インターネット事務局注記2005.09.01 1、考古学関係や系図などの図表はありません。(電子書籍にはあります。)
                   2、表せない漢字は合成表示をおこなっています。(電子書籍は正確に表示。)

四、宇陀から奈良盆地へ 宇陀
 奈良盆地に入るまでの戦い 奈良盆地での戦い 磐余 資料5

神武が来た道 4

伊東義彰

 四、宇陀から奈良盆地へ

1,宇陀 (資料4参照)
 古事記によると、神武とその武装集団は三人の国つ神に出会ったあと、吉野川流域沿いに進まずに吉野町国栖(くず)のあたりから東吉野村の山中を北上し、「其の地より踏み穿(うか)ち越えて、宇陀に幸でましき。故、宇陀の穿(うかち)と日ふ」というように、吉野から宇陀に入っています。日本書紀では三人の国神に出合う前に、「山を踏み啓け行きて、乃ち烏の向かひの尋に、仰ぎ視て追ふ。遂に菟田下県に達る」と熊野から吉野を素通りして菟田に到着しています。
 吉野川沿いに進めば、吉野町や大淀町から山越えで直接奈良盆地に入れるいくつかのルートがありますが、吉野川中流域南岸の河岸段丘にはすでにいくつかの弥生集落が営まれており(宮滝遺跡など)、予想される抵抗を避けて宇陀地域へ進んだのでしょう。
 奈良盆地の東側に位置する宇陀地域は、高原状の台地に山が屹立し連なっているようなところで、農耕に適した平地もかなりあります。しかし、山と山、尾根と尾根の間の平地ですから広い湿地帯などはなく、水田稲作を営むには、奈良盆地とは比較にならないほどの難しさがともなったと思われ、また多くの労力も必要としたに違いありません。この地に水田稲作が営まれるようになったのは奈良盆地よりもかなり遅れたであろうことが、その地理的条件から理解できます。
 神武が足跡を残したとされる宇陀地域は、主に現在の宇陀郡菟田野町(うたのちょう)・大宇陀町(おおうだちょう)・榛原町(はいばらちょう)の三町です。神武とその武装集団がこの地域に侵入してきたころ、ここではどのような人々が、どのような生活をし、どのような社会を形成していたのでしょうか。
 先述したようにこの地では、奈良盆地よりもかなり遅れて水田稲作が始まったことが、地理的条件からの推測だけでなく、遺跡からの出土遺物によっても判明しています。宇陀地域の弥生遺跡から出土する土器片の多くは弥生後期のものが中心で、中期のものはごくわずかしかありません。弥生前期のものはほとんど見つかっていません(菟田野・大宇陀・榛原町史)。つまり、縄文土器片に続く弥生時代の土器片は弥生後期のものが中心なのです。このことが意味することは、この地域に水田稲作を中心とする弥生集落が営まれるようになったのは弥生時代後期からで、それまでは縄文晩期の時代であったということです。神武とその武装集団が宇陀地域に侵入した弥生中期末〜後期初めごろはこの地域に水田稲作が始まったころで、縄文晩期の生活をする人々の集落がまだまだ多かったと思われます。神武が奈良盆地に侵入する前に通ったルートは、侵入者に対する激しい抵抗が予想される地域をできるだけ避けた、まだ縄文晩期の生活、集落の営まれていた地域なのです。最終目的地である奈良盆地に突入する前に、激しい戦いを繰り返して戦力が消耗することを極力避けたかったのと同時に、生駒山麓での手痛い敗北に対する恐怖感が常に意識されていたに違いありません。
 しかし、宇陀の地(菟田野(うたの)町)へ一歩足を踏み入れた途端、この地域と吉野に住む人々の違いを思い知らされます。兄宇迦斯(えうかし兄猾)の抵抗です。幸い大きな戦いになる前に兄宇迦斯を殺すことができましたが、それも神武とその武装勢力の力と言うよりは、宇迦斯(うかし菟田野町大字宇賀志)という地域に住む二人の支配者(兄宇迦斯と弟宇迦斯おとうかし)の内紛に助けられた、あるいは内紛を利用した、と言った方が当たっているかも知れません。兄宇迦斯(えうかし)を殺したあと、死体を引きずり出して切り刻んだとあります。この点は古事記も日本書紀も同じです。ところが古事記と日本書紀ではこの部分の順番が逆になっていて、古事記では吉野地域で三人の国つ神に出会ったあとで宇陀に入り、兄宇迦斯(えうかし)を殺しているのに、日本書紀では、兄猾(えうかし)を殺したあとで吉野に巡幸して三人の国神(くにつかみ)に出会ったことになっています。神武の奈良盆地侵入にとってこんな順番の違いなどどうでもよさそうですが、すでに述べたように、ここには重要な問題が含まれていますので、もう一度振り返ってみたいと思います。
 古事記によると、熊野から紀伊山地を横断してきた神武が最初に出会った国つ神は贄持之子(にへもつのこ)であり、出会った場所は「吉野河の河尻」です。「河尻」の一般的な意味からすると、神武は紀伊半島南東部の太平洋岸から紀伊山地を横断して、和歌山平野の「紀ノ川」河口付近で贄持之子に出会ったことになってしまい、地理的適合性の全く理解できないところへ出てしまったことになります。その後「其の地より幸行で」て井氷鹿(いひか)に遭い、「即ちその山に入り」石押分之子(いわおしわくのこ)に出会って、そして「其の地より踏み穿(うか)ち越えて、宇陀に幸で」たことになっています。こられの神武の行程を見ても、紀ノ川河口付近から紀ノ川・吉野川を通って宇陀へ入ったとはとても思えないのです。古事記編纂にたずさわった太安万侶も、こんな地理的適合性の全く理解できない場所をわざわざ造作するはずがないではありませんか。造作するなら、誰が読んでも納得できる行程を並べればよいはずです。では何故、このような地理的適合性が全く理解できないような「吉野河の河尻」を行程に入れたのでしょうか。先述した如く、太安万侶以下古事記編纂担当史官たちは、古くから伝わる「神武東征伝承」を、意味がわからないからと言って削除したり、恣意的な解釈をもとに書き替えたりしないで、そのまま記述したとしか思えないのです。
 ところが日本書紀には、「吉野河の河尻」がないばかりか、神武が熊野から紀伊半島を縦断して「菟田下県(うだのしもつあがた)」へ入るまでの間に、その通過地であるはずの吉野が何故かすっぽり抜け落ちていて出てこないのです。吉野が出てくるのは、先述したように菟田の兄猾(えうかし)を殺したあとになっています。つまり古事記とは、吉野やそこで出会った国神の順番が違っているのです。何故でしょう? それは、日本書紀編纂担当史官たちも「吉野河の河尻」を理解できなかったから、としか言いようがありません。ただ、古事記編纂担当史官たちと違うところは、意味のわからないところは、意味がわかるように書き替え・削除を行ったということです。地理的適合性が全く理解できない「吉野河の河尻」を削除し、順番をあれこれ入れ替えて意味のわかる物語に作り替えたのです。
 このような手法は日本書紀の中にところどころ見かけます。生駒山麓の戦いに敗れ、河内湖から撤退するときの「自南方廻幸之時(みなみのかたよりまわりいでまししとき)」の意味を、編纂当時の地形から理解することができずに「削除」してしまったのもその一例です。これらをもってしても古事記・日本書紀の記す「神武東征」説話が、古くから伝わる「神武東征伝承」に基づいて書かれたものであって、その編纂担当史官たちによって作り出された架空の物語ではない、ということがおわかりいただけるのではないでしょうか。
 宇陀郡菟田野町に大字宇賀志(うかし)があります。吉野町国栖から高見川(吉野川の支流)に沿う県道一六号線を行くと、東吉野村役場のある小川集落を経て、やがて鷲家集落で国道一六六号線と出会います。一六六号線を北上すると佐倉(さくら)峠に到り、峠を越えると菟田野町大字佐倉です。鷲家集落近くの林道を右へ入って山道を行くと大字宇賀志に出ます。宇賀志は「ウカシ」と読み、ここには宇迦斯(うかし)兄弟を祀る「宇賀(うか)神社」や、兄宇迦斯(えうかし)を切り刻んだところとされる「血原」橋など、宇迦斯にまつわる地名や伝承が伝わっています。神武が足を踏み入れた宇陀(菟田)の地は「穿(うかち)」であってウカシではなく、宇賀志やその西隣の佐倉にも「穿(うかち)」という地名は残っていませんが、「ウカ」が本来の地名で「チ」は神聖・神を意味する接尾語だとすれば、宇賀志やその西隣の佐倉のあたりを指す地名だった可能性が高く、宇賀志はやはり「穿(うかち)」からきた地名だと考えられます。
 大字宇賀志(うかし)のほぼ中央を細い宇賀志川が北流し、東岸の山の斜面に集落が営まれており、西岸の低地に水田が拓かれているものの、川の上流は低地もなく、源流近くの山奥に中将姫ゆかりの青蓮寺がありました。
 菟田野町史によると、宇賀志(うかし)に残る神武伝承にかかわる地名には次のようなものがあります。
*宇賀(うか)神社…神武が八咫烏(やたがらす)の先導によりたどりついた穿(うかち)の邑(むら)で、宇賀志(うかし)の地名の起こったのがこのあたりとされています。
*血原橋…神武が兄宇迦斯(えうかし)を誅殺したとき流れた血で赤く染まったところとさており、宇賀神社の東南角を流れる宇賀志川にかかっている石橋。
*アチラ埼…兄宇迦斯が八咫烏を射た鳴鏑(なりかぶら)の落ちたところ。訶夫羅前(かぶらざき)がアチラ埼になったという。
*アガタ…日本書紀の菟田下県(うだのしもつあがた)の地とされている。
*湯矢谷…イヤノタニ(射矢の谷)とも言われており、神武が矢を射たところ。
*オドノ…兄猾(えうかし)の邸宅のあったところで、兄猾が自分の仕掛けた押機(おし)にかかって圧死したという伝説の地。
*キド・キドグチ…木戸(城戸)・木戸口(城戸口)
 以上はその全てではありませんが、大字宇賀志に残るいくつかの地名と神武にまつわる伝承です。
 ところが、似たような伝承の残る地名は宇賀志だけでなく、隣接する大字佐倉にもあります。兄宇迦斯を殺したあと、弟宇迦斯が奉った饗宴の席で神武が歌った歌の出だしに「宇陀の高城に鴫罠張る」とある「タカギ」という地名が桜実神社の近くにあり、この地名と神武にまつわる伝承が伝わっています。
 桜実(さくらみ)神社は、東吉野村から佐倉峠(分水嶺)を右へ越え、北流する佐倉川に沿って六〇〇メートルぐらい行ったところで川を西側へ渡った山奥にあり、川の東側の丘陵を超えれば宇賀志で、曲がりくねった幅の狭い舗装路を行くと血原橋に到り、宇賀神社の前に出ます。
 桜実神社の西北に「高城(たかぎ)」、東北に「たかがき」という地名があり、この地に神武が本営を設けて兄宇迦斯と対峙(たいじ)したというのです。弟宇迦斯(おとうかし)が参向したのもこの本営だと語り伝えられています。桜実神社には天然記念物の「八房の杉」が八方に幹を伸ばしており、訪れる人とてないわりには手入れの行き届いた神社です。
 神武と結びつくのは、神武の歌に出てくる「高城」や「たかがき」という地名であることは言うまでもありません。戦場に臨んだ歌にしては、何となく臨場感にかけるのですが、「宇陀の高城に鴫罠(しぎなわ)を仕掛けて待っていたら、鴫はかからずに鯨がかかった」という出だしの歌で、鯨は原文では「久治良(くじら)」となっており、これを海生哺乳類の鯨だとするとわけのわからない歌になってしまいます。「高城」を出すまでもなく、宇陀地域そのものが高原状の山地だから間違っても海に棲む鯨が罠にかかるはずがありません。昔から「久治良」をめぐって色々議論されてきた所以(ゆえん)です。
 「神武東征」説話は、造作された架空の物語だとする定説が、この理屈に全く合わない「久治良」をその理由の一つに挙げているのもわからないではありません。しかし、「神武東征」説話を造作しようとする者が、こんな見え透いたわけのわからない歌をまことしやかに造作するだろうか、という疑問も同時に湧いてきます。
 この疑問が氷解できたのは、古田武彦氏が平成十年六月二十八日に大阪天満研修センターでこの歌について話された講演を聴いたときで、その要約を紹介させていただきます。
 「この歌を神武とその武装集団の故郷の歌ではないかとするとどうだろう。筑紫の日向近くの糸島半島周辺に宇田川原という地名があり、干潟などの海辺を餌場にしている鴫の罠を仕掛けたら、鴫ではなく鯨がかかってきたとしても別に不思議ではない。鯨が集団で浜に打ち上げられるのはよくあることである。宇陀での緒戦の勝利を祝って、同じ発音の故郷‘ウダ’を偲び、その歌を将兵とともに歌ったのではないだろうか。このあとの戦いに勝利したときの歌にも‘神風の 伊勢の海の 大石に・・・撃ちてし止まむ’というのがあり、即興の歌だとすると意味が全く不明になってしまうが、故郷を偲んで歌ったものだとすると辻褄が合ってくる。先の歌に宇田川原の地名があったように、糸島半島付近には‘伊勢浦’‘大石’の地名もある(講演会資料の中に福岡県糸島半島の略地図が掲載されており、‘宇田川原’‘伊勢浦’‘大石’などの場所が明示されていました)。これら神武の故郷にまつわると思われる歌が、‘神武東征’伝承の一部として伝わっていても何の不思議でもなく、むしろ当然のことではなかろうか」(資料5参照
 宇陀郡大宇陀町や榛原町にも「神武東征」説話にまつわる地名や伝承が残っています。大宇陀町大字守道には、日本書紀に「彼の菟田の高倉山の巓(いただき)に陟(のぼ)りて、域の中を膽望りたまふ」と記す「高倉山」があり、頂上に式内社の高角(たかつの)社二座とする高椋下(たかくらじ)を祀る神社が鎮座しています。江戸時代の元禄検地帳に高倉・高倉口などの地名が載っており、今日でも小字名として高倉があります。頂上には江戸時代の寛政十一年(一七九九)に建てられた「神武天皇望軍之旧蹟」と刻んだ石碑が小さな祠の横に残っています。しかし「高倉山宇陀郡に二、三箇所あり」(延宝九年、和州旧跡幽考)とされたりしていて、高倉山についての定説はありません。その他、国見丘や男坂・女坂などの伝承地も語り伝えられています。
 榛原町には、日本書紀に「墨坂(すみさか)に[火赤]*炭(おこしずみ)を置けり」と記された墨坂の伝承を伝える墨坂神社が、大字萩の里を西流する宇陀川の右岸に春日造の堂々たる風格を見せています。古事記・日本書紀に、第十代崇神天皇が朱色の盾・矛を祀らせたとする墨坂神社です。墨坂神社はもともとこの地ではなく、今も墨坂の伝承地とされている大字西峠にあったものを、文安六年(一四五〇)九月に現在地に遷座したとあります(由緒書き)。榛原町にはほかに、椋下(くらじ)神社(高倉下を祀る)、八咫烏(やたがらす)神社など歴史の古い神社もあります。ただ、大宇陀町の高倉山からは、それほど高い山ではないので、日本書紀の言うように男坂・女坂・墨坂などの伝承地を一望できそうもありません。

インターネット事務局注記2005.8.1
[火赤]*炭(おこしずみ)の[火赤]*は火編に赤。

 以上の「神武東征」説話にまつわる宇陀地域に残る地名や伝説が、どれだけ歴史事実を反映したものか、ということを実証することはおよそ困難です。この地域に、古事記・日本書紀の記す「神武東征」説話にまつわる数多くの地名・旧跡があり、それぞれに伝説が語り伝えられているにもかかわらず、その一部を紹介するにとどめておくしかないのが心残りでなりません。

2,奈良盆地に入るまでの戦い
 宇陀地域から奈良盆地の平野部(桜井市)に出るには、曲がりくねった長い坂を延々と下り、桜井市側(途中に舒明天皇の忍坂陵がある)の、「OSSAKA」と道路標識のかかる「忍坂」を通ります。宇陀の山地帯から奈良盆地の平地部へはいる入り口にあたります。
 古事記では、神武とその武装集団が奈良盆地に入るまでに倒した敵は、宇陀では兄宇迦斯(えうかし)だけで、その次ぎに「忍坂(おさか)の大室(おおむろ)」で尾のある土雲(つちくも)の八十建(やそたける)を饗応して、その席で一時に打ち殺しています。いわば騙し討ちの皆殺しです。宇陀で兄宇迦斯を切り刻んだことといい、かなり残忍・残虐な方法を用いて敵を倒しています。
 日本書紀でも、菟田(うだ)で兄猾(えうかし)を切り刻んだあと、国見丘に陣取っていた八十梟帥(やそたける)を撃ち破り、さらにその余輩を忍坂邑(おしさかのむら)に作った大室(おおむろ)に集めて饗宴を開き、宴たけなわのころを示し合わせて一時に皆殺しにしたとあります。古事記よりもかなり詳しく戦いの様子を描いていますが、基本的には同じように残忍な方法で敵を倒しています。
 古事記・日本書紀は、神武に敵対する者やその恐れのある者を切り刻んだり、騙し討ちで皆殺しにしたりと、今日でも残忍・残虐と思われる方法で敵を倒したことを、わざわざ語っています。目指す奈良盆地へ突入するにあたり、その背後の地である宇陀と進軍路にあたる忍坂が、向背の定まらない不安定なままでは進むに進まれなかったのではないでしょうか。後顧の憂いを完全に取り除くためには、残忍・残虐・卑怯な方法を用いることににいちいち躊躇(ちゅうちょ)しているわけにはいかなかったのでしょう。遙か彼方、筑紫から海を渡ってやって来た神武とその武装集団は、逃げ帰るところとてない孤立無援の軍団です。敗北はすなわち全滅を意味します。敵地に深く侵入したまま、その真っ直中でひとたび敗れれば陣容を立て直す場所も余裕もありません。そんな神武にとって後顧の憂いを残したまま奈良盆地に侵入することが如何に危険なことか、だからこそその危険を少しでも取り除いておくためには、騙し討ちの皆殺しも決して非難さるべき作戦行動とは言えないでしょう。神武に従う将兵たちはその一人一人が、負け戦(いくさ)すなわち死、という悲壮な覚悟のもとに奈良盆地を目指して戦ったに違いありません。その彼らに、戦いに臨んで躊躇するようなものは何一つなかったでしょう。それを見事に伝えているのが「神武東征」説話であって、これを編纂担当史官が「造作した物語」とはとても思えないのです。造作するなら「言むけ和した」と書けば済むことであって、平和的な手段で敵対勢力を従わせたとした方が、神武の徳と権威をより高めると思われるからです。
 古事記は、奈良盆地での戦いについては、忍坂(おさか)の騙し討ちのあと、「然て後、登美毘古(とみびこ)を撃たむとしたまひし時、歌日(うた)ひけらく」として「撃ちてし止まむ」の歌を三首上げ、「又、兄師木(えしき)、弟師木(おとしき)を撃ちたまひし時、御軍(みいくさ)暫し疲れき」として「鵜養(うかい)が伴(とも) 今助けに来ね」と救援を求める歌を載せるのみで、結果がどうなったのか不明のままで終わっています。このあとは、邇藝速日命(にぎはやひのみこと)が「天(あま)つ神の御子(みこ)天降(あまくだ)り坐しつと聞けり。故、追ひて参降(まいくだ)り来つ」と降伏してきたのを最後に戦いは終わり、あとは畝傍(うねび)の白檮原宮(かいはらのみや)で「天(あま)の下(した)治らしめしき」として、奈良盆地はおろか、天下を治めるに至っています。登美毘古(とみびこ)がどうなったのかさえわかりません。
 これに対して日本書紀は、「今魁なる賊己に滅びて、同じく悪しくありし者、匈匈りつつ十数群あり。其の情知るべからず。如何にぞ久しく一処に居て、制変すること無けむ」と、奈良盆地における戦いを詳しく描いて、あたかも奈良盆地を平定したかの如く装っています。
 神武は、忍坂(おしさか)に作った大室(おおむろ)で敵の残党を騙し討ちしたあと、奈良盆地に入るのを妨げようとする磯城(しき)の豪族と一戦を交えます。神武はここでも、菟田下県で兄猾を討ったときと同じように磯城の豪族を二分し、その一方を味方に付けることに成功しました。というよりも兄磯城(えしき)、弟磯城(おとしき)という勢力を競い合う磯城の豪族同士が、「負ければ全滅」と死を覚悟して形振り構わず戦う凶暴な神武軍を味方に付けて一方を倒そうとしたのかも知れません。その結果、弟磯城が神武側につき、激戦の末、兄磯城が滅ぼされました。磯城郡と言えば奈良盆地の中央部を占める地域ですから、磯城彦(しきひこ)というのは奈良盆地最有力の豪族だったと思われます。弟磯城は兄磯城を裏切り、排除することによってその地位を独り占めしたかったのでしょう。

3,奈良盆地での戦い
 次が長髄彦(ながすねひこ 登美毘古)との戦いです。長髄彦とはすでに生駒山の西麓で戦っており、その時は神武軍の総帥とも言うべき神武の兄、五瀬命(いつせのみこと)が重傷を負わされて敗北しています。その傷がもとで五瀬命が落命していますから、奈良盆地に侵入した以上、長髄彦と決着をつけなければなりません。
 先述したように古事記では、忍坂(おさか)の大室(おおむろ)で土雲の八十建(やそたける)を騙し討ちにしたあと、「然て後、登美毘古(とみびこ 長髄彦)を撃たむとしたまひし時、歌日(うた)ひけらく」として三首の「撃ちてし止まむ」の歌を載せているのみで、どこでどのように戦い、どんな結果になったのかについては、歌のあと「又、兄師木(えしき)、弟師木(おとしき)を撃たまひし時」と続けているのでわかりません。
 日本書紀では、長髄彦(ながすねひこ)との戦いは、兄磯城(えしき)との戦いに勝利したあとのことになっています。「其の鵄(とび)光り曄[火日/立]*(てりかがや)きて状流電の如し」という「黄金の怪しき鵄(とび)」が神武の弓弭(ゆはず)に止まり、それまで負け続けていた戦いを勝利に導いてくれました。この瑞祥(ずいしょう)により、長髄彦の名前の由来であった「長髄邑(ながすねむら)」という邑は「鵄邑(とびのむら)」と名づけられ、それが訛って「鳥見(とみ)」となったという地名説話を伝えています。「鳥見」は現在の奈良市富雄(とみお)から生駒市北部あたりだろうとされていて、このあたりは奈良時代には冨美郷(とみのさと)と呼ばれ、その後も鳥見庄・鳥見谷などの名を伝え、富雄川ももとは富川・鳥見川などの字が使われていました。ここに金の鵄(とび)が現れたのか、あるいは戦場は別の場所だったものが、金の鵄の伝承からこの地が選ばれたのかはわかりません(富雄川流域に登弥(とみ)神社があり、長髄彦を祀っています)。

インターネット事務局注記2005.8.1
曄[火日/立]*(てりかがや)の[火日/立]*は、火編に日。日の下に立。

 結局、長髄彦(ながすねひこ)は饒速日命(にぎはやひのみこと)に殺され、その軍勢も神武に帰順してしまいます。長髄彦を殺した饒速日命は、「天(あま)の磐船(いわぶね)」に乗って天から降ってきた天神(あまつかみ)の子とあり、長髄彦の妹を妻にして子供(物部(もののべ)氏の遠祖)までもうけていましたから、二人は強い信頼関係と太い絆で結ばれていたはずです。さらに長髄彦は、天神の子である饒速日命を「君として奉へまつる」と言っていますから主君として奉仕ていたことになります。そんな長髄彦の目から見れば、神武は「奈何ぞ天神の子と称て、人の地を奪はむ」とする侵略者と映って当然です。いわば、どちらが正当な天神の子であるかをかけて戦っている最中に、最も信頼していた饒速日命に裏切られ、殺されてしまった長髄彦は気の毒を絵に描いたような男です。
 長髄彦(ながすねひこ)との決着が付いたあと、神武はさらに軍を進め、盆地北部の層富県や和珥、盆地南西部の臍見の長柄丘岬(葛城地域に長柄神社・名柄遺跡があります)や高尾張邑(葛城邑と名づける)に蟠踞する土蜘蛛を皆殺しにしてしまいます。かくて「辺(ほとり)の土(くに)未だ清(しずま)らず、余の妖尚梗れたりと雖も、中洲之地(うちつくに)、復(また)風塵(さわぎ)無し」となったので、畝傍山の東南の橿原に帝宅(みやこ)を造り、事代主神(ことしろぬしのかみ)の娘を正妃に迎えて「橿原宮に即帝位(あまつひろぎしろしめ)」しました。そこで神武を「始馭天下之天皇」と呼び、「神倭磐余彦火火出見天皇」の名を奉っています。
 以上、日本書紀によると、神武は奈良盆地をほぼ制圧・平定したように語られています。本当でしょうか。
 奈良盆地はもちろんのこと、宇陀地域や葛城地域などにも昔から住んでいた在地の豪族が大勢いたはずです。それらを土蜘蛛と呼んで討ち滅ぼした話がいくつも出てきますが、生駒山の西麓の緒戦で敗北し、はるばる熊野へ迂回して紀伊山地を横断するルートを辿(たど)らなければならなかった神武とその武装集団に、奈良盆地の豪族を攻め滅ぼし、あるいは従属させて盆地全体を支配下に収めるだけの実力があったとは思えません。古事記では登美能那賀須泥毘古(長髄彦)との決着がどうなったのかわからないのに、日本書紀で殺されてしまっているのは何故でしょうか。奈良盆地征服戦も古事記に比べ日本書紀は、あまりにも詳述過ぎます。また、二代綏靖(すいぜい)から九代開化(かいか)までの天皇に説話がないのは何故でしょうか。などなど、神武の奈良盆地征服についての疑問が湧き起こってきました。
 古事記・日本書紀編纂当時の天皇家が、唯一正統な日本列島の支配者であるためには、神武が支配した日本を継承していなければならないから、神武は「天の下を治らしめ」ている必要があり、「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」でなければなりません。その神武の血筋を引くが故に天皇家は日本列島の正統な支配者たり得るわけで、古事記・日本書紀が、この大義名分のもとに編纂されていることは言うまでもありません。
 「神武東征」説話は、もともと天皇家の正統性を主張する大義名分とは無関係に古くから伝わってきた「神武東征」伝承を、天皇家の大義名分に基づいて「神武東征」説話として編纂したものであることに留意して理解する必要があります。
 「負ければ全滅。死あるのみ」という悲壮な覚悟のもとに、文字どおり死にものぐるいで戦う神武率いる武装集団は、奈良盆地の在地豪族を手こずらせ、多くの死傷者を出したことでしょう。そのあまりに熾烈な戦闘力を目の当たりにして恐怖・辟易(へきへき)した豪族の中には、自分の勢力を拡大維持するために神武軍と手を結んでこれを利用しようと考えた者もいたでしょう。兄磯城(えしき)を裏切って神武と手を結んだ弟磯城(おとしき)や、長髄彦(ながすねひこ)を裏切って殺した饒速日命(にぎはやひのみこと)などです。あるいはまた、あまりの被害の大きさに耐えかねて当面の和睦をはかろうとした者もいたでしょう。もちろん徹底抗戦して運悪く滅ぼされた豪族もいたでしょう。あまりに凄惨な戦闘に恐怖を抱き、犠牲の大きさに恐れをなし、辟易した奈良盆地の在地豪族たちは、荒れ狂う神武とその武装集団を取りあえず鎮めるために、奈良盆地の一隅に土地を与え、居住することを認めたのではないでしょうか。それが「磐余(いわれ)」と呼ばれた土地であり、畝傍山麓の白檮原宮(かしわらのみや 橿原宮)だったのではないかと考えられます。

4,磐余
 神武の名は「神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと 紀:神日本磐余彦尊)」で、名前を飾る文字を除くと「イワレヒコ」です。つまり「イワレ」と呼ばれる地域の全部又は一部の支配者という意味になります。「磐余(いわれ)」は大和の地名で、奈良県桜井市の大字谷・安倍あたりから橿原市の香具山あたりまでを含む地域とされており、奈良盆地の平野部から宇陀の山地部に入る咽喉の位置にあります。ところが、神武が居を定めたのは畝傍山の麓ですから「磐余」と呼ばれているところからはかなり離れていて、その西端とされている香具山周辺からも直線距離で約三キロあまり西になります。支配領域の要地に本拠を定めたが故にその地名を自分の名に冠して支配者であることを示したと思われるのに、名前と本拠地が一致しないのです。にもかかわらず「磐余」を名乗ったのは何故でしょうか。いろいろな可能性が考えられますが、まず、「イワレ」と呼ばれていた地域が、従来伝えられていた範囲よりも広いのではないか、と考えて『橿原市史』を調べてみたところ、次のような記述に出会いました。
 「天文十二年(一五五三)二月に、京都を出て吉野に向かった『吉野詣記』の筆者、三条西公条(きみえだ)は、二十九日、橘寺から安倍の文殊院に詣で、耳なし野の山陰を経て、高田に至っているが、途中、そが川を渡って間もなく‘いはれ野’に入ったと記していて、一六世紀の中ごろまで‘いはれ’という地名が残っていたことを知るのである。その『いはれ野』というのは、公条自ら、『蘇我と書ては、いはれとよめるにやと覚え侍りし』、といっているところからすれば曽我の村里近く、曽我川を西へ渡って、高田方面へ行く路にある野原でもあろうか」 
 「曽我の西一キロメートルばかりのところにある磐余神社も、一応この『いはれ野』の地域にあるといえるようであるから、この神社名も‘いはれ’という地名からきた名ではないかと考えられる」
「橿原神宮を設立する際に、畝傍山の東南麓タカハタケ(高畠)の付近に『イハレ』という小字の名があることが指摘せられているが、このことのみで、広い『いはれ』の地方名を考えるのは少し不自然である。こういうようなことから、‘磐余’の中心的な部分は安倍付近から、香具山の北隣地域ででもあろうが、広い意味ではさらに西に延びて、畝傍山麓から曽我にかけての称であっても差し支えないのである」
 一六世紀中ごろまでは、このころの曽我川西側も曽我の地であり、そこに「いはれ野」という地名があった、との記録であり、また、「神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)」を祭神とする磐余(いわれ)神社は、現在の曽我川の東側(橿原市中曽司町)にあります。すぐ近くを流れている曽我川に架かっている橋を磐余橋と言い、橋を西へ渡れば大和高田市です。
 橿原市役所総務課で調べてもらったところによると、「タカハタケ(高畠)」は、現在の橿原神宮拝殿が建っているあたりの地名で、昔はまわりよりも一段高い長方形の畠があったとのことでしたが、その付近にあると『橿原市史』に指摘されているという小字名の「イハレ」は現在存在せず、地番図にも条里図にも載っていないので、過去に存在したかどうか不明で、どのような資料で指摘していたかも残念ながら判明しないとのことでした。
 『橿原市史』が指摘するように、「磐余」の中心地は現在の桜井市谷・安倍あたりから香具山北麓にかけてのあたりだったと思われますが、現在の橿原市の東北部(かっての十市郡)を除く橿原市の大部分も広く磐余(いわれ)と呼ばれていた可能性があります。そう考えれば神武の名前に「磐余」の地名が冠せられていてもおかしくないのです。
 神武は、天下はおろか奈良盆地すら制圧できていなかったわけで、「イワレ」と呼ばれている地域の一角を与えられて矛を収めたのではないでしょうか。「磐余」の中心地である桜井市の中部は、奈良盆地の古くからの豪族、十市県主(とおちのあがたぬし)の領域だった可能性があり、畝傍山の麓に居を構えた神武は、その周りを在地豪族に取り囲まれていたことになります。このことは神武が臣下たちに行った論功行賞を見ても、そのほとんどが畝傍山周辺と橿原市内に限られていることからもわかります。
 もう一つ別の観点から「イワレ」の意味を検討してみます。
 「イワレ(イハレ)」という言葉は、もともと「イワ」は岩、「レ」は多数・群などの意ですから、たくさんの岩がある神聖な場所、というような意味に理解することもできます(古田武彦氏)。
 「イワレ」を古い時代から伝わる地名としてではなく「たくさんの岩のある神聖な場所」というように理解すると、神武の名前の一部である「イワレ」は当然ながら全く別の意味を持ってきます。
 神武が宮居を定めたところは古事記では「畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)」、日本書紀では「畝傍山の東南(たつみのすみ)の橿原(かしはら)の地(ところ)」となっていて、ともに「カシハラ」と読んでいます。現在の橿原神宮のあたりかと思われます。
 橿原神宮はいうまでもなく畝傍山の麓にあり、その東南地域に今は文化施設やスポーツ施設・神宮神苑などに開発整備されて姿を消していますが、かなり広い縄文時代晩期の遺跡がありました。末永雅雄博士らによって昭和十三年〜同十五年にかけて発掘調査され、その存在が明らかになった橿原遺跡です。
 畝傍山の麓ですからそこに住んでいた縄文時代の人々にとっては、畝傍山はアニミズム(自然崇拝)の対象であったに違いなく、朝な夕べに敬虔な祈りを込めて眺めていたことでしょう。橿原遺跡にはカシハラの地名のもとになったと思われるカシの巨木が群生し、森を形成していたであろうことが、発掘調査で数本の巨大なイチイガシの根株が出土したことによって証明されています。
 ところがこの近辺には「イワレ」と呼ばれるような「たくさんの岩の群」があったという発掘調査の記録もなく、またそのような遺跡らしきものも見つかっておらず、畝傍山そのものにも信仰の対象となるような巨石も遺跡もありません。従って「イワレ」をたくさんの岩がある神聖な場所とするのにいささか疑問を感じざるを得ませんでした。そんな疑問を抱きながら、それでも三十年ぶりに畝傍山に登ってみたところ、道の途中で、表土がなくなって岩肌が露出している道をところどころで見つけました。その岩肌を踏みしめながら頂上を目指したわけです。登山道に岩肌が露出していても別に何の不審もありません。畝傍山は死火山で、噴出した溶岩が固まってできた山だからです。気の遠くなるような長い年月の間に土がかぶさり、その上に樹木が生い茂っていますが、もともとは一山これ岩山だったのですから。畝傍山はたくさんの岩が重なり合ってできた岩山だったのです。
 縄文晩期ごろの山容など知る由もありませんが、麓に住んでいた当時の人々は畝傍山が岩山であることを知っていたはずです。橿原遺跡に住んでいた縄文晩期の人々にとって畝傍山はおそらくはアニミズムの対象であり、神聖な山として崇めていたでしょうから、山中に入って祭祀を行っていたと思われます。その名残が今に伝わる「畝火ノ山口ニ坐ス神社(畝火山口神社)」ではないでしょうか。貞観元年(八五九)正五位に叙せられ、『延喜式』では大社に列し、月次・新嘗(にいなめ)の二祭に預かっていて、臨時祭の祈雨の八十五社の中にも列している神社です(『大和三山』池田源太著)。
 このように見てくると、橿原遺跡に住んでいた縄文晩期の人々にとってアニミズムの対象である畝傍山は、山そのものが岩山であるところから「たくさんの岩が重なり合っている神聖な山」、すなわち「イワレ」そのものだったのではないか、と考えられるではありませんか。
 神武がこの「イワレ」と考えられる畝傍山とその周辺を支配下においたとすれば、神武の名前が「神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)」(古事記)、「神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)」(日本書紀)であっても、地名の如何にかかわらず、おかしくないということになります。
 ところで、神武が築いた古事記の「白檮原宮(かしはらのみや)」の「白檮(かし)」は、そう読むものだという先入観のもとに「カシ」と読んで何の疑問も抱かなかったのですが、ふとしたことから「檮」の字を辞書(角川漢和中辞典)で調べてみました。
すると、

  木14
 トウ(タウ漢)
 きりかぶ
 解字 形声。壽しゅの転音が音を表し、切断の意の語源(殊)からきている。
 字義 1,きりかぶ。木の切株。断木。2,おろか。無知。

 とあって、驚いたことに「カシ」の訓(よ)みもなければ「樫の木」の意味もないのです。慌ててほかの漢和辞典も調べてみましたが、角川漢和中辞典と大同小異でした。諸橋漢和大辞典にも「カシ」の訓みも「樫の木」の意味もありません。
 古事記編纂担当史官は、「カシ」の訓みも「樫の木」の意味も持たない「檮」の字を使って、何故「カシ」と読ませたのでしょうか。ここで思いついたのが、橿原遺跡で見つかった「イチイガシ」の根株です。橿原遺跡の西部方含層と言われるところからイチイガシの巨大な根株が数本見つかっているのです。根株に混じって縄文時代晩期の多数の土器片や石器などとともに多量の炭化したイチイガシの果実(ドングリ)が出土しています。古い伝承が樫の木の根株について何かを伝えていて、それをもとに樫の木の森のあったカシハラに白檮原の字を使ったのでしょうか。なお、「樫」は国字、つまり日本でつくられた漢字で、記紀編纂時にはまだ生まれていなかったものと思われます。
 古事記の中で、「白檮(かし)」が使われたのは「白檮原宮(かしはらのみや)」が最初で、そのほかではで「甜白檮(あまかし)の前(さき)」(甘樫の丘)、「葉廣熊白檮(はびろくまかし)」などやはり「樫」の意味で使われています。
 この問題は、橿原遺跡の研究とともに今後の課題にしたいと思います。

 畝傍山の頂上からは金剛山・葛城山・二上山の山容ばかりか、その麓まで、すなわち葛城の全域を一望の下に見渡すことができます。そればかりか目を北に転じれば信貴山から生駒山やその麓の平群までも遠望できます。麓に目をやれば神武陵の森が広がり、目を上げれば耳成山が屹立し、天香具山が横たわっています。かっての藤原京の甍(いらか)も眼下におさめることができるのです。
 畝傍山の南麓に宮居を定めた神武も、その頂上から同じ景色を目にしたことでしょう。


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