古田武彦懇談会第二話 二〇〇〇年 一月二十二日(日) 於:大阪

この歌は大和吉野の歌ではない


読み下し文(岩波日本古典文学大系に準拠)

『万葉集』巻一

吉野の宮に幸(いでま)しし時、柿本朝臣人麿の作る歌
三十六番
やすみしし わご大君の きこしめす 天の下に 国はしも
さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ
秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並めて
朝川渡り 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく
この山の いや高知らす 水激つ 瀧の都は 見れど飽かぬかも
反歌
三十七番 見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む
三十八番
やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に
高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなづく 青垣山
山神の 奉る御調と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり
                     [一に云ふ][黄葉かざし]
逝き副ふ 川の神も 大御食に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち
下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも
反歌
三十九番 山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも

右、日本紀に曰く、三年己丑の正月、天皇吉野宮に幸す。 八月吉野宮に幸(いでま)す。 四年庚寅の二月吉野宮に幸す。五月吉野宮に幸す。五年辛卯正月、吉野宮に幸す。四月吉野宮に幸すといへれば、未だ詳(つまび)らかに何月の従駕(おほみとも)に作る歌なるかを知らずといへり。

原文(西本願寺本)
(三十六番)
八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 國者思毛
澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相
秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百礒城乃 大宮人者 船並弖
旦川渡 舟<競> 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃
弥高<思良>珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可<問>
反歌
(三十七番)雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟
(三十八番)
安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 <芳>野川 多藝津河内尓
高殿乎 高知座而 上立 國見乎為<勢><婆> 疊有 青垣山
々神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭<刺>理
                 [一云][黄葉加射之]
<逝>副 川之神母 大御食尓 仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立
下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流 神乃御代鴨
反歌
(三十九番)山川毛 因而奉流 神長柄 多藝津河内尓 船出為加母

 今度は『万葉集』の問題です。
 それで奈良県の吉野へは、古田史学の会の水野さん、山崎さんらと一緒に調査に参りました。行く前は、別に行く必要はないけれども念押しだ。昔吉野へ行った覚えがありますから、始めての所ではないし、今さら行ってみても、何か分かるわけでもないだろう。しかし反面現地に行って確かめて見なければ分からない。秋田孝季先生も言っているとおり、「歴史は足にて知るべきものなり」。確認しなければ格好が付かない。そういうことで横着なような、心がけが良いような悪いような態度で行った。しかしこの吉野行きは非常に 成果を上げることが出来た。私の態度は全く間違っていた。前に言いましたが私は宮滝に滝があると思い込んでいたが、そこに滝がないことを発見した。もっとも宮滝から車で一五分ぐらいの所、山一つ越えたところに蜻蛉の滝という滝があることはある。しかしあれでは困る。

山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に舟出せすかも

 この歌が『万葉集』にある。そこに「たぎつ河内に舟出せすかも」と歌っている。そうめんのような滝で、三メートルではありませんが、滝壷があるか良く見なかったが、再確認の必要はありますが、あそこから船出は無理である。ところが人麻呂は「舟出せすかも」と歌っている。宮滝の歴史資料館の学芸員の方にお聞きしても、舟遊びぐらいは出来ますが船出は無理です。そういう返事です。もっとも行ったのは十二月ですから、その時は水がない時ですから出来なくとも、ダムがなくて水が流れていれば舟遊びぐらいは出来る。
それにしても舟遊びを行った事を「船出せすかも」は無理です。オーバーでよいのだ。嘘をついて良いのだ。舟を浮かべたのでしょう。それで良いのだ。舟遊びした。滝壷に船を浮かべて回して遊んだ。私の頭では、それを船出と言うのは無理です。
 「船出せすかも」というのは、船がそこから出発して、ずっと出て行く永い航海の出発点を、普通日本語では「船出」という。これに限らず『万葉集』に出てくる吉野と、奈良県の吉野とは、ぎくしゃく・ぎくしゃくして合わない。ということで、これらの歌も奈良県の歌ではなくて、また佐賀県の歌ではないか。これについては実は非常に大変苦しかった。今日も壬申の乱について(私の考えに対し)、そういう話はおかしいではないか。そういう御質問はもっともだと思うぐらい、私だって古い頭しかなかった。胸がどきどきして苦しかった。
 それで佐賀県の方を調べてみなければならない。それで一月七日・八日と行って来ました。郷土史家で元地学の先生の江永次雄さんに御案内していただいた。初め電話をしましたが余り乗り気でなかった。それはそうでしょうね。『角川地名大事典』等で調べてみると吉野ヶ里とは別に吉野山がある。それを地元の人に聞いても誰も知らないと言われた。江永さんに聞いてもそれは知りませんという話だった。ところがその後電話が掛かってきて有りました。吉野山は有りました。しかし何処にあるか分かりません。こう言って一度は突っぱなされました。しかし江永さんは、そこから後調べられたらしい。それでまた電話が掛かってきて、分かりました。吉野山へ今日行って来ました。これが現地の強みですね。それで佐賀県の地図で佐賀市を流れていると言って良い一・二を争う大きな嘉瀬川という川がある。その嘉瀬川の一番上流が吉野山である。吉野ヶ里とは別個にある。そうすると人麿が「吉野の川」と言っているのは、この嘉瀬川のことではないか。と言いますのは、「か」は神聖な、「せ」は瀬の意味であると考えます。そしてこの神聖な瀬のある川のことを人麿は「吉野の川」と言っているのではないか。それも(背振山脈の一番高い山である)金山の裏側が実は博多の吉武高木遺跡で、その連なりが吉野山である。だから筑前・博多側から見ると、「吉野の川」という見方・呼び方は、非常に有りえる。その嘉瀬川の下流の先、中流と下流の間に、雄淵・雌淵渓谷という所と、雄淵の滝がある。そこへ江永さんは連れて行ってくれた。そこは雄淵・雌淵が、瀬になって流れている。しかも七十五メートルの文字通りの直列の滝が、雄淵・雌淵へ流れ落ちている。しかもここが良いのは、ここからが下流の始まりである。上流にダムがなければ水量も豊富に有っただろう。鮎もこの瀬を越えられない。ここまでなら船で上がることが出来る。ここからすっと有明海に出ることが出来る。だから「水激る 瀧の都は」と「激(たぎ)つ河内に」「上つ瀬に 鵜川を立ち下つ瀬に 小網さし渡す」と有り、イメージに合う。江永さんに現地を案内していただき、高木さんや古賀さんに調べていただいたお陰で、ここのことを人麿は歌っていたのでないかということが、分かってきた。それを我々は奈良県の吉野だと思い込んでいた。現地を良く見ないで、現地の歴史資料館の方が困っていたことを知らずにいたのではないか。


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