古田武彦講演会 二〇〇〇年一月二十二日(日)
於:大阪北市民教養ルーム

壬申の乱の大道

正倉院・正院・水城・神護石山城・曲水の宴

懇親会第一話

 今日講演会で申し上げなかった問題で、かつ重要なテーマで、近日来考えた問題についてまず申し上げたい。
 昨年の八月から九月にかけて久留米を中心にで共同研究・調査に行きました。多元関東の会、東京古田会、それから古田史学の会、皆さんの御協力を得て行いました。特に事務局長である古賀さんの御郷里ですから大変力を入れていただきました。非常に大きな収穫を得た。全部は申せませんが、その中で一つのポイントを申しますと、筑後川の中流から上流域にかけての田主丸町、そこに「正院」が有る。そういう話が出てきました。これは何かと言いますと『久留米市史』(古代・中世第七巻)に収録してある文書で「筑後国交替実録帳」(書陵部、古文書二十二)という文書(もんじょ)があります。この文書が何時の時代かと言えば鎌倉文書、親鸞や道元と同じ時代の文書です。仁智二年、親鸞であれば晩年近くになりますが、その時代の文書です。どのような文書かと言えば、太宰府の役人が都へ報告を送っている文書です。その中に「正倉院」というものがある。しかしこれは「無実」である。実が無い。また「正院」というものがある。これも又実が無い。無実である。無実という言葉がやたらに出てくる。これは何かというと、ご存じの「有名無実」の「無実」です。名は有るが、実は見当たらない。逆に言うと、実は無いが、名前はハッキリ残っている。「正倉院」・「正院」という名前がハッキリ残っている。名前が残っていると言っても、耳で残っているだけではなくて書いたもので残っているようだ。前帳では、こう書いて有るが実は無い。鎌倉の前半期の前ですから平安時代位 になる。名前はこう有るが、実体は見当たらない。見当たらない。そう軒並み書いてある。やはり役人が責任逃れのために、有りません、有りませんという報告書を作っている。もちろん存在するものもある。それはお寺である。大善寺玉垂宮や光放寺等は現実に今も存在しているから、それらは鎌倉文書でも無実とは書いていない。他のものは、名前だけ上げて軒並み存在しない。無実・無実と書いてある。その中で「正倉院」は生葉(浮羽 うきは)郡にあり、「正院」は竹野(たかの)郡にある。これを東京古田会の高木博さんが発見された。昨夜の電話でお聞きしますと、東京でそのような史料を見つけておられたようだ。それで筑後研究を熱心にリードされた。現実に久留米市図書館に行って、『久留米市史』(第七巻中世・古代)を見ると、これがあり非常に興奮した。何故かというと、それまでに曲水の宴(きょくすいのえん)問題にぶつかっていた。これが久留米市の郊外、曲水の宴跡が五・六年前に発見されている。これは庭に水を導いて、水路がくねくね曲がっていて塗り固められ、水が早く流れない。ゆっくりと巡るようになっている。どうしても曲水の宴の跡にしか見えないものがある。それが従来はこれは筑後の国府跡にあるという報告が久留米市教育委員会によって報告されている。しかし考えてみたらおかしい。筑後の役人が曲水の宴を行っていたのでは格好が付かない。それなら全国の国府の役人がみんな曲水の宴を行わなければならない。それは無い。その報告では時期を八世紀から十一世紀までと、横の建物から時間を当てている。それが今日お話しした年輪年代測定法などにより百年遡ることになる。そうすると七世紀になる。そうでないと曲水の宴にならない。
 そういう問題と(奈良県の)正倉院文書の問題である。私はあれ!と思ったのは筑後だけが献上品が全然違う。他の地方は醤油や味噌など非常に分かり易い地方の特産物等である。しかし筑後だけが全然違う。まず天平一〇年に、銅の竈(かまど)を作る工人を献上させられている。次は轆轤(ろくろ)の職人を献上させられる。轆轤(ろくろ)の職人も重要な技術である。更におかしいのは、鷹狩りの技術者を三十人献上させられている。三〇人と書いて有る。先ほどの銅の竈を作る工人の数は書いていない。もっと多いみたいだ。さらに犬を献上させられている。犬というのは御鷹犬です。鷹狩りには人間だけいても駄目。犬がいる。特殊技術を持った犬を筑後から献上させられている。奈良の犬では駄目だったみたいだ。鷹狩りというのは、最高の貴族の遊びです。中世ロンドンで英国王が鷹狩りの本を書いたというのは有名です。日本でも平安時代に清和天皇が鷹狩りの本を書いた。そういう最高権力者の遊びに成っていた。元々は中央アジアでは庶民の猟です。それで最高権力者の遊びである御鷹狩りの技術者や犬を、(近畿)天皇家は献上させている。一番の問題は玉 類。[糸票]玉というのは玻璃製・ガラス製品。現代では安っぽく見えるが、当時ガラスは最高の工業製品。一五・一六世紀に西洋で大量 生産の方法が発明されるまでは、尊い宝玉のトップの位置にあったのが玻璃製・ガラス製品。その玻璃製品を九百三十三枚、「賣」という名目で献上させられている。どうせ買い上げたと言っても大した金は出していない。さらに今度は真珠。白玉 百十三枚、これもすごい数。その他にもいろいろ竹玉・ガラスの勾玉・管玉とか献上させられている。要するに弥生時代に博多湾岸にあった物が皆筑後の方に有ったらしく、それを献上させられている。そういうことがありました。それで今度の古田史学会報に少し皮肉を書いたのですが、従来の正倉院文書の研究者は多いが、どうして九州王朝論者にならなかったのか。あれを見れば筑後は他の国と違って、最高権力者の土地であることが明確ではないか。それから天平十年から十四年後に東大寺の奈良の大仏が建立されている。これは銅の製品ですよ。そうであれば今の数が書いていないほどの「銅の竈の工人」が献上させられている。その彼らが奈良の東大寺の大仏の建立の中心になったことはまず疑いがない。そういうことは教科書では教えていないでしょう。天平十年以前の権力の中心地は福岡県でした。王朝はそこにありました。正倉院文書の研究者がみんな言わなければいけない。言わなかったのが後世から見ると謎になるのではないか。こういう皮肉を書いた。
 そこから始まった問題は(近畿に)献上する前のおびただしい宝玉はどこに有ったのか。そういう疑問を持っていた。そこへ東京の高木さんから、筑後国に「正倉院」が有ったと言われたので、本当にビックリした。天平十年に献上させられた膨大な宝玉 はどこに入ったか。おそらく奈良の正倉院に入ったことはまず間違いがない。我々は今奈良の正倉院の宝物を見ていますが、何処からきたか知らずに見ています。。特にその中の膨大な宝玉 類は筑後から来たことはまず間違いがない。そうすると前にあった場所も並の庶民の家や地方豪族にそんなものが有るはずはない。そうすると筑後の正倉院にあった。そうなれば筑後の正倉院は第一正倉院。我々が知っている奈良の正倉院は第二正倉院。そういう問題が出てくる。それで現場はなかなか難しいだろう。鎌倉時代の役人が無実、無実と一生懸命書いているぐらいだから、二十世紀の我々が捜して見つかるはずがない。そう思って出かけて行った。一月の六日から十二日にかけて久留米市に行った。そうしたら有った。
 これは東京古田会の高木さんの事前のリサーチにより、田主丸町教育委員会の丸林貞彦氏に案内していただいた。三十代後半の熱心な方だった。連れて頂いたところが、「井の丸井戸」と呼ばれている所です。二重の石垣に囲まれていたと言われている所です。掘れば二重の石垣があると思うが。そこに教育委員会の看板があって、これは「正倉院」の跡ではなくて「正倉」の跡である。現在の知識では、正倉院が各地に有っては困ります。天皇家に献上するものを納める「正倉」なら全国各地にある。それだろう。そういう形で書いてある。その証拠の礎石が付近にあると看板に書いて有った。見たいと丸林貞彦氏に言うとその井戸の隣の家の庭石がそれだった。以前に了解を取られていたので、みんなで入らせて頂いて観察した。庭の石が軒並み礎石である。丸い石に四角い穴が開いている。そういう感じである。あの礎石が庭石に点々と使われている。大中小と有ります。しかも側の三明寺バス停の角の大きな石垣、それは大きな礎石が石垣として使われていて、しかも点々と大中小の礎石がたくさん使われている。
 先ほどの鎌倉文書から見ますと、現在竹野(たかの)郡と書いてある所がその場所である。そこには「正倉院」でなく「正院」と書いてある。人間が居る所が「正院」、倉がある所が「正倉院」。そういうコンビになっている。今の井戸がある所は、倉があって大事な所でなく、人が水を飲むのに大事な所、筑後第一の井戸だと言われていたと書いてある。それを最高の人が支配している。
 そこを教育委員会は「正倉」と書いてありますが、鎌倉文書と比較しますと「正院」跡になる。その鎌倉文書には面 白いことが書いてある。崇道天皇の「正院」・「正倉院」跡だと書いてある。崇道天皇というと平安時代の有名な早良親王。不遇の親王として有名で権力争いに敗れて淡路島に流され、その途中で死んだ。それで祟りなどがあって、社(やしろ)を奈良に移した。『三代実録』にそう書いてある。この早良親王とは全く別人だ。なぜなら早良親王は九州へは一度も行っていない。九州とは縁がない人物です。早良親王は後で崇道天皇と贈り名されたようですが、それとは別の崇道天皇が作った「正院」であり「正倉院」。そういう形に成っている。その「正院」が見つかった。
 もう一つ言いますと、『田主丸町史』、そこに写真がありますが、この地帯に条理制が行われた後があります。空から見るとハッキリ分かります。山の上からでもハッキリ見えるそうですが。我々から見ると小京都ではないかという姿を示している。それも現地の説明では、八世紀初めの道臣(みちのおみ)という人物が国府の役人に着たと『続日本紀』に書いてある。その人物が作ったものであろう。そう『田主丸町史』には書いてある。ところが丸林さんを含んで困っている。それはこの後教育委員会の方と質疑応答したのですが、何故かというと、これらの遺構は八世紀の道臣が作ったという形で理解して説明されている。実は年輪年代測定法が出てきて百年ぐらい遡ることになると、道臣(みちのおみ)の手を放れることになる。道臣より百年前の話となる。7世紀前半の話になる。これは大変困ります。私たちは大変困ります。正直に言っておられた。困られるけれども仕方がない。つまりこれは白村江以前の崇道天皇と言われる人が七世紀前半に居た。その人の作った正院であり正倉院である。そこにおびただしい玉 類があった。それを八世紀前半に(近畿の)天皇家に献上させられた。そういう話になってくる。
 後は詳しくは古田史学会報(三十六号)の論文に掲載させて頂くので簡単に言いますと、この筑後領域はほぼ都の姿を示している。先ほどの『久留米市史第七巻』「書陵部所蔵諸官符」には「宮城」と「宮城大垣」が書いて有る。「宮城大垣」の名前が残っている。調べたけれど分からない。つまり宮城の中に正院と正倉院が有る。これは並ではない。国府の役人が宮城に居たら大変なことになる。そういう遺構があると思う。今のところは正院だけが分かっている。他の正倉院や宮城大垣は調べなければ分かりませんが。その一点が確認されたことで、まず中世史料が単なる想像でこんな事が言えるはずがないことが分かってきた。
 それで筑紫太宰府は正面から見て、見える丘が大(内)裏丘、それに(字)紫宸殿、朱雀門とあり、あれが都の姿を示している。天子が居ることを示しているのは明らかです。それと同時に、ここにも都がある。筑後も、宮城の中の正院・正倉院です。そうすると古田史学会報で問題にしている「両京制」という概念を導入することになった。
 そうするとそこで出てくるのは九州年号の問題。『失われた九州王朝』で載してありますが、九州年号の最後に「喜楽ー端正ー始哭ー始大ー法興」と五つの別の系列の年号が存在する。これは『二中歴』や『海東諸国記』の「端政ー告貴(従貴)」と重なっている別系列の年号が五つある。しかも別系列の2番目の年号である「端正」は、我々が知っている『二中歴』の「端政」と同じだと思う。「正」と「政」で略して書いただけで同じである。そして、ここに別系列の年号の定点が入る。定点が入って、そこに「法興」があり、重なって「倭京」という年号が存在する。「定居」も「法興」と重なっている。このあたりが二つの年号が並立している。
そうしますと、今の私の仮説ですが、「両京制」と対応して、「両年号制」が部分的に存在したのではないか。そこで始めて「法興」という年号が位取りが出てきた。
 詳しくは古田史学会報を見ていただくと分かりますが、二つある方の都のうち、太宰府の方は紫宸殿があるから文句無しの都。筑後の方は文句がある訳ではないけれども、宮城と言っているけれども正院・正倉院と言っている。つまり「院」です。太宰府の方は院ではない。そうすると、そこに上宮法皇が居たのでないか。だから「院」と言っている。つまり天子を引退して、しかし天子以上の権力を持っているような法皇が、正院・正倉院に居た。つまり院政の始まりではないか。我々が知っている平安時代の後白河天皇などの院政の元はここにある。
 私は今まで『二中歴』の主幹系列の年号だけを意識してきたが、実は二重並立期があった。そこに「法興」が入ってきた。私はそこで大きな問題に突き当たったと考えている。
(参考)
九州年号部分
「鏡当ーー勝照ー端政ー告貴(従貴)ー願転ー光元ー定居ー倭京ーー仁王」
「喜楽ー端正ー始哭ー始大ー法興」
『田主丸町史第二巻』ームラとムラびと上ー(一九九六・一〇・三〇)
『久留米市史第七巻』「書陵部所蔵諸官符」

  次に話は白村江の方へ移りたいと思います。
 もう一つ申し上げておかなければならないのは、天智三年に「筑紫の水城を作った。」と『日本書紀』に書いてあります。今まで私は、その筑紫の水城(みずき)とは太宰府にある水城だと考えてきた。みなさんもそう思ってきたし、もちろん九州歴史資料館をはじめ九州の方もそう思っていた。ところが最近変な話が出まして、太宰府の南側にも水城(みずき)があった。規模は小さいけれども水城と見えるものが見つかったと、関西・東京では出ないが西日本新聞などでは出ている。
 実は私はそれだけではないと思う。『久留米市史』の中世史料を見ますと一番良く書いてあるのが堤である。大きい堤、中ぐらいの堤、小さい堤と一杯書いてある。小さい堤でも一九七カ所。大きな堤でも、中ぐらいの堤はもっと書いてある。しかも高さ何尺何丈、幅何尺何丈と非常に細かく書いてある。とうてい耳で聞いたような話ではない。前帳、多分平安時代の帳簿に残っている話である。鎌倉文書に軒並み無実と書いてあるが、帳簿に残っているだけで有り難い。私はこれは水城(みずき)だろうと思う。要するに敵が来た時洪水にして敵の侵入を防ぐ。
 先ほど言いました吉野ヶ里の三〇〇メートルの塗り固めた高速道路(土塁)。あれもその一環だろう。私は始め農業用だろうとか、津波を防ぐためだろうかと、盛んに徳富さんにお聞きした。そういう説もあるが、それだけでは収まりがつかない。三〇〇メートルの向きが違う。洪水を防ぐ為や農業潅漑では皆向きが合っていない。それで高速道路だろう。そういう論文を書いておられる。しかし、それを押し詰めていくと軍事用ではないか。敵が攻めて来たとき水を流して敵の侵入を防ぐ。しかしそこの高速道路は通れる。この堤も水城(みずき)の一種ではないか。
 それを『日本書紀』を見ると「筑紫の水城(みずき)」と書いてある。それを我々が、勝手に太宰府の水城が残っていますので、結びつけて解釈してきたのではないか。また神護(こうご)石山城群もある意味では「水城(みずき)」の一種ではないか。何故かというと、水を流して、敵を攻撃した時民衆は溜まりません。畑や家も全て潰されます。それだから民衆も神護(こうご)石山城に集合させ収納する。大体神護(こうご)石で囲んでいる所は広すぎる。兵士だけでは余りすぎる場所を囲んでいる。ですから民衆も入れる為のものだろう。そういう事は前から言われていた。しかし私はまだ頭が固くて、敵が攻めてきた時の逃げ城のように考えていた。基本はそれに違いないですが、それだけではなくて洪水作戦を取った。敵が侵入してきた時は、民衆を神護石山城群に入れて洪水作戦で対抗する。そのような遠大というか壮大なプランを立てて、水城(みずき)と神護(こうご)石山城群が作られていた。
 この水城(みずき)は、一石三鳥というか三つの用途を兼ねていた。
 一つは日常の給水である。十数年前福岡へ行ったとき水不足で悩まされた経験がある。ホテルで泊まっていたが水が一切出ない。お風呂もない。レストランも水がないから廃止。作ってくれない。そういうひどい目にあった経験がある。つまり人口が今ぐらい有ると水が不足する。それは当時も変わらないと思う。特に倭人伝でも七万戸と非常に多い。筑前から筑後だと思いますが。あれだけの人数が居たら水にたいへん困ると思う。その為の水を普段貯蔵する。筑後には谷をせき止めた後がたくさん有る。谷をせき止めて飲み水の不足に対処する。
 もう一つは潅漑用。田畑の潅漑にも使う。
 しかし一番大事なのは一旦緩急あれば、軍事用の敵に対する洪水作戦。そういう一石三鳥のような構想を持って作られたのが、神護(こうご)石山城群と水城(みずき)ではないか。今そういう事に気がついて、気が付くのが遅いですが、驚いています。
 そうしてみると、そんなすごい準備をしていたのに、なぜ白村江まで出て行って負けたのか。出て行ったことに大ポカ・間違いが感じられる。これは一体何か。
 これは先ず百済の壊滅。その問題から始まっている。白村江の三年前、唐に新羅が「高句麗や百済が国境を襲ってきた。」と訴えてきた。それを口実にして、百済に侵入して国王・皇子・大臣を三七人捕虜にして長安に引き連れて帰ったという事件がある。『日本書紀』がこれを書いていないことに意味がある。あれは完全に唐の侵略です。それを『日本書紀』は書きたくなかった。
 そこから先は私の推定です。おそらくその時に、百済にも今のような朝鮮式山城があった。ところがそれは用を成さなかった。唐は朝鮮式山城を知っていて、これに対して用を成さない作戦を立てたと思う。唐の前の隋が、高句麗遠征にさんざん失敗していますから。それに学んで百済を攻撃するときに、対抗する処置に成功したのだと思う。それが倭国に非常にショックを与えた。自分のほうはこれだけ準備して大丈夫だと思っていたら、あの百済のような調子で攻撃されたらもう駄 目だ。このことが外に出て戦うという作戦になった一つの理由です。
 もう一つの想像は、古賀さんに言われて直ぐ賛成したのですが、近畿天皇家が原因ではないか。つまり近畿天皇家がバックにいて白村江から手を引いた。唐と内応しているかも知れない。そうすると先ほどの敵の侵入を待って戦うという戦い方は十全ではない。後ろにも敵が居る。
 それで結局いろいろな議論が中でされたと思います。それでは今の我々は海戦には自信がある。唐が攻めて来ても、我々は全力で戦えば勝つ。そういう形で、飛んで火にいる夏の虫に成った。おそらく唐はそれを予想していた。近畿天皇家と関係していれば情報は入りますから。それで白村江の戦いになり敗戦になった。
 そういう事になりますと、唐としては本当に近畿天皇家に足を向けては寝れない。それで天智天皇が亡くなったときに、阿弥陀仏の仏像をつくって弔う。そういう形に成って行ったのではないか。
昨日から昨夜にかけて出てきた問題を申し上げました。今後検討して頂ければ幸いです。


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