『二中歴』の史料批判 人代歴と年代歴が示す「九州年号」
古田史学会報
1999年 2月 2日 No.30
京都市 古賀達也
いわゆる九州年号群史料における現存最古の文献として著名な『二中歴』は鎌倉期初頭の成立とされている。その内容は、当時の貴族や知識人のための百科事典のようなものであるが、その内容は平安後期に成立した掌中歴と懐中歴の二つの歴を中心として編集されたものである(編者不明)。二中歴という名称もここから来ている。現存する唯一の古写本は尊経閣文庫本(全十三帖。以下、古写本と呼ぶ)で、写本成立時期は後醍醐天皇の頃とされるが、その後室町時代まで数次にわたり書き継がれた跡がある。その他の写本は全てこの尊経閣文庫本を元本としたもので、いわば天下の稀覯本である。
問題の九州年号は第二帖最初にある「年代歴」冒頭に記されている(写真○1参照)。継体(元年は五一七年丁酉、継体天皇十一年に当たる)から大化(元年は六九五年乙未、持統九年に当たる)までの三十一個の年号がそれである。そしてそれら年号群の末尾に次の文が記されている。
「已上百八十四年々号丗一代〔虫食いによる欠字〕年号只有人傳言自大寶始立年号而巳」
この文の読みについて、九州年号否定説に立つ所功氏は著書『年号の歴史』(雄山閣出版・昭和六三年)において、虫食いによる欠字部分を後代新写本(正確には新写本「実暁本」に基づいて作られた『改訂史籍集覧』)により「不記」の二字を補った上で、次のように述べている。
「以上の百八十四年間の三十一の年号は代々記録されてきたものではなく、ただ人の「伝言」=言い伝えとしてあるのみで、公式の年号は大宝よりはじめて立てられた、ということであろう。」
写真○1 年代歴
このように所氏は解釈し、九州年号実在説を否定し、「“古代年号”の創作者は、おそらく鎌倉時代(末期)の僧侶か仏教に関係の深い人物と推測して大過ないと思われる。」と結論付けられた。以後、近畿天皇一元論者はこの所論考をもって九州年号後代偽作説の根拠としてきたようである。
これに対して痛烈な批判を試みられたのが丸山晋司氏であった。氏はその著書『古代逸年号の謎--古写本「九州年号」の原像を求めて』(アイピーシー・平成四年)において、主に次の三点から所説の批判を行われた。
1. 所氏は『二中歴』尊経閣文庫本書写年代(鎌倉末期)を成立年代と勘違いしている。
『二中歴』の成立は鎌倉初頭で、その依拠史料の「掌中歴」「懐中歴」に至っては平安後期の成立である。従って、年代歴古代年号部分は平安時代にはすでに成立していたと考えられる。所氏の古代年号鎌倉末期創作説は書誌学的誤解の上になされており、成立しない。
2. 虫食い部分は一字分しかなく、「不記」の二字と見るのは困難である。従って、この部分は前後の文脈からしても、古代年号存在に肯定的な「記」あるいは「定」という字がふさわしい。
3. その上で、この文は「以上百八十四年、年号三十一代、年号を記す。只、人の伝えて言う有り『大宝より始めて年号を立つのみ』と…」のように読み下すべきである。
こうした丸山氏の批判は、
1. については全くその通りであり、昭和十二年に『二中歴』尊経閣文庫本コロタイプ版が刊行された際に付けられた「解説」も、その成立を鎌倉初頭、同書写本の第一帖「人代歴」は後醍醐天皇の嘉暦年中(一三二六~一三二八)の書写とし、第二帖「年代歴」は同じく正中年中(一三二四~一三二五)の書写としている。
2. については異論があるところで、丸山氏も前掲書で紹介されているように、尊経閣文庫常務理事の太田斉二郎氏の見解では「欠字部分の下半分は『記』と思われるが、上半分に文字があったのかなかったのかははっきりわからない」とされており、筆者も昨年発行された八木書店版『二中歴』の写真本を熟視したところ、やはり下半分は「記」と読める。ただし、前後の文字よりも小さな文字であり、従って上半分にも一字あったと見るべきであろう。幸い、同古写本は弘治三年(一五五七)興福寺の実暁により書写されており、更に元禄時代にそれを清写した新写本、いわゆる「実暁本」が現存しており、その「実暁本」には、問題の欠字部分が「不記」と記されていることは重視されるべきである。したがって、筆者は
2. については所氏のように「不記」と見なすべきと考える。
しかし、丸山氏も指摘しているように、その場合でも所氏のように、「只有人傳言」の内容を直前の文とすることは不自然である。やはり丸山氏のように「只、人の伝えて言う有り『大宝より始めて年号を立つのみ』と…」と読むのが穏当であろう。その上で次のように解すべきではあるまいか。
「以上百八十四年、年号三十一代、年号は記さず。只、人の伝えて言う有り『大宝より始めて年号を立つのみ』」
すなわち、『二中歴』編者あるいはそれに先立つ「年代歴」編者の主張としては、三十一個の古代年号の存在は認めているものの、それを記さないと言っているのである。しかし、現に年代歴に記しているのであるから、一見矛盾しているように見えるが、それを解く鍵が第一帖「人代歴」にあった。
現存古写本『二中歴』第一帖は、「神代歴」「人代歴」「后宮歴」「女院歴」「公卿歴」「侍中歴」からなっている。「人代歴」は神武天皇から後醍醐天皇(「今上」と記す)までを同筆で、更に八代が「今上」あるいは「當今」と書き継がれている。また、堀河天皇の後に「今案神武天皇後堀河院以前凡千七百五十九年」と記されていることから、堀河天皇の次代の鳥羽天皇(在位一一〇七~一一二三)の時に、それまでの部分は一旦成立していたことがうかがえる。
さて、ここで注目したいのが「人代歴」に見える継体天皇の項(細注)である。次のように記されている(写真○2参照)。
「継体二十五 (応神五世孫 此時年号始)」()内は細注。なお、「二十五」の右注に「或云雄略太子」とある。
すなわち、『二中歴』編者あるいは「人代歴」編者の認識として、年号は継体天皇の時に始まったとしているのである。しかも、『日本書紀』に見える、孝徳紀の大化や白雉、持統紀の朱鳥は「人代歴」には見えず、年号そのものは文武天皇の細注「天武太子
持統南宮 大寶三 慶雲四」から始めて記され、以下歴代天皇の細注に当時の年号が記されている。
写真 ○2 人代歴
すなわち、「人代歴」における年号の記入状況が、先の「年代歴」の文と一致するのだ。「人代歴」において、年号は継体天皇の時より始まったが、百八十四年間は記さず、大宝より記している、ということなのである。
もう少し具体的に考えてみよう。『二中歴』の読者はまず第一帖の「神代歴」「人代歴」と読み進む。そこで、継体天皇の項に「此の時、年号始まる」と書かれてあるのを読み、第二帖の「年代歴」にある「継体」より始まる古代年号群を目にし、「これらが継体天皇の時より始まった年号なのだ」と認識するであろう。そして、末尾の一文を読み、「百八十四年間の三十一代の年号は(人代歴には)記されていないが、大宝より始めて年号ができたというのは只人の言い伝えに過ぎない」という指摘にうなずく仕組みになっているのだ。当然、『二中歴』の編者もそのように読者が理解することを前提として各歴を編纂していったはずである。
実は、この考えを指示する史料状況がある。第一帖「人代歴」の最終頁で、「后宮歴」直前にあたる頁に「年代歴」の第一頁(古代年号部分)と同文が一旦書かれ、こすり消された跡があるのだ(写真○3
参照)。内容は第二帖の「年代歴」と全く同一である。すなわち、『二中歴』の本来の姿として、「人代歴」の直後に「年代歴」があったのではないか、と思わせる史料状況なのである。そうすると、「人代歴」と「年代歴」の関係は一層緊密となり、継体天皇の時より始まった年号群が「人代歴」に続いて読者の目に入る仕組みとなるのだ。
さらには、続く「后宮歴」のノドの部分に「后宮 女御 女院 斎宮 斎院」の文字があることから、本来は「后宮歴」に始まる一括が別にあったことがうかがえる。このことも、『二中歴』には本来別の帖立てがあったことの痕跡ではあるまいか。
写真 ○3
以上、論じてきたように、『二中歴』は「継体」より始まる年号群の実在を前提として編纂されており、所氏のようにその存在を人の言い伝えにすぎないと疑っているのではないことが、「人代歴」等の史料批判により明らかになったと思われる。従来、「年代歴」のみの読解をめぐる論争であったため、「人代歴」などの史料状況が見落とされていたようである。
また、「人代歴」編者が継体天皇の時より始まる年号群の実在を認めているにもかかわらず、「人代歴」に記さず、文武天皇より始まる大宝年号から記していることは、三十一の古代年号群が近畿天皇家のものとは異質の年号であったことを知っていたのではあるまいか。これも興味深い史料状況である。
このように、『二中歴』は九州年号実在論を支持する貴重な史料である。しかも、同書が平安時代から室町時代に及ぶ、貴族やインテリにとっての百科事典的書物であることを考えるとき、九州年号や九州王朝の存在は、かなり後代まで認識されていたのではないかという日本思想史上のテーマをも惹起しそうである。なお、筆者はこのテーマについて論究したことがあるので参照されたい(「日蓮の古代年号観」『市民の古代』十四集所収)。『二中歴』には、この他にも興味深い情報が記されているが、稿をあらためて論じたい。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
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