神武が来た道 6
伊東義彰
六、「欠史八代」は語る
これまで、古事記・日本書紀が語る「神武東征」は、近畿天皇家の正統性を主張するという大義名分による脚色はあるものの、定説(一般常識論)の言うような「作り出された架空の物語」ではなく、歴史事実を反映した古くからの伝承を記録したものではないか、ということを考察してきました。ところが定説は、「神武東征」説話のみならず、それ以後の天皇についても「作り出された天皇」が数多くあると指摘し、だから「神武東征」説話も「作り話」だと主張しています。
定説によって、「作り出された天皇」とされているのが「欠史八代(けっしはちだい)」と呼ばれている、二代綏靖(すいぜい)から九代開化(かいか)までの八人の天皇群です。これら八人の天皇については、古事記・日本書紀ともに何故か、その事績とも言うべき天皇や朝廷にまつわる説話を載せていません。したがって、その生存中に何をしたのか、何があったのか、どんな天皇だったのか、ほとんどわかりません。定説によって「欠史八代」と呼ばれ、年代合わせのために「作り出された架空の天皇」とされる所以(ゆえん)がここにあるわけです。
これら八人の天皇について記述されていることと言えば、その父母や后妃・皇子女・宮居・陵墓・崩御年齢などに関することだけです。他の天皇についてはそれなりの説話が語られているのに、この八人に限って「何故、説話がないのか」と誰しも不思議に思うところです。定説では、このような不思議な天皇の存在こそ、古事記・日本書紀の一部が編纂担当史官によって造作された有力な証拠の一つだとして、説話のある神武も含めて実在しない天皇群にしているのです。そして八人の架空の天皇を造作した理由として、神武を讖緯(しんい)説の辛酉革命(しんゆうかくめい)説にもとづく辛酉の年、すなわち前六六〇年に即位させてしまったために、後代の天皇との間にできた空白の年代・年数を埋める必要が生じたからだとしています。しかし、これもおかしな話です。「神武東征」説話を造作したのなら、その続きに八人の説話も造作すればよいのであって、わざわざ「欠史」のままほったらかしにしておく方が余程おかしいではありませんか。
1,欠落している奈良盆地平定説話
近畿天皇家の歴史は、神武天皇が奈良盆地の一隅、畝傍(うねび)山麓に居を定めて、磐余(いわれ)と呼ばれた可能性のあるその周辺(現:橿原市あたり)を支配下に収めたところから始まります。
古事記によると、熊野から紀伊山地を横断してきた神武は、宇陀(うだ)や忍坂(おしさか)、師木(しき磯城)などで熾烈な戦いをして奈良盆地の敵対勢力を倒し、畝傍の白檮原宮(かしはらのみや)で天(あめ)の下を治めたとあります。読みようによっては、宇陀や奈良盆地のいくつかの豪族と戦っただけで天下を支配下に収めたかのような書き方です。しかし、宇陀や奈良盆地のいくつかの豪族と戦っただけで天下に君臨できるはずはないのであって、そのためには盆地外の各地方勢力との激しい戦いが繰り返されなければなりません。ところが、奈良盆地外では、盆地に侵入する前の生駒山西麓(現:東大阪市日下)における手痛い敗戦と、和歌山平野・熊野地域、盆地への侵入ルートにあたる宇陀地域での戦いがあるだけです。つまり、奈良盆地に侵入するための戦いが盆地外の戦いとして記述されているに過ぎず、天下に君臨するための戦いなど一つもありません。奈良盆地外での戦い、盆地外への進出の戦いが始まるのは、十代崇神まで待たなければならないのです。
奈良盆地侵入を何とか成し遂げたに過ぎない神武を、あたかも日本列島の主になったかのごとく、「畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)に坐しまして、天(あめ)の下(した)治(し)らしめしき」としたのは、近畿天皇家こそが日本列島唯一無比の支配者であることを正統化し、主張しようとした「古事記編纂の目的」をズバリ、言い表したものに過ぎません。祖先神である天照大神の意思を体現した神武の血筋を引く近畿天皇家こそが、日本列島の正統な主であることを主張するためには、神武は「天の下」を「治らしめ」ていなければならなかったのです。しかし、奈良盆地に侵入した神武が実際に支配領域として獲得できたのは、畝傍山を中心とする盆地の一隅に過ぎません。その周(まわ)りはおそらく、奈良盆地の在地豪族によって取り囲まれていたものと思われます。
奈良盆地の一隅に割拠する一豪族、それも精強な武力を有する外来豪族として盆地の在地豪族から常に警戒されていた近畿天皇家の祖先たちが、奈良盆地の外へ向かって活発な動きを始めるのは十代崇神(すじん)の時からであって、この天皇の代から説話が再び記述され始めます。説話のない二代綏靖(すいぜい)から九代開化(かいか)までの間、神武の子孫たちは何をしていたのでしょう。何もしていなかったから説話もなかったのでしょうか。
物事の順序からして、奈良盆地の一隅にいる豪族が盆地の外へ進出・発展していくためには、その前提として盆地を制圧・平定し、支配下に置いていなければならないはずです。ところが古事記・日本書紀ともに、奈良盆地の制圧・平定に関する経過を何一つ記していません。十代崇神に至っていきなり、盆地外への進出・発展の動きが現れます。神武の子孫たちが次第に実力を蓄えて奈良盆地の一隅から徐々に勢力を拡大し、やがて盆地全体を制圧・平定するに至るまでの経過を、説話として残していないのです。奈良盆地の外へ進出・発展していくためには、盆地の制圧・平定が前提であるにもかかわらず、その前提を語る伝承が何もないなど考えられないではありませんか。
この道理を推し進めていくと、奈良盆地の外へ進出・発展し始める崇神よりも前の時代は、すなわち説話のない九代開化以前は、奈良盆地平定の時代だったのではないか、という考えに自然に導かれていきます。当然、その経過を語る説話もあったはずです。それでいて古事記・日本書紀ともにその経過を記さず、奈良盆地平定の時代とも言うべき二代綏靖から九代開化までの説話をすっぽり欠落させているのは何故でしょう。
艱難辛苦(かんなんしんく)を重ねて奈良盆地の一隅に居座った神武の子孫たちが、生き残る道を求めて勢力拡大に心血を注ぎ、遂に平定したのですから、その伝承も「神武東征」と同じように後世に伝えても何らおかしくないはずです。それどころか、祖先の輝かしい功績として、取り上げてしかるべきはずのものです。にもかかわらず古事記・日本書紀ともに後世、「欠史八代」とか「架空の天皇群」などと言われ、「記紀造作説」の有力な証拠の一つにされるような説話のない天皇を八人もつくり出し、大きな謎を残したままにしてしまいました。
古事記・日本書紀編纂当時には、奈良盆地平定の過程を語る伝承が「神武東征」伝承の後に続いていたはずであり、この伝承の続きとして十代崇神(すじん)が語られていたはずです。奈良盆地平定過程を語る伝承を説話として記さず、欠落させたまま、あたかも争いも何もない平和のうちに代を重ねたかのようにしたのには、それ相応の理由がなくてはなりません。また、その理由を、古事記・日本書紀編纂を担当した史官たちはもちろんのこと、天皇をはじめ、朝廷を構成する皇族・貴族たちも十分理解していたと言わざるを得ません。何故なら、本来あるべきはずの説話を欠落させた不可思議な天皇群をつくり出したままで、天皇をはじめ朝廷を構成する皇族・貴族たちの納得を得られるはずがないからです。
この欠落している奈良盆地平定説話を語る伝承が、奈良盆地の制圧・平定の時代であったと思われる二代綏靖から九代開化までの、古事記・日本書紀の記述の中に潜んでいるのではないだろうかと考え、「欠史八代」の天皇群と十代崇神の后妃の出自や宮居・陵墓の所在地などを調べてみることにしました。
2,后妃の出自、宮居・陵墓の所在地(比定地)
表1 后妃の出自
│ │ │ 正 妃 │ 正妃の一書 │ 妃 │ 妃 │ 妃 │
│神武│記│大物主神の娘 │ │ │ 日向 │ │ │
│ │紀│事代主神の娘 │ │ 日向 │
│綏靖│記│師木県主 │ │ │ │
│ │紀│事代主神の娘 │磯城県主 │春日県主 │
│安寧│記│師木県主 │ │ │
│ │紀│事代主神系 │磯城県主 │十市系? │
│懿徳│記│師木県主 │ │ │
│ │紀│皇族(姪) │磯城県主 │磯城県主 │
│孝昭│記│葛城系(尾張)│ │ │
│ │紀│葛城系(尾張)│磯城県主 │十市系? │
│孝安│記│皇族(姪) │ │ │
│ │紀│皇族(姪) │磯城県主 │十市県主 │ │ │ │
│孝霊│記│十市県主 │ │ │春日系 │不詳 │ 不詳 │
│ │紀│磯城県主 │春日系 │十市県主 │十市系 │十市系 │ │
│孝元│記│穂積臣 │ │ │穂積臣 │河内 │
│ │紀│穂積臣 │ │ │物部氏 │河内 │ │
│開化│記│穂積臣 │ │ │旦波県主│丸邇臣 │葛城系 │
│ │紀│穂積臣 │ │ │丹波系 │和珥臣 │ │
│崇神│記│皇族(従姉妹)│ │ │木国造 │尾張連
│ │紀│皇族(従姉妹)│ │ │紀伊国系│尾張系?
表2 宮居・陵墓の所在地(比定地)
│天 皇│ 宮 居 │ 陵 墓 │
│神 武│畝傍山麓 橿原神宮 │畝傍山麓 橿原市四条町 │
│綏 靖│葛 城 御所市森脇 │畝傍山麓 橿原市四条町
│安 寧│葛 城 大和高田市三倉堂 │畝傍山麓 橿原市吉田町字西山
│懿 徳│軽 橿原市大軽町 │畝傍山麓 橿原市池尻町カシ
│孝 昭│葛 城 御所市池之内 │葛 城 御所市三室字博多山
│孝 安│葛 城 御所市室 │葛 城 御所市玉手字宮山
│孝 霊│磯 城 田原本町黒田 │葛 城 王寺町本町
│孝 元│軽 橿原市大軽町 │剣 池 橿原市石川町剣池上
│開 化│春 日 奈良市上三条町 │春 日 奈良市油阪町 │
│崇 神│磯 城 桜井市金屋 │柳 本 天理市柳本字アンド │
表1、表2は、古事記・日本書紀を調べた結果をまとめたものです。各天皇の詳細については文末に記載します。(資料7参照)
宮居と陵墓の所在地については、古事記・日本書紀に記載されている所在地は文末に詳細を記載しますが、上記のまとめの表では、所在地に比定または治定されている現在の地名を使用しました。
3,奈良盆地平定の経過 (資料10参照)
葛城地進域への進出
后妃の出自を調べているうちに、古事記では師木県主(しきのあがたぬし)、日本書紀では磯城県主(しきのあがたぬし)を出自とする后妃の多いことに気がつきました。師木も磯城も字が違うだけで同じ地域を指していることは言うまでもありません。明治三十年に式上・式下・十市の三郡を合併して磯城郡としているところから、現在の桜井市(南端部を除く)と田原本町(南端部を除く)から川西町、三宅町にまたがる奈良盆地中央部を支配する有力豪族の一つではなかったかと考えられます。現在、磯城郡の名を残しているのは田原本町、川西町、三宅町の三町のみです。
古事記によると、二代綏靖(すいぜい)、三代安寧(あんねい)、四代懿徳(いとく)の三天皇の妃は全て師木県主系の出身であり、三人の妃とも次代の天皇を生んでいます。二代綏靖は三輪の大物主神(おおものぬしのかみ)の娘、伊須気余理比売(いすけよりひめ)から生まれていますが、三代安寧、四代懿徳、五代孝昭(こうしょう)の三天皇は師木県主系を出自とする妃から生まれており、神武の子孫と師木県主との密接な関係を示しています。
日本書紀では、本文で磯城県主(しきのあがたぬし)系の妃として次代の天皇を生んでいるのは、七代孝霊の細媛命(くわしひめのみこと)一人だけで、本文による限りでは神武の子孫たちとの密接な関係は古事記ほど見られません。ところが、一書として出てくる正妃を見ると二代綏靖、三代安寧、四代懿徳、五代孝昭、六代孝安(こうあん)とかえって古事記よりも多くの磯城県主系の妃を迎えており、やはり神武の子孫と緊密な関係にあったことがうかがえます。
神武が奈良盆地の一隅に居を構えたあと、その子孫たちは奈良盆地の有力豪族である磯城県主と緊密な関係を結び維持することによって、奈良盆地での生き残りをはかろうとしたのではないでしょうか。まわりを奈良盆地の在地豪族に囲まれた外来の一豪族が、在地の有力豪族と姻戚関係を結んで、その保護と支援を得て生き残りをはかろうとするのは、むしろ当然の政略でしょう。磯城県主にとっても、神武の率いてきた強力な戦闘集団を手懐(てなづ)けることができれば、他の在地豪族に対する有効な威圧手段となり、奈良盆地における地位の向上と安全を図る上で有利な立場を築くことができたのではないか、と考えられなくもありません。
まわりを在地豪族に囲まれた神武の子孫たちが生き残る道は、有力豪族と姻戚関係を結んで持ちつ持たれつの緊密な関係を造り上げるほかに、もう一つ、しなければならないことがあります。実力の増強です。在地有力豪族との婚姻関係を重ねることに甘んじているだけでは、いつしか盆地片隅の一小豪族に埋没してしまい、盆地内勢力争いの嵐の中でいつ併呑され、消滅してしまうかも知れない危険にさらされ続けなければなりません。いわば自滅の道を歩む危険にさらされているようなものです。奈良盆地突入に際して神武が展開した残虐極まる熾烈な戦闘を思い起こせば、神武の子孫たちを快く思っていない在地豪族も多いはずです。ひとたび風向きが変われば婚姻関係など消し飛んでしまうに違いありません。神武の子孫たちが奈良盆地で生き残りをはかるためには、押しも押されもせぬ実力を備える必要があります。
神武の子孫たちが、その生存をかけて取り組んだ実力増強の道は、おそらく支配領域の拡大ではなかったでしょうか。しかし、神武が居を定めた畝傍山を中心とする地域の東や北側、いわゆる奈良盆地の枢要地域は磯城県主(しきのあがたぬし)、十市県主(とおちのあがたぬし)など在地有力豪族がすでに蟠踞(ばんきょ)するところとなっており、そこへ進出して支配領域を拡大しようとすれば、再び盆地内の全豪族を相手に絶滅をかけた戦いを挑むことになり、先ず無理だと思われます。この方面とは有力豪族と婚姻関係を維持することによって争いを避けつつ他の地域への進出をはからなければなりません。
二代綏靖(すいぜい)、三代安寧(あんねい)、五代孝昭(こうしょう)、六代孝安(こうあん)の宮居は、いずれも葛城(かつらぎ)に遷(うつ)されています。この四人以外に葛城地域に宮居を遷した天皇はその後一人もいません。また、初代神武から四代懿徳(いとく)までの四人の陵墓は全て畝傍山の麓にありますが、五代孝昭、六代孝安、七代孝霊(こうれい)の三陵墓は葛城地域に築かれています。特に七代孝霊の陵墓は葛城地域の北端、現在の王寺町にあります。欠史八代中、葛城地域に陵墓があるのはこの三天皇だけです。この三天皇以外に葛城地域に陵墓があるのは、二十三代顕宗(けんそう)と二十五代武烈(ぶれつ)の二天皇だけですが、二人とも欠史八代の天皇群とは年代がはるかに隔たっており、時代やその背景も全く異なっているので同列に扱えないことは言うまでもありません。このように、宮居・陵墓ともに葛城地域に集中しているのは欠史八代の間だけです。このことは欠史八代の天皇群と葛城地域との、他の時代の天皇とは異なる強い結びつきのあったことを意味しており、それは、神武の子孫たちが支配領域拡大のために、先ず葛城地域へ進出したことを意味しています。神武の子孫たちは、その生き残りを賭けた実力増強の道、支配領域の拡大を奈良盆地の枢要地域から取り残されたような盆地西南隅の南葛城地域への進出から始めたと考えられるのです。
古事記によると、二代綏靖から四代懿徳までの三天皇は、師木県主系(しきのあがたぬし)から妃を迎えてそれぞれ次の天皇を生ませています。奈良盆地中央を支配領域とする有力豪族である師木県主と婚姻関係を深めて後方の安全を維持しつつ、南葛城地域への軍事行動や懐柔策を積極的に推進した時代だと思われます。師木県主も神武の子孫たちを通じて葛城地域へ勢力を伸ばそうと考え、その行動を容認し、支援を与えたのかも知れません。
五代孝昭に至って、葛城の豪族である尾張(おわり)氏から妃を迎えて六代孝安を生ませており、陵墓も畝傍山麓から離れて、初めて葛城地域に造られています。このころに南葛城地域(御所市あたり)が支配領域として安定したものと思われ、その維持を図るための手段の一つとして、葛城在地豪族から妃を迎えるとともに陵墓を初めてこの地に築いたのではないでしょうか。
六代孝安は、古事記・日本書紀ともに皇族から妃を迎えていますが、日本書紀の一書では、磯城県主(しきのあがたぬし)と十市県主(とおちのあがたぬし)からも迎えたとしており、周辺在地豪族との繋がりが保たれていることを示しています。宮居・陵墓はともに南葛城地域にあり、この地域の安定に力を注ぐとともに、北葛城地域への進出を目論んでいたと思われますが、奈良盆地中央進出への足がかりをつくり、神武子孫大飛躍の礎を築いたのは、次の七代孝霊でしょう。
盆地中央への進出
七代孝霊(こうれい)の正妃は古事記では十市県主(とおちのあがたぬし)の祖・大目(おおめ)の女、日本書紀では磯城県主大目の女とあって、名前も細比売(ほしひめ)・細媛(くわしひめ)と読みは違うものの同じ字が使われており、父親の名前も同じ大目なのに出身だけが十市・磯城と異なっています。日本書紀では一書として、妃も父親も違いますが十市県主系とされる妃を上げています。実は六代孝安にも一書として十市県主系の妃を上げており、何故か二代続けて十市県主系の妃が現れてきます。
七代孝霊が宮居を遷したところは「黒田廬戸宮(くろだのいほどのみや)」とあり、現在の田原本町黒田、古くは城下郡黒田郷の地とされています。黒田は奈良時代からその名が現れてくる古い郷名で、田原本町中央部西寄りの黒田の地とされており、いわゆる磯城の一部に属し、十市郡は現在の桜井市南部・橿原市北部(北端に十市町がある)・田原本町南部(太おお・千代ちしろ・佐味さみなど)のあたりと思われますから、孝霊は十市郡を通り越してその北側に宮居を遷したことになります。古事記・日本書紀に言う十市県主の支配領域は残念ながら明確にすることはできませんが、大宝律令の郡制施行により成立した十市郡(大和一五郡の一つ)のあたりだとすると、その北側に宮居を遷した孝霊のころには、十市郡のあたりは神武の子孫たちの勢力範囲に入っていたことになります。何故なら十市郡は、神武の子孫たちの根拠地である畝傍山周辺を中心とする現在の橿原市と、磯城の地に属していたと思われる田原本町黒田の間にあって、この十市郡の西部が安定した勢力範囲に入っていなければ、そこを通り越してその北側に宮居を遷すことは難しいからです。孝安、孝霊のころに十市県主系出自の妃が現れるのも、その経緯を暗示しています。
孝霊の陵墓は、片丘の馬坂、現在の北葛城郡王寺町本町(片岡神社など片岡の地名が残っている)に治定されており、この地は北葛城郡の地名が示すように葛城地域の北端に位置します。そこに陵墓が造られたということは北部葛城地域も陵墓が営めるほどの安定した勢力範囲に入っていたことになります。つまり、孝霊のころには葛城地域のほぼ全域が神武の子孫たちの支配領域に入っていたとみられるのです。
孝霊の陵墓に治定されているところは、北流してきた葛下(かつげ)川が西へ向きを変えて大和川に合流する手前の南側に広がる丘陵地帯にあり五、六百メートル西側を流れる大和川を見下ろす丘の上に在ります。
大和川は当時の奈良盆地と河内平野を結ぶ大動脈です。古代から近世の終わりごろに至るまで、奈良盆地とその西側に広がる世界の間を、人と物が交流する大動脈であったことはよく知られています。孝霊の陵墓は、この大動脈の奈良盆地側出入り口にあたるところに築かれたことになり、このころには大和川の水運をも掌握していたことを暗示しています。係争中の不安定なところに陵墓を築くとは思えないからです。
古事記によると孝霊の子、大吉備津日子(おおきびつひこ)と若日子建吉備津日子(わかひこたけきびつひこ)の兄弟(異母兄弟)が「相副(あいたぐ)ひて」吉備国(きびのくに)を「言向(ことむけ)和(やわ)し」て、大吉備津日子は吉備の上(かみ)つ道臣(みちのおみ)の祖、若日子建吉備津日子は吉備の下(しも)つ道臣(みちのおみ)や笠臣(かさのおみ)の祖となったとしています。つまり、孝霊の二人の皇子が協力して吉備国と平和的に友好関係(あるいは同盟関係?)を結んだという短い説話らしきものを、后妃・皇子女の中で語っています。日本書紀は、孝霊の皇子、稚武彦(わかたけひこ)を「是、吉備臣(きびのおみ)の始祖なり」としているだけで吉備を平定したとも、「言向和し」たとも記しておらず、十代崇神に至って四道将軍の一人である孝霊の皇子、吉備津彦(きびつひこ)を西道(吉備方面)に遣わして平定したとしています。古事記で、崇神の派遣したのが三道将軍になっていて西道(吉備方面)への派遣が抜けていいるのは、孝霊の時にすでに吉備との間に和平・友好関係が成立していたという前提に立っているからでしょう。
まだ奈良盆地さえ平定しているとは思えない段階で、遙か彼方の吉備を平定することなどできるとは考えられませんから、河内を経て瀬戸内海に通じる大動脈である大和川の水運を掌握したところからこのような伝承が生まれたのはないでしょうか。あるいは実際に吉備へ二人の皇子を派遣したのかも知れません。神武の奈良盆地侵入以来途絶えていた吉備との交流がこのころから再開したものと思われ、孝霊より少し後から出現する前方後円墳や、そのいくつかが特殊器台形土器や特殊器台形埴輪を伴っているのも、吉備との交流なしには考えられないことです。
吉備文化の流入
復元された古墳を訪れると、墳丘のまわりや墳頂に円筒埴輪や朝顔形埴輪が整然と配列されているのをよく見かけます。その数の多さと整然たる光景に思わず目を奪われてしまうと同時に、いったい何のためにこんなものをこれほど大量に作って墓を飾るのか、首を傾けさせられます。
実はこの円筒埴輪の起源が特殊器台形土器にあるとされているのです。特殊器台形土器から特殊器台形埴輪へと遷り変わり、やがて円筒埴輪が圧倒的な数で古墳を飾るようになります。
「特殊器台形土器」は、大型の特殊壺を載せる円筒形の器台で、その上端部は壺を載せるために二重口縁(にじゅうこうえん)になっており、また、土の上に置いて立てるので安定しやすいように基底部が裾広がりにつくられています。胴部の円筒形の部分には何段かの区切りを設けて、巴形や三角形の透かし孔をともなう弧(こ)状の複雑な文様が描かれています。
「特殊器台形埴輪」は、特殊器台形土器の基底部を土中に埋めて立てるようにしたものです。したがって基底部に裾広がりの部分はありません。壺を載せるための二重口縁や胴部のつくりは特殊器台形土器と基本的には変わりません。
「円筒埴輪」は、壺を載せるための二重口縁がなく、胴部には三角形や方形などの透かし孔と何段かの区切りはあるものの文様は描かれていません。もちろん基底部の裾広がりもありません。大きな前方後円墳になると千を超すとも推定される円筒埴輪が配列されていますから、特殊器台形土器や特殊器台形埴輪のように丁寧な作り方はできなかったと思われます。
「朝顔形埴輪」は、円筒埴輪と特殊壺を組み合わせたものとされています。
以上、円筒埴輪の起源と変遷を概説しました。ところが、奈良盆地の弥生遺跡からは円筒埴輪の起源とされる特殊器台形土器が出土しないのです。古墳文化が奈良盆地で生まれたとされているのに、古墳文化の代表的特徴の一つをなす「円筒埴輪」の起源とされる「特殊器台形土器」が、「弥生時代の奈良盆地」で生まれた形跡がないのです。つまり、奈良盆地の弥生文化のもとで生まれなかったものが、同じ奈良盆地の古墳時代初期に前方後円墳を飾る祭祀道具として出現したことになります。特殊器台形土器に関する限り、奈良盆地の弥生文化と古墳文化の間に継続性が見あたらないのです。
円筒埴輪の起源である特殊器台形土器が最初に現れたのは、弥生時代後期の吉備地方だとされています。弥生後期の吉備地方で生まれた特殊器台形土器が、奈良盆地の古墳時代初期の前方後円墳に現れるわけですから、順序としては吉備地方から奈良盆地に伝わったと考えざるを得ません。(資料11参照)
特殊器台形土器のもっとも古いものを立坂型と言い、弥生時代後期の楯築(たてつき)弥生墳丘墓・立坂弥生墳丘墓(岡山県総社市)などから出土しています。弥生時代末期から古墳時代初期にかけてのものを宮山型(宮山古墳出土:岡山県総社市)と言いますが、この宮山型特殊器台形土器が奈良盆地の箸墓古墳(桜井市)、西殿塚古墳・中山大塚古墳(天理市)、弁天塚古墳(橿原市)などから出土しています。
特殊器台形埴輪が最初に発見されたのが都月坂(とつきさか)一号墳(岡山市津島)で、そこから名前のついた都月型円筒埴輪は吉備の備前南部を中心に多数出土しており、奈良盆地では箸墓古墳(桜井市)、西殿塚古墳・東殿塚古墳・中山大塚古墳・馬口山(ばくちやま)古墳(天理市)から見つかっています。円筒埴輪は、都月型円筒埴輪から文様を取り去り、透かし孔を残したもの、と言えます。
奈良盆地で生まれたはずの古墳文化を代表する前方後円墳についても、特殊器台形土器と同様、理解に苦しむ問題があります。
不思議なことに弥生時代の奈良盆地には、前方後円墳に先行し、その起源となるべき弥生墳丘墓が見あたりません。前方後円墳は、ある日突然出現した、とでもいうような状況で奈良盆地に現れるのです。前方後円墳も特殊器台形土器と同じように、奈良盆地の弥生文化との継続性が極めて希薄な状態で出現するのです。
奈良盆地内の特定豪族の支配領域拡大や権力強大化にともなって、その墓である墳丘墓が次第に大型化し、やがて周濠をめぐらすようになって、それが前方後円墳に変形していったのではないかと考えていたのですが、そのためには前方後円墳に先行する大型の墳丘墓が弥生時代の奈良盆地に存在していなければなりません。特に、最古級の前方後円墳が集中している纏向遺跡(桜井市)やその周辺に弥生墳丘墓が見つかって当然だと考えていました。ところが、過去数十年の調査にもかかわらず、纏向(まきむく)遺跡やその周辺には前方後円墳に先行する弥生墳丘墓が一つも見つかっていません。「これだけ調査をしても見つからないのだから、もともとなかったのではないか」というのが専門家の意見のようです。
奈良盆地からも弥生時代の墓地が数多く見つかっているのは言うまでもありません。方形の土盛りのまわりを浅い溝で区切る、いわゆる方形周溝墓が密集した墓地などもあちこちで見つかっており、甕棺(かめかん)や木棺も多数出土しています。一つの方形周溝墓には複数の土壙のあるものもあり、一遺体を埋葬したとは限りません。しかし方形周溝墓は、その形、大きさ、土盛りの規模などからして、数十メートルの大きさと高い土盛りを持つ前方後円墳に先行する弥生墳丘墓と結びつけることは難しいのではないかと考えられます。前方後円墳や大型弥生墳丘墓が、明らかにその地域の特定の権力者やそれに連なる一族が葬られたと思われるのに対し、方形周溝墓にはそのような形跡が見あたらないのです。
奈良盆地に一つだけ、弥生墳丘墓らしきものが見つかったことがあります。昭和五十五年から同五十六年にかけて北葛城郡広陵町の新山(しんやま)・黒石古墳群の発掘調査が橿原考古学研究所によって行われ、このうち、築山(つきやま)古墳群(大和高田市築山)の北方にある黒石支群(近鉄大阪線の北側)から見つかったのがそれです。一辺一〇メートル前後、幅約一メートルの溝に囲まれた方形台上墓が一つ見つかり、黒石一〇号墓と名づけられました。周辺からは、木棺直葬や横穴式石室などの埋葬施設を持ち、円筒埴輪・須恵器をともなう円墳・方墳・前方後方墳など十数基の古墳が確認されました。新山・黒石古墳群は、馬見丘陵古墳群の中でも前方後方墳の多いところで、陵墓参考地に治定されている新山古墳(前期・墳丘長一二六メートル)をはじめ、合計四基が確認されています。この地域に限れば前方後円墳は、モエサシ三号墳(墳丘長八〇メートル)一基しかありません。
まわりを円墳や方墳・前方後方墳に囲まれている黒石一〇号墓が弥生時代の墓だとされるのは、東辺の溝から第五様式(弥生後期)に分類される弥生式の壺形土器を主に、若干の高坏が出土したからです。出土状況から見て、墳丘の縁辺に置かれていたものが溝内に転落したものと推定されています。しかし、規模が小さく、方形であることなどから前方後円墳に先行する弥生墳丘墓に結びつけるのは無理のようです。ちなみに、黒石一〇号墓は、周辺の住宅開発によって姿を消してしまい、現在見ることはできません。
奈良盆地内ではありませんが、実はもう一つ、弥生墳丘墓ではないかと言われた墓がありました。一九八〇年に発掘調査された見田・大沢古墳群で、宇陀郡菟田野町見田と大沢にまたがる標高三七〇メートルほどの舌状の尾根上で、四基の方墳と一基の前方後円墳が確認されました。一時、弥生墳丘墓の可能性があるかも知れない、と言われたこともありましたが、前方後円墳である一号墳からは須恵器が見つかっており、もっとも古いとされる四号墳からは「纏向一〜三式」(庄内式)とされる土師器が、また二・三号墳からは「纏向四式」(布留一式)の土師器が出土しており、そのほか棺の形態、副葬品の内容、墳丘の形態などから、現在確認されている古墳の中では最古の部類のものとされているものの、弥生墳丘墓ではないとされています。
奈良盆地および隣接する宇陀地域を見ても、前方後円墳に先行し、結びつきそうな大型弥生墳丘墓は現在のところ見つかっていません。特殊器台形土器だけでなく前方後円墳に関しても、奈良盆地の弥生文化と古墳文化との継続性を示すはずの大型弥生墳丘墓が見つかっていないのです。つまり奈良盆地に、ある日突然、前方後円墳が出現した、というような状況なのです。
北部九州や吉備、出雲の例を上げるまでもなく、形や大きさはともかくとして古墳が生まれる前には、古墳との継続性を持つ大型弥生墳丘墓が存在しています。吉野ヶ里遺跡(佐賀県)の弥生墳丘墓、吉備の楯築(たてつき)遺跡(岡山県)弥生墳丘墓、出雲の西谷三号四隅突出(よすみとっしゅつ)型墳丘墓(島根県)などにその例を見ることができます。(資料12参照)。このような弥生墳丘墓がやがて、方墳・円墳・前方後方墳・前方後円墳などの古墳へと変遷していったとしても別段の違和感はありません。ところが、古墳文化発祥の地とされる奈良盆地には、このような大型弥生墳丘墓が見つかっていないのです。吉野ヶ里遺跡に匹敵する規模を持つとされている大規模環濠(かんごう)集落の「唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡」(磯城郡田原本町)にも、また、弥生末期から古墳時代初期にかけての巨大遺跡で箸墓古墳が鎮座し、最古級の古墳が集中していて卑弥呼の都が置かれていたのではないかとの説さえある「纏向(まきむく)遺跡」にも、大型弥生墳丘墓は見つかっていません。極端な言い方をすると、奈良盆地で生まれたとされる古墳文化は、奈良盆地の弥生文化が発展して生まれた、とは言い難いほどその間に継続性が見あたらないと考えざるを得ないのです。
古墳文化発祥の地とされている奈良盆地に、弥生時代の豪族やその一族を葬ったはずの大型弥生墳丘墓が見あたらないということは、考えようによっては弥生時代の奈良盆地では、集落の指導者や支配階級の地位は弥生後期に至っても大型墳丘墓を造営し葬られるほどの高い権威も大きな権力もともなっていなかったのではないかとさえ思えてくるのです。言い換えれば奈良盆地は、弥生文化発展の過程において北部九州や吉備・出雲地方、大阪湾・河内湖周辺に比し、その地理的条件からも後進地域ではなかったか、とさえ考えられるのです。
ある日突然、奈良盆地に前方後円墳が現れたというような状況、すなわち奈良盆地の弥生文化との継続性があまり見られない前方後円墳の突然の出現は、それが盆地外から持ち込まれたものではないか、と考えることによって理解できるのではないでしょうか。さらに、古墳を飾る円筒埴輪の起源が、弥生後期の吉備に現れた特殊器台形土器にあるとすれば、その特殊器台形土器や特殊器台形埴輪とともに前方後円墳も吉備から持ち込まれたものではないだろうか、と考えられなくもありません。もし、吉備の弥生墳丘墓に前方後円墳の起源的な要素があれば、前方後円墳も吉備から伝えられたものではないか、という可能性が出てくることになります。
吉備の弥生墳丘墓の中には、墓道ではないかと思われる長方形の突出部のついたものがあります。楯築弥生墳丘墓や鯉喰(こいくい)神社弥生墳丘墓などです(ともに岡山県倉敷市)。吉備だけではなく、播磨(兵庫県南部)の加古川市からも西條五二号弥生墳丘墓、養久山(やくやま)五号弥生墳丘墓にも突出部の設けられていることがわかっています。埋葬主体のある墳丘よりも低くつくられているこれら長方形の細長い突出部は、被葬者の祭祀を行う際に墳丘頂部へ必要な道具を運び、そこで行われる祭祀に参加する人々が通る墓道としてつくられたのではないかと考えられています。
楯築弥生墳丘墓は円形墳丘の南北に突出部がつくられており、突出部も合わせると全長約八〇メートルになります。この長方形の墓道が前方後円墳の前方部になった可能性が大きく、前方後円墳の起源をなしたのではないかと考えられます。
現在、奈良盆地で最古型式とされている前方後円墳には、ある種の特徴のあることが近藤義郎氏(岡山大学名誉教授)などによって指摘されています。(資料13参照)
その一つは、前方部・後円部ともに傾斜がきつくて容易に登れないようにつくられているということです。後円部頂上に石室を造るための石材や、祭祀に必要な多数の埴輪など大きな重い荷物を持って登るにはかなり困難な急傾斜になっています。荷物を持っていなくても墳丘頂上部へたどり着くのがかなり難儀なことは、メスリ山古墳(奈良県桜井市)や室大墓宮山古墳(同御所市)などの後円部頂上へ登ってみれば実感することができます。今でこそ墳丘は草木が生い茂っていますからその枝や幹などをつかみながら何とか頂上へたどり着けますが、一面葺石(ふきいし)で覆われた築造当時の墳丘を登るのは大変な苦労が要ると思われます。そこでまず、一段低い前方部頂上へ登り、それから後円部を目指したのではないかと考えられます。多くの前方後円墳では前方部左右の二隅は、その角度や長さ、つまり傾斜の緩急に違いが設けられているそうですから、どちらかの緩い隅角から前方部頂上へ登り降りしたのではないでしょうか。
その二は、前方部と後円部の接合部中央に、後円部頂上へ向けて「(後円部)隆起斜道(りゅうきしゃどう)」と呼ばれている傾斜の緩い斜道が付けられているということです。後円部頂上に墓壙・石室をつくったり、埴輪や祭祀用の大きな重い荷物を運び上げたり、あるいは葬送の列のために、斜道につながる後円部墳丘の一部を掘削して頂上へ達するようにした「掘削墓道(くっさくぼどう)」も、「隆起斜道」の延長と考えられています。
このような特徴、墳丘の傾斜が急で、後円部隆起斜道を持った奈良盆地の最古型式前方後円墳として箸墓古墳、西殿塚古墳、中山大塚古墳などがあり、そのほか橿原市の弁天塚古墳、纏向遺跡のホケノ山古墳・東田(ひがいだ)大塚古墳・矢塚古墳・纏向石塚古墳・勝山古墳なども同じ特徴を備えていた可能性の大きいことが指摘されています。これら奈良盆地の最古型式前方後円墳を遡ると見られる吉備の宮山古墳(岡山県総社市:宮山型特殊器台出土)や矢藤治山古墳(岡山市花尻:矢藤治山型特殊器台出土)などももこれらの特徴を備えているところから見ても、また、先述した長方形の墓道(突出部)も合わせ考えて、円筒埴輪の起源が吉備にあったのと同様、前方後円墳の起源も吉備にあった可能性が極めて大きいと考えられるのです。
前方後円墳やその墳丘を飾る円筒埴輪の起源(突出部付弥生墳丘墓や特殊器台形土器・埴輪)と奈良盆地の弥生文化との継続性が見あたらず、吉備にその起源があるのではないかと考えるとき、それらがいつ、どのようにして奈良盆地に入ってきたのか、ということが問題になるのは言うまでもありません。ことは古墳文化の始まりに関する大問題です。吉備の弥生文化を奈良盆地に導入する扉を開いたのが七代孝霊ではないかと考えられるのです。葛城地域南部を掌握した神武の子孫が、奈良盆地中央進出の足がかりをつくり、奈良盆地と河内・瀬戸内海を結ぶ大和川の水運をも掌握したと思われるのは、「盆地中央への進出」の項で述べたように七代孝霊に至ってからです。神武の次ぎに「吉備」の地名が出てくるのは孝霊に至ってからで、その皇子二人が吉備に赴いています。このことは、神武以来途絶えていた吉備との交流が再び始まったことを意味しており、同時に吉備の文化が奈良盆地に入ってくるきっかけとなったことをも意味しています。百数十年前、自分たちの祖先である神武が、奈良盆地に侵入するにあたって吉備の支援を受けた、という記憶が残っていて、大和川の水運を掌握して河内・瀬戸内海への門戸が開けたのをきっかけに吉備との直接交流をはかったのではないでしょうか。派遣された二人の皇子が協力して吉備を言向け和したというのも、二人の皇子が吉備に土着したことをそのように表現したものと考えられます。
従来から大和川流域に勢力を維持していた葛城北部や磯城の在地豪族よりも、祖先が支援を受けたという記憶を持っている神武の子孫の方が、吉備の文化を受容し導入するという面では抵抗が少なく容易だったと思われます。また、孝霊の身近には、「神武東征」に随伴して奈良盆地に侵入した吉備出身者の子孫も居たと思われますから、むしろ積極的に吉備の文化を導入し受け容れたのかも知れません。あるいはまた、瀬戸内海の覇権を握り、奈良盆地よりも進んだ文化を持つ吉備との交流を誇示することによって、奈良盆地平定を容易ならしめようとしたのかも知れません。いずれにしても吉備の文化を受け容れることは、奈良盆地平定にあたっての有効な政策の一つになり得たであろうと考えられます。弥生後期とされる吉備の土器が奈良盆地の弥生遺跡から出土していますが、これもそのような事情を反映しているものと見ることができます。
吉備との交流が再開されたことによって、その文化が弥生時代の奈良盆地に流入し、受容されるようになったのが七代孝霊のころからだとすると、吉備の突出部付弥生墳丘墓の影響を受けた前方後円墳が奈良盆地に出現するのも、さほど先のことではないでしょう。
古事記によると、孝霊の妃の一人に春日千千速真若比売(かすがのちちはやまわかひめ)がいます。日本書紀の本文では磯城県主大目の娘が正妃にされていますが、一書によれば奈良盆地北部の春日地域出身と思われる春日千乳早山香媛(かすがのちちはやまわかひめ)が正妃にされています。奈良盆地中央部に初めて進出してきた孝霊は早くも盆地北部進出を睨んでその地域の豪族、春日氏との接触を始めたのでしょう。
八代孝元の陵墓は、明日香村豊浦(とゆら)の東側になる橿原市石川町の劔池(つるぎいけ)に突き出た丘の上に治定されており、宮居もそこからさほど遠くない橿原市大軽町に比定されています。七代孝霊以後、陵墓も宮居も葛城地域から離れたところに遷されています。奈良盆地北部への進出を視野に入れた場合、葛城地域は東南に偏(かたよ)りすぎているのです。
孝元の正妃は、古事記・日本書紀ともに穂積臣(ほずみのおみ)の祖の妹ウツシコメノミコトとなっていますが、九代開化(かいか)の正妃にもなって十代崇神(すじん)を生んだ別の妃イカガシコメノミコトは、古事記では穂積臣の祖ウツシコオノミコトの娘、日本書紀では物部(もののべ)氏の遠祖大綜杵(おおへきそ)の娘となっていて出自が異なっているように見えます。ところが、穂積氏も物部氏も邇藝速日命(にぎはやひのみこと饒速日命=日本書紀では、神武が奈良盆地に侵入したとき、長髄彦を裏切って殺したとされている)を祖先とする同祖の氏で、両氏の祖とも同じ支配領域から出たものと考えられるのです。物部氏の根拠地は、石上(いそのかみ)神宮を中心とする旧山辺(やまべ)郡の布留(ふる)地域周辺とされており、穂積も山辺郡ゆかりの地名であるところから見て、物部氏と同族である穂積氏もこの地域の有力豪族であったと思われます。旧山辺郡の布留地域は孝霊が宮居を定めた「黒田」の地からさらに北東にあり、奈良盆地北部へ進出する途中にあたると同時に、「磯城」の北にあたります。この地の有力豪族と婚姻関係を通じて緊密な関係を築くことは、奈良盆地全域の平定を目指す神武の子孫にとって、欠かすことのできない最重要戦略の一つだったでしょう。
さらに孝元は、河内出身のハニヤスヒメを妃の一人に迎えています。二人の間に生まれたタケハニヤスビコノミコトが十代崇神の時に騒動を起こしますが、孝元は河内の有力者と婚姻関係を結んで、父孝霊が開いた瀬戸内海との交流路を扼(やく)す河内地域の安全確保につとめたものと思われます。このことは、神武の子孫が盆地外の勢力からも認められるほど成長してきたことを物語っています。大阪府東大阪市加納二丁目(旧盾津たてつ)にハニヤスヒメを祭神とする宇波(うは)神社が鎮座しています。
奈良盆地の平定
九代開化は、父孝元の妃の一人、イカガシコメノミコトを正妃として十代崇神を生ませています。イカガシコメノミコトは前述したように、古事記では穂積臣(ほづみのおみ)の娘、日本書紀では物部氏の遠祖の娘としており、ともに邇藝速日命(にぎはやひのみこと饒速日命)を祖先とする同祖の氏族で、旧山辺郡の布留地域を中心に勢力を持つ有力在地豪族です。その支配領域の位置からしてニギハヤヒ系豪族の協力なしには奈良盆地北部への進出は難しく、この豪族勢力との緊密な連繋があってこそ、初めて盆地北部への進出が可能となります。
父の妃を自分の正妃にしたのは開化が初めてですが、古事記では神武の子多藝至美美命(たぎしみみのみこと)が父の正妃であった伊須気余理比売(いすけよりひめ 三輪の大物主神の娘)を父の死後、自分の妃にしています。父の妃をその死後、自分の妃にしたのはこの二人しかいませんから、これは例外中の例外と言うべきで、弥生時代の昔でも倫理に合ったことではなかったようです。古事記が、こんな倫理に適合するとは思えない話をわざわざ載せているということは、伝承に基づいて記述したとしか思えず、後世の作り話ではないことを示唆しています。
正妃以外の妃は、古事記・日本書紀ともに、丹波(たには 京都府西部)の豪族と、添(そお)地域(天理市北部から奈良市西南部)の豪族、和珥臣(わにのおみ丸邇臣)の祖から迎えています(古事記ではほかに、葛城の垂水宿禰(たるみのすくね)の娘を上げている)。
正妃でないにしても、奈良盆地外から妃を迎えたのは前代孝元が河内から迎えたハニヤスヒメが最初です。孝元のころになって盆地外勢力からも、神武の子孫たちの実力がようやく認められるようになったことを意味しており、奈良盆地平定の経緯がここにも現れています。開化の妃の一人に丹波地方(京都府西部)出身の娘がいるということは、奈良盆地の主となった神武の子孫が、やがて訪れるであろう盆地外の一大勢力との決戦に備えて、遠く北方に視野を向けていたのでしょう。
和珥(わに)氏は天理市の北部から奈良市にかけての添(そお)地域の豪族とされています。盆地北部の有力豪族です。婚姻関係を結ぶことは、それによって緊密な協力関係を築き、やがて勢力下に収めようとする神武の子孫たちの常套手段であり、開化の時代に遂に、盆地北部もその勢力下に入ったと見てよいでしょう。それを端的に現しているのが宮居と陵墓の所在地です。天理市北部の櫟本(いちのもと)町(名阪国道の北側)に和珥(わに)氏を祀る和爾神社があります。
欠史八代最後の九代開化にいたって、宮居と陵墓が初めて奈良盆地北部に遷っています。宮居も陵墓も春日の「伊邪河(いざかわ率川)」のあたりに築いたとされています。奈良市の旧市街地、近鉄奈良駅手前の大通りを南へ少し行くと右側に率川(いざかわ)神社があり、今は暗渠になったり埋め立てられたりして確認できませんが、率川が西へ向かって流れています。この春日山西麓の丘陵地帯には、平城京造営時に削平されて姿を消したと思われる古墳が数基あったことが確認されています。
文久三年(一八六三)の改修時や明治八年の治定時には、率川あたりには天皇陵に比定するべき古墳が、念仏寺山古墳以外に見あたらず、この古墳が開化天皇陵とされました。九代開化は、現存の確認されている前方後円墳が陵墓に治定された最初の天皇です。
念仏寺山古墳は、改修時に出土した埴輪の破片などから五世紀に築造されたとものとされており、開化の時代よりもかなり後のもののようです。しかし、古事記・日本書紀の記載に従う限り、春日の率川、すなわち現在の率川や念仏寺山古墳のあたりに開化の宮居と陵墓があったことを否定することはできません。また、開化のころから桜井市の纏向地域に最古級の前方後円墳が築かれ始めたと思われるところから、開化の陵墓が前方後円墳であってもおかしくないのです。吉備の文化である突出部付弥生墳丘墓や特殊器台形土器、特殊器台形埴輪(都月型円筒埴輪)が形を変えながらも奈良盆地に出現し始めたのが開化のころではないかと考えられます。
神武の子孫たちが奈良盆地を平定したあと、盆地中央の有力豪族、磯城県主(しきのあがたぬし)はどうなったのでしょうか。その答えは十代崇神が出しています。
十代崇神(すじん)は、有力在地豪族である磯城県主の根拠地とも言うべき三輪山の西麓に宮居を定めました。桜井市金屋付近に比定されている「磯城の瑞籬宮(師木の水垣宮みずがきのみや)」です。磯城県主を完全に制圧するか逼塞(ひっそく)させなければ、その支配領域の中心地と思われるところに宮居を置くことなどできるはずがありません。そればかりではありません。三輪山は、縄文の昔から先祖代々奈良盆地に生活を営んできた人々にとって、もっとも関わりの深い信仰(アニミズム)の対象であり、神の住む神聖な山です。その神聖な山の麓に宮居を定めたということは、神武の子孫が磯城県主の支配領域を完全に掌握したことにより、奈良盆地の新しい支配者になったのだ、と内外に宣言したことになります。
数世紀の永きにわたって磯城県主の支配領域であった磯城地域の中心に宮居を定めた崇神は、盆地全域を支配する新しい大王の誕生を高らかに謳(うた)い上げ、神武子孫による永遠の支配を宣言する一大イベントとして、あの巨大な箸墓古墳を築いたのではないでしょうか。
箸墓古墳やその周辺から特殊器台形土器や特殊器台形埴輪の破片が出土しており、箸墓古墳を築造した当時の支配階級が、吉備文化の強い影響を受けていたことを物語っています。箸墓古墳と同じころか、またはその直後に造られたと思われる中山大塚古墳や西殿塚古墳などからも出土していますから、吉備文化が奈良盆地に流入していたことは間違いありません。
箸墓古墳周辺一帯の、弥生時代の終わりから古墳時代初めにかけての遺跡とされている纏向遺跡からは、日本各地で作られた土器類の破片が数多く出土しています。このことから纏向遺跡には倭国の首都があったのではないか、とする説が唱えられています。そうだとすると、纏向遺跡は時期的にも卑弥呼の都と結びつくことになります。しかし、纏向遺跡からは、中国や朝鮮との交流を示す遺物がほとんど出土しないばかりか、交流の中間基地として重要な位置にある北部九州とのつながりを示すものもほとんどありません。大分県あたりから出土する土器によく似た小さな破片が一つだけ橿原考古学博物館に展示されていますが、これをもって北部九州との強いつながりを示すものとはとても言えないでしょう。纏向遺跡が卑弥呼の都ではないかと言うためには、纏向遺跡が中国や朝鮮との交流の中心地だったことになりますから、それを示すものが数多く出土しなければなりません。しかし、そのような出土遺物はほとんどないのです。中国や朝鮮半島との交流を示す出土遺物はもちろん、北部九州に集中しています。大陸との交流を示す奈良盆地全体の出土遺物は、北部九州の一遺跡の出土遺物にも遠く及ばない状態ですから、纏向遺跡に倭国の首都や卑弥呼の都があったなどと、とても考えられませんし、弥生時代にこの地に北部九州にまで勢力を広げるほどの一大勢力生まれたとはとても思えないのです。纏向遺跡は奈良盆地における各地との交易の中心地、それも市場的なものではなかったか、と考えられるのです。纏向遺跡は、やはり吉備文化の影響を強く受けた前方後円墳を中心とする遺跡なのです。
ちなみに、北部九州の弥生王墓を代表する四王墓(三雲南小路・須玖岡本・井原鑓溝・平原)だけでも合計一五〇余面もの中国鏡が出土しているのに、奈良盆地の弥生遺跡からは中国鏡が出土したという話を聞きません。この違いが何を意味するか、既におわかりいただけたことと思います。
4,欠史八代の理由
以上、后妃の出自、宮居・陵墓の所在地(比定地)などから、二代綏靖から九代開化までの、いわゆる欠史八代の間は奈良盆地平定の時代であり、その伝承も語り継がれてきたと考えられますが、それなら何故、古事記・日本書紀はその伝承を各天皇の説話として記述しなかったのでしょうか。
何故、後世に欠史八代などと呼ばれ、架空の天皇群とされて、今日の定説・常識である「記紀造作説」の根拠の一つにされてしまうような状態のままにしておいたのでしょうか。完成した古事記・日本書紀を読んだ人たち、当時の元明・元正・聖武などの天皇をはじめ朝廷を構成する皇族や貴族たちは、この説話のない八人の天皇群に不審を抱かなかったのでしょうか。
古事記・日本書紀が、日本列島を支配する唯一正統な血筋は神武天皇の子孫である、という大義名分によって書かれていることは今さら言うまでもありません。さらに遡れば日本列島は天照大神の血筋を引く者が支配しなければならず、神武がその正統な後継者だと主張しているのです。しかも日本列島は、天照大神の意思により神武の時にはすでにその支配下にあったという大義名分の上に立っています。古事記は、神武がこの大義名分に逆らう者を退治して「畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)に坐しまして、天(あめ)の下(した)治(し)らしめしき』としています。奈良盆地はおろか、「天の下」を治めているのです。ところが実際は、神武の奈良盆地侵入は「神武東征」ではなく「神武東侵」であって、畝傍山周辺を中心とする「磐余(いわれ)」と呼ばれた地域の主になったに過ぎませんでした。奈良盆地の一隅を領域とする一豪族、それも地位の不安定な外来豪族になったに過ぎません。そしてこのような事情を物語る伝承も語り継がれてきたと思われますが、その伝承をそのまま記述すると、天照大神の意思による「神武東征」と「天(あめ)の下(した)治らしめしき」いう大義名分が成り立たなくなります。二代綏靖以降の奈良盆地平定の経過は一豪族の成長過程に過ぎず、その過程をそのまま記述することは、近畿天皇家こそが「天の下」を支配する唯一無比の血統を継いでいるのだ、という大義名分を主張する根拠を失ってしまうことになります。近畿天皇家こそが日本列島を支配する唯一無比の正統な血筋であることを主張するために、奈良盆地平定に奔走した二代から九代までの伝承を説話として敢えて記述しない道を選んだのでしょう。
神武の子孫が奈良盆地の外へ進出し、支配領域を拡大していったのは十代崇神(すじん)に至ってからです。奈良盆地全域を掌握する一大勢力に成長した神武の子孫は、さらに近畿の覇者へと変貌を遂げます。もはや誰憚ることなく説話を記述し、大義名分を主張できる地位を獲得したのです。
奈良盆地平定の説話らしきものが全くないわけではありません。神武即位前紀の己未年春二月の条に、層富県(そおのあがた)の波[口多]*丘岬(はたのおかのみさき)や和珥(わに)の坂下などの盆地北部や、臍見(ほそみ)の長柄丘岬や高尾張邑(たかおはりのむら)など葛城地域での戦いが載っています。この通りだとすると、「神武東侵」時に奈良盆地の大半が平定されていたことになってしまいますが、これらの説話部分は、神武の子孫たちの奈良盆地平定説話の一部が神武のところにはめ込まれたものではないかと思われます。神武紀の二年春二月に神武が行った論功行賞を見ると、「神武東侵」に随伴した重臣たちは、畝傍山を中心とした今の橿原市内に土地を給わっており、盆地各地の要衝とおぼしきところに配置された気配がありません。このことからも神武が奈良盆地全域を掌握したとは思えないのです。
波[口多]*丘岬(はたのおかのみさき)の[口多]*は、口編に多。
古事記・日本書紀を読んだ天皇や皇族・貴族たちは、欠史八代に不審を抱かなかったのでしょうか。不審を抱いて訂正をした形跡が全く見受けられないところを見ると、誰も不審を抱かなかった、と考えざるを得ません。ということは、彼らは欠史八代についての事情を初めから知っていた、ということになります。これらの事情に十分通じていたからこそ、後世に欠史八代などと称されるような説話のない天皇群の存在に、あえて異議を唱えなかったのでしょう。
5,宮居・陵墓の比定地について
現在比定あるいは治定されている場所に、実際にその天皇の宮居や陵墓があったかどうかについては、もちろん確認されているものは一つもありません。宮居はもちろんのこと、陵墓についても比定や治定の前後に陵墓らしき形を整えただけで、そこに墓らしきものがあったかどうかさえ不明なものが多いのは周知の通りです。中には弥生時代であるにもかかわらず、前方後円墳や円墳の形に見えるように垣を巡らしたり、整形したものもいくつかあります。
現在の神武天皇陵(ミサンザイ古墳)などは、明治三十一年の造作以前にあった二つの小丘を繋ぎ合わせて土盛りし、八角形に造成されたもので、もちろん埋葬施設などはありません。二代綏靖天皇陵(塚山)も、江戸時代の元禄十年(一六九七)から文久三年(一八六三)までは公式には神武天皇陵に治定されていましたが、文久三年に神武陵が「ミサンザイ(神武田)」に治定替えされるにともなって綏靖陵に治定替えされたもので、「塚山」と呼ばれていた円墳状の小丘です。もとは綏靖陵ではないかとされていた近くにある前方後円墳の「スイセン塚古墳」を治定しなかったのは、古墳の築造時期を推定する方法が未発達であった江戸末期において、偶然とは言え賢明であったと言うべきでしょう。三代安寧・四代懿徳天皇陵も「アネイ山」「マナゴ山」などの地名・伝承をもとに治定されたもので、もとから古墳らしきものが存在した形跡はありません。橿原神宮外苑内の池田神社社地にある「イトクの森古墳」と呼ばれている前方後円墳が懿徳陵に治定されなかったのも古くからの地名や伝承の場所に合わなかったからです。
五代孝昭・六代孝安・七代孝霊の三天皇陵は葛城地域にあります。欠史八代中、陵墓が葛城地域にあるのはこの三天皇だけで、三陵とも眼下に広がる田園や人家を見渡すことのできる見晴らしのよい丘の上にあります。古事記に「掖上(わきがみ)の博多山の上」「玉手の岡の上」「片岡の馬坂の上」など「山・岡・坂」の上となっているので見晴らしのよい丘の上を治定したのではないかと思われますが、「上」は本来「辺」であって、上下の上ではなく「ほとり・あたり」意味する言葉として使われることが多いところから、丘の上にとらわれる必要はないと考えられます。そこに丘があったので、文字どおり「上」の場所を選んだ方が見映えもするし、陵墓にふさわしい場所と映ったのかも知れません。孝霊天皇陵は「御廟所(ごびょうしょ)」と呼ばれていた丘陵の上にあり、尾根上に小古墳があったと言われていますが、現在は前方後円墳の形に石の柵が巡らされています。
次の八代孝元天皇陵も葛城地域ではありませんが、見晴らしのよい丘の上にあります。平成十二年の夏に発掘調査されて推古天皇と竹田皇子の合葬墓ではないかと騒がれた植山古墳から徒歩十分ぐらいのところにあります。劔池(つるぎいけ 石川池)に突きだした小丘の上に「中山塚」と呼ばれる三基の小古墳があったと江戸時代の記録に残っており、そのうちの一基が前方後円墳だと記されています。もちろん、古墳の築造時期と孝元の時代が合うわけがありません。古墳があったから治定されたのではなく、「劔池」の伝承に基づいて治定されたものです。
九代開化天皇は、八代までの天皇と違って奈良盆地北部に初めて葬られた天皇であり、また、それとわかる前方後円墳が陵墓として治定された初めての天皇でもあります。陵墓とされる「念仏寺山古墳」の呼称は、江戸時代の寛政年間に建立された念仏寺の境内に取り込まれ、後円部が墓地となっていたところから生まれたもので、弘法大師を祀るお堂のあったところから「弘法山(こうぼうやま)」、古くは油阪(あぶらさか)村の坂の上にあるところから「坂の上山」「坂上古墳」とも呼ばれていました。大阪夏の陣の際に徳川家康が逃げ込んだと伝えられる西照寺が前方部の正面にあります。「春日の率川(いざかわ 伊邪河)」や「坂の上」などの地名と伝承などから明治八年に治定されました。後円部中央に高さ三メートルほどの円丘状の高まりがあり、元禄十一年(一六九八)に竹柵で方形に囲み、開化陵と掲示していました。改修時に出土した埴輪片などから五世紀代の築造とされていますから、開化の時代とはかなり離れた前方後円墳だということになります。
欠史八代に限らず古代の天皇陵については、古事記・日本書紀あるいは延喜諸陵式(えんぎしきしょりょうしき)の記述、その地に残る古い地名や伝承・伝説などによるほか推測のしようがないのが現状です。ましてや天皇陵はもちろんのこと、それらしき古墳も多くが陵墓参考地として宮内庁の管理下におかれており、発掘調査はおろか立ち入ることすら許されませんから、被葬者の特定などできるわけがありません。
現在治定されている古墳に、その天皇が葬られているかどうか、確認することは不可能であり、例え発掘調査が許されたとしても墓誌でも見つからない限り確認するのは困難です。しかし、確認するのが極めて困難であるならば、せめて比定されたあたりに墓が造られていたらしいことが推測きればよしとしなければなりません。そしてそれは、古事記・日本書紀・延喜諸陵式などの記述やその地に残る伝承・伝説・地名などからある程度推測することが可能です。神武や欠史八代の天皇陵治定の経緯を述べるのが目的ではないので省略しますが、陵墓を治定するにあたっては、古事記・日本書紀・延喜諸陵式の記述のほかその地にかかわる古文書・伝承・伝説・地名などが極めて重視されていて、例えその近くに天皇陵に相応しい前方後円墳があっても上記に適合しないものは選ばれていないのです。欠史八代中、九代開化を除いて、天皇陵としてもっとも見映えのする前方後円墳が選ばれていないのを見ても、陵墓治定の姿勢を知ることができるでしょう。現在の天皇陵治定地(その周辺も含めて)は、古事記・日本書紀の記述する陵墓所在地が間違っている、というはっきりした証拠がない限りこれを否定する根拠は何もありません。
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制作 古田史学の会