書 評
(小学館ライブラリー・800円)
古田武彦
『神話の世界』(一九五六年)『日本神話』(一九七〇年)以来、数多くの神話論と神話紹介を行ってきた著者だけに、小著ながら安定した重厚さを蔵し、碩学の風貌さえたたえている。「古文献の神話伝承」という資料集の付載も親切である。
折口信夫と津田左右吉の古代研究の成果を豊かに摂取し、折衷する学風に立つ、著者ならではの「力作」といえよう。さらに朝鮮「蕃国」観の系譜を説き、批判している点、年来の提唱者として、著者の面目躍如だ。
だが半面、残された問題は少なくない。
第一、ユーカラなどのアイヌ神話・伝承が全くふれられていない。資料集にもない。北海道は日本ではないのか。外国人はそう疑うであろう。
氏は戦後の神話研究史をリードしてきた。
この欠落はそのまま、戦後の(戦前と同じく)日本の教科書の欠落なのである。不可欠のポイントだ。
第二、『古事記』には、「稲の神」が出現しない。『日本書紀』には「倉稲魂命」が二回出現するけれど、主役の説話がない。単なる端役にすぎないのである。不思議だ。
縄文晩期以来の板付稲作水田(福岡市)は弥生前期まででプッツリと断絶した。倉稲魂命は福岡県はじめ日本列島各地の「お稲荷さん」等に祀られ、日本の庶民の広く尊崇するところ、しかし『古事記』や『日本書紀』その他の、いわゆる「日本神話」には影がうすい。伊勢神宮に稲にかかわる行事のあること、周知だが、天照大神は「稲の神」ではない。--なぜか。外国人にも日本人にも分からない。
それは皇国史観でも戦後の神話造作説でも、解決不能だ。結局「征服・被征服」という史実の反映であろう。「被征服者」の神々や神話は、記・紀では無残に切り捨てられ、軽視されている。天皇家一元論者の折口や津田たちが、あえて“目をおおった”局面
である。
しかし日本の大地には、稲の神の信仰が生き生きと生き残り、今に至っているのである。
第三、昨年三内丸山(青森市)から発掘された縄文の一大中心遺跡、そこには神話・伝承は存在しなかったのだろうか。--否。当地方の和田家文書(『東日流外三郡誌』等)には豊富な伝承の記録がある。これにも一切ふれられていず、資料集にもない。
氏の認識の遺漏か、「偽作」説への配慮か、それとも本居宣長以来の「日本神話」学の伝統か。しかしながら歴史学の父とされるギリシャのヘロドトスは、異論や異系列の別
伝承の「併記」をあえて行い、最終判断を後代に待つ、これを歴史学の本道とした。
近畿天皇家一元主義の「わく」の中の神話学にとどまるか、それとも世界に通ずるヘロドトスの道を歩むか。今、正念場のようだ。
(産経新聞、一九九五・二・十四夕刊より転載)
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