よみがえる倭京(太宰府) -- 観世音寺と水城の証言(会報50号)
二つの試金石 -- 九州年号金石文の再検討(『古代に真実を求めて』第二集)
続・「九州年号」真偽論の系譜 貝原益軒の理解をめぐって 古賀達也(会報62号)
盗まれた遷都詔聖徳太子の「遷都予言」と多利思北孤 正木裕(『古代に真実を求めて』第十八集)
明治天皇が見た九州年号
『伏敵編』付録『靖方溯源せいほうそげん』
京都市 古賀達也
明治二四年、おりからの清国との緊張関係の高まりを背景に、元寇の研究書である『伏敵編』が廣橋賢光伯爵(福岡県書記官)の発意により、重野安繹監修、山田安榮編集で上梓された。その『伏敵編』の付録として収録されたのが、『靖方溯源せいほうそげん』であり、この中に九州年号等が「異年号」として収録されている。
『日本書紀』や『続日本紀』にある大化・白雉・朱鳥・大寶を含め五七の年号が列記されている。孝霊天皇時代の「列滴」に始まり、文武天皇時代の大寶までが記されており、出典として、『逸号年表』『海東諸国紀』『皇代記』『九州年号』(『襲国偽僭考』所収)『興福寺年代記』『如是院年代記』などがあげられている。
そして、「大化以前史外ノ異年号、諸書ニ散見セリ。用字醜劣、大抵佛家ノ語ニ取ル。(中略)略表ヲ作リ観覧ニ便ス」と述べている。
この『伏敵編』冒頭に侍従長徳大寺實則から廣橋賢光に宛てた一文があり、『靖方溯源』共々皇室に献上されたことがわかる。それには「国民必読之良著ニテ御満足被思食候」とあることから、明治天皇が読んだことがうかがわれる。従って明治天皇は掲載された九州年号を見たものと思われる。
「太宰府」建都年代に関する考察
九州年号「倭京」「倭京縄」の史料批判
京都市 古賀達也
九州年号の誤写誤伝
数ある九州年号史料(注 1. )を比較すると、字形の近似による誤写誤伝の類が少なからず散見される。例えば、正和と正知、蔵和と蔵知、和僧と知僧。これは「和」と「知」の字形の近似からもたらされた誤伝と思われる。現存最古の九州年号群史料である『二中歴』ではいずれも「和」であることから、恐らくは「和」の字を「知」と似た字形に書く筆跡の持ち主により発生した、早い段階での誤伝のケースではあるまいか。この他にも、鏡當と鏡常や、告貴と吉貴、光元と光充などの例がある。(注
2. )
このように近似した字形での誤写誤伝は歴史史料によく見られる現象であるが、これとは異なり、単純な誤写が原因とは考えにくい九州年号に「倭京(景)」「倭京(景)縄」(六一八〜六二二)がある。『二中歴』に拠れば「倭京」とあることから、こちらが原形とも考えられるが、その場合、「倭京縄」という一般的でない三文字の年号(注
3. )に誤伝する理由の説明が困難である。逆に、「倭京縄」が原形で、伝写の際、年号として一般的な二文字の「倭京」へ改変されたと考えることは比較的容易ではある。(注
4. ) こうした改変の方向性を優先するか、『二中歴』の持つ史料としての優位性を優先すべきか、判断に苦しむところである。なお、「京」と「景」は字形の類似による誤写と思われるが、今は『二中歴』に従い、「倭京」「倭京縄」として論を進めたい。
倭京縄の意味
九州年号「倭京」を九州王朝の都太宰府の成立を記念して造られた年号とする仮説を拙稿「よみがえる倭京(太宰府) -- 観世音寺と水城の証言」(古田史学会報
No.五〇)で論じ、「倭京」を文字通り「倭国の都」の意味と解した。それでは、「倭京縄」はどのように解しうるであろうか。
「縄」には主に二種類の字義がある。ひとつは文字通りの「なわ」。大工道具の「すみなわ」の類である。もう一つは「のり(法)」「法則」「規則」などの用例やそれらと関連した「正す」「いましめる」等である。(注
5. ) したがって、倭京縄とは 1. 倭京(太宰府)の法、 2. 倭京造営や遷都に関係した倭京の「なわばり」等の意味が考えられよう。
後者の場合、それとの関連を思わせる興味深い記事が、後代史料ではあるが『聖徳太子伝暦』『聖徳太子伝記』に見える。
聖徳太子伝中の遷都予言
平安時代延喜年間(九〇一〜九二二)の成立とされる『聖徳太子伝暦』(注 6. )の推古二五年条(六一七)に、聖徳太子による遷都予言記事が見える。次の通りだ。
「此地帝都。近気於今。在一百餘歳。一百年竟。遷京北方。在三百年之後。」
『聖徳太子伝暦』推古二五年条
平城京遷都と平安京遷都の予言記事と見られるが、もちろん『日本書紀』には見られない唐突な予言記事である。当然のこととしてこのような予言が歴史事実とは考えられず、かといって『聖徳太子伝暦』編者による全くの造作とも考えにくい。何故なら推古二五年条にこうした聖徳太子による遷都予言を設定する必要性などないからである。同様に鎌倉期(一三一八頃)に成立した『聖徳太子伝記』にも、太子四六歳条(六一七)に近江遷都予言記事や難波遷都予言記事が見える。
このような聖徳太子伝承において、ともに六一七年に遷都予言記事が配された理由として、九州王朝における上宮法皇多利思北孤による太宰府遷都の詔勅記事が、後代に於いて聖徳太子伝承に遷都予言記事として取り込まれたと考えた場合、その六一七年が倭京元年(六一八)の前年にあたり、拙論の太宰府建都を倭京元年とする仮説に対応するのである。(注
7. ) 聖徳太子の時代、大和朝廷では「遷都」がなかったので、予言記事とせざるを得なかったのではあるまいか。後代史料とは言え、『聖徳太子伝暦』などの六一七年の遷都予言記事は、倭京元年太宰府建都説の傍証と言えるものであり、これ以外に遷都予言記事が六一七年に配された史料事実を合理的に説明できないのである。
「太宰府」建都の年代
「よみがえる倭京(太宰府) -- 観世音寺と水城の証言」においては、考古学的考察から太宰府の成立(建都)を七世紀初頭とし、九州年号の倭京元年をその候補として指摘した。本稿では倭京縄の史料批判、『聖徳太子伝暦』などの遷都予言記事から太宰府建都を倭京元年とする妥当性に言及したのであるが、考古学と文献史料批判の双方からの検討が一致したことは、拙論の優位性を指示するものである。
なお、14C 年代測定による太宰府政庁第二期遺構出土の炭の年代がAD四三五〜六一〇年を示していることをもって、太宰府の成立を五世紀まで遡るとし、拙論を批判する見解(注
8. )があるが、これは14C 測定に用いた炭のサンプルが木材の最外層であった場合(伐採年に相当)にのみ言えることである。同測定の場合、火災により炭化した木材の測定であり、火災の場合、通常最外層は焼失している可能性が高い。従って、同測定値は木材年代の「上限」を示したものとするにとどまり、その測定値をもって拙論を批判されるのは失当と言わざるを得ない。
また内倉武久著『太宰府は日本の首都だった』においても、太宰府政庁第二期遺構出土の土器よりもやや新しいとされていた朝倉町大迫遺跡出土土器の14C 測定値が五九〇年±七五年と紹介されており(同書七六頁)、太宰府成立を七世紀初頭とする拙論と概ね一致する。
以上、本稿の結論により太宰府建都を七世紀初頭とすることを一層明らかにし得たと思われるのである。
(注)
1. 九州年号群史料としては次のものが著名である。『二中歴』『本朝皇代記』『和漢春秋暦』『建長寺年代記』『麗気記私抄』『王代年代記』『勝山記』『海東諸国紀』『宝光寺年代記』『和漢合運図』『和漢合符』『三国合運』『和漢年代記』『王代記』『年代記』『建仁年代記』『如是院年代記』『襲国偽僭考』。
2. 九州年号群史料間にある年号の異同については、丸山晋司『古代逸年号の研究─古写本「九州年号」の原像を求めて』(一九九二年)が詳しい。
3. 中国には三文字の年号が少数ではあるが存在する。例えば梁の「中大通」(五二九〜五三四)、「中大同」(五四六〜五四七)。西村秀己氏(古田史学の会)の御教示による。
4. 「倭京(景)縄」から二文字に改変された例として、「景縄」「和縄」と記された九州年号群史料もあるようである。詳細は丸山晋司『古代逸年号の研究─古写本「九州年号」の原像を求めて』を参照されたい。
5. 諸橋『大漢和辞典』
6. 『聖徳太子全集』第二巻(昭和六三年復刻版、臨川書店刊)
7. 干支の「一年のずれ」という古代暦法上の問題もあり、遷都予言記事と倭京元年が同年であった可能性も配慮すべきであろう。当問題に関しては拙稿「二つの試金石 -- 九州年号金石文の再検討」『古代に真実を求めて』第二集(一九九八、明石書店)を参照されたい。
8. 草野善彦「法隆寺移築問題 -- 古賀達也さんのご意見に関して」『多元』 No.六三(二〇〇四年九月)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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