古田史学論集 『古代に真実を求めて』 第五集 二〇〇二年掲載 明石書店
社団法人・日本外国特派員協会2001年10月 5日発表要旨
1.
最近話題となった教科書問題は、実は客観的に見ると、「コップの中の嵐」である。
なぜなら、いわゆる「新しい歴史教科書」のみならず、他の7種類の教科書もまた、すべて「明治以降の『官撰』歴史」の立場に依拠しているからである。それは、日本の歴史を、ひたすら「天皇家中心一元主義」の立場から叙述し、それと矛盾する史実や歴史現象は一切これを排除する、という“国粋主義(ウルトラ・ナショナリズム)”の立場である。
その立場がわが国では、明治以来、この130年間継続され、その立場の「不正直な歴史」の教科書によって「洗脳」されつづけた国民が、明治・大正・昭和・平成の4代にわたって、おびただしく生み出されてきたため、彼等(日本国民一般
)自身が今やそれを“自覚しえぬ”状態にまで入りこんでいる。危険である。
2.
その点を、もっとも率直に証言しているもの、それが隣国である中国の代々の歴史書である。中国では、前2世紀(史記)より断絶することなく、「正史」が記述されてきた。中国では一つの王朝が滅亡すると、その直後、前王朝の歴史を「記し定める」という、世界でも稀な一大記録国家だったのである。
その「正史」には、隣国である「倭国」すなわち日本列島(の西部)に関する記事が1世紀(漢書)以来、継続している。第一に、中国(後漢、前57年)から与えられた金印が九州の北岸部(博多湾の志賀島)から出土している。第二に7世紀に到来して倭王に会った中国(隋)の使が、その報告(にもとづく隋書)の中に、倭国の特色ある風物として、九州の名山を特記し、「阿蘇山有り、火起りて天に接す」と書いているように、「日出ずる処の天子」(隋書)で有名な7世紀前半においてもなお、「倭国」の中心(都)は九州(福岡県の太宰府)にあったことがあきらかである。※
さらに日本側と最も交流の深かった中国の王朝「唐」の歴史を記した二つの歴史書(旧唐書と新唐書)は、二言とも、「7世紀末以前」を以て九州(福岡県)を中心とする「倭国」とし、「8世紀以降」を以て、近畿(奈良県と京都府)を中心とした「日本国」として記述している。
交流濃密の時期の唐が、このような国家の基本事実を“まちがう”はずがない。
3.
一時代の権力がいかに「不正直な歴史」によって「国民に対する洗脳」をつづけてみたとしても、真実はゆるがず、かっ雄弁である。
それは次頁の1枚の地図をしめせば、足りる(他に愛媛県、岡山県、各1、類同)これらは神籠石と呼ばれる山城群である。
数百メートルから千メートル近い山地群の中腹に煉瓦状に切りそろえられた巨石が、山腹の周囲を取り巻き配置されている。山城の外柵(二重)の基石である。その一部には、必ず水門がある。敵の侵入にさいし、この山中に籠る兵士や民衆のために作られた「水の施設」である。これが外敵(高句麗や新羅や唐等)の侵入に対して設けられた軍事的要塞の“残骸”であること、疑いがたい。
成立の時期は従来「6〜7世紀」といわれていたが、最近の「年輪測定法」によれば、測定の70-80%のケースは従来の「土器にもとづく考古学編年」の結果
を約100年前後、さかのぼっている。従ってこの神籠石山城群の場合も、これが「5−6世紀」の成立となる可能性は高い。では、この軍事要塞群の建造者は誰か。当然、その内部の中枢域に当る「筑紫(現地音ちくし、現在の福岡県)・肥前(現在の佐賀県)の中心王者」(太宰府と筑後川流域中心)である。決して近畿の天皇家ではない。
この自明の事実に対して、明治以後の「官撰」の歴史学は、目をそむけ、教科書からこの図を「削除」してきたのである。
この軍事要塞は、当然白村江の戦い(唐及ぴ新羅と倭国及ぴ百済。唐側の完勝。662年あるいは663年)以前の存在である。従って7世紀前半の推古天皇・聖徳太子を以て「日本列島中心の王者」であるかのように“宣布”してきた、明治以降、今日に至る日本の学界と教科書はすべて決定的に「不正直」だったのである。
4.
江戸時代に「鎖国」の中で偏狭な「国粋」主義(ウルトラ・ナショナリズム)が高揚された。それが一方では水戸学(儒教)、他方では国学(国文学)として派を立て、明治維新の成立に甚大な影響を与えた。維新の成立後、二派協力して「神道、原理主義」と称すべき国家的イデオロギーを樹立した。その歴史像がその後130年の日本の思想界の基本となっている。
ために、敗戦(1945年)後は、表面、学問・思想の自由の立場から、異説の「公示」や「発表」は認めておきながら、通
例これを「論議や論争」の対象にはしない。これが日本史学のプロの専門家にとって、内密の「処世術」となったのである。
このような姑息な雰囲気の中で、もし人間精神の独創を求めるならば、いわゆる「木に登って魚を求める」たぐいと言う他はない。
日本のウルトラナショナリズム下の歴史像によって「洗脳」されてはいない外国人記者諸氏の前で、わたしは人間としての理性にのみ期待しつつ、これをあえて発表させていただくこととしたのである。
※太宰府には「紫宸殿」「内裏」「朱雀門」といった地名(字 あざ)が遺存している。ここに「天子の居処」のあった証拠である。
2001年 9月15日記
制作 古田史学の会
著作 古田武彦