インターネット事務局注記2005.09.01 1、考古学関係や系図などの図表はありません。(電子書籍にはあります。)
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二、和歌山平野から熊野へ 「南方」の論理 和歌山平野と紀ノ川流域 竃山陵と紀ノ川河口 和歌山平野の銅鐸 紀伊半島西南部沿岸 熊野上陸
 追記 資料1 資料2

神武が来た道 2

伊東義彰

二、和歌山平野から熊野へ

1,「南方(みなみかた)」の論理 (資料1参照
 「神武東征」説話が、古事記・日本書紀編纂に際して「造作された架空の物語」だとする常識・定説に対して、弥生時代からの古い伝承を伝えたものであり、「神武東征」は実際にあったことだと主張されている古田武彦氏が、『古代は輝いていた2(日本列島の大王たち)』(朝日新聞社・朝日文庫)で述べられている「南方
(みなみかた)」の論理を知るにおよんで、定説である「造作説」に対する疑問がますます深くなってきました。
 古事記によると、神武が日下の蓼津(たてつ)で登美毘古(とみびこ長髄彦ながすねひこ)と戦って敗退するとき、「自南方廻幸之時(みなみのかたよりまわりいでまししとき)、到血沼海」と、南の方へ廻って血沼海(ちぬのうみ大阪湾の和泉沿岸の海)に脱出しています。低湿地が多かったとは言え、奈良時代にはすでに陸地であった河内平野を生駒山の麓から船で南の方へ脱出することなど、古事記・日本書紀編纂時の史官にとっておよそ理解しがたい不可解なことであったに違いありません。ところが、この脱出行を弥生時代の地形に当てはめてみると、不可解でも何でもないことがわかります。弥生時代には、河内平野は生駒山の麓まで広がる汽水湖であり、逆に船でなければ大阪湾へ脱出できないのです。では「南方」とは何でしょうか。生駒山の麓から南の方へ向かうと河内湖の南岸を巡って上町台地に突き当たり、北上しなければ大阪湾に出られません。それでは南の方へ逃れて大阪湾に出たことにならないでしょう。
 「南方」の「方」は「枚方(ひらかた潟)」「新潟」などの「潟
(かた)」ではないか。調べてみると、大阪市淀川区を通る地下鉄御堂筋線に「西中島南方(にしなかじまみなみかた)」、阪急電鉄京都線にはズバリ「南方(みなみかた)」という駅があります。ともに西中島三丁目にあり、淀川に架かるJR東海道線の鉄橋や新淀川大橋を北へ渡った地域です。現在の淀川区西中島と東淀川区東中島の淀川沿いには、かって「南方(みなみかた)」という町名があったのですが、淀川区は昭和四十九年に西中島に、東淀川区は同五十四年に東中島に変更され、それ以後「南方」の町名は姿を消して、二つの駅名にその名残をとどめるのみとなりました。弥生時代、北へ伸びてきた上町台地と対岸の間、河内湖と大阪湾を結ぶ潮路の北岸あたりに位置しており、そこに広がる「潟」を北岸から「南潟(みなみかた)」と呼んでいたのではないでしょうか。古墳時代に入ると上町台地の北端が北岸と接続して河内湖と大阪湾が分断され、そこに広がっていた「潟」もいつしか姿を消してしまい、「ミナミカタ」という地名だけが残存したものと思われます。神武はまだ「潟(かた)」であった「南方(みなみかた)」から血沼海へ脱出したのです。
 このように考えると、古事記の「自南方廻幸之時、到血沼海」という記述は、生駒山西麓の停泊・上陸・戦闘記事や地名なども含めて、河内平野が汽水湖であり大阪湾とつながっていた弥生時代から伝わる古い伝承に基づいたものと理解せざるを得ません。古事記の編纂担当史官が、遠い昔の弥生時代の地形やその変化を知る由もなかったでしょうから、わけのわからない造作などできるはずがないではありませんか。ところが古事記の後に完成した日本書紀は、編纂時前後の地形からは理解できない不可解な脱出行をすっぽり省いてしまい、生駒山麓からいきなり「茅渟(ちぬ)の山城水門(やまきのみなと)」(大阪湾の和泉の港)へ脱出させてしまいました。この脱出行が日本書紀から省かれたのは、弥生時代から伝わる古い地形に基づく伝承が編纂担当史官の理解を超え、意味不明の不可解な行動としか考えられなかったからでしょう。遠い昔に河内湖があったという認識が全くなかったから、大阪湾から生駒山西麓への舟行も「遡流而上りて(かわよりさかのぼりて)」と記さざるを得なかったのでしょう。
 詳しくは先に紹介した古田武彦氏の著書(朝日新聞社・朝日文庫)をご参照下さい。

2,和歌山平野と紀ノ川流域資料2−1参照
(地図中に紀ノ川旧河口とあるのは奈良時代の河口です。弥生時代の河口は現在の河口から約4キロメートル上流あたりにあったと思われます)
 生駒山麓の戦いで敗れた神武とその武装船団は「南方」より「血沼海」に逃れて大阪湾を南下し、やがて和歌山平野に姿を現します。
 古事記は「紀国(きのくに)の男之水門(おのみなと)に到りて…(五瀬命の)陵(みささぎ)は即ち紀国の竃山(かまやま)に在り」と記しており、日本書紀は「進みて紀国の竃山に到りて、五瀬命(いつせのみこと)、軍(みいくさ)に薨(かむさ)りましぬ。因りて竃山に葬りまつる」としています。生駒山麓の戦いで重傷を負った神武の兄、五瀬命の死亡したところが若干異なっていますが、両書とも竃山に陵がある、または葬ったとしています。ところが、生駒山麓や次の到着地である熊野に比べて、和歌山平野での記述は極めて少ないのです。古事記にいたっては先述の竃山の後、いきなり「其地(そのち)より廻り幸(い)でまして、熊野の村に到りまししとき」と熊野に来てしまっています。日本書紀は「軍、名草の邑(むら)に至る。則(すなわ)ち名草戸畔(とべ)といふ者を誅(ころ)す」と続けた後、「遂に狭野(さの)を越えて、熊野の神邑(みわのむら)に到り」と、やはり和歌山平野での記述は少ないのです。神武の兄、五瀬命を葬ったり墓を造ったりしているのだからもう少し和歌山平野のことが書かれていてもよさそうに思うのですが、単なる通過地点としてしか扱っていません。
 普通、奈良盆地へ行くのに、生駒山を越えられなかったからと言って、紀伊半島をぐるりと巡った先にある熊野へ迂回し、そこから紀伊半島を縦断(紀伊山地横断)するような難路を目指すでしょうか。答えはノーでしょう。生駒山を越えることができなくても、わざわざ熊野へ迂回するまでもなく、奈良盆地へのルートはほかにもいくつかあったはずです。高安山や葛城山、あるいは金剛山の麓を廻る道もあっただろうし、大和川伝いに入る道もあったはずです。現に日本書紀では生駒山麓の戦いが起こる前に、大和川流域の竜田(たつた)へ出ようとして道に迷って引き返した話が記されていますが、道不案内もさることながら、重傷を負った兄を抱え、敗軍の兵を率いた神武は敵の勢力のおよぶところからできるだけ遠くへ脱出しようとしたのでしょう。それが神武を和歌山平野にまで行かせた主な理由ではないかと考えられます。
 それにしても、和歌山平野から熊野を目指して再び船出したのは何故でしょう。奈良盆地を最終目的地としていたのであれば、わざわざ熊野へ迂回して、距離も長く嶮しい難路が続く紀伊山地横断ルートをとらなくとも、和歌山平野からなら紀ノ川流域を東へ進む平坦で距離も短いルートがあります。現在では和歌山市から紀ノ川沿いの国道二四号線を東へ走れば、途中奈良県の五條市を経てそのまま御所(ごせ)市、奈良盆地南西隅の葛城(かつらぎ)地域へ出ることができます。熊野から紀伊山地を北に横断するルートとは比較ならないほど距離も短く平坦な道です。和泉山脈から紀ノ川までの間には、広くはないまでも平地が流域沿いに伸びており水田が続いています。紀ノ川が吉野川に名前を変えるところ、奈良盆地の葛城地域への入り口にあたる五條市へ出るにしても、熊野からなら山また山の嶮しい紀伊山地を横断しなければならないのに比べ、紀ノ川ルートはほとんど平地であり、船で遡上することもできるのです。五條市までの距離も紀伊山地横断ルートだと熊野から約一三五キロメートルにもおよび、これに和歌山平野から熊野までの船旅が加わります。ところが紀ノ川ルートだと和歌山市から約五〇キロメートルにもなりません。神武がたどったとされる吉野までだと、熊野から約一七五キロメートル、和歌山市からは約六四キロメートルです。両ルートにはこれほど大きな差があるのに、神武は何故か距離も長く険路でもある紀伊山地横断ルートをとっています。現在のわれわれから見ても極めて不合理な選択であるように思えます。「神武東征」説話造作説の理由の一つに数えられる所以(ゆえん)でもあります。逆に、造作するなら合理的なルートをとらせた方が説得力があるのではないか、とも考えられますが。
 「短距離で、楽に行ける紀ノ川ルートがあるのに、わざわざ熊野へ迂回して紀伊山地を横断する険路を選ぶのはおかしいではないか」と誰しも疑問を抱く神武の行動原点には、熊野へ迂回しなければならなかった「よほどの理由」があったはずです。
 神武の不可思議な行動の原点である「よほどの理由」については色々な考え方がありますが、何故か、和歌山平野と紀ノ川流域に住んでいる人々の生活や社会状況にふれたものがあまり見あたりません。和歌山平野は、神武とその武装集団が熊野へ迂回する出発点になったところですから、そこに展開されている人々の生活や社会状況を探ることによって、その不可解な行動の原点とも言うべき「よほどの理由」の一端が浮かんでくるのではないでしょうか。
 日本各地の弥生時代の始まりは、その地理的条件によってかなり差のあることがわかっていますが、和歌山平野の弥生時代は前期(前三世紀)から始まっていることが、太田黒田遺跡(平成十二年十二月二十日・朝日新聞)をはじめとする数多くの遺跡や出土遺物によって証明されています(和歌山市史)。そしてこのことは、「よほどの理由」を探る上で重要な意味を持っています。何故なら、神武とその武装集団が和歌山平野に姿を現したころは、そこにはかなり成熟した弥生社会が形成されていた、ということを意味するからです。つまり、神武とその武装集団は成熟した弥生社会の真っ直中に姿を現したのです。
 和歌山平野では「神武東征」のおよそ二〇〇年以上前から弥生社会の形成が始まっていたことになります。そこでは洪水・干害などの災害や、近隣集落や海からの襲撃者との戦いなどに耐えながら生き抜いてきた人々やその子孫たちが、二〇〇年以上の歳月をかけて築いてきた弥生社会が営まれていたのです。貧富の差や身分の差による支配・被支配の仕組みも出来上がり、複数の集落を支配する有力な豪族もいくつか居たことだろうし、その主である王もいた可能性もあります。あるいは和歌山平野の大部分を、また紀ノ川流域の大部分を支配する王が居たかも知れません。そのような和歌山平野に突如、見も知らぬ武装集団が上陸してきたとしたら、そこを過去・現在および将来の生活基盤として先祖代々営々として生きてきた人々は、どのような反応を示すでしょうか。また、集落の指導者やその上に立つ豪族・王たちはどのように対処するでしょうか。弥生前期から二〇〇年以上の歳月をかけて築いてきた生活の基盤たる弥生社会を、不意の侵入者に簡単に譲るわけも、素直に従うわけもないでしょう。不意の侵入者である神武とその武装集団から護ろうとするのではないでしょうか。
 突如、海から物騒な武装集団がやってきて近くの集落に押し掛け、食料と寝る場所を要求したとしたら、その弥生集落の人たちはどんな対応をしたでしょうか。武装集団の威力で一時は一つ二つの集落を制圧できたとしても、知らせを受けた周辺の集落や豪族・王たちの指揮などによる組織的な抵抗・反撃が始まると、場合によっては「生駒山麓の戦い」の二の舞になる恐れがあります。日本書紀によると、神武とその武装集団は五瀬命を竃山に葬って、「名草の邑(むら)に至って名草戸畔(とべ)を誅した」後、和歌山平野から姿を消しています。これなどは、神武とその武装集団が和歌山平野に形成されている弥生社会の激しい抵抗と反撃にあい、和歌山平野にとどまれなかったことを意味していると考えられます。
 一つだけ例を上げますと、奈良県五條市中町の中遺跡から住居跡や環濠らしい溝を含む弥生時代の大規模な集落跡が見つかっています(平成十四年五月二十四日・朝日新聞)。吉野川南岸の河岸段丘平地にあって、阪合部小学校の建て替えに必要な敷地だけの発掘調査であるにもかかわらず、県内でも異例と言われる一五棟を越える多数の住居跡が見つかっており、重なっている住居跡から弥生全期間にわたって存続していた遺跡だと推定されています。余談ですが、中遺跡から一キロメートルほど下流の南岸にある火打ち遺跡からは、明治二十五年頃に袈裟襷文(けさたすきもん)の入った銅鐸が発見されています(五條市史)。このほか、和歌山県橋本市の血縄遺跡など、紀ノ川流域には弥生時代の遺跡が数多く点在しています。
 和歌山市から奈良県五條市にかけて紀ノ川流域に点在する弥生遺跡が語るように、紀ノ川流域にも弥生前期から弥生集落が営まれ、そこを生活の基盤とする人々が弥生社会を営々と築いていたのです。神武とその武装集団が紀ノ川流域を進もうとするとき、そこに住む人々は自分たちの生活基盤である弥生集落を突然の侵入者から護るために、集落指導者や豪族・王たちのもとに結集して抵抗と反撃を繰り返すことでしょう。神武とその武装集団にとって紀ノ川流域は、そこに形成されている弥生社会の抵抗と反撃を排除しながら進まなければならない嶮しいルートだったと考えられ、決して楽なルートではなかったのです。

3,竃山陵と紀ノ川河口資料2-1参照
 「生駒山麓の戦い」で重傷を負った神武の兄、五瀬命(いつせのみこと)は、古事記では南方
(みなみかた)より血沼海(ちぬのうみ)に脱出した後「紀国(きのくに)の男之水門(おのみなと)に到りて…崩(かむあが)りましき。陵(みささぎ)は即ち紀国の竃山(かまやま)に在り」とされ、紀国の男之水門で亡くなり、墓は竃山に在るとしていますが、日本書紀では「軍、茅渟(ちぬ)の山城水門(やまきのみなと)に至る」とし、ここを「雄水門(おのみなと)」と号(なづ)けて「進みて紀国の竃山に到りて五瀬命、軍に薨りましぬ。因りて竃山に葬りまつる」となっていて「オノミナト」の場所や五瀬命の亡くなったところが異なっています。
 古事記に言う「紀国の男之水門」も、日本書紀に言う「茅渟の山城水門(山井水門・雄水門)」も現在の泉南市樽井付近ではないかとされています。樽井周辺に男里(おのさと)・男里川や男(おの)神社があり、このあたりに船着き場があったのではないかとされています。古事記では紀国、日本書紀では茅渟(和泉国)と違いがありますが、両書とも「紀国(きのくに)の竃山(かまやま)」は一致しているので、竃山について若干検討を加えてみたいと思います。
 角川地名辞典の和歌山県を調べてみると、和歌山市で「カマヤマ」と発音する地名は、「和田の竃山神社」と「木ノ本の釜山古墳」の二つしかなく、釜山古墳は和歌山市と言っても和泉山脈麓の平地、和歌山平野の北の外れに位置していて、当時の紀ノ川河口からも北へ遠く離れているので一応除外することとし、ここでは和田の竃山神社について調べてみることにします。
 延喜式内社であり旧官幣大社でもある竃山(かまやま)神社の社(やしろ)の北には、五瀬命の墓と伝えられる径六メートル、高さ一ロメートルの墳墓があります。延喜式諸陵寮陵墓条によると、遠墓として「竃山墓、五瀬命、在紀伊国名草郡」とあり、紀伊国唯一の陵墓だとしています。
 和歌山市史によると、竃山神社のある和田にも弥生遺跡があり、弥生土器が多数出土しているとのことです。神武がやってきたころには、ここにも弥生集落が形成されていたのです。神武とその武装集団は「進みて紀国(きのくに)の竃山(かまやま)に到(いた)りて」食料と休息、さらには服従を求めたのではないでしょうか。「生駒山麓の戦い」で傷を負い、亡くなったのは五瀬命だけではなかったでしょうから、上陸地点からさほど遠くない集落で食糧を確保し、休息する必要があったはずです。
 ところが、神武とその武装船団が外海の荒波を避けて紀ノ川河口付近の入江に停泊したとすると、現在の河口から和田の竃山まで少し離れすぎているのではないか、ということに気づきました。地図上で計測しただけでも直線距離にして六キロメートルほどあり、上陸直後に押し掛けるには遠すぎるように思えます。地図上の直線で六キロメートルほどですから実際の道のりはもっと遠いはずで、もし河口付近に船を停泊させていたとしたら、その間に集落の二つや三つあってもおかしくない距離ですから緊急事態が起こったとき、船の留守部隊と陸上部隊で連絡を取り合うのに時間がかかりすぎたり、妨害を受ける危険があります。何故、こんな陸地内に五瀬命(いつせのみこと)の墓を造ったのか、理解に苦しみます。
 それに、古事記にも日本書記にも「オノミナト」から「竃山」までの途中経過が全くありません。両書とも「オノミナト」から「竃山」まで直行していて、上陸地点の記載がないのです。日本書紀は雄水門から「進みて紀国(きのくに)の竃山(かまやま)に到(いた)りて」となっており、古事記にいたっては五瀬命が亡くなった後の地名説話に続けて、いきなり「陵(みはか)は即ち紀国の竃山に在り」としています。どこかに上陸してから陸路で竃山へ行ったようには見えず、船で竃山へ直行したように思えてならないのです。しかし、現在の和歌山平野の地形からは船で和田の竃山まで行けるはずもありません。最も近い和歌浦湾の海岸からでも直線距離で約二キロメートルの陸地内にあるのです。
 古事記・日本書紀の記述では船で直行したように思えるのに、現実の地形からは不可能である、という問題に随分悩まされましたが、次のように考えてみることにより、この問題を解く光明が見えてきました。
 大阪平野の中央部から東部を構成する現在の河内平野も縄文の昔は大阪湾の一部をなす河内湾であり、弥生時代には発達北上する上町台地によって大阪湾との出入り口が狭められ、また淀川水系や大和川などの河川による堆積作用によって面積が縮小して河内湖に変化しています。大阪湾との出入り口が上町台地によって閉じられ、さらに進む河川の堆積作用で低湿地に変化したのは古墳時代に入ってからです。これと同じような地形の変化が和歌山平野でも起こっていたのではないか、いや、起こっている方がむしろ自然なのではないか、と考えて調べ直してみることにしました。
 この考えを証明してくれたのが和歌山県立博物館に展示されている一枚のパネルでした。パネルには紀ノ川の現在と古代の河口や流路が描かれていて、どの川もそうであるように紀ノ川も長い年月の間に流路や河口はいうまでもなく、上流から運んできた土砂の堆積により周辺の地形を度々変えていました。
 パネルと和歌山市史に基づいて弥生時代の和歌山平野を再現してみるとだいたい次のようになります。
 今から五〇〇〇年前ごろ(縄文時代中期ごろ)の和歌山平野は紀伊湾と呼ぶに相応しい広い海域になっており、北岸は大阪府と和歌山県の境をなす和泉山地の麓を洗い、南部では名草山(山腹に紀三井寺がある)・雑賀山(さいかやま西端が雑賀崎)・岡山(和歌山城のある高地)などが孤立した島嶼として海上に浮かんでいました。現在は和歌川に注いでいる和田川の河口も遙か東方にあり、和田湾と呼ぶに相応しい水域に河口がありました。その後、海水準の低下に呼応して、加太(かだ)南岸の磯ノ浦あたりから西南西に向かって海岸砂州が形成されるようになり、やがて紀伊湾はこの海岸砂州によって西側の紀伊水道と東側の広い水域(入り江)とに分断されます。
 和歌山市西北端の加太(かだ)は大阪府泉南郡の南にあり、加太海水浴場や友が島へ渡る漁港のあるところです。
 弥生時代には、加太の南岸、つまり紀伊水道に面した南岸の東側、磯ノ浦あたりから西南西に伸びる大きな海岸砂州が形成されており、それが雑賀山(雑賀崎)の東部高地にまで達していました。砂州の幅は、狭いところ(西庄)で約四〇〇メートル、もっとも広いところ(鷺ノ森さぎのもり=和歌山城の北部あたり)では約二〇〇〇メートルにも達していたそうです。紀伊水道に面したこの砂州の西岸は延々と砂浜が続き、今もその一部に二里ヶ浜という地名が残っています。
 弥生時代には紀ノ川の河口は、現在の河口より約四キロメートル前後上流にあったらしく、紀ノ川に架かっている県道一五号線の北島橋(南海電鉄の鉄橋より少し下流)あたりかと推測されます。河口の西側は、河口から先述の海岸砂州の東岸まで約一〇〇〇メートルほどもある広い水域でした。この水域は海岸砂州の東岸に沿って南の方へ広がり、名草山の北麓を洗って西麓で紀伊水道と接していたと思われます。当時の河口近くの南側に当たる太田・黒田・秋月・鳴神あたりは紀ノ川の堆積作用によって早くから陸地化が進んでいたところで、弥生前期の遺跡が数多く残っているのもそのせいでしょう。
 この水域の東岸に竃山(かまやま)神社の鎮座する和田があるのです。和田の北部を流れ、現在和歌川に合流している和田川の河口は、弥生時代のころには神前(こうざき)の南あたりにあったとされていますから、和田の西北端にあったことになります。そして竃山神社は、この和田川の河口付近から南へ延びる海岸の近くにあるのです。
 紀ノ川の河口が、加太の南岸あたりから雑賀山の東側付近まで伸びていた砂州を突き破って現在のように紀伊水道に直接開くのは遙か後世になってからです。
 弥生時代の和歌山平野の地形がこのようだったとすると、また、五瀬命(いつせのみこと)を葬ったとされる竃山が現在の竃山神社のあたりだとすると、男之水門(おのみなと雄水門)を出発した神武とその武装船団は、和田の竃山近くの浜辺まで船で直行(できた)したのではないかとか、と考えられるのです。加太から南東に伸びる砂州に沿って航行し、雑賀崎(さいかさき)から新和歌の浦を東へ進むと、名草山を右手に見ながら和田の竃山近くの浜に到ります。ここに船団を停泊させ、上陸したのではないでしょうか。古事記は男之水門(おのみなと)の地名由来を記した直後に「陵(みはか)は即ち紀国の竃山に在(あ)り」としており、日本書紀も雄水門(おのみなと)から「進みて紀国の竃山に到りて」と記しているところから見て、そのまま船で進んで竃山に到ったとしか考えられないのです。このように見てくると、古事記・日本書紀の記述が、弥生時代の和歌山平野の地形と適合していることがわかります。すなわち、和歌山平野も河内平野と同様、弥生時代の地形を伝える古い伝承に基づいて語られていると考えられるのです。また、吉備の高島を出発してから熊野に到るまでの間は、進むも退くもすべて船で行われたことを前提として語られているのではないでしょうか。
 奈良時代の紀ノ川河口は現在の和歌川河口付近(和歌浦湾)にあったとされていますから、奈良時代には和田の竃山あたりも既に陸地化しており、船で直行できないことがわかっていたはずです。にもかかわらず古事記が、神武が途中の海岸に上陸してから竃山を目指したように記述しなかったのは、弥生の昔から伝わる伝承に従って記述したからではないでしょうか。古事記編纂のこのような姿勢を見るにつけ、古事記・日本書紀を架空の作り話だとする常識や定説を素直に受け容れるわけには参りません。
 和田の竃山近くまでやって来た神武とその武装船団は、そこに停泊・上陸して和田の弥生集落を一時的に制圧し、五瀬命や落命した将兵を葬ったり、負傷者の手当と暫しの休息を得たあと、次なる行動の拠点にしようとしたのでしょう。

4,和歌山平野の銅鐸 
 近畿の弥生集落とその社会を知る上で、見逃すことのできない重要な要素の一つに銅鐸があります。和歌山平野ではどのような銅鐸がいつごろから使われだしたのでしょうか。 和歌山県下からは、現在二七ヶ所から三一個の銅鐸が出土しており(このほか具体的な出土地の明らかでないものが八個あります)、そのうち和歌山平野からは六個出土しています。(資料2?参照)

   和歌山平野出土の銅鐸    型式    製作時期      出土地
1、 吉里出土袈裟襷文銅鐸   扁平鈕式  中期末〜後期初め  高地性集落
2、 橘谷出土袈裟襷文銅鐸   扁平鈕式  中期末〜後期初め  高地性集落
3、 紀伊砂山出土袈裟襷文銅鐸 突線鈕式  後期中ごろ     中洲
4、 宇田森出土袈裟襷文銅鐸  突線鈕式  後期中ごろ     河岸
5、 有本舟渡出土流水文銅鐸  扁平鈕式  中期末〜後期初め  低地性集落
6、 太田黒田出土袈裟襷文銅鐸 外縁付鈕式 中期前半      低地性集落

 以上六個の銅鐸が出土しています。もっとも古い型式の菱環鈕(ひしかんちゅう)式(前三世紀〜前二世紀)の銅鐸が出土していないものの、和歌山平野も銅鐸祭祀圏の一角にあったことを示しており、それは弥生中期前半ごろから始まったとされています(和歌山市史より)。
 銅鐸の年代判定は、吊り下げたり、引っかけたりするための鈕(ちゅう)の形で行われています。
 最古段階のものを、断面形が菱形に見えるところから菱環鈕式(前三世紀〜前二世紀)と言い、高さ二〇センチメートルぐらいのものが主流です。和歌山県からは見つかっていません。
 次ぎの古段階とされるものが外縁付鈕式(がいえんつきちゅう前二世紀〜前一世紀)で、菱環鈕の外側に扁平な部分を付け加え、高さも四〇〜五〇センチメートルぐらいになり、徐々に装飾化が始まります。和歌山平野でも早くから陸地化が進んだとされる太田黒田遺跡から出土していますから、和歌山平野では前二世紀ごろから銅鐸祭祀が始まったと思われるのです。
 中段階になると菱環鈕の外側だけでなく内側にも扁平な部分を付け加えており、扁平鈕式(前一世紀〜一世紀)と言われています。横から見るとかなり薄くなって、ますます装飾化が進んできます。和歌山平野では六個のうち三個がこの型式のもので、神武が和歌山平野に上陸したころのものではないかと思われます。
 新段階の突線鈕式(とっせんちゅう一世紀〜三世紀)になると、吊り手本来の機能が失われてしまい、大きさは六〇センチメートル以上になり、中には一メートルを超えるものもあります。和歌山平野では宇田森遺跡と紀伊砂山遺跡から見つかっており、後期に入ってからも銅鐸祭祀が行われていたとされています。なお、宇田森遺跡出土の銅鐸については、個人の間を転々ととしたため拓本によって判断されたそうです。
 また紀南では、高地性集落にともなう突線鈕式の銅鐸が卓越しており、和歌山平野より遅く銅鐸が使われだしたことを示しています。
 以上の銅鐸の年代観は、佐原眞氏の見解によるもの(『銅鐸を造るー大岩山銅鐸とその時代ー』銅鐸博物館・野洲(やす)町立歴史民俗資料館図録)で、各段階、各型式がさらに細かく分類されていますが、煩雑になる恐れがありますので要約だけを紹介しました。
 神武が和歌山平野に侵入する前から使われているものもあれば、それ以後のものもあるので、神武が銅鐸祭祀に直接、影響を与えた形跡は残っていないのではないかと思われます。
 なお、和歌山県からは、現在までのところ銅鐸の鋳型は発見されていません。

5,紀伊半島西南部沿岸
 和歌山平野に上陸した神武とその武装勢力は、ここを拠点として紀ノ川ルートを東進し、再び奈良盆地を目指そうとしたのではないかと思われますが、弥生社会の手痛い抵抗と反撃にあって紀ノ川流域を東進するどころか、和歌山平野にさえとどまることができず、再び海に浮かんで紀伊半島沿いに南下するしかなかったのでしょう。残された道は、沿岸を航行しながら適当な地を見つけて上陸し、そこから再び奈良盆地を目指すしかありません。
 しかし、神武とその武装船団は、紀伊半島南端を廻って熊野地域に至るまで上陸することができませんでした。何故なら紀伊半島西南部沿岸の平地には、和歌山平野や紀ノ川流域と同じように、すでに多くの弥生集落が営まれており、弥生社会が形成されていたからです。
 御坊(ごぼう)市には環濠集落の堅田(かただ)遺跡があり、ここからは弥生前期とされる青銅器の鋳型([金施]*やりがんなの石製鋳型)や朝鮮系松菊里(そんぐんに)型住居跡などが発見されています(平成十一年五月十一日・朝日新聞)。御坊市から海岸沿いに南東へ進んだところにある日高郡南部町の気佐藤徳山地区からも弥生前期の灌漑用と思われる大規模な堰(せき)が見つかっています(平成十四年三月二十四日・朝日新聞)。これらの弥生集落を前にしたとき、予想される激しい抵抗を考えると、とても上陸する気になれなかったのでしょう。
 さらに、和歌山平野から西牟婁(むろ)郡白浜町にかけて数多くの高地性集落が見つかっており、主要なものだけでも五十数カ所もあります(和歌山市史)。特に、半島西南部に四十あまりが密集しており、高地性集落の「逃げ城」的機能を考えると、これらは近隣集落同士や豪族同士の紛争に備えたものであると同時に、海からの侵入・襲撃にも備えたものでしょう。
 以上のことから神武の時代には、紀伊半島西南部に点在する平地にも早くから弥生社会が形成されており、神武とその武装船団は激しい抵抗と反撃なしには停泊・上陸できなかっただろうことがおわかりいただけたと思います。(資料2−2参照 下にあります)

[金施]*やりがんな は、金編に施の方なし。

6,熊野上陸資料2−1参照
 神武率いる武装船団は、やむなく紀伊半島南端の潮岬(しおのみさき)を廻って舳先(へさき)を北に向けざるを得なかったわけで、古事記は「其地(竃山)より廻り幸でまして、熊野村に到りましし時」とし、日本書紀は紀国で名草戸畔を誅したあと「遂に狭野(さの)を越えて、熊野の神邑(みわのむら)に到り、則ち天磐盾(あまのいわだて)に登る」とし、両書とも和歌山平野から熊野までの途中経過について何も触れていません。和歌山平野からいきなり熊野へ来ているのですが、紀伊半島西南部沿岸に上陸できなかったのですから、途中経過地について記述がなくとも別段不審とするにはおよばないでしょう。
 潮岬(しおのみさき)の先端に立つまでもなく、紀伊半島の沿岸から太平洋を眺望するとき、はるか遠くに霞(かす)む水平線や、岩礁を打ち砕くかと思われる怒濤を目(ま)の当たりにして、この広い荒海を丸木船やそれを少し改造したような船で、しかも船団を組みながら乗り切れるだろうか、という思いにとらわれてしまいます。瀬戸内海や大阪湾とは比較にならない広大な海原を眼前にしたとき、誰でもとらわれる思いでしょう。しかし、その疑問はすぐうち消すことができました。瀬戸内海にせよ大阪湾にせよ、当時もっとも安全な航海方法は、陸地に沿って山などの地形を見ながら危険な岩礁を避けつつ進む沿岸航法だった思われますから、その航法に長けた者が船を導くことによって紀伊半島沿岸を周航することは可能なはずです。「神武東征」の第二の出発地は吉備であり、吉備の支援なくして東征は考えられませんから、神武の武装船団の中には沿岸航法に長けた兵士も居たはずです。彼らが沿岸航法の技術を駆使して船団を導いたであろうことは十分考えられます。
 さらに神武の出身地である北九州は、地図を見るまでもなく朝鮮半島とは一衣帯水の間にあって、その交流は縄文の昔から盛んに行われていました。北九州への水田稲作もこのルートから入ってきたとされています。北九州から朝鮮半島へ行くには玄界灘と朝鮮海峡を漕ぎ渡らなければなりません。その逆も同じです。つまり、玄界灘と朝鮮海峡を航海できる船と航海技術を持っていなければ交流はできなかった、逆に、持っていたからこそ交流が盛んだったということです。神武の出身地を考えるとき、神武とともに東征に従った将兵の中には、玄界灘や朝鮮海峡を漕ぎ渡った航海の練達者がいたとしても何の不思議もないばかりか、神武自身が朝鮮半島へ渡った経験者だったかも知れないのです。このように考えると、神武とその武装船団が紀伊半島を熊野まで周航できた可能性は、むしろ大きくなります。
 熊野(現在の新宮市近辺)に上陸した神武はここで力尽き、絶体絶命のピンチに陥ります。この間の経過について古事記は、「大熊髪かに出で入りて即ち失せき。爾に神倭伊波禮毘古命、條*惚(にわ)かに遠延為し、及御軍も皆遠延て伏しき」と記すのみで、遠延(病み疲れる)た原因を大熊のせいにしています。日本書紀は、狭野を越えた後「熊野の神邑に至って天磐盾に登り、再び海に浮かんで暴風に遭い、二人の兄(稲飯命と三毛入野命)を失う」という不可解な行動の後、「熊野の荒坂津(亦の名を丹敷浦)に至って丹敷戸畔という者を誅した」としています。おそらく丹敷戸畔という地元勢力の抵抗に合い「時に神、毒気を吐きて、人物咸に瘁えぬ。是に由りて、皇軍復振ること能はず」とやはり力尽きた様子を描いています。

條*惚(にわ)かにの條*は、木の代わりに火。

 神武とその武装集団が上陸したとされている熊野地域には、当時どのような社会が形成されていたのでしょうか。和歌山平野や紀ノ川流域、紀伊半島西南部沿岸地域と同じように弥生前期から弥生集落が営まれ、弥生社会が形成されていたのでしょうか。この地域に住む人々がどのような暮らしを営み、どのような社会を形成していたかを調べてみることにより、神武とその武装船団がこの地域に停泊・上陸した理由を探ってみたいと思います。
 以下は、「新宮市史」に基づく熊野地域の縄文・弥生時代の遺跡、出土遺物の状況です。
 熊野速玉(くまのはやたま)大社遺跡からは、縄文前期から晩期にかけての土器のほか、サヌカイトの打製石斧なども出土しており、縄文人の生活の跡がうかがわれます。この遺跡からは弥生土器が出土しておらず、縄文人の生活エリアだったようです。
 神倉神社の御神体とされているゴトビキ岩(あまのいわだて天磐盾)の側下に営まれた経塚の最下層から大小二十二個の銅鐸片が、昭和三十五年に発見されました。原型は高さ六〇センチの袈裟襷文の入った銅鐸で、その大きさや文様から弥生中期後半以後のものとされています。破片は約一メートルの円形に散乱しているところから見て、中世の経塚築造に際して破壊されたものとされており、もともとどこにあったものか不明です。
 阿須賀(あすか)神社境内にある阿須賀遺跡は、新宮川河口から約一キロメートル西に位置し、徐福(じょふく)伝説の残る高さ約四〇メートルの蓬莱山(ほうらいさん円錐形)南麓にあります。弥生時代から古墳時代にかけての住居跡が一〇軒確認されており、出土土器もそのほとんどが弥生時代終末期から古墳時代にかけてのもので占められています。弥生時代末期から古墳時代にかけて継続して人々が生活を営んだ遺跡だと思われます。徐福伝説にまつわる遺跡や遺物が全く見つかっていないばかりか、その当時(前三世紀末・弥生前期末)の遺跡・遺物も発見されていません。
 日本書紀に「遂に狭野を越えて」とある狭野(さの)ではないかとされている佐野遺跡(未調査)は、JR佐野駅前から西北部の山麓に至る水田地帯にあり、根地原・久保・八反田地区から土器片が多数発見されています。ただそのほとんどが弥生土器、土師器、須恵器の破片で、全体的に阿須賀遺跡の出土品と類似しており、弥生土器のほとんどが弥生終末期のものとされています。
 その他、宮井戸遺跡、明神山遺跡などからも弥生土器の破片が多数見つかっているもののそのいずれもが阿須賀遺跡と同様、弥生時代終末期のものとされています。
 以上のように熊野地域に点在するどの遺跡からも、弥生時代の初めから後期までの形跡が発見されていないのです。前述のゴトブキ岩側下の銅鐸については弥生中期後半以後のものだろうという以外、どこから、いつ、熊野へ持ち込まれたものか不明です。
 これらの遺跡や出土土器などから、熊野地域に弥生時代が始まったのは弥生時代終末期ごろからではないか、という推測が成り立ちます。弥生時代前期から弥生社会が形成され始めた和歌山平野や紀ノ川流域、紀伊半島西南部沿岸地域と異なり、熊野地域は弥生時代の早い時期、前期あるいは中期にはまだ弥生時代に入っておらず、弥生後期以後、それも終末期に近いころから弥生時代が始まったのではないかと考えざるを得ないのです。
 「神武東征」の時期を弥生時代後期初めごろ(一世紀初めごろ)と考えるとき、神武が熊野に上陸したころには、遺跡や出土遺物から推測して、この地域にはまだ弥生社会が形成されるにいたっておらず、例え弥生集落が存在していたとしても極めて希薄な状態で、弥生社会を形成する段階に至っていなかったと考えざるを得ません。しかし、古事記・日本書紀に「高倉下」や「丹敷戸畔」など熊野に在住していたと思われる人物の名前が出てくるということは、熊野にもそこに住む人々の生活があったわけで、当然集落もあり、何らかの社会があったことになります。遺跡や遺物などから見る限りでは、「神武東征」のころにはまだ弥生社会が営まれていた様子もなく、弥生社会が形成されていた形跡が見られないところから、熊野地域に住んでいたのは弥生以前の人々、すなわち縄文人ではなかったかと思われるのです。
 熊野地域に弥生時代が訪れるのは弥生後期の終わりごろのことと推測されるところから、神武が上陸したころは、この地域ではまだ縄文晩期の社会が存続していて、縄文集落が点在していたと考えられます。
 神武とその武装集団は激しい抵抗と反撃が予想される、成熟した弥生社会の形成されている地域を避けつつ紀伊半島を周航して、未だ縄文時代から抜け出していない熊野に上陸したのです。そこには、成熟した弥生社会に比して人数が少なく、社会全体としての組織的行動に劣る縄文集落が点在しています。主に狩猟用の弓矢や石棒・石斧程度の、人間同士の組織的戦闘には不向きで殺傷力の弱い武器類しか所持しておらず、防御用の武具や盾なども備えていない人々の集落です。負傷兵を抱え、食料や水にも事欠き、疲労困憊状態にあった神武とその武装集団は、ここしにしか上陸できなかったのではないでしょうか。 しかし、神武はここでも抵抗を受けたものと思われ、日本書紀では「神武は再び海に浮かんで二人の兄を失った」としており、熊野の荒坂津で「丹敷戸畔」を誅しています。これなど、縄文集落からも以外と手強い抵抗を受けたことを意味しています。神武とその武装集団は遂に力尽きて、「時に神、毒気を吐きて、人物咸に瘁えぬ。是に由りて、皇軍復振ること能はず」となってしまいました。
 この絶体絶命のピンチを救ったのが熊野の高倉(たかくらじ)下です。高倉下は「[音巾]*霊(ふつのみたま)」という神剣(古事記では横刀)を神武に献上しました。古事記では「其の横刀(たち)を受け取りたまひしとき、其の熊野の荒ぶる神、自ら皆切り仆(たふ)さえき」とあって、神武と武装集団がこの横刀によって息を吹き返し、周辺の集落を征伐しています。
 ここで気になるのが高倉下(たかくらじ)が献上した「[音巾]*霊(ふつのみたま)」です。古事記ではこれを「横刀(たち)」としており、太刀だとしています。腰に横たえる刀、佩刀(はいとう)のことです。短刀ならいざ知らず、腰に横たえる石製の太刀などありませんから、これは明らかに金属製です。弥生時代の金属製武器には銅製と鉄製のものがあり、銅製武器として銅矛・銅剣・銅戈・銅鏃などはよく耳にし目にもしますが、銅刀というのはあまり聞いたことがありません。銅はその性質上、刺突型の武器としては使えるものの、振り下ろして斬るのには向いていないのです。この「横刀」が太刀、振り下ろして斬る刀だとすると、それは鉄製の武器であることを意味します。金属器が使用されるようになったのは弥生前期からだとされているのに、金属器、それも鉄製の太刀が縄文の世界に登場するのはおかしいのです。しかし、紀伊半島の南に広がる太平洋の荒波を目にしたとき、その気がかりは単なる杞憂(きゆう)であることがわかりました。

[音巾]*霊(ふつのみたま)の[音巾]*は音編に巾の上に一

 紀伊半島西南部沿岸に点在する弥生集落は、初めは何らかの事情で故郷を離れた弥生人が新天地を求めてたどり着き、開拓してできた村です。こうした、新天地を求めて故郷を離れた集団は、弥生時代を通じて日本列島内にあるいは陸伝いに、あるいは船で沿岸伝いに、弥生文化を広めていきました。熊野の沖合も東へ流れる黒潮に乗って開拓者たちの船団が幾たびも通り過ぎたに違いありません。そのうち運悪く難破した船が熊野の浜にうち寄せられたとしても何の不思議もなく、難破した船から鉄製の太刀を手に入れたりするのもごく自然の成り行きでしょう。
 高倉下(たかくらじ)に救われた神武は、この地から奈良盆地へ通じる道のあることを知り、ヤタガラスという道案内を得て紀伊山地横断の途につきました。
 和歌山平野から紀ノ川流域を通らずに熊野へ迂回した「よほどの理由」を、弥生社会で手痛い反撃を受けた神武が弥生社会の形成されている地域を避けて、未だ縄文社会の生活から抜け出していない地域に上陸したのだ、と考えたとき、「神武東征」説話は架空の作り話ではなく、事実を反映した伝承が伝えられたものとの感を強くするのです。


【追記】
1、日本書紀に出てくる名草邑(むら)や名草戸畔(とべ)の「名草」は後に郡名になっており、その範囲は、今の和歌山市の東半分にもなるほどの広さで、北は和泉山脈で大阪府と接し、南は 海南市にに接しており、名草山麓で和歌浦湾に面しています。

2、また、和歌山市の西半分、名草郡の西側、紀伊水道に面したところに「海部(あま)郡」があり、北は加太(かだ)から南は海南市を含みます。名草郡と海部郡の境界は和歌川流域のあたりですが、これは奈良時代のころには紀ノ川の本流が和歌山城の東側を流れる和歌川流域と重なっており、その河口が和歌浦湾にあったからではないかとされています。

3、古事記・日本書紀ともに、「那智の滝」について何も触れていないので不思議に思い、沿岸の海上からこの雄大な滝が見えるかどうか調べてみました。
 那智勝浦町商工観光課に訊ねたところ、「わからない」という返事で、海岸近くにある温泉旅館に「滝の湯」というのがあり、そこに問い合わせてもらったところ、はるか 木々の間から「涙ていどに見える」とのことでした。勝浦漁協に訊ねても「わからない」という返事で、最後に那智勝浦観光船会社に問い合わせたら、海上からは「天候の具合で見えないこともある。見える場合でも涙ていどである。あの雄大な自然の姿が見えるわけではない」とのことでした。海上を通過しても、伝承に残すほどの雄大な姿が目に入らなかったのでしょう。地図で見る限りでは、那智の滝は海岸から五キロメートルほど入った山奥にあります。

4、神武がオノミナトから船で竃山近くまで航行し上陸した、との記述に関しまして、拙論脱稿後に、一九八一年四月発行の「市民の古代」第三集に、当時編集委員をしておられた義本満氏が述べておられる旨、古田武彦氏からご指摘を受けました。不勉強の致す ところとは申せ、脱稿するまで気がつかなかった不明を深く反省するともに、同じ考えをお持ちの先達がおられたことに喜びを感じる次第です。尚、「市民の古代」第三集は 水野孝夫氏に貸していただき、初めて目にすることができました。
  私は、「神武東侵」のテーマの重要な要素の一つは船であると捉えて、吉備の高島から熊野までの行程はすべて船で行われたのではないかと考え、主に和歌山市史を中心に弥生時代の和歌山平野の地形を考究致しました。したがって、弥生時代の和歌山平野の概略図も義本満氏のそれとは若干異なっております。
  義本満氏は、神武が何故、竃山へ上陸したのか、という疑問から出発されたようです。和歌山平野の地形図も和歌山市史に載っている奈良・平安時代のものを参考にされたようです。
  尚、和歌山市史には、弥生時代の地形の詳細な説明はありますが、弥生時代の地形図そのものは載っていません。


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