古田武彦講演会
大阪市北市民教養ルーム 
1999年十一月二十日 午後一時から四時半
講演 歴史学の生と死より

北『魏書』と『日本書紀』

 もう一つ言っておきたい問題にぶつかった。言わないと残念ですのでぜひとも言っておきたい。
先ほど言いました郡と評の問題[次講演、日本書紀を考える参照]、南朝は偽りの「評」である。だから『日本書紀』はカットした。そういう仮説ですが、その立場に立てば謎が全部解けてくる。史料が全部生きてくる。そういう経験をお話ししたのですが、そうなればなる程、頭の中を占める残っていた問題もあった。
 偽「評」の問題は八月中の問題ですが、八月の終わりから九月の初めにかけて、皆さんのおかげで九州で大研究旅行と講演を行うことが出来た。
 そのころ私には一つの謎というか疑問点が頭の中を占めていた。博多の町をうろつきながら、そればかり考えていた問題があった。それは何かというと、『日本書紀』の神功紀、「魏志に曰く」という件が三回出てきます。
 これは先ほどの話、近畿天皇家は北朝にオベンチャラを使って、ご機嫌を損ねない歴史書を作ろうとした。具体的には唐なのですが、その北朝の元祖は四世紀から六世紀にかけての(北)魏なのです。その北朝の国号は、我々が勝手に「北」を付けて区別 しているので、実際の国号は「魏」です。唐にオベンチャラをいうということは、実際的には(北)魏にオベンチャラを使っていて、北朝を正統の歴史と見ている。そうすると『日本書紀』は、『三国志』の「魏志」の歴史書を三回も引用している。これ関係ないのかなあ?。飛躍は当然あるのですが、飛躍を当然承知で、疑問を生じ始めた。
 もちろん三世紀の魏は(曹)魏と言いまして、四世紀の魏は別の国です。別の国と言っても曹操の魏と北魏の間は百三十年ぐらいしか間が空いていない。今から明治の前半期のようなものです。三世紀の魏のことを忘れて、うっかりミスで同じ「魏」を名乗りました。「そんなことは有り得ない。」と博多で史料を持たずに頭の中で考えました。当然これは三世紀の魏を私たちは復活し大義名分を継承する。その立場に北朝側は立っていたのではないか。想像だけれども、それ以外の想像はあり得ない。帰って確認してみたら、その通 りであった。
(表点本 中華書局)
魏書巻一 序紀第一
道武帝 
六月丙午詔有司議定國号。[君/羊]..「昔周秦以前
・・・
宣異[イ乃]先号、為魏焉
 北朝の元祖である北魏の最初の天子である道武帝という人が、天子を称して即位した二年後の詔勅にその事を言っている。「宣異[イ乃]先号、為魏焉」と言い、(北)魏は(曹)魏を受け継ぐと称していた。その時は南に東晋があった。我々は区別 するため(東)晋と言っているが、全国統一の晋を我々は「西晋」と呼び、南半分を支配した国を我々は「東晋」と呼んでいる。この当時は只の晋である。晋というのは現実に敵対する南朝側の呼び名だった。それに対して先号と言っているのは、晋の前の三世紀の魏のことである。だから我々は三世紀の魏を受け継いで、国号を「魏」と名乗る。そう言っている。それは私が想像したその通 りだった。これはもう一件落着。これは頭で想像したその通りだったのですが、旅行中さらに悩んでいたことがある。博多から帰るときも悩みながら帰ってきた。何故かというと次に魏の次に西晋になる。ところが神功紀に魏が三回出てくるだけでなくて最後に西晋が出てくる。
(岩波古典大系)
『日本書紀』上 神功紀
三十九年。是年。太歳己未。魏志に云はく。明帝の景初三年の六月、倭の女王、太夫難斗米を遣して、郡(こおり)に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝獻す。太守[郁nokawari登]夏、吏を遣して、将て送りて、京都(けいと)に詣らしむ。
・・・
四十年。魏志に云はく。正始の元年に、建忠校尉[木弟]携等を遣して、詔書印綬を奉りて倭國に詣らしむ。
・・・
四十三年。魏志に云はく。正始の四年、倭王、復(また)使太夫伊聲耶掖等を遣して上獻す。
・・・
六十六年。是年。晋の武帝の泰初二年なり。晋の起居の注に云はく。武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、譯を重ねて貢せしむといふ。
西晋の武帝
 ここに、西晋の「武帝の泰初」が二回も出てくる。これは西晋ですから、西晋も強調していることになるではないか。魏から西晋になり、(北)魏が、魏を受け継いでいるのだから、魏を強調するのはよいとしても、西晋も強調していることになる。これは一体何だろう。これも疑問のまま、博多から新幹線に乗って帰ってきた。それで一生懸命(北)『魏書』を読んだ。
(表点本 中華書局)(初代)などは書き入れ、異体字などがたくさんあります。
(北)魏書 巻一 序紀第一
 昔黄帝有子二十五人或内列諸華, 或外分荒服昌意少子受封土國有大鮮卑山, 因以為号。獻二帝故人並号曰「推寅」蓋俗云「鑽研」之義。初聖武皇掌率数萬騎田於山澤欲慾見
・・・
 (初代)積六十七世, 至成皇帝諱毛立。 聡明武略遠近所推, 東國三十六, 大性九十九人, 威振北方, 莫不率服。崩。
・・・
・・・
 (十三代目)獻皇帝諱隣立。時有神人言於國曰..「此土荒遐未足 建都邑宣復徒居。」帝時年衰老 乃以位 授子
 (十四代目)聖武皇帝諱詰[言分]。獻帝命南移, 山谷高深, 九南八阻, 於是欲止。有神獣, 其形似馬其声類牛, 先行導引, 暦年乃出。始居凶奴之故地。其遷徒策略, 多出宣, 獻仁帝, 輜[車丼]自天而下。既至, 見美婦人, 侍衛甚盛。帝異而問之, 封曰..「我, 天女也, 受命相会偶。」遂同寝宿。但, 請還曰..「明年周時, 復会此。」言終而別, 去如雨風。及期, 帝至先所田処, 果復相見。天女所生男授帝曰..「此君之子也善養視之。子孫相承當世為帝王。」語而去。子即始祖也。故時人諺曰..「詰[言分]皇帝無婦家, 帝力微皇帝無舅家。」帝崩。
 (十五代目)始祖神元皇帝諱帝力微。生而英叡。
 元年, ・・・
・・・
 二十九年, ・・・
 三十九年, 遷於定襄之盛楽。・・・於是魏和親。
 四十二年, 遺子文帝如魏, 且観風土。魏景元二年也。
 文皇帝諱沙漠汗, 以國太子留洛陽, 為魏賓之冠。・・・魏晋禅代, 和好仍密。始祖春秋 遇, 帝以父求帰, 晋武帝具禮護送。
 四十八年, 帝至自晋。
 五十六年帝復如晋, 其年冬還國。晋遣帝錦、[四kasira厂炎リ]繪, 綵, 綿, 絹, 諸物, 威出濃厚, 車牛百乗。・・・晋帝従之, 遂留帝。
 五十八年, 方遣帝。始祖聞帝帰, 大悦, 使諸部大人詣陰館迎之。・・・矯害帝。既而, 始祖甚悔之。帝身長八尺, 英姿 偉, 在晋之日, 朝士英俊多興親善, 雅為人物帰仰。後乃追諡焉。
 其年始祖不豫。烏丸王庫賢, 親近任勢, 受衛[王壊, 土編nasi]之貨, 故欲[水粗, 米編nasi]動諸部, 因在庭中[石廣]斧釜, 諸大人問欲何為, 答曰上恨汝曹讒殺太子, 今欲収大人長子殺之。」大人皆信, 各各散走。始祖尋崩。凡饗國五十八年, 年一百四歳。太祖即位。酋為始祖。

(北)『魏書』では昔、黄帝からつながっていると言っている。昔黄帝から六十七番目に成皇帝諱毛が初代として即位 して立ったと言っている。実質上、名前のある初代である。その成皇帝から十四代に成って面 白いことにと聖武皇帝詰[言分]という人が天女と結婚する。そして一五代を産んだ。そういう話があります。『日本書紀』にも、ニニギが海岸を歩いていたら、コノハナサクヤヒメに出会って結婚した。そういう話とよく似ている。
 その十五代目神元皇諱帝力微が、天女から生まれて「始祖」となっている。ニニギも始祖と呼ばれている。
 彼の三十九年ですが、「於是魏和親。 是に於いて魏と和親す。」とある。
この魏は三世紀の(曹)魏です。その証拠に息子の文帝(後での名前)が魏に行くのが、
 「四十二年, 遺子文帝如魏, 且観風土。魏景元二年也。」
 そこで「魏の景元二年なり。」と書いてある。これが三世紀の魏の年号で西暦二百六十一年のことです。魏が西晋に変わるのが二百六十五年。その四年前。
「文皇帝諱沙漠汗, 以國太子留洛陽, 為魏賓之冠。」
 そして魏で文帝はずっと過ごす。(文帝という名前は後で付けられた名前です。)
 「魏晋禅代, 和好仍密。」つまり魏から西晋に変わったが、我々鮮卑族との関係は依然密接だった。
 そして始祖がもう年を取ったから息子を返してくれと言ったら、(西)晋の武帝が四十八年、息子の文帝を非常に礼儀正しく送り返してくれた。
四十二年, 遺子文帝如魏, 且観風土。魏景元二年也。
 文皇帝諱沙漠汗, 以國太子留洛陽, 為魏賓之冠。・・・魏晋禅代, 和好仍密。始祖春秋 遇, 帝以父求帰, 晋武帝具禮護送。
 四十八年, 帝至自晋。
 五十六年帝復如晋, 其年冬還國。晋遣帝錦、[四kasira厂炎リ]繪, 綵, 綿, 絹, 諸物, 威出濃厚, 車牛百乗。・・・晋帝従之, 遂留帝。

 五十六年また晋に行く。その年の冬国に帰る。その時晋の武帝が息子に「錦、繪、綵、綿、絹、諸物を遣わす。威出濃厚, 車牛百乗。」とあるようにものすごい贈り物を持って帰らせた。これは、なんとなく倭人伝を思い出しませんか。倭人伝でも魏がものすごい量 の贈り物を持たせて帰らせている。あのときも錦などを持って帰っている。同じように(西)晋がすごい量 の贈り物を鮮卑にもたらしている。魏が倭国に行ったと同じことを(西)晋が鮮卑に行っている。また(西)晋に帝が行っている。
 その後五十八年に文帝が殺される。同じ鮮卑族の仲間の嫉妬を受けて殺される。「凡饗國五十八年, 年一百四歳」この始祖が国を支配すること五十八年。一百四才で亡くなる。出てきましたね。なんとなく『日本書紀』に似ていませんか。
 つまり魏と仲が良かったが、(西)晋になったら仲が悪くなったのではなかった。そこまで晋書をよく読んでいなかった。(西)晋と特に武帝と非常に関係が濃密だった。この後は(西)晋と戦争をしたわけではないが特に親密とは出てこない。だから(西)晋の初期は、特に武帝との間が、鮮卑側は親密関係にあったと、(北)『魏書』は強調している。もちろん(北)『魏書』は、北斉(西暦五百五〜五百七十二)の時に出来ている。ですから(北)『魏書』が『日本書紀』に影響する可能性はあっても、逆の可能性はない。そうすると『日本書紀』神功紀に、魏と(西)晋の武帝を特出したのは、北朝へのオベンチャラ。北朝の元祖のところでも、我々はあなたと関係が深かった魏や(西)晋と非常に深いまじわりを結んでおりました。そういう話を、そうぜひとも言いたかったから今の神功紀を特設した。特設の例も晋書にある。文帝紀はないけれども、文帝は天子に成らずに死んだ人だけれども、文帝という贈り名をしている。それを真似て、神功皇后は天皇ではないけれども、天皇に準ずる形で天皇紀を作って、その目的は(西)晋の武帝との友好関係を特出する為である。その為に編者が払った犠牲は、百も承知の犠牲は、卑弥呼(ひみか)・壱与(いちよ)の二人の女王を一人の神功皇后にイコールで結ぶという大嘘だった。当時の(『日本書紀』の)読者は倭人伝を読んでいないから『旧唐書』等ももちろん読んでいませんから騙(だま)せると思っていた。しかし現代ではもう倭人伝はだれも岩波文庫で持っているから大嘘だということは百も承知。『日本書紀』を作る人は大嘘であることは百も承知だった。二人が一人であることは、いくらなんでも思うはずがない。嘘を承知で結びつけようとした。その目的は北朝へのオベンチャラ、はっきり言えば唐へのオベンチャラ。北朝や唐に合わせるべく神功紀をつくり、それを編年の基準にして『日本書紀』を作った。そして南朝系の「評」を全部消した。
 「ここまでやるか。」という感じを持って、非常に残念という感じがするのですが、残念という感じ、そういう主観的判断は別 にしまして、私は事実関係はもう決まった考えています。「いや、そうでない。」と今の論証に反論する学者が現われれば大歓迎。
 ついでながら、(北)魏書のことを『魏紀』と書いてある。ついでその後に行くと『魏書紀』とも書いてある。つまり『日本書紀』のことを『続(しょく)日本紀』は『日本紀』とも言いますね。言い方自身は他にもありますが、『魏紀』『魏書紀』という二つ揃っていて、そういう呼び方をしているのは、両方揃って呼んでいるのは『魏書』以外を見つけていない。呼び方もどうも北朝の最初の正史である(北)『魏書』を模倣した。こう言って、まず間違いはないのではないか。もちろん版本の表現という問題もありますが、この考えを除外して『日本書紀』『日本紀』という名前を考えることは乱暴ではないか。どうも有り難うございます。以上です。これで一応終わらせていただきます。


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