぶ例が思い浮かばなかった。『万葉集』巻第九・一七六三に伝不詳の「沙弥女王」があるが、この場合は女性であることが明記されている。
 こうして、「法師君」は「朝」の息子であって、「朝」から「倭」姓を受け継いだと思われる。
 ただし、「法師君」は、生まれた時から「法師」を名乗ったわけではないであろう。(織田信長の幼名が「吉法師」であったことはよく知られているが(注5) 、後代のことである)
 結婚して子を得、しかるべき時期にその子に跡を譲って出家し、「法師君」を名乗ったのであろう。当然、「君」という王侯身分の人物が仏教に帰依し、出家するだけの社会的環境が整っていなければならない。欽明天皇の六年九月に百済が天皇のために「丈六の仏像」を造ったという記事や、同一三年一〇月に百済の聖明王が「釋迦佛金銅像一躯、幡盖若干、經論若干卷」を献じたという記事が注目される。これらは従来、仏教の「公伝」にからめて言及されてきたが、武烈の末年頃に生まれたであろう「法師君」が存命であれば、四〇代から半ばに差しかかる年齢である。百済王家との血縁関係からして、出家の祝品が届いたとしてもあやしむに足るまい。

7 「倭君」の「先」

 「法師君」は「倭君」の「先」と記されている。「先」を岩波書紀は「おや」と読んでいるが、「法師君」と「倭君」はどういう間柄なのであろうか。父と子か。祖父と孫か。それとも、もっとずっと離れているのであろうか。
 『日本書紀』には(カウントミスがなければ)一九九個の「先」がある。このうち二個を岩波書紀は校訂で不適として除外している。一三四例が「先づ」「是より先に」「先だつ」「先の」「先後」「先日」など時間に関するものであった。役割に関するものが八例で、「先鋒」六件、「先駆」一件、このほか個人名に付けて「先生」と呼ぶものが一件あった。残る五五例が続柄に関するものである。
 五五例の内訳である。「先祖」一二例を、岩波書紀は「おや」「とほつおや」とまちまちに読んでいる。誰を指すかはっきりしないものに「先霊」「先聖」が各一件ある。「先皇」一〇件、「先王」八件、「先帝」四件、「先考天皇」三件、「先朝」一件、「先天皇」一件のうち、特定の誰かを指さないものは、持統天皇五年一〇月乙巳条「凡先皇陵戸者置五戸以上」の一件だけである。残りのうち三件をのぞき、すべて、父である天皇、もしくは父である皇子(「先王」に限る)を指している。例外の一件は、神功皇后摂政四七年四月条「先王所望國人」で、この「先王」が仲哀天皇を指すとすると父ではない。「先王」ではなく「先皇」などの表記であるべきかと思われる。神功自身の父を指すのであれば、「先王」で差し支えないであろう。もう一件は、舒明天皇元年正月丙午条「大王先朝鍾愛」で、この「先朝」が推古天皇を指すとすると、推古は先代天皇ではあるが、舒明の父ではない。最後の一件は天武天皇二年閏六月己亥条「弔先皇喪」で、この「先皇」を天智天皇とすると、天武の父ではない。例外を細かく挙げたが、「先皇」などの「先」は父を指すと考えてよさそうである。
 単独で使われる「先」は一四例ある。岩波書紀はすべて「おや」と読んでいる。うち二件は、欽明天皇二年七月条「能く先の軌を負い荷ひ」「今追ひて先の世の和び親びし好を崇て」で、誰を指すか特定しにくい。
 次の六件は、継体天皇元年(五〇七)から用明天皇元年(五八六)にかけて分布し、△△皇子は「三國公の先(おや)なり」などのように、○○公と呼ばれる皇系氏族の起源を記述している。この六件に記される七公は、椎田君をのぞき、天武十三年十月己卯朔(是日)条で真人の姓を賜わる十三公に含まれるが、肝心の○○公××たちが『日本書紀』に登場するのは、皇極天皇元年(六四二)の「息長山田公」、大化五年(六四九)の「三國公麻呂」が最初で、ほとんどが天武・持統期に活動するのである。なぜ、「先」から実際に活躍する個人まで、百年から百五〇年近い空白が存在するのであろうか。無名の人がその能力で抜擢される時代ではなく、身分と権力が祖父母や父母から子や孫へと継承される時代であってみれば、三〜五世代もの空白は致命的であろう。この間の記録が失われたのではないとすれば、「先」たちの記事が子どもたちから切り離され、継体から用明の間にさかのぼらされた、と考えるほかない。つまり、七世紀中頃から後半にかけて活躍した○○公××たちの「先」は、実際には七世紀前半あたりの人々だったことになるのである。なぜそのような操作が行なわれたか、ここでは問わないが、彼ら皇系氏族の起源が継体天皇よりさかのぼらない点が興味深い。
 残る六件は、「倭君の先」を初めとして、いわゆる帰化人・渡来人の起源を記述するものである。前記の皇系氏族の場合よりさらに、先祖 ー 子孫関係を探るのはむずかしい。一々列挙することは避け、当面の結論だけ述べることにするが、一九九件の「先」、中でも「先皇」「先王」などの使われ方から、「法師君」は「倭君」の父であると判断して大過ないと考える。

 

8 「朝」と「倭君」

 では、「倭君」とは誰であろうか。
 西村秀己氏によると、「倭」は「日本」とイコールではなく、「ヤマト」とも読まない。なぜなら、『日本書紀』神代紀上第四段本文注に、日本を「耶麻騰と云ふ。下皆此に效へ」とあって、「日本」を「ヤマト」と読むことは指定されているが、「倭」の読み方はどこにも指示されていない。確かに『日本書紀』は『古事記』が「倭」としている箇所を「日本」に書き換えたりもしている(「神日本磐余彦」のように)が、その一方で、一一七例もの「倭」をそのままにしている。従って、「この「倭」は中国史書に表れる「倭」と同様の意味を持ち、もし、和訓するとすれば「チクシ」以外には有り得ない」と西村氏は指摘する。(注6)
 これに従うなら、「倭君」は「チクシ君」にほかならない。前掲の系図で示した《?》は「朝みかど」であった。この「朝」は百済王族の女性に「法師君」を生ませ、その「法師君」もまた「倭君」の「先」となっている。これをまさしく九州王朝の系譜ではないかと考える第一の理由は、武烈には男女ともに子がなかったと明記する『日本書紀』の中に、「朝」「法師君」「倭君」が存在する場所は初めから「ない」ことである。「譽田天皇」の五世の孫と称し、越前国からやってきて武烈の後継者となった継体天皇にとって、武烈に実子があっては都合が悪かったであろう。神武〜武烈の前期王朝から継体以降の後期王朝へと切り変わった近畿天皇家の中で、武烈の子孫が無事に生き延びることができたとは、とうてい思えない。第二に、百済が国家として現に存在した時代に、近畿天皇家が百済と婚姻関係を結んだ例は皆無である。桓武天皇に下ってようやく、「和氏」と称するその子孫と縁戚であることが明らかにされたにとどまる。近畿天皇家以外で、百済王家と血縁関係を結びうる権力主体といえば、九州王朝が第一の候補である。白村江の敗戦にいたる親百済政策の根源をこの系図に見ることはさほどむずかしくないであろう。
 継体が武烈の子孫を歓迎しなかったのとは正反対に、「法師君」の誕生は「遂に子有り」と喜びをもって迎えられたものと思われる。他に「継嗣無し」であれば、「法師君」は当然「朝」の「継嗣」となり、次代の「朝」となったであろうし(注7)、さらに「倭君」がそのあとに即位して今の「朝」として君臨した、と見ることができよう。そしてこの一連の記事は、《?》の「朝」の帝紀に書かれてあったに違いない。それが書かれたのは「倭君」の時代であったろう。これを最初に読んだ「倭君」と、そのあとに続く君主たちにとって、《?》の「朝」は誇るべき先祖でこそあれ、憎むべき「暴君」ではなかった、と考えることに無理があろうか。百済系「倭国」王朝が繁栄する限り、彼らの確信は揺るぐことがなかったはずである。

 

9 作られた「暴君」

 では、なぜこの系譜が武烈天皇紀の中に記されているのであろうか。おそらく、『日本書紀』の編者たちは、九州王朝にあった「暴君」記事を、近畿天皇家の武烈紀に手っ取り早く再利用したかったのであろう、とまずは考えてみたい。
 武烈紀は、歌のやりとりを含む平群氏との対決を描いた即位前紀を別とすれば、本体はごく短い。本稿に引用しただけでほぼ半分に及ぶ。残り半分も、百済の「暴君」が廃位されたという記事と王族の続柄に関する論議、武烈の「暴君」ぶりのわずかな記事に尽きている。この中で、「朕、継嗣無し」から「倭君の先なり」までの記事は、意外に大きな位置を占めていると言わなければならない。
 「是れ倭君の先なり」に続く次の八年三月条の前段には「女をして[身果]形(ひたはだ)にして、平板の上に坐ゑて、馬を牽きて前に就(いた)して遊牝(つるひ)せしむ。女の不浄を觀(み)るときに、沾濕(うる)へる者は殺す。濕(うる)はざる者を沒(から)めて官婢とす」とあり、後段には「百姓之寒」「天下之飢」を顧みず飲食遊興にふけった、とある。前段は、数々ある気色の悪い記事の中でも圧巻と言えよう。武烈を擁護するいかなる言葉も引っ込めざるをえないのではなかろうか。『日本書紀』の編者が、これを見逃したとは思えない。
 この記事で「馬」とは百済の暗喩であり(百済の旧地名を馬韓という)、「遊牝」とは百済王家と通婚したことへの罵言である。百済王家の血を引く「法師君」が生まれたことで、この「朝みかど」に続く君主たちは必然的に百済寄りの政治路線を取ることになり、それが、白村江の敗戦につながった。その戦争責任の淵源をたどったとき、百済に肩入れするきっかけを作った「朝」に行き着かざるを得なかった。《?》の「朝」が「暴君」記事に囲まれることになった最大の理由であろう。七世紀後半の一頃、右の記事が言うように、百済との親和政策の結果、「沾濕(うる)へる」者も「濕(うる)はざる」者も、殺されたり奴隷にされたりするような社会状況が実際に出現したのではなかったろうか。
 では、いつ、九州王朝の親百済路線への批判が起こったのであろうか。白村江の敗戦より以前ではあり得ない。誰によって?
 これは考え方が二つある。一つは、九州王朝自身が自分の歴史を否定し、破壊した。近・現代史において、敗戦後の昭和天皇が自ら「人間宣言」を発し、また教科書の墨塗りが行なわれたように。この場合、七世紀後半のある時期に、九州でこれまでにない歴史書が誕生したことを意味する。その可能性はあるであろう。『万葉集』に、現行の『日本書紀』には見られない「朱鳥」四年、六年、七年などの年号をもつ『日本紀』が引用されている。
 もう一つは、白村江に荷担しなかった近畿天皇家が、批判勢力の主体となったケースである。この場合、近畿の史官たちは、同じ武烈紀の中に、継体の正統性を主張するための武烈批判とともに、九州王朝の《?》の「朝」の失政を指弾する記事をも並べたことになろう。しかし彼らは、武烈天皇の「暴君」ぶりをもって九州王朝は滅びた(ことにする)、という立場なのであろうか。これは奇妙である。
 越前から出た継体の後期近畿王朝から見て、滅びた王朝は二つあったはずである。一つは九州から分かれてやってきた神武〜武烈の前期近畿王朝であり、もう一つは九州にあって日本列島の代表者を自認した九州王朝である。通常は、滅亡した王朝の最後の君主が悪者になる。前王朝滅亡を前提とする東洋の歴史書として、『日本書紀』最後の持統天皇が『続日本紀』の文武天皇とつながっているのは迫力に欠ける。なぜ近畿天皇家は、前期近畿王朝の最後の君主・武烈天皇と、九州王朝最後の君主とを、それぞれ別々の「暴君」として語らないのであろうか。必ずしも最後の君主ではない《?》の「朝」を武烈に重ねる形で間接的にしか語ろうとしていないように見えるのはなぜか、なお疑問が残るのである。
      (二〇〇六年一二月二八日)


1 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『(日本古典文学大系)日本書紀下』(岩波書店、一九六五年、新装版一九九三年)の読みによる。以下「岩波書紀」と記す。

2 青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『(新日本古典文学大系)続日本紀五』(岩波書店、一九九八年)の読みによる。以下「岩波続紀」と記す。

3 上田正昭『大和朝廷─古代王権の成立─』(講談社学術文庫、一九九五年)四一〜二頁。

4 宇治谷孟『日本書紀上 全現代語訳上』(講談社学術文庫、一九八八年)も岩波書紀と同様の解釈である。

5 太田牛一著、奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記』(角川文庫、昭和四四年)一七〜九頁

6 西村秀己「日本書紀の「倭」について」(『古田史学論集『古代に真実を求めて』第四集』二〇〇一年、明石書房)

7 「法師君」は九州王朝に出家した君主が存在したことを示す痕跡であるかもしれない


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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