インターネット事務局注記2005.09.01 1、考古学関係や系図などの図表はありません。(電子書籍にはあります。)
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五、北部九州の弥生王墓 弥生の時代区分 弥生王墓の副葬品とつくられた時期 中国史書との関連
 各地域の有力者の墓・遺跡 資料8

神武が来た道 5

伊東義彰

五、北部九州の弥生王墓

 ここまで、「神武東征」は弥生時代中期末から後期初めごろの出来事として話を進めてきました。つまり一世紀の初めごろに想定していたわけで、それについての検証を何一つしていません。神武が一世紀初めごろに活躍した人物だということを前提にして、神武の実在を語ってきたわけですから、本当にそうなのか、という検証を抜きにして「神武東征」を終わることはできません。
 順番が逆になりましたが、この章では神武が活躍した時期について、北部九州の弥生王墓とされている遺跡や遺物、あるいは関連する中国史書などをもとに、検討してみたいと思います。神武の出身地である北部九州、筑紫の弥生時代を訪ねることにより、神武の活躍した時期を知る手がかりをつかめるのではないか、と考えました。
 なお、神武の出身地(筑紫の日向ひなた)と天孫降臨については、『失われた九州王朝』『古代は輝いていた』(ともに朝日新聞社、朝日文庫)など古田武彦氏の著作をご参照下さい。

1,弥生の時代区分
 一般的な見解によると、筑紫を中心とした北部九州の弥生王墓とされているものに、早良(さわら)国の吉武高木遺跡三号木棺墓、末盧(まつろ)国の宇木汲田(うきくんでん)遺跡一二号甕棺墓、伊都(いと)国の三雲南小路遺跡一号・二号墓、同井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡甕棺墓、同平原(ひらばる)遺跡一号墓、奴国の須玖岡本(すくおかもと)遺跡王墓などがあり、それぞれの国の王が葬られた墓だとされています。
 これらの遺跡や墓が造られたとされるおよその時期を把握するために、弥生時代の時代区分についての一般的な見解を紹介させていただきます。本文に頻出する時代区分は、下記の時代区分に基づいていることをあらかじめご了承下さい。

*早期……前五世紀初めごろ 〜前三世紀初めごろ
*前期……前三世紀初めごろ 〜前二世紀初めごろ
*中期……前二世紀初めごろ 〜 一世紀初めごろ
*後期…… 一世紀初めごろ 〜 二世紀終わりごろ
*終末期… 二世紀終わりごろ〜 三世紀前半ごろ

2,弥生王墓の副葬品とつくられた時期資料8参照
  (大坂府立弥生文化博物館図録『渡来人登場』『発掘倭人伝』より要約)
 まず最初に、先述した北部九州のそれぞれの国の王墓ではないかと推測されている遺跡の出土遺物などを調べてみました。

 代表的な六王墓

吉武高木(よしたけたかぎ)遺跡(福岡市西区吉武)
*弥生前期〜中期初めにかけての墳墓群で、三四基の甕棺墓と四基の木棺墓が見つかった。
*三号木棺墓…多鈕細文(たちゅうさいもん)鏡一面、細形銅剣二本、細形銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)各一本、翡翠(ひすい)製勾玉一個、碧玉(へきぎょく)製管玉九五個を副葬。三号木棺墓は、当墓地の盟主的存在。
*弥生前期末から中期初頭(前三世紀末〜前二世紀初め)。

宇木汲田(うきくんでん)遺跡(佐賀県唐津市宇木)
*弥生早期〜後期にかけての集落・埋葬施設。前期末〜後期に至るまでの甕棺墓一二九基、木棺墓三基が見つかっている。
*一二号木棺墓…多鈕細文鏡一面、細形銅剣・銅矛・銅戈の青銅製武器、銅釧(どうくしろ)、勾玉、管玉など。
*弥生中期前半(前二世紀前半)。

三雲南小路(みくもみなみしょうじ)遺跡(福岡県前原市三雲)
*青柳種信(江戸時代の福岡藩の国学者)によって記録された甕棺墓遺跡で、一九七五年からの調査でその位置が確認された。二基の甕棺墓が出土。
*一号甕棺墓…前漢鏡三五面、有柄式(ゆうへいしき)銅剣一本、銅矛二本、銅戈一本、金銅四葉座装飾金具八個、ガラス璧八点、ガラス勾玉三個、ガラス管玉一〇〇個以上、朱入り小壺など。
*二号甕棺墓…前漢鏡二二面以上、翡翠勾玉一個、ガラス勾玉一二個、ガラス璧一点。武器類が副葬されていないので、被葬者は女性とされている。
*弥生中期後半〜中期末(前一世紀後半?)

井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡(福岡県前原市井原)
*弥生後期の甕棺墓群で、天明年間(一七八一〜八九)に、三雲南小路遺跡の南一〇〇メートルの水田の溝から、二一面以上の後漢鏡の破片や大小三個の巴形銅器、鉄製武器などを副葬した甕棺墓が偶然発見されたことが、青柳種信によって『筑前国怡土(いと)郡三雲村古器図説』として記録されている。ただし出土品は現存しない。
*甕棺墓は弥生後期中ごろ(一世紀終わりごろ)のもの。

須玖岡本(すくおかもと)遺跡(福岡県春日市岡本七丁目))
*墳丘墓を含む弥生中期の甕棺墓群。竪穴住居跡のほか、青銅器の鋳型や坩堝(るつぼ)など青銅器生産を示す遺物が多数出土。
*王墓…明治三二年(一八九九)に、花崗岩の大石を家屋建設の妨害となるので動かしたところ、合わせ口甕棺が埋められていてその内外に多数の副葬品が置かれていた。
*前漢鏡三〇面以上、細形・中広形銅剣、銅矛・銅戈計八本以上、ガラス璧、ガラス勾玉、管玉など。三雲南小路遺跡の一号甕棺とならんで質量ともに弥生王墓の双璧をなす。
*D地点より出土のき*鳳鏡の年代に問題有り(後述)。(資料9参照70頁)
*弥生中期後葉〜末(一世紀初めごろ)。

き*鳳鏡のき*は、インターネットでは説明表示できません。冬頭編、ユニコード番号8641

平原(ひらばる)遺跡(福岡県前原市有田)
*方形周溝墓を主体とする遺跡。一九六五年、
*平原一号墓(割竹形木棺の痕跡)…銅鏡三九面(四二面?)、素環頭太刀一、銅環一、ガラス勾玉三、ガラス管玉二〇以上、ガラス小玉四〇〇以上、瑪瑙管玉一一、瑪瑙小玉一、琥珀管玉一、琥珀丸玉六〇〇以上など。
*銅鏡のうち三二面が方格規矩四神鏡で、前漢末とされる[兀虫]*龍鏡(きりゅうきょう)もあった。イ方*製鏡(ほうせいきょう)の内行花文鏡は、径四六・五センチあり、わが国最大。
*弥生後期後半〜終末期(二世紀末〜三世紀初頭)。

[兀虫]*龍鏡(きりゅうきょう)の[兀虫]*は、兀に虫。
イ方*製鏡(ほうせいきょう)のイ方*は人編に方。

 以上の代表的な六王墓を古い順に並べると、
1. 吉武高木遺跡三号木棺墓…前期末〜中期初頭(前三世紀末〜前二世紀初め)
2. 宇木汲田遺跡一二号甕棺墓…弥生中期前半(前二世紀前半)
3. 三雲南小路遺跡一、二号甕棺墓…中期後半(前一世紀)
4. 須玖岡本遺跡王墓…中期後葉〜末(一世紀初めごろ)
5. 井原鑓溝遺跡…弥生後期中ごろ(一世紀終わりごろ)
6. 平原遺跡一号割竹形木棺墓…弥生後期後半〜終末期(二世紀末〜三世紀初頭)
 となります。

 この代表的な六つの王墓の副葬品を比べてみたとき、吉武高木、宇木汲田とそれ以外の王墓との間にはっきりと違いのあることがわかります。その違いは、銅鏡の生産地と数において特に顕著に現れています。吉武高木と宇木汲田が、朝鮮系の多鈕細文鏡一面ずつしか副葬していないのに対し、その他の王墓は中国鏡を二〇面〜四〇面も副葬しているのです。三雲南小路にいたっては一号墓と二号墓を合わせて、実に五十数面もの中国鏡を副葬しています。
 埋葬された時期が異なるとは言え、あまりにも違いが大きすぎるではないでしょうか。一口に王墓と言っても、吉武高木、宇木汲田とそれ以外の四王墓とでは、その地位や権力構造に大きな格差があり、それが副葬品の違いとなっているのではないかと考え、そこから「神武東征」の糸口を探ってみることにしました。

【追記】須玖岡本遺跡「D」地点出土の「き*鳳鏡(径一四センチ)」について
*数種類のものがあり、古いものは後漢の「元興元年五月吉日」(一〇五年)や「永加元年五月」(一四五年)の紀年鏡(永加は永嘉のこと)がある。
*須玖岡本遺跡D地点出土のき*鳳鏡は、平素縁式と呼ばれるもので魏晋代の作とされている。これにも種類があって、別種のものは漢墓や西晋墓から出土したものもある。
*D地点出土のき*鳳鏡と同種のものが、大谷一一号墳(京都府城陽市)から出土している。
*日本で出土するき*鳳鏡のほとんどは古墳からであり、弥生遺跡からは須玖岡本遺跡以外には見つかっていない。
*き*鳳鏡の年代については、後漢後期に出現したが、魏晋代になって盛行したものと見られる。
(以上、『古鏡』樋口隆康著、新潮社、昭和五四年)

き*鳳鏡のき*は、インターネットでは説明表示できません。冬頭編、ユニコード番号8641

3、中国史書との関連
*『夫れ楽浪海中倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。』(漢書地理志、燕地)
*『倭人、帯方(たいほう)東南大海の中に在り。山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。旧(もと)百余国、漢の時、朝見する者有り。今使訳通ずる所三十国。』(三国志、魏志倭人伝)
*『倭は‥‥凡そ百余国あり。武帝、朝鮮を滅ぼしてより、使駅漢に通ずる者、三十許国なり』(後漢書、倭伝)
*『元封二年(前一〇九)、朝鮮王、遼東都尉を攻め殺す。‥‥朝鮮を撃つ。』(漢書、武帝紀)
*『武帝、朝鮮を滅ぼし、高句麗を以て県と為す。』(後漢書、高句麗伝)
*『元封三年(前一〇八)、に至り、楽浪、臨屯、玄菟、真番の四郡を分置す。』(後漢書、[水歳]*(わい)伝)
*『建武中元二年(五七)、倭奴国、貢を奉り朝賀す。使人大夫と称す。倭国之極南界也。光武賜うに印綬を以てす。』(後漢書、倭伝)
*『安帝永初元年(一〇七)、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、願って見んことを請う。』(後漢書、倭伝)
*『桓霊の間(一四六〜一八九年)、倭国大いに乱る。更相攻伐して、歴年主無し。』
(後漢書、倭伝)

[水歳]*(わい)伝の[水歳]*は三水編に歳

 以上は、弥生時代の倭国に関する中国史書(和訳文)からの抜粋です。これら中国史書から弥生時代の倭国について、いくつかわかることがあります。
1、漢書に言うところの「楽浪海中」は、魏志倭人伝の「帯方東南大海の中」と同じ地域を指しています。すなわち、北部九州を中心とした中国地方西部を含む地域を指していることは言うまでもありません。帯方郡は三世紀初めごろに、楽浪郡の南部を割いて設けられたものであり、漢書も魏志倭人伝も同じ地点(旧楽浪郡内)から倭国を見ているからです。
2、漢書の「分かれて百余国を為す」のは、楽浪郡設置(前一〇八年)以前の倭国の状況を説明したものです。文章の終わりに「と云う」と、昔はこうだった、と言っているのをみても明らかです。後漢書も、倭は凡そ百余国あったが、「武帝、朝鮮を滅ぼしてより、使駅漢に通ずる者、三十許国なり」としており、漢によって衛氏朝鮮が滅ぼされる以前は、倭は百余国に分かれていた、と記しています。「旧(もと)百余国」あったものが、武帝が朝鮮を滅ぼしてからは、使駅通ずるのは三十国ばかりだ、と言っているのですから、百余国が三十国ほどになったわけです。
 これらのことから、衛氏朝鮮の滅亡という朝鮮半島の大事件が起こった前二世紀終わりごろから、倭国にも弥生社会を揺さぶる大きな動きの始まったことがわかります。「旧百余国」あったものが「三十国ばかり」になる大事変のあったことを後漢書が示唆しているからです。
 楽浪郡設置(前一〇八年)以後に、倭国の弥生社会を揺り動かす大事変が始まったのではないかということを示すものに、弥生中期後半から末にかけてのもの(前一世紀)とされる三雲南小路遺跡一号墓と二号墓に見られる副葬品の中国製品化と豪華さがあります(前一世紀のいつごろのものか、明確な年代は不明ですが、楽浪郡設置以後のものであることは確実だと思われますので取り上げました)。三雲南小路遺跡に限ったことではなく、その後の王墓とされる須玖岡本・井原鑓溝(副葬品は現存しない)・平原などの遺跡にも多数の中国鏡が副葬されています。中国鏡のみならず、三雲南小路・須玖岡本遺跡の王墓からは、中国では皇帝が王侯クラスの臣下に与えるというガラス璧も出土しています。
 これら四王墓の副葬品の中国製品化と豪華さは、武帝による楽浪郡設置と無関係だとはとても考えられません。衛氏朝鮮の滅亡と楽浪郡設置により、それまで主に朝鮮半島を経由していた中国大陸との交流の道が直接通じるようになった結果ではないでしょうか。このように考えると、弥生中期中ごろ以前の遺跡からは朝鮮系の多紐細文鏡が出土していて、中国鏡が副葬されていないのも、あながち不思議とは言えません。
 魏志倭人伝には、「賜汝好物」の一つに銅鏡(百枚)とありますが、これは何も卑弥呼に限ったことではなく、昔から倭人は「銅鏡」が好物だったと思われますから、弥生中期後半以後の王墓に副葬されている多量の中国鏡は、漢の朝廷から代々の倭王に下賜されたものと考えられます。それが故に代々の倭王は、自分がもらった鏡を死後の世界に持っていったのでしょう。漢の朝廷は、王墓の被葬者たちに銅鏡やガラス璧を下賜することによって、漢と交流する(楽浪郡を通じての交流としても)に相応しい一国の王、即ち倭国王として認知していたものと思われます。
 現在、倭国王に相応しい超豪華な副葬品をともなっている王墓は、三雲南小路・須玖岡本・井原鑓溝・平原の四遺跡で、この中でもっとも古いとされているのが三雲南小路遺跡です。弥生中期後半〜中期末ごろにかけてのものとされていますから、約百年の時間幅があり、楽浪郡設置(一〇八年)からも前後一〇〇年以上の幅があります。中期後半(前一世紀初め〜一世紀初め)の早い時期のものならば、楽浪郡の設置後すぐに漢との交流が始まり、一国の王として認知された時期も前一世紀の初めごろということになり、「認知された最初の倭国王」の可能性が高くなります。しかし、前一世紀後半以後の場合も考えられます。その場合は、楽浪郡が設置されてから数十年以後のものだということになり、三雲南小路の王墓を、楽浪郡設置と直接結びつけるのは難しくなります。この場合でも三雲南小路遺跡の被葬者を、漢から最初に認知された倭国王だと見ると、楽浪郡設置を境に起こった倭国の弥生時代を揺るがす大事変のあと、かなり長い年月、漢の認知に値する新しい国家としての体制が成立していなかったことになります(今後さらなる遺跡の発見を期待するのは無理でしょうか)。
 漢との直接交流が盛んになったのは、楽浪郡設置以後のこと、つまり弥生中期後半(前一世紀初め)以後のことであり、その集大成とも言うべきものが、現在までに見つかっている四王墓であることは言うまでもありません。そして、弥生中期後半以後に、楽浪海中に住む倭人の世界に、後漢書が言うところの「百余国」が 「使駅通ずる者、三十国」ばかりになった大事変が起こったのです。
 この大事変とは何か。古事記・日本書紀には、ニニギニミコトの天孫降臨(てんそんこうりん)が伝えられており、これ以外に北部九州の弥生社会を揺り動かすような大事変に相当する記述はありません。すなわちニニギノミコトの天孫降臨によって、倭国を代表する王朝、もしくはその基礎となる政治権力が生まれたのではないか、と考える次第です。衛氏朝鮮の滅亡と漢の楽浪郡設置を境にして、弥生中期後半に北部九州に天孫降臨したニニギノミコトとその子孫たちは筑紫を中心に支配体制を整え、倭国王たる地位を固めようとしたのではないでしょうか。
 天孫降臨の当初は、ニニギノミコトの政権はまだ、中国の漢から倭国を代表する王朝として認められていなかった可能性があります。ニニギノミコトの子の時代には兄弟による権力争いが起こっており、政権の不安定さを物語っています。有名な山幸・海幸の争いです。この争いが決着したころから政権は安定し、倭国を代表するに相応しい王朝として漢からも遇されるようになったのではないでしょうか。
 系譜上、神武は山幸の孫に当たりますから、ニニギノミコトから四代目の子孫になります。ニニギノミコトの天孫降臨が弥生中期後半の初め(前一世紀初め)ごろとすると、神武が弥生中期末から後期初め(一世紀初め)ごろの、ニニギノミコトの血筋に連なる一族の一人だとしてもおかしくありません。「神武東侵」は、ニニギノミコトの血筋に連なる一族の一人である神武によって起こされたものであり、その時期は、倭奴(いど)国王が「漢委奴国王(かんのいどこくおう)」と刻まれた金印を後漢の光武帝から下賜された時を遡ること三〇〜五〇年ぐらい前、すなわち一世紀初めごろと推測することができます。(資料6参照)

4,各地域の有力者の墓・遺跡
 中国鏡を副葬している遺跡は、既に述べた代表的な六王墓(正確には四王墓)だけではありません。北部九州には六王墓のほかにも中国鏡を副葬している有力者の墓と思われる遺跡が数多くあります。

対馬地区
塔ノ首遺跡(上対馬町比田勝、西泊まり湾を見下ろすところ)
*岬の突端のなかほどに五基の石棺を確認。
*三号石棺に広形銅矛二本を副葬。
*その他の石棺より、方格規矩鏡、朝鮮半島の土器、楽浪系銅釧、中国製銅鏡。
*弥生後期の有力集団の存在がうかがわれる。

恵比須山遺跡(対馬西海岸の峰町吉田浦、一番奥まったところ)
*石棺墓一二基、壺棺一基を確認。
*八号石棺=朝鮮半島産の青銅製粟粒状方柱十字形把頭飾り。
*六号石棺=変形細形銅剣。
*弥生後期

かがり松鼻遺跡(美津島町、対馬を二分する万関橋の東に突き出た岬の上)
*石棺はほぼ半壊状態。
*流雲形花文を施した青銅製把頭飾り(黄河中・下流域で流行)、変形細形銅剣(対馬と韓国に数例)、ガラス小玉。

三根遺跡山辺
*対馬には珍しい弥生集落跡。
*百個以上の柱穴や竪穴住居跡、高床倉庫跡。
*朝鮮半島の土器、楽浪系土器。
*弥生後期。

壱岐地区
カラカミ遺跡(壱岐藤本町、刈田院川中流右岸に点在する遺跡の中心)
*弥生前期から集落の形成が始まり、濠が巡らされている。
*漁労関係の遺物が多い。
*方格規矩鏡、銅鏃、ト骨(ぼっこつ)、朝鮮半島系の瓦質土器、楽浪系滑石混入土器が出土。
*弥生後期。

車出遺跡(壱岐郷ノ浦町柳田地区、壱岐西部で比較的まとまりのある平野部)
*壱岐一宮の天手長男神社あり。
*方格規矩鏡、貨泉、小型イ方*製鏡、銅鏃、土器溜、ト骨などが出土。
*弥生後期。

イ方*製鏡(ほうせいきょう)のイ方*は人編に方

(はる)の辻遺跡(壱岐)
*円圏文規矩四神鏡・獣帯鏡・「長宣子孫」銘内行花文鏡などの中国鏡、五銖銭・貨泉・大泉五十などの貨幣、トンボ玉、三翼鏃、鋳造鉄斧、戦国式銅剣、鉄槌、楽浪系土器など。
*朝鮮半島からと思われるものに、板状鉄斧の鉄、無文土器、三韓系土器、陶質土器など。
*弥生後期。

唐津地区
柏崎遺跡(唐津市、宇木川下流の低台地上に在る)
*弥生中期後葉から後期にかけての王墓の可能性が高い。
:石蔵遺跡(中期)…甕棺から中細銅矛、触角式有柄銅剣(現在までに三例のみ)が出土。
:田島遺跡(後期)…連弧文「日光」銘鏡(中国雲港市で同型鏡出土)。

桜馬場(さくらのばば)遺跡(唐津市)
*弥生時代後期初めの甕棺墓。
*後漢の流雲文縁方格規矩四神鏡、素縁方格規矩渦文鏡、有鉤銅釧二六、巴形銅器三、鉄刀片、ガラス製小玉が出土。

 以上主なものを上げました。中国鏡の出土している遺跡は、そのほとんどが弥生後期のもので、楽浪郡が設置(前一〇八年)された弥生中期中ごろまで遡るものはありません。言い方を替えれば、楽浪郡設置以前に中国鏡が副葬された墓の遺跡が北部九州にはない、つまり、中国鏡が北部九州に現れるのは楽浪郡設置以後のことだということです。このことは、衛氏朝鮮の滅亡を機に起こったと思われる北部九州の大事変、天孫降臨の後で、中国との楽浪郡を通じた直接交流が行われるようになったことを意味しています。
 これらの遺跡と、先に紹介した三雲南小路・須玖岡本・井原鍵溝・平原遺跡の四王墓を比べてみれば、その副葬品の豪華さにおいて歴然たる差のあることがわかります。この差はおそらく、倭国を代表する倭王朝に連なる倭王の墓(四王墓)と、その支配下にある有力豪族(あるいは各地域の王)との差を物語っているものと思われます。


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