「両京制」の成立

古田史学会報 2000年 2月14日 No.36


ミレニアム記念特別寄稿

「両京制」の成立

 
−−九州王朝の都域と年号論−−

古田武彦

     一

 昨年(一九九九)の八月から九月にかけて、また今年の一月六日から十一日まで、再度にわたる九州旅行の成果は絶大だった。共同研究調査のおかげである。
 その成果のすべては、とても書き尽くせないけれど、今はその焦点をなすテーマ、そしてこれから探究すべき未来の方向、それにしぼって記録しておきたい。

 第一は、一月六日の午後、久留米を出発して田主丸町へ向かった。「筑後の正倉院」を求めてのリサーチだった。問題点を摘記しよう。

  第一、昨年八月末、久留米で“手分け”して各方面(文書や記録や神社・仏閣等)を調査した中で、一方は「九州年号入りの祝詞(原本)」が発見された(古賀・藤沢・古田等)が、他方では「(筑後の)正倉院」の三文字をもつ記録が久留米市史(第七巻、四八六〜九四ページ)から発見された(高木博)。

 第二、この「(筑後の)正倉院」の記録は、わたしにとって極めて刺激的だった。なぜなら「富本銭の出土」から「曲水の宴」のテーマが浮かび、その“跡地”として久留米市の「曲水の宴」遺構の出土が注目された。さらに一方では、正倉院文書(奈良)の正税帳において「筑後国」の部では、他の諸国とは異なり、「当代最高の技術者(銅竈やロクロ造り、お鷹狩り)や技術犬(お鷹犬)」などが献上されていた。その上、「買」の名目ながら、白玉<真珠>(一一三枚)・紺玉(七一枚)・縹玉<ガラス製>(九三三枚)・緑玉(四二枚)・赤勾玉(七枚)・丸玉(一枚)・竹玉(二枚)・勾縹玉(一枚)という、当代最高の産物が、おびただしく「献上」させられていたのであった。この時点(天平十年、七三八)以前において、筑後国が日本列島中、最高の工業生産と文明中心であったこと、疑いえない。わたしは従来の「正倉院文書、研究者」の中から「九州王朝論者」が輩出しなかったこと、これこそ「現代の奇跡」ではないか、とさえ感ぜられたのである。

 第三、しかも、問題は次の一点だ。「この献上(買取り)以前に、これらのおびただしい宝玉類は、一体どこに蔵されていたか。」この問いである。この問いの眼前に、右の「筑後の正倉院」記事が発見されたのだ。この宝玉類が、右の「買取り」のあと、現在の奈良の正倉院に収納されたこと、おそらく疑いないのである。とすれば、

(A)「買取り前」----筑後の第一正倉院
(B)「買取り後」----現在の第二正倉院

 とならざるをえないこと、“理の当然”ではないか。“全国の『正倉』<公的な税物の収納所>の建物を『院』と称したのであろう。”といった地方的レベルで“処理”しうる、これは「質と量」ではないのである。

 第四、しかもこの「筑後国交替実録帳」(仁治二年、一二四一)には、ただ「正倉院」だけが記されているのではない。「正院」があり、さらに「宮城大垣」がある。それらのワン・セットの中の「正倉院」なのだ。

 第五、その上、右の「正院」と「正倉院」は「崇道天皇」の造営にかかるもの、と記せられている。この名は、通例「早良親王」(七四九〜七八五ごろ)の追号として知られているけれど、同名異人だ。なぜならこの親王は「京都〜淡路島(未到にして没)〜奈良(僧田・社を移置)」の間に足跡が限られ、九州とはかかわりがない。「九州の崇道天皇」とは、すなわち「九州王朝の天子」だ。そして仏道の尊崇者である。(筑前・筑後の「九躰の皇子」を「〜天皇」と称する。また朝倉に「天皇の杜」あり。)

 以上のような問題意識に立ち、現地(田主丸町)に行ったところ、幸いにも右の「正院」跡に接することができた。三明寺バス停近くの「井の丸、井戸」である。「正院」跡であり、近くにその建物の礎石が発見された旨、掲示があった(教育委員会の丸林禎彦氏の御案内による)。

 これを右の文書の記載と対照すると、「竹野郡、正院」がこの地に当っているようである。「倉」ではなく、「人」(崇道天皇)の宮居こそ、筑後第一とされる、この名井(めいせい) の地にふさわしい。今も、近所の民家や石垣に、大・中・小の礎石が「再利用」されて遺存している。
 右の「正倉」は、従来は、八世紀初頭の道臣(国府の長官)の築造とされてきた(条里制と共に)。
 しかし、「年輪年代測定法」によって、従来の考古学編年は約一〇〇年さかのぼらせられることとなった。七世紀前半である。九州王朝の時代(七〇一、以前)だ。すなわち「崇道天皇の治世」である。


     二

 以上は、わたし(正確には、わたしたち)にとっては、一応「確定」したテーマだ。文献(「筑後国交替実録帳」)と実地の遺構とが対応し、一致していたからである。もちろん、肝心の「生葉郡、正倉院」や「宮城大垣」その他(駅伝馬、池溝堤、火逢*燧 等)の実地(遺構)との対照は、今後に残された重要な課題だけれど、今回の検証によって、一応、その中枢をなす「礎石」は見出された。そのようにいいうるであろう。
 そこで、それらの研究の進展のために、あえて大胆に、全体的規模乃至全体構造に対する「予測」を提起してみたい。それは決して「断定」を望むものではない。逆だ。「未断定」なるが故に、一個の試案を提供し、共同の思考実験、さらには現地検証をふくむ共同研究の資に供したいと思うからである。


     三

 ここに提起すべき新概念、それは「両京制」の一語だ。
 すでに太宰府に関し、整然たる条坊制の存在は確認されている。(たとえば、鏡山猛氏の『大宰府都城の研究』風間書房、昭和四十三年、はその“古典”である。)
 もとより、氏をはじめ従来の研究者はすべて近畿天皇家中心の「一元史観」に立っていた。それゆえ、わたしの立場とは全く異なっている。すなわち、太宰府の都府楼跡の奥に「字、紫宸殿」や「字、大(内)裏」「字、大(内)裏岡」等の字地名の存在すること、また条坊の正面に「朱雀門」があり、いずれもここが「天子の宮殿」の根本性格をもつ、という事実からは、ひとしく“目をそむけ”つづけてきていたのであった。


     四

 この太宰府の「天子の都」問題と深い関連をもつのは、日本書紀の左の記載である。

(天智三年、六六四)是歳、対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国等に防と烽とを置く。又筑紫に大堤を築きて水を貯へしむ。名づけて水城と曰ふ。
 <天智紀、是歳条>

 この記事は、当時の「軍事史的状勢」から見れば、全く矛盾している。なぜなら白村江の完敗(六六三、日本書紀)のあと、唐の駐留軍(郭務宗*等)も筑紫に来ているのに、その時点において、高度に軍事的意義の高い「水城」や「防」(辺境防備の兵)や「烽」(烽燧)を設置する、というのは、ハッキリいって「時代錯誤」だ。どの国を、誰人を「仮想敵国」としようというのか。この地理関係では、相手は「唐と新羅」しかいない(すでに百済は、唐の支配下)が、ふたたび「唐と新羅」を相手にして戦おう、というのであろうか。
ちょうど、マッカーサーが東京に駐屯してあと、「対米軍事要塞」を東京や太平洋諸島に築こうとするに似ている。ナンセンスだ。
 従来の「一元史観」では、この日本書紀に依拠して、それに“矛盾しない”形で、数多くの報告書等が作製されてきた。ところが、近年の「年輪年代測定法」によって、これらの年代が「約一〇〇年」さかのぼらねばならなくなった。では、

「今回も、天智紀の天智三年の『是歳条』に 一致する。」

などといいうるだろうか。それでは、文字通り、あの「矛」と「盾」の効能をのべた大道商人の弁舌と変わらなくなってしまう。
 やはり、右の「是歳条」の記事は、「白村江以前」の「九州王朝の資料」を、ここ「天智三年」へと、下げて“はめこんで”いたのである。
 今回、問題となった「筑後国交替実録帳」でも、「駅伝馬(駅館)」や「火逢*燧」など、右の「是歳条」と軍事的性格上、共通面がある点、注意せられる。ことに「池溝」の場合、

 大破八処
   四処(長各廿三丈二尺、広各二丈、高一丈)
   二処(長各廿一丈、広一丈八尺、高各八尺)
   二処(長各廿一丈、広一丈八尺、高八尺)
 中破五処
   二処(長各一丈五尺、広一丈四尺、高各四尺)
   一処(長一丈三尺、広一丈二尺、高一尺)
 小破 百七十九処

とあって、きわめて、大規模、かつ大がかりなものであったことがうかがえる。とても「農業灌漑用」のみとは思われない。もしそうであったとすれば「仁治二年」段階において単に「無実」と化するはずはない。やはり、実は右の「是歳条」の「筑紫の水城」(「太宰府の水城」に限らない)の一環なのではあるまいか。


     五

 七世紀前半における「都域の整備と完成」をしめす、独自の史料がある。九州年号群だ。

 定居七年 辛未 六一一
 倭京五年 戊寅  六一八
<「二中歴」『失われた九州王朝』朝日文庫、『日本古代新史』新泉社>

 「定居(六一一〜六一七)」「倭京(六一八〜六二二)」と、二年号とも、倭国(九州王朝)の「都域の造成」に関連しているようだ。ことに、後者の場合、「倭京」の名において、その都邑の地が確立したことをしめしているように見える。
 先の筑後の「条里制」、それにともなうと見られる「宮城」「正院」「正倉院」もまた、この「七世紀前半」に相当しているようである(「年輪年代測定法」による)。
 では、もう一度、太宰府の都域と対比してみよう。

 (A)太宰府---紫宸殿・大(内)裏・大(内)裏岡・朱雀門
 (B)筑後---宮城・正院・正倉院<「崇道天皇」関連>(「曲水の宴」久留米)

 右は、大局から見れば、いずれも「都域」の性格をもっているようである。けれども、なおよく精視すれば、(A)の方が、本格的な「天子の宮殿」の性格をもつけれど、反面(B)もまた、独自の「院」制(正院、正倉院)の存在をうかがわせる。そしてそれは、特定の人物(崇道天皇)との関連で“伝承”されている。
 従ってわたしはこれを以て新たに、「両京制」と呼んでおきたいと思う。


   六

隋書・イ妥*国伝に有名な一節がある。

 「使者言う『イ妥*王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して坐し、日出ずれば便ち理務を停め、いう我が弟に委ねん』と。」

 この不思議な「兄弟両治」制の痕跡は、九州年号群の中にも存在する。「兄弟(五五八)」だ。
 隋の高祖、文帝は「これ大いに義理なし」として、「ここにおいて訓えてこれを改めしむ。」とあるけれど、自国の“伝統ある制度”を、他国の統治者の一言で、簡単に廃止するはずはない。
 三国志の魏志倭人伝において、卑弥呼(倭国の女王)が「弟王」と共同して統治に当っていたこと、著名であるが、これも右の“伝統”の一環であろう。
 むしろ、右の一言を「契機」にして、一段とイ妥*国独自の「両京制」を深化し、制度化していったのではないか。これが、今回問題とする「両京制」である。

(A)の太宰府の都域が、中国の都城制を承けつぎ、「紫宸殿--大(内)裏--朱雀門」を中核とする、堂々たる一大都域であったのに対し、
(B)の筑後の場合、「正院」「正倉院」といった「院」制による名称を遺存していることが注目されよう。

 両者、昼と夜、政治行政と宗教的祭祀、おのおの、その役割を、おのずから異にしていたのではあるまいか。


     七

 以上の新視点から注目されるのは、「両年号制」の問題である。
 鶴峯戊申の『襲国偽僣考』中に収載された「九州年号」において、注目すべき「別系列、年号群」がある。
 「吉貴」(「二中歴」では「告貴」)の項目に、別系列の一説をあげている。

 「喜楽--端正--始哭--始大--法興」(『失われた九州王朝』参照)

そして「伊予風土記」の「法興」の例をあげている。
 この五年号は、全体としては、右の「告貴ー吉貴」のような「誤植」的関係ではありえない。特に「始哭・始大・法興」など、全く“主幹系列”の九州年号に類例を見ないからである。ただ、二番目の「端正」は、“主幹系列”の「端政(五八九〜五九三)」と同一年号の「異字」(政と正)である可能性があろう。とすれば、ここに、この「別系列、五年号群」の定点(年時)がえられることとなろう。(同時に、最初の「喜楽」が、“別系列年号”のはじまりであり、“主幹系の年号”との短い同一期(「端政--端正」)をはさんで、再び“別系列の三年号”が行われたこととなろう。)
 この「別系列、五年号(正確には「四年号」)」の重要性をしめすもの、それはいうまでもなく最後の「法興」年号である。
 戊申の『襲国偽僣考』の場合、「伊予風土記」のみをあげている。当碑文では、

 「法興六年十月歳在丙申、我法王大王與恵總法師及葛城臣、道遥夷與村、(下略)」
(伊予温湯碑、釈日本紀、十四所載、『寧楽遺文』下巻)

とある。風土記自体は、これを「聖徳太子」の行歴としている。しかしそこには、矛盾がある。

 1) 日本書紀の推古紀には、聖徳太子の「伊予行」など、全く書かれていない。
 2) 原文(釈日本紀)の「恵總」を「恵慈」と「改定」している。(大系本等)
 3) 伊予を「夷與」と表記している。この伊予が「我法王」の「都」から見て「東夷」の領域に当ることをしめす表記である。従ってその中心をなす「都」は、伊予が「西」に当る「大和の飛鳥」などではありえない。やはり「九州の太宰府と筑後」領域である。

 結局、「肥前国風土記」などが、九州王朝関係の資料を、すべて「景行天皇の行歴」といった形で換骨奪胎しているのと、全く同一の手法である。




  問題のキイは、もちろん法隆寺の釈迦三尊だ。すでにくりかえし論証や論争を行ってきた。(『法隆寺の中の九州王朝』朝日文庫、『聖徳太子論争』『法隆寺論争』新泉社、等)
 家永氏との論争のさいは、わたしは意識して「九州年号」問題を、表面にもち出さなかった。なぜなら、「九州年号」自体は、両者(家永氏とわたし)共通の、史料上の「基礎土俵」ではなかったからである。
 けれども、ここに出てくる「上宮法皇」を聖徳太子に“当ててきた”従来の立場には、あまりにも矛盾が多い。たとえば

(a)没年時が異なる。(上宮法皇は「六二二の二月二十二日」、聖徳太子は「六二一の二 月五日」)
(b)両者の母がちがう。(上宮法皇は「鬼前大后」、聖徳太子は穴穂部間人皇女)。「鬼前(オニノマエ)」は福岡県糸島郡桜井の地名。
(c)上宮法皇の場合、<その一>母崩ず(六二一、十二月)<その二>妻(王后)沒す(六二二、二月二十一日)<その三>本人(法皇)死す(六二二、二月二十二日)と、わずか三ヶ月内に「三人」が相継いで死去、という不幸に見舞われた。極めたる変事だ。だからこそこの「釈迦三尊」という“三尊形式”の仏像が特鋳されたのである。しかし、日本書紀の推古紀には、このような特異の一大変事記載など、一切存しない。

(d)この「釈迦三尊」の光背銘には「推古天皇」に当たる人物が現れない。
(e)もし、実際に、近畿天皇家内において、この「法興」という年号が三十二年間も実在し、使用しつづけられていたとすれば、日本書紀がこの年号を「カット」し、記載しないということなど、全く考えられない。(書紀は、仏教尊重、聖徳太子讃美の立場に立つ。)

 他にも、種々の根拠(たとえば、法隆寺の「一屋余すなし」記事等)のあること、すでに詳論した通りだ。だが、一番の眼目はやはり

「それ(法興という年号)が九州年号中に存在する。」

というこの一点だ。

 その後、0・Nライン(七〇一)問題や正倉院文書と万葉集をふくめて郡評問題(南朝系の「評」と北朝系の「郡」)などによって、「七世紀以前に『倭国』<九州王朝>あり」のテーマは、もはや疑えなくなった。とすれば、その「七〇一」を下限とする「九州年号の実在」もまた、疑いえないこととなろう。従来のようにこの問題を歴史事実探究の「正面」におかないままでは、かえって「時の到来」を見失うこととなろう。
 このような立場からすれば、今回の「両京制」の概念にともなう「両年号制」の存在こそ、まさに等閑に伏しえぬ重要なテーマとなってくるのではあるまいか。


      九

 本稿における、一個の到達点にふれよう。
 隋書イ妥国伝の多利思北孤は、開皇二十年(六〇〇)と大業三〜四年(六〇七〜六〇八)に中国(隋)側と交流している。
 一方、上宮法皇の年号たる「法興」は「五九一〜六二二」の間である。すなわち、右の多利思北孤の時代(六〇〇〜六〇八)を完全に「内包」している。
 その多利思北孤が隋の煬帝に対して、「海西の菩薩天子」と呼びかけていたこと、「沙門数十人」を仏法学習のため、訪隋させていたこと、などからすれば、多利思北孤=上宮法皇であるという可能性は、きわめて高い、といわなければならない。(或は「兄弟」。)
 他方、九州年号群を見れば、

 <α>主幹系列
1. 端政(五八九〜五九三)
2. 告貴(五九四〜六〇〇)
3. 願転(六〇一〜六〇四)
4. 光元(六〇五〜六一〇)
5. 定居(六一一〜六一七)
6. 倭京(六一八〜六二二)
7. 仁王(六二三〜六三四)

<β>別系列(四年号)
1) 端正
2) 始哭ー 五八九〜五九〇
3) 始大
4) 法興 (五九一〜六二二)

となり。「主幹系列の端政」は、別系列の「端正・始哭・始大・法興」の四年号と“ダブル”形となっているのである。この「別系列、四年号」は、きわめて短期間に、あわただしく「改廃」され、最後の「法興」に至って安定し、長期間(三十二年間)使用されたこととなろう。
 その上、注目すべきことは、今問題の

「定居(六一一〜六一七)七年間 、倭京(六一八〜六二二)五年間」

がすべて、この「法興」年間の中に内包されていることである。
 のみならず、上宮法皇の没した「六二二」は、同時に「倭京」年号の終滅時点に当っている。そうして新たに「仁王」年号がはじまっている。

「癸未年(六二三)三月中、願の如く、釈迦尊像并びに挾侍及び荘厳の具を敬造し竟(おわ)る。」

と、釈迦三尊の光背銘に記せられているけれど、その年に

癸未(仁王元年)
   自唐仁王経渡仁王会始
  (唐より仁王経渡る。仁王会始まる)
    <『二中歴』仁王十二年項>

 この「仁王会」は、前年に没した「上宮法皇」の冥福を祈願したものであろう。そしてその「仁王」が、とりもなおさず「改号」の年号とされているのである。「釈迦三尊」の敬造を“原点”とした、イ妥*国の国家的行事であろう。

 筑後の「正院」は、「三明寺」のバス停の近くにその痕跡(「井の丸、井戸」と礎石群)がある。その「三明寺」は、「名」のみ残って、その実体はない。文字通り、「名存実亡」の体(てい)だ。或は、この「三明寺」とは、「釈迦三尊」にかかわる寺名だったのではあるまいか。
 この同じ筑後国から、天平十年(七三八)「造同竈工人」が献上させられている。当地において、「製銅」の技術や一大工房が存在していたことの「反映」と考えて、あやまりはあるまい。そしてその十四年後の「天平勝宝四年(七五二)」、東大寺の大仏製作に、彼等「筑後国の造銅竈工人」が中枢的役割を果していたこと、疑いえぬところであろう。
では、彼等とその先人は「天平の献上」以前、その筑後国において、一体どのような「先進的、かつ絢爛たる銅製産物」を鋳造していたのであろうか。ここでもわたしは、七世紀前半を代表する「崇高なる銅器物」として、あの「釈迦三尊像」を思い浮かべないわけにはいかない。
 この三尊像は、もしこれを「大和の飛鳥内の存在」と見なしたとき、矛盾百出した。これを「聖徳太子」と結びつけるには、幾多の弁舌を必要とした。
 しかも、そのような長大の弁舌を、各専門家がいかにふるってみせても、ひっきょう諸矛盾から脱出することは不可能だった。ところが、これをいったん、九州の筑紫の地においてみれば、「九州年号群との関係」を第一として、「造銅竈工人」との関係も、地名(「鬼ノ前」)との関連も、さらには“現存廃寺名”との対応に至るまで、全くの一致やゆるやかな対応を次々と見せはじめた。従ってわたしはここに
崇道天皇=上宮法皇(=多利思北孤)
という等式を、高い確率を以て「仮説」せざるをえなくなったのである。この点、古賀達也氏の達見に先導されたことを明記する。


     十

 本年一月七日、久留米の大善寺玉垂宮において「鬼夜」の祭を拝観した。“予想”を上廻る、すばらしい祭だった。「鬼面尊神」を祭神とし、長時間(午後一時から十一時まで)、その祭事は終始、「鬼」と「鬼の子供(赤赤*熊<しゃぐま>」を中心として進行する。一見はなやかな「火」は、むしろ“脇役”だ。この点、ほぼ同時刻(夜八時以降)行われる、太宰府天満宮の火祭とは、全く性格を異にしている(こちらは、鬼の軍勢は、悪者がシンボライズされ ている。それが天神側の軍に打ち破られる、という)。
 「鬼夜」は「鬼世の復活の儀式」と思われた。
 旧石器・縄文にも、(イメージとして)さかのぼりうる、悠遠なる歴史をしのばせた。表面に“記された”説話(籐大臣の桜桃<ゆすら>沈輪征伐)などとは、全く次元(時代)を異にしたものだ。これはいわば「中・近世的解釈」にすぎなかったようである。
 また同じ久留米でも、高良山の玉垂命のように、“昼間の天子”の現示と見られるものとは、まさに「別世界」の姿がしめされている。
“このような「鬼夜」の在地伝承が、「前末・中初」(前二〇〇頃)筑紫へ到達した(いわゆる「天孫降臨」)九州王朝側に対して、強烈な思想的・宗教的影響を与えた結果、あの隋書イ妥*国伝に現れた

「夜は、兄(天)の宗教儀礼、昼は弟(日)の政治統治」

という「二元制」が生まれたのではないか。”
 これが、一月十日、宮崎県東臼杵郡北浦町の「細石」(ビーチロック)検証に早朝より御同行下さったさい、わたしから「鬼夜」の話を聞いた上城誠さん(古田史学の会)が直ちに提起されたイメージである。
 「上城理論」として、これを今後、慎重に検証させていただくこととしたい。まさに共同思考実験の生んだ、見事な「成果」であった。




(一)郡評問題(「南の評と北の郡」)等については、「多元」Vol.34 参照。(『「君が代」を深く考える--日本の秘密--』五月書房、二〇〇〇・一月二十八日刊、収録)

(二)「筑後の正倉院」及び「鬼夜」問題については、tokyo古田会news 第七一号参照。

(三)「倭京」年号に「倭京縄」がある(『襲国偽僣考』)。「縄」は“工事に関する術語”(水野孝夫氏)。或は、久留米市内に「城(じょう)」(山川町)の地名がある(古賀達也氏)。

(四)『二中歴』は『古代史60の証言--九州の真実』(駸々堂、一九九一)に写真版(「仁王会」原注とも)所載。

(五)筑後の「院」制は、「上宮法皇」によって行われた(第一)。これに対し、後代の(近畿天皇家)、いわゆる「院政」は、第二院政だ。ここで明らかにされたテーマは、わが国の「院政」という政治史上の制度の淵源となろう。

(六)この「筑後国交替実録帳」は中世文書であるから「国府院・正倉・官舎」等の表題をもちながら、その内実は古代の「正院」「正倉院」「崇道天皇」等をふくむ。この点、改めて逐一分析したい。

 −−二〇〇〇・一月二〇日、記了。


インターネット事務局注2003.10.30
文字は以下のように表しました。
火逢*(ヨウ)は火編に逢です。
宗*(ソウ)は心編に宗です。
イ妥*(ダ)は人編に妥です。
赤赤*(シャ)は赤編に赤です。

文中の大分県東臼杵郡北浦町は、宮崎県東臼杵郡北浦町の間違いでした。(誤植訂正済み)


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