古田武彦講演会
大阪 天満研修センター 
1999年六月 二十七日(日)
講演 万葉学と歴史学の誕生

コノハナサクヤヒメ

4コノハナサクヤヒメの真実
 それでは時間の関係で次のテーマに移らせていただきます。
 次のテーマはコノハナサクヤヒメです。コノハナサクヤヒメについては皆さんご存知だと思います。『古事記』・『日本書紀』には木花之佐久夜毘売が出てまいります。天孫降臨と称してニニギが筑紫の日向の高千穂のクシフル嶽にやって来た。その後、海岸を歩いていたら、美しい乙女が従者を連れてやって来た。それが『古事記』では神阿多都比売(カムアタツヒメ)亦の名は木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)という形で書いてある。(『日本書紀』では神吾田鹿葦津姫、亦の名は木花開耶姫という形で書いてある。)
 ところが本当はコノハナサクヤヒメは実は富士山に関係する祭神として有名である。浅間(せんげん)神社という神社が、静岡県側と山梨県側にたくさんある。全国で二千以上ありますが、富士山周辺が圧倒的に密度が高い。その富士山の祭神が「コノハナサクヤヒメ」。その富士山の祭神である「コノハナサクヤヒメ」とニニギの奥さんである木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)がどういう関係になっているか、私にとって長らくの課題であった。気になっていた。何よりも私は本当は「コノハナサクヤヒメ」という名前があまり気にいらなかった。何故気にいらないかというと、何か花咲爺の娘のような名前で、古代の神様のような感じがしない。中近世のお話のような気がして、どうもピンと来なかった。しかし最近新聞の逆さ富士の写 真を見たのがきっかけで私なりに考えてみた。そして正面から富士山に取り組んでみると、意外に問題が解けてきた。
 それで手がかりになったのは万葉の高山(たかやま)に関係する問題です。皆さんご存知の大阪府と京都府と奈良県の境にある交野山(こうのやま)。行政的には大阪府交野(かたの)市に属するが、地形的には今の奈良県生駒市の高山(町)から連なっている。高山町から上がっていくとゴルフ場があり、近くまではバスで行ける。その先を少し登っていくと「交野山 こうのやま」がある。そこに京都・大阪・奈良、三都をいきなり見下ろせる岩頭がある。仁徳の難波の宮を含め大阪市が九割方ぐらい、京都市は全部見える。奈良市は北の八割方見える。そんな絶景かな、絶景かなという岩頭がある。それで『万葉集』磐乃姫の歌三六「かくばかり恋しくて高山の磐根し枕きて死なましものを 」の「高山(たかやま)」は「交野山 こうのやま」ではないかというテーマがある。
 それで今回は、この交野山(こうのやま)が問題となる。交野市の交野(かたの)。これそのものは疑いなく潟のある野であって、潟野(かたの)である。交野(かたの)は字を当てただけで、そうは読めない。これはやはり、私の考えではここは神野(こうの)である。「神野 こうの」とは何か。神野山(こうのやま)の「神 こう」は、神戸(こうべ)という字があり地名もある。私は初め音便で神(かみ)を「こう」と発音したと考えていたが、そうではなくて「こう」自身がすでに神様御自身を表す言葉であり、平地が「野 の」である。「原 はら」は平地が広くなければならないが、広くなくとも「野 の」は平地があればよい。「神様の(居られる)野」を「神野 こうの」と表す。この考えそのものは万葉研究の一連の成果 から出てきた収穫ですが。
 それで次は木花(コノハナ)を考えてみた。木花(コノハナ)は当て字で、神野鼻(こうのはな)ではないか。「鼻 はな」は突き出した所です。岬のように海に突き出しているところも「はな」ですが、山も水平で突き出しているところも「はな」と、けっこう呼んでいる。どちらにしても突き出した所が、「鼻 はな」である。
 「こうのはな 神野鼻」とは神野(こうの)の突き出したところではないか。富士山の山頂、一周四キロばかり有るそうですが、火口を取りまいた野、「神野(コウノ)」ではないか。その中に突き出した所が「鼻 はな」ではないか。現在は気象台がある一番高い所が、「剣が峰」と呼ばれ、この高さ三七七六メートルが富士山の高さです。ここが今は「剣が峰」。「剣が峰」というのは中世用語、「峰」は日本語ですが、「剣」という言葉は漢文で縄文時代にあるはずがない。縄文時代にも呼び名はあったと思う。そうすると、ここ「剣が峰」が、神野鼻(コウノハナ)のことではないか。
次に「佐久夜 サクヤ」です。江戸時代に佐倉宗五郎の出た千葉県の国立民族博物館のある佐倉(さくら)という所があり、佐倉は「サクラ 狭倉」とも書きますが、「サ」は接頭語の美称、「クラ」はたとえば乗鞍(のりくら)岳の「クラ」で、縄文時代の祭りの場が「サクラ」です。黒曜石のことを「カラスンマクラ」と呼んでいる話に関連しますが。「ラ」そのものは空(そら)とか浦(うら)とか、日本語に多い言葉である。
 そうすると「ヤ」は人間が住むところを屋敷(やしき)、神様が住むところを社(やしろ)というように、祭る所を「ヤ」という。神聖な神様を祭る社(やしろ)を「サクヤ」という。これも話せば長くなり簡単にお話しすると、これは石神を祭る場のことである。信州では諏訪を中心に「石神」のことを「ジャクジ」と言い、地名にも信州「佐久(さく)」があります。東京には石神井(しゃくじい)という地名もある。そういう縄文から石神を祭る社(やしろ)が「サクヤ」です。
 以上「コノハナサクヤ」とは、「コウノハナ」に居られる神様を祭る社(やしろ)ではないか。
 何回も言うことですが、私の住んでいるところ「向日(むこう)市」。これは私の考えですが、この名前は京都の人が付けたに違いない。桂川の向こう側にある土地、京都の向こう側だから「向日市」です。それを知らない人が読めば「ムカヒ」等と読んで、「ムコウ」とは絶対読まない。「ムコウ」という音が実体である。それに対して、音が似ているが実体ではない美しい字を当てて使うのが日本人の名前の付け方です。
「木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)」は字を見れば、何か花咲爺の娘のような字が当てられていますが、この場合には字は問題ではない。発音が問題である。その発音が、富士山の頂上が神の居られる神聖な場所として、そしてそれを待っている社(やしろ)の名前である。その社(やしろ)に居られる女神の名前が「コノハナサクヤヒメ」である。
 以上のことから考えれば「コノハナサクヤヒメ」とは富士山のことです。
 現在は富士山の頂上の剣が峰の中心から真下の所に、鳥居があり浅間神社奥宮(おくみや)がある。ここにコノハナサクヤヒメを祭っている。
その下宮(げぐう)が富士宮市にある一宮浅間神社富士宮で駅のそばにある。そこが明治以前は何だったかというと、「大日堂」と称していた。大日堂とは大日如来を祭るお宮である。それで宮司さんは、余所では天照大神と大日如来はイコールと謂われていますが、ここではコノハナサクヤヒメと大日如来はイコールです。そういう御説明でした。それで大日如来・大日堂としてコノハナサクヤヒメは伝えられてきた。
 そこからは私の推察ですが、頂上に大日嶽がある。おそらく大日堂が本来ここにあったのだろう。大日堂があったから、大日嶽という名前が付いたのだろうと思う。そこに明治までは大日如来として存在した。もちろん神仏習合ですので、本来はコノハナサクヤヒメである。とにかくコノハナサクヤヒメは、私は縄文の女神であろうと考えている。
 この問題のもう一つの裏付け・証拠として提示すると、下宮の一宮浅間神社富士宮から上がっていくと、創価学会や日蓮正宗で話題になった大石寺がある。それの本堂の下から巨大な石が起重機で取り除かれているのを写 真で見ました。その大きな石は本来神様の石だと思う。そのような大きな石があるから大石寺となったのが、本来の名の由来だと思う。それが漢語で大石(タイセキ)寺となった。またそこから八百メートル上がったところに有名な千居(せんご)遺跡がある。縄文中期最大の祭石遺跡である。大湯のストーンサークルなど問題ではないと言うか、大湯より早い。あれは縄文後期である。大湯よりも早く影響を与えている。壮大なスケールの大変な遺跡である。そこから先は私のイメージというか、仮説になるか、ならないかの考えであるが、縄文時代は富士山が噴火していた。縄文時代を考えると、夜になれば富士山が火を噴いているのが見えた。関東には「富士見ヶ丘」とか一杯名前が残っているが、昔はそこから富士山が見えたと思う。火が噴いたり噴火している様子が見えたと思う。見えたところに「富士ヶ丘」等の地名が残り、更に江戸時代の富士講が重なっていった。
 更に調べていきますと、藤井さんという東大の教授の方の本がある。それによると、もう一つ大事なことは、富士山は何時も噴火していたわけではない。火を噴いて、途中お休みがあり、また火を噴く。途中おやすみがある。どうも千居遺跡が中期から後期にかけて存在するのは、その途中お休みの時期ではないか。千居遺跡は縄文前期と晩期にない。本当にここに行けば、富士山をまともに仰ぎ見ることになる。他の場所では八の字下がりのきれいな遠景の山で見ることが多いが、ここの富士山は、巨大な岩山として、前面 に聳(そび)えている。ここの遺跡は絶対に富士山を意識している。意識するのはよいですが、もし噴火したらここに居れば絶対死んでしまう。本当に火が噴いたら、こんな所に居られない。おそらくここの祭りは噴火がお休みの間の祭りである。そう考えて富士山の噴火の資料を見せていただいて調べている。
 とにかく富士山が縄文時代に祭られていたことは明らかである。その場所が、大石(タイセキ)寺であり、一宮浅間神社である。
 以上ここまで、縄文の輝ける女神である木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)の問題を解くことが出来た。もっともコノハナサクヤヒメは縄文という最近始まったモノではない。そんなちゃちなものではない。旧石器に始まっていると言われるかも知れない。
 いよいよ次の問題は、それでは縄文の輝けるコノハナサクヤヒメと天孫降臨のニニギの奥さんである木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)との関係はどうなっているか。
 私の見方によれば「天孫降臨」という名の征服支配は、海部族の侵略・征服をその美しい言葉で表現している。この「天孫降臨」の時にニニギを出迎えた神様がいる。それが鼻の高い猿田彦(さるたひこ)である。ところが猿田彦(さるたひこ)というのは九州に行かれたら分かりますように、現在でも尊崇されている神であり、九州の至るところに居らしゃる神様である。もちろん九州だけではない。九州を中心に西日本にかなり分布している。またサルというのは、沖縄語で「太陽が輝く。」という意味であり、サルタヒコは太陽神である。現在でも尊崇されている証拠が、宮崎の高千穂の神社にある。現在は「天孫降臨」の地が、南九州の高千穂と誤って説明したためにニニギ尊が最高の神になっている。しかしやはり現地に行って調べてみなければ分からないものですね。あそこに行ってみて分かったのは十月初めにサルタヒコ大集合のお祭りがある。私はまだお祭り、そのものは見てはいないが、展示館にお祭りの時につける面 が展示してある。鼻の高い面や低い面や五面相の面や、変な顔の面がいっぱい飾ってある。猿田彦の大集合、それが高千穂の本来のお祭りである。それが後でニニギを追加させられた。サルタヒコは本来層の厚い神様であることが分かる。はっきり言えば弥生以前・縄文の輝ける神である。そんな弥生以前・縄文の輝ける神が、なぜニニギ尊の出迎え役になっているのか。ニニギ尊と言っても、征服者ですから誰も知らない。つまりサルタヒコが出迎えると言えば、「大変なお方だ。」ということになる。つまりサルタヒコが出迎えるくらい貴いお方である。サルタヒコの信用を借りてニニギの征服を正当化している。そういう仕組みの神話である。そういう道具建てになっている。このことは前から言ってきた。
 もう一つ例を上げます。島根県美保関神社へ行きましたとき、私は親鸞研究の時お世話になった元大谷大学教授の藤島達郎氏を郷里に表敬訪問した。定年になって故郷に帰られていた。
そのとき藤島氏が出てこられて「あなたは今、古代史に取り組んでおられるようだが、『古事記』・『日本書紀』は当てにはなりませんよ。『出雲風土記』なんか、あれも駄 目です。」と言われた。つまり全部駄目です。その時は、私の感覚では『古事記』・『日本書紀』は信用できないが、『風土記』は何となく信用できるという感覚を持っていた。
 こういう話をされた。ある神様が女好きで夜になると、船で女のところに出かけて行く。明け方になると鶏が鳴く。鶏が鳴くと「夜明けになった。」ということで帰って行く。ある時、鶏がトチ狂って鳴く時間を間違えた。一時間ぐらい早く鳴いた。「夜明けになった。」ということであわてて帰って行ったが、暗いので船に乗るときに足を踏み外して、水の中に足を突っ込んでしまった。そこにワニ鮫がいて、神様の片足を喰いちぎった。それ以来、この神様は片足のない神様になった。そういう話がある。それを悼(いた)んで、それ以来この辺りの家ではにくらしい鶏の卵を食べません。後で調べてみるとその通 りです。これだけ地元が大事にしている神様が、『古事記』・『日本書紀』には全然出てこないし、まして『出雲風土記』は出雲のことを書いていると言いながら全然信用できない。だから『出雲風土記』も駄 目です。そう言われた。「ああそうですか。」と毒気を抜かれた気持ちで帰ってきた。このことが結局は良かった。
 その経験が役立ったのは、東京へ行った時の関東での経験である。これもやはり縄文以来の太陽の女神が大蛭女貴(オオヒルメムチ)であり、天照大神は、弥生の人間のお婆さんであるから大分格が違う。その太陽の神様、大蛭女(オオヒルメムチ)が天照大神(あまてらすおおみかみ)に入れ変わっている。また大蛭女貴(オオヒルメムチ)の相手方が蛭子(ヒルコ)大神であることも倭健説話に関連して承知していた。
 またそのヒルコ大神がエビスとイコールだということも承知していた。九州の五島列島には、島の四分の一ぐらいの家の苗字が蛭子(えびす)です。「蛭子」と書いてヒルコと読まない、エビスと読む。漫画家の蛭子さんも五島列島出身です。エビスのことがヒルコのことだという意味の名前ですが、「A=B」と書いてあるのは「A=Bではない証拠である。」という定式がありますが、それは今回は一応別 にして、結果的に、エビス=ヒルコであるという「神神習合」がここではなされている。
 それで結局この片足のない神様とはヒルコのことで、素晴らしい漁民の神様である。何故かというと漁民が一生魚と格闘してきて、ワニ鮫に足を喰いちぎられても、尚かつ矍鑠(かくしゃく)として海に挑戦している老漁夫の鏡である。その姿をした生きた神様である。神様は人間の形をしている。人間が作ったものですから。片足のない老漁夫、それをモデルにした非常にユニークで生き生きとした神様である。
 ところが、その神様、蛭子(ヒルコ)大神が『古事記』・『日本書紀』に出現する。不具の子蛭子(ヒルコ)を海に流した。私はそんな話があるという事は知ってはいたが、「何故そんな話があるのか。」という意味は、当時の私には分からなかった。それは今考えると蛭子(ヒルコ)というのは出雲における輝ける漁民の神である。その輝ける漁民の神をペケにして、悪し様に罵(ののし)るために『古事記』に載せた。「もうヒルコ大神の時代ではないよ。」と言うためです。「國譲り」という美しい言葉で表現して出雲から主権を奪った。今やイザナギ・イザナイギが貴い神様になった。あんなヒルコは駄 目である。捨てろ。不具にして海に流してしまえ。そういう蛭子(ヒルコ)大神排撃の物語である。そういうことがやっと分かった。
 もう一つ例を上げる。火軻具土(ホノカグツチ)もそうである。
 火軻具土(ホノカグツチ)も再々『古事記』・『日本書紀』に登場している。どういう形で出現するかと言えば、イザナギ尊が斬りつけると、ホノカグツチの切り口から神や植物が出てきたと書いてある。
 神話学者に言わせると、東南アジアに同じ神話がありますよ。同じ類型ですよ。『古事記』・『日本書紀』にあっても不思議はないですよ。そう説明されるかも知れないが、その説明は半分正しく、半分正しくない。何故かというと「インドや東南アジアに同じ神話があります。」という類型の説明でも良いならば、それならばこの話は逆にしても同じです。カグツチがイザナギに斬りつけても同じことである。同じ類型になります。しかしそんな話は全然ない。何時でも斬り役はイザナギ、斬られ役は何時でもカグツチ。インドや東南アジアと同じ話だ。同じ類型だという話からは出てこない。神話学者は、あの話の大まかな類型だけを理解して、その主語・述語の文型を理解していない。主語と述語をひっくり返しても良いはずであるが、そうなってはいない。ひっくり返した話はない。つまりホノカグツチは主神ですから、津神奇藻(ツチグモ 土雲)達に取っては、火山からお生まれになった輝ける大神である。ところが海部族がツチグモ達を征服・支配した。だからもう高貴で神聖なカグツチは斬られた。お斬りになったのは我が大神であるイザナギである。ホノカグツチの時代は終わった。そのメッセージである。そのメッセージを今まで吉田信彦さんだけでなく全ての神話学者は理解せずにいた。主語述語を無視して語った。ということで半分イエスで半分はノーである。ということでこの話も有名な火軻具土(ホノカグツチ)を悪役・斬られ役にしている。
 その他の例もあるが今回は省略します。
 それで富士山の問題では、木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)は征服されてもいないし、悪役にもされてはいない。むしろ引き立て役にされている。コノハナサクヤヒメは誰もが知っている輝かしき縄文の女神(めがみ)である。つまりニニギ尊はその女神を后(きさき)にされたような偉い方でおられる。
 つまりニニギを説明するのに、どれほど偉い人か説明する必要がない。ニニギ尊はカムアタツヒメ叉の名、コノハナサクヤヒメを娶(めと)られた凄いお方であるよ。つまり『古事記』・『日本書紀』のあり方というものは、輝ける縄文の神を皆引き立て役にしている、縄文の神々に役どころを作って引き立て役にしている。ある場合は斬られ役・悪役、ある場合は流され役、ある場合は出迎え役、みんな役割を割り当てられている。筑紫中心の弥生の新作神話では、全ての縄文の神を、より古い段階の尊崇された神を利用している。津田左右吉などはそれを理解しないまま、八世紀の天皇家の史官がでっち上げた嘘話だと取るから、神話に登場する人物の個性が皆抜けてしまって、全部吹っ飛んでしまった。そうではなくて『古事記』・『日本書紀』は筑紫における新作神話である。その弥生の新作神話の目的は、いかにその九州王朝の初代のニニギ尊が素晴らしい人物であるという事を、現代理論や哲学でなく神話という形でメッセージを民衆に理解させる、洗脳していく、そして浸透させるための神話である。そう理解すべきである。以前から漠然(ばくぜん)とはそう考えてはいたが、富士山問題を理解してハッキリとそう認識した。今の私の考えが間違いがなければ、この問題は日本列島だけではないという問題に突き当たる。
 たとえばギリシャ神話。ギリシャ神話でも神様に、みんな役割がある。一番偉い様がゼウスであり、嫉妬深い奥さんの神であるとか、たとえば太陽の神様は何か御者みたいに、とことこ天空を車を引っ張って歩いているだけである。主神とは言えません。あれは何故か。初めからそうなのか。もしかしたら、これも征服されてその役どころを、与えられただけかも知れない。つまり征服した種族の主神がゼウスなのではないか。それが一番中心の神様に置かれた。変な神様が多いではないか。地球を持ち上げて、一生懸命に支えて永遠に苦しんでいるような神様が居る。初めからあんな神様でなかったかも知れない。ある種族にとっては非常に神聖な輝ける宮殿の中心にいる神様であったかも知れない。それがその種族が征服されて、その主神が嫌な役というか、そういう役をさせられて居るかも知れない。そういうことでギリシャ神話も今までヨーロッパ人が解説してきた事とは、違う理解が出来るかも知れない。その秘密の鍵を、日本の『古事記』・『日本書紀』の理解の方法が握っているのではないか。そう考えてワクワクしています。


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