2004年12月9日

古田史学会報

65号

1、九州年号
・九州王朝説
 冨川ケイ子

2、二つの「聖徳太子論」から
 大田齋二郎

3、太田覚眠における
時代批判の方法
 松本郁子

4、甕戸(おうど)から
大戸国への仮説
 西井健一郎

5、西村秀己
『盤古の二倍年暦』を読んで
短里における
下位単位換算比の仮説
泥 憲和

6、明治天皇が見た九州年号
『靖方溯源』

「太宰府」建都年代
に関する考察
九州年号「倭京」「倭京縄」
の史料批判
 古賀達也

7、古田史学いろは歌留多
日本史の構造革命に迫る
仲村致彦

事務局便り


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原文改定と菅政友 冨川ケイ子(会報64号)

明治天皇が見た九州年号 --  『伏敵編』付録『靖方溯源せいほうそげん 古賀達也(会報65号)

鶴峯戊申不信論の検討 -- 『臼杵小鑑』を捜す旅 冨川ケイ子(会報68号)へ

古賀事務局長の洛中洛外日記 第174話 2008/05/03 古写本「九州年号」の証言 古賀達也

九州年号・九州王朝説

明治二五年

 

相模原市 冨川ケイ子

 ここに紹介する二編の論文は、明治二五年(一八九二)に京都市で刊行された広池千九郎編『日本史学新説』に収載されている。(注1)
 まず今泉定介「昔九州は独立国にて年号あり」は、その論題のとおり、古代において九州は独立国であったこと、独立国は年号を持つという東アジアの慣例に従って年号を建てたことを指摘するとともに、その古代年号を『九州年号』により列挙している。
 次の飯田武郷「倭と日本は昔二国たり・卑弥呼は神功皇后に非す」もまた、九州王朝説の観点から興味深い。
 江戸時代の国学者・鶴峯戊申は、文政三年(一八二〇)に『襲国偽僭考』の中で古代年号を取り上げ、古写本『九州年号』に依拠したことを記した。それは、彼のほかには目撃した者がいない文字通り“まぼろし”の書物であった。「異年号」「逸年号」「私年号」「偽年号」とも呼ばれる古代年号は古文献に散見する。古田武彦氏が九州王朝説を唱え、これらの年号群を九州王朝が制定したものとして捉えて(注2)以来、多くの研究が重ねられてきたが、これらを「九州年号」と総称する根拠はもっぱら鶴峯によっていた。
 今泉論文はそのようなところへ出現した。鶴峯と今泉は、同じ名前の『九州年号』という書物に依拠し、列挙する三〇個の年号が、その並びにおいて一致し、また文字の上でもほぼ一致している(注3)。鶴峯と今泉が同一系統の書物を参照したことは明らかである。
 しかしながら、両者には違いも目立つ。
 鶴峯の博引傍証に対し、今泉は一年号につき一行と簡略である。コンピュータの出力した帳票のようであり、空白の項目も少なくない。
 鶴峯は「海東諸国記」(注4)など十一の書物からの引用に加え、多くの「一説」等による異説を挙げている。一方、今泉は前文では「海東諸国記」「如是院年代記」「麗気記私抄」の名を上げるが、実際の記事では前二書を参照するにとどまる。
 さらに重要な違いは、各古代年号に対応する近畿王朝暦年代に現れる。
 鶴峯は干支を示すが、今泉は示さない。
 両者の近畿年代は、「法清」年号までは食い違いは見られない。しかし次の「兄弟」年号以降、一年、二年、または三年のずれを生じている。全体として、今泉が不明とする二個を除き、二八個中二〇個において異なる。
 『二中歴』所載の「年代歴」が記す近畿年代と比べると、鶴峯はおおむね『二中歴』と一致するにも関わらず「願転」「白雉」年号については別の説を立てている。一方、今泉は「願転」「常色」「白雉」の三年号でのみ『二中歴』と一致する。(注5)
 これらのことから、今泉は鶴峯と無関係に、独自にその論文を執筆したと考えることができる。
 これまで古写本『九州年号』のただ一人の目撃者であった鶴峯は、直接『九州年号』から取った部分がどこであるか明らかにしていなかった。このため、古写本『九州年号』の正体はなぞであった。
 ここで今泉論文が出現したことにより、それは今泉の記事に近いものであったらしいことが推測できるようになった。すなわち、それは九州年号と近畿暦年代との対応表、あえて言えば前者から
後者への換算表であったようである。各年号の時期に起こった出来事は、簡略であれ、記されてはいなかった(伝承を欠いていた)と考えられる点で、『二中歴』や『海東諸国記』よりも貧弱な史料である。
 それにもかかわらず、古写本『九州年号』は、その名称だけで、九州は年号をもつ王朝であったことを主張している。その古写本を明治中頃に見たとする今泉論文の発見は、今後の研究を進める上で意義が大きい。古写本『九州年号』の発見にも期待が高まるところである。
 飯田武郷は『日本書紀』の研究者として知られ、先行説をまとめた大部の『日本書紀通釈』(明治三二年脱稿)の著者である。
 広池前掲書に収録された論文では、まず第一に、『前漢書』『北史』『旧唐書』『後漢書』『魏志』を根拠に引きながら、倭国と日本国を別の国であるとする。本文の中では「二国」の語を使っていないが、論文中ほどで「以上の証にて日本と倭とハ異なること明」とし、末尾で「上古彼史にて倭と云は我皇国に非ること断然明也」と述べる。
 第二に、倭国の領域を熊襲説にいう南部九州のみならず、筑前や肥前など北部九州を含むものとする。
 第三に、倭国大乱の年代や殉葬の風習を取り上げながら、卑弥呼に相当する人物は近畿王朝には存在しないと指摘する。国内文献に登場しない卑弥呼は「倭国の王」「西国の僭王」と呼ばれる。飯田の「二国」説は、卑弥呼は神功皇后ではないという主張と密接な関わりがある。飯田論文が二つの標題を持つゆえんである。
 第四に、神功紀に卑弥呼や壹与の名を隠して引用される中国史書の記事は古写本には見られず、後世の竄入であろうとする。(注6)
 第五に、「倭女王」に「ヤマトノジョワウ」、卑弥呼の都「邪馬臺」に「ヤマト」と振り仮名をふる。(注7)
 飯田は論文冒頭で、本居宣長が唱えて以来定説となったという卑弥呼=神功皇后説を批判するが、『馭戎慨言』で本居は、「筑紫なりしもの」が「姫尊」(神功)の名を偽って使った、としている。むしろ飯田の「二国」説が本居には見られない考え方である。(注8)
 倭国に対し、一方の日本を「我日本全国」「我朝廷」「我皇国」と呼ぶことが示すように、飯田の「二国」説は強固な皇国観念を土台としている。その視線は「我皇国」の側に向けられ、「我皇国」にそぐわない中国史書の記事を「我皇国」の外なる「倭国」に振りあてるにとどまった。
 四千頁近い『日本書紀通釈』は完成に長い年月を要し、そのためか箇所によって表現に若干の揺れが見られる。例えば、総論に当たる部分では、中国の各王朝と外交関係を持ち、漢字を読み書きする能力を有した勢力を「西偏の国」と書き、はっきり「国」と認めている。ところが神功紀を扱う部分では、そこに引用された『魏志』の記事に触れて「但しこれら皆。筑紫の偏土。又は襲国人なとのしわさなり」とするのみである。(注9)
 皇国史観にもまた多様な考え方があった。それが時とともに取捨選別が進み、純化されていったのであろう。飯田の「二国」説が、広池前掲書における論文から発展しないまま捨て置かれたのは、天皇支配の「無窮」を唱える皇国史観を貫徹する上で都合が悪くなったためかもしれない。
 飯田論文が二つの標題を持つのは、広池前掲書の編集方針にもよるようである。「読者の耳目に入り易き」「紙数を節倹」「代価を廉に」「史学普及の精神を貫徹せん」という営業方針にそって、原文のままもあれば省略したものもあり、前後を入れ替えたものもあれば、数人の主張をひとまとめにしたものもある(注10)、という。
 広池前掲書は、六一の論題(注11)を掲げ、五六編の論文を収録する。複数の標題を持つ論文が三編、複数の論者の名を掲げるものが三編、記名のないものも二編ある。論者には田口卯吉、星野恒、久米邦武、重野安繹、菅政友、田中義成など、明治から大正の歴史学界を代表する学者が並んでいる。「明治年間の史学者が其以前に於ける国史上の定論中誤謬の点を指斥せる新奇の論説を網羅」(注12)したい、という啓蒙主義的な目標は一応達成されていたと言えよう。それは
また一面、江戸時代以来の教養、知識を否定するものでもあった。
 広池、今泉、飯田はその後、明治政府が大日本帝国憲法(明治二二年)や教育勅語(同二三年)によって公定した皇国イデオロギーを背景に、著述・出版・教育などに活躍することになる。ここに掘り起こされた『日本史学新説』及び二編の論文は、皇国史観が完成されていく過程で、その中に、九州は独立国、倭国は「我皇国」とは別の国、という異端の見解、天皇支配の一元性を真っ向から否定しかねない見解が存在したという事実を示している点が貴重であるというべきであろう。
       二〇〇四、一〇、二三


1 国立国会図書館所蔵。同ホームページ内の近代デジタルライブラリーで閲読することができる。
2 古田武彦『失われた九州王朝ー天皇家以前の古代史ー』一九七三年、朝日新聞社
3 『二中歴』と比べると、鶴峯・今泉は継体・白鳳・朱鳥を欠き、逆に、『二中歴』にはない聖聴・大長を持つ。また、『二中歴』の教到を殷到、鏡当を鏡常、告貴を吉貴、大化を大和とする。
4 申叔舟著、田中建夫訳注『海東諸国紀』(一九九一年、岩波書店)では「紀」であるが、鶴峯、今泉とも「記」を使う。ここではそのままとする。
5 今泉の白雉三年(六五二年)と『二中歴』の壬子(六五二年)との一致は、古賀達也氏のご指摘による。同氏からは『二中歴』と比較するように勧められた。
6 この説は本居宣長にも認められる(『馭戎慨言』(『本居宣長全集』第八巻 昭和四七年、筑摩書房、三五〜三六頁)。なお、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀 上』(一九六七年、新装版一九九三年、岩波書店)は、『三国志』からの記事を後人の竄入とする飯田説を、「書紀の年立」を理由に誤りとする。(補注9ー三三、六一八頁)
7 飯田は、菅政友の二つのヤマト説の流れの中にいるようである(拙稿「原文改定と菅政友」『古田史学会報』第六四号、二〇〇四年一〇月一二日)。なお、『魏志』では「臺」は「壹」である。
8 『馭戎慨言』本居前掲全集本。
9 『日本書紀通釈』(明治二二〜三一年年)及び『増補正訓日本書紀通釈』(昭和一五年、畝傍書房)による。後者はこれに続けて「此卑弥呼と云ものを。姫子の義なりと解て。皇后を申すなと云説は。甚だしき非なり。さらは男王の卑弥弓呼をは誰なりとか為へき。男に姫と云ことあるへくもあらす」と述べる。(巻之三十六、一九七九頁、細注)
10 広池前掲書、凡例による。
11 目次に漏れた題目一編を含む。
12 広池前掲書、緒言による。

【史料】
●昔九州は独立国にて年号あり
              今泉定介
熊襲を果して呉の夫差の後にして夫差孝照帝1). の三年直に我国に来りしとすれは其養老四年亡ふる迄千百九十三年なり。

此間日本王と称して支那と交通せしこと明なり。且独立の体面を装はんが為年号を建てたるが如し。蓋し支那にては独立国は必年号ある者とするを以て也。今の九州年号は熊襲の当時建てしものならん。此年号百七十年間2). 続けり。其年号の挙3). けある書は麗気記初4). 抄・海東諸国記・如是院年代記・九州年号なり。而れども各多少の差異あり。今左に九州年号によりて之を列示す。
 善記 我継体帝十六年より四年間(海東諸国記にハ善化とあり)
 正和 同廿年より五年間 (我花園帝の時の正和に非ず)
 殷到 同廿五年より四年間 (海東にハ発例とあり)
 僧聴 宣化帝元年より四年
 明要 欽明二年より十二年 (海東には同要とあり)
 貴楽 同十三年より二年
 法清 同十五年より五年 (海東には結海とあり 5).
 兄弟 同廿年より二年
 蔵和 同廿二年より五年 (如是院には蔵知)
 師安 同廿七年より二年
 知僧 同廿九年より二年 (海東には和僧)
 金光 敏達二年より六年
 賢聖 同八年より五年 (海東には賢接)
 鏡常 同十三年より四年 (海東には鏡当)
 勝照 用明二年より四年
 端政 崇峻四年より五年 (如是院には端改)
 吉貴 推古三年より六年 (海東には従貴)
 願転 同九年より六年 (海東には煩転)
 光元 同十五年より六年 (如是院にハ光充)
 定居 同廿一年より七年
 倭京 同廿八年より五年
 仁王 同卅三年より六年
 聖聴 舒明三年より六年 (如是院にハ聖徳)
 僧要 舒明九年より五年
 命長 皇極元年より五年
 常色 大化三年より五年
 白雉 三年
 朱雀 不明
 大和 不明
 大長 大宝二年
即百七十七年間6). 年号数三十あり。而して我朝に朱雀大化あり彼に朱雀大和ありてよく似たり。蓋彼我を擬せしもの乎。相混せしものか。又我孝徳の朝に白雉あれとも之は古語拾遺・元亨釈書・神皇正統記皆白鳳とすれば白雉とハ誤なり。

凡例
 ・現代フォントを使用。
 ・読点を加えた。
 ・( )内は細注ではない。

1). 第五代孝昭天皇。
2). 後文に「百七十七年間」とする。脱字があるか。
3). 不鮮明。仮に「挙」(かか)と読む。
4). 「初」、「私」であろう。
5). 「結海」、申叔舟著、田中健夫訳注『海東諸国紀』(一九九一年、岩波書店)では「結清」とする。
6). 前文に「百七十年間」とする。継体天皇の一六年を五二二年、大宝二年を七〇二年とした場合、善記から大長まで一八一年となる。

●倭と日本は昔二国たり
●卑弥呼は神功皇后に非す
             飯田武郷
後漢書・魏志・北史・隋書・三国史記に倭女王卑弥呼(ヤマトノジョウオウヒミコ)とある人を神功皇后なりと本居宣長の云ひしより後全く定説となりたれとも是大なる誤なり」先上代に彼国にて倭国と云ひしハ我日本全国のことにハあらすして西偏の一地方をさすもの也。其ハ前漢書地理誌1). に楽浪海中有二倭人分為百余国歳時来献見とあるを始め北史に倭国在百済新羅東南水陸三千里於大海中山島而魏時譯通中国三十余国皆自称王云々なとあり。之は今の九州地方のことにて日本全国に非す。尚証を上くれバ彼国にて九州の内南は日向大隈の域2). ハ筑前国(今[王那*ア] 珂郡)辺迄を倭国と云ひしなり。其は旧唐書に倭と日本を別になし又日本国倭国之別種也ともあり。其は後漢書に倭奴国と云が始て見へて倭国の極南界とあり。之は北史に引ける奴国の上に倭の字を置きたるにて(之を彼委奴3). 国王印とある委奴とするハ非也)倭の国と云ことにて筑前の儺県を倭之奴国と云へる也。是筑前も倭国の内なる証也。さて以上の証にて日本と倭とハ異なること明なれとも尚云はヽ北史魏志等に韓地より倭国に至れる道程を記して始渡一海千余里至対馬国又南渡一海千余里名曰4). 一支国又渡一海千余里到末盧国(肥前松浦郡)東南陸行五百里到伊都国(筑前怡土郡)東南至奴国(筑前那珂郡)百里東行至不弥国(筑前宇弥)百里至投馬国(蓋肥後玉名即歟。東国通鑑に多婆那国とあり)水行十日(一に云く廿日と)5). 南邪馬臺国女王之所都とある此女王の都する処が即倭にて女王は即卑弥呼なり。(六人部是香云く是れ熊襲なりと)之にて神功皇后は卑弥呼に非ること分明ならん。尚云はヾ後漢書に桓霊間倭国大乱更相攻伐歴年無主有一女子一名曰卑弥呼とあり。之は倭国の王にて神功皇后にあらざることは桓霊間は(後漢の桓帝霊帝)日本にては成務帝十七年より五十九年迄にて其間に右に記せる如きことは更になきを以て知るべし。次に彼卑弥呼が年長不嫁事鬼神道云々6). とあれども是如何で皇后と云を得んや。次に卑弥呼以死大作冢云々とあれども此事ハ皇后の崩し玉へる六十九年より廿三年前のことなり。且つ又殉葬者奴婢百余人7). とあれとも我朝廷にてハ既に垂仁帝の代より殉死は禁しある也。されば定めて西国の僭王のことならん。而して今の日本紀板本には神功皇后紀に三十九年是歳也大歳己未の下ノ注に魏志云明帝景初三年六月倭女王遣大夫難斗米等郡求下詣天子朝献上云々とあり。又四十年の下ノ注に魏志云正始元年8). 建忠校尉梯携等勅書印綬倭国とあり。又四十三年の下注に正始四年倭王云々上献とあり。又六十六年の下の注に(前略)倭女王遣重訳貢献也とあれども是ハ皆古写本及集解に引ける古本にはなき由にて後に纔入せしものならんと云。されば上古彼史にて倭と云は我皇国に非ること断然明也。

 凡例
・現代フォントを使用。
・読点を加えた。
・( )内は細注である。
・中国史料からの引用文については、な お若干の異文があるが注記しない。


1). 「誌」、ママ
2). 「北」脱か
3). 「トイ」の読み、ママ
4). 「倭」、『三国志』に「瀚」
5). 「陸行一月」を欠く。
6). 『後漢書』であろう。
7). 『三国志』であろう。
8). 「太守弓遵」を欠く。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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