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1997年4月26日 No.19

古田史学会報 十九号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫

 


メキシコの中国古代文明 (東京古田会ニュース五四号より転載)

殷からオルメカへ

東京都 藤沢徹

 二月十日、米国ワシントンのスミソニアン博物館の文化人類学研究室にメガーズ博士を訪れた。博士は一昨年来日したとき関係者に非常によくしてもらったと感謝していた。特に古田武彦先生や平野史子さんにお世話になった旨を繰り返した。お陰でジョージタウンの御自宅に招かれ、一晩歓談を楽しんだ。
 メガーズ博士との話で目新しいトピックが二つあったのでご披露したい。
 一九九六年十一月四日付けのUSニューズ・アンド・ワールドレポート誌は、「二つの文化の物語」という題で、北京の古代史学者が古代中国王朝とアメリカ大陸の初期文化との密接な関係の存在を立証したと報じた。
 要約すると、メキシコのラ・ベンタで発見された三千二百年前の翡翠の石斧に刻まれた謎の絵文字は、殷王朝時代の文字に他ならないというのである。
 昨年九月のことである。中国社会科学院で中国古代史担当の陳漢平博士(四七才)はワシントンの国立絵画館で開催されているメキシコのオルメカ特別展を訪ねた。
 まず、十トンを超す玄武岩のオルメカ巨石頭像を見てから問題の群像を調べた。十五センチメートルほどの蛇紋岩や翡翠製の男性像が十五体並び六本の石斧・玉斧とよばれる磨かれた翡翠の斧が直列していた。この玉斧には象形文字らしい絵が刻んであった。
 陳博士の目は四本目の半ばで釘づけになった。「間違いなくこれは殷の甲骨文字だ。王と諸候が王国の基を築いたと読める」彼は叫んだ。
 放射能炭素測定法では、オルメカ時代は千~千二百年BCに当り、殷の滅亡時と時期が一致する。
 アメリカの考古学者は一九九五年にこのオルメカ群像を発掘したものの中国のことなど夢にも思わず、他方殷専門の中国学者はオルメカなど思いもつかなかった。
 陳博士の仮説は次のようだ。
 殷(商)の軍隊が反乱軍に大敗北を喫し、王辛(紂)が周の武王に殺されると、敗残の諸候・軍勢は黄河を下り大海に出、日本の沿岸を経て、海流に乗りカリフォルニアに向かったが、エクアドル近辺で消息を絶つ。
 ここで雑誌はメガーズ博士を引用する。
  五千年前に日本の縄文土器がエクアドルのバルデビアに来ていると唱えるメガーズ博士によると、陳博士の仮説はまことにもっともで、先史時代のアジアの航海者は今日考える以上に優秀だったそうである。
 ということで、陳博士の提言はアメリカ考古学会の「古代アメリカ大陸文明は独立発達か伝播か」という対立論争の火に油を注ぐことになった。
 雑誌の記事を引用しながらこの話をしてくれたメガーズ博士は更に驚くべき事実を述べた。
 彼女は一九七〇年代に、殷とメソアメリカ(メキシコを含む中央アメリカ)の深い関係について論文を発表していたのである。
 一九七一年ロンドンのペルメル・プレスにヘイエルダール氏等と共に「アジアとの接触」という論文を載せた。
 更に、一九七五年三月号の考古学会誌「アメリカン・アンソロポロジスト」に「メソアメリカ文明の太平洋横断起源 -- その証拠と理論的意義の概観」という題で二七ページの論文を載せた。
 両論文とも『倭人は太平洋を渡った』の参照論文として明示してあり、一昨年来日のときコピーを配布して筆者も持っていた。不勉強のため、改めて問題になるまで読まなかった。
 ともあれ改めて読むと、内容は陳博士の発見よりはるかに広く詳しく説得的だ。殷王朝文明とメキシコのラ・ベンタ出土のオルメカ文明の関係を緻密に立証している。特に、石斧・玉斧に関して、殷の王以下諸候の身分と権限に応じて形状が異なる笏の具体的例を挙げ、オルメカの絵画に出てくる石斧と対比している。
 メガーズ博士は、残念ながら論文の反応はいまひとつぱっとしなかったけれど、今回の陳博士がこの先行論文を全く読んでいないことがわかり、全く関係のないところで同じ結論に達したのは意義深いと結論つけた。
 次のトピックは、土器の年代測定に有効な方法の実験である。メガーズ研究室のデスクにはコンピューターのプリントアウトが広げられ、放射能炭素測定と編年法の両者が対応されてあった。
 アマゾンのある地域が開発されることになって、何カ所かかの場所から出土した土器群を年代別に並べようとした。ここで日本の三内丸山と同じ問題が出てきた。人々は定住したのか移住したのか、土器の年代から追っかけようというのだ。
結論では、メガーズ博士は編年法に軍配を上げる。炭素十四ではまだ誤差があって実年代をそれのみで決めるのは危険であるとのこと。なお、コンピューターの処理は自分ではやらず、データプロセスの専門家に委嘱しているそうである。
 以上、メガーズさんとの話を要約した。殷王朝とオルメカの繋がりにはびっくりした。しかし日本と同じくアメリカ考古学界も異論が対立しているんだなあと感心した。スミソニアン博物館はニューヨークの自然史博物館と意見を異にしているそうだ。縄文土器の南米伝播は前者ではきちんと陳列しているが、後者では完全に無視している。
 昨年は『海の古代史』の座談会に出ている増田義郎教授とスペインを旅した。日本の文化人類学会は翻訳が主で、対立には巻き込まれたくないそうである。
 アメリカの現状は日本と違い対立・論争がいいことと認識されているようである。学問の進歩は権威やなあなあからは生まれないのだ。(ふじさわとおる・東京古田会々長)


兵庫県氷上郡七日市遺跡

弥生時代「階層」を示す遺跡

大阪市 大塚誠

 平成九年二月十三日、古田先生始め諸先輩と福知山の近郊にある七日市遺跡を尋ねた。その際戴いた兵庫県教育委員会埋蔵文化調査事務所の資料を抜粋して紹介します。
 ご紹介します七日市遺跡は、兵庫県南部を流れる加古川と、京都府北部を流れる由良川の源流が近くにあるところから、ここを中継点として、古くから瀬戸内海側と日本海側とを結ぶ重要な交通路となっていました。従って人類が生まれて以来、多くの人々や文化がここを行き来しました。これまでの調査で旧石器時代、弥生時代、奈良時代、平安時代の各時期の遺構が沢山見つかっています。
 七日市遺跡は、以前から発見されていましたが、今回北近畿豊岡自動車道春日ジャンクションの建設に先立って、このうち弥生時代の集落跡を調査したものをご報告します。
 七日市遺跡の位置は、由良川の上流、竹田川の左岸にあり、遺跡の北5キロメートルには加古川との谷中分水(水分れ)があります(図1)。ここは瀬戸内海から六〇キロメートル入っているにもかかわらず、標高が九〇メートルしかなく、瀬戸内海側から日本海側にぬける重要な交通路でした。

遺跡
図1 兵庫県氷上郡七日市遺跡 位置

 遺跡の範囲は、南北五百メートル以上、東西三百メートルの範囲で、弥生時代の集落の中心部分はほぼ完全に調査されています。
その結果、弥生時代中期後半の墓が沢山みつかりました。墓は方形周溝墓や木棺墓、土器棺墓があり、それぞれ群をなして分布しています。またこれらの墓を壊してつくられた弥生時代終末期の住居跡もみつかり、この時代のムラのうちで人が住んでいた場所と墓場の全容が、ほぼ明らかになりました。
 今回の発掘調査で、家と墓の階層差の対応関係が明らかになりました。集落と墓地はそれぞれ川跡で東西に区切られ優劣関係がはっきりと区別できています。
 墓地では西側(図2)〔墓域-A〕は、上位のクラスと思われるが、その中でも一辺八~十七メートルの盛り土をされた方形周溝墓など規模の大きい中に葬られた人、溝の中に葬られた人、木棺墓に葬られた人、という優劣関係があり、また東側〔墓域-B〕は、埋葬の簡単な木棺墓が中心だったので下位クラスと思われるが、その中でも方形周溝墓に葬られた人木棺墓に葬られた人という優劣関係がありました。そしていずれの集団の中でも、出身や血縁の違いが棺の構造や方向に表されているのです。

遺跡
図2 弥生時代中期後半の集落

 つまり区画の有無、盛土の有無は集団間の弥生時代の「階層」を示す遺跡尋ねて階層差を、木棺のタイプ、方向の違いは個人間の出身・血縁の違いをしめしています。
 このように弥生時代の社会は、これまで考えられていたほど単純なものではなく、階層差が二重三重に絡み合った、重層的な社会であったと言えます。
 弥生時代中期後半の居住域もそのまま当てはめられるようで、東西二群に分かれていますが、西側の群〔居住域-A〕のものは七~九メートル四方の比較的大型の竪穴式の住居だったのに対し、東側の群〔居住域-B〕は四~五メートル四方とこぶりな住居になっています。
 また西側の居住区-Aに住んでいた人々は西側の墓域-Aに葬られたと考えるのが自然で、墓の規模などからうかがえる階層差は、生前の階層差を如実に反映したものであるということが言えるのです。
 弥生時代に階層差が存在するであろうことは、これまでの調査でも断片的には知られており、確実視されていました。しかし七日市遺跡ほど明瞭に、しかも居住域と墓域が同時に調査された例は初めてで、今回の最大の成果と言えるようです。
 弥生時代は稲作が各地で本格的に始まる時代です。稲作には耕地の開発、水利のための土木作業といった多くの労働力を必要とする作業が伴います。家族・血縁をこえて労働力が動員されるようになりますと、集落内には多くの人を動かすための上下関係をもった階層差が生じてくるのです。
 また、加古川を利用して瀬戸内側と、由良川を利用した日本海側の人・物・文化のそれぞれの中継基地として、この集落が発展したものと考えられ、稲作だけではなくこの交易で利益の授受によっても優劣がついたものと考えられる。

【編集部】
古代における階層差については、弥生時代にとどまらず、縄文時代に遡ることを「縄文乳母奴隷」の発掘例や竪穴式住居と高床式住居の混在などから、古田氏が早くから指摘しているところでもある。また、縄文都市・縄文国家・縄文大土木工事という概念も古田氏は既に提唱されている。

参考(古田史学会報四十二号添付)

オイルロード 2000.9月号特別企画 古代史ブームをめぐって --戦前戦後の古代史観の変化について 古田武彦

 


「縄文燈台」物理的には可能 高知新聞(三月二八日)より転載



☆☆〔 本 の 紹 介 〕《古賀達也》☆☆

神々の遺産 -- 岩録文像の謎

      吉田信啓著

 筆者は日本ペトログラフ協会会長。岩に刻まれた文様研究のわが国での第一人者のようである。いわゆる「超古代史」と金石学の中間のような分野であり、今まで真剣に読んだこともなかったのだが、古田先生の写真や九州王朝説を好意的に記していたので、買ってしまった。著者の論証抜きの断定や論理の飛躍は賛成できないが、各地の文様遺構や古代海洋航海文化については興味深い紹介が少なくない。たとえば、アメリカインディアン・ズニ族には先祖は太平洋の西から来たという伝承がある、ということや、沖縄の前期縄文土器(曽畑式土器)発見、各地の環状列石の紹介などは、貴重な情報だ。福岡県瀬高町こうやの宮の七支刀の人形を「新発見」と紹介しているのは、著者のミス。すでに古田氏が紹介済みである
(中央アート出版・本体一六〇〇円)

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千字文

    小川環樹・木田章義注解

古田先生は最近南九州の地名群に注目されている。そこにはわたしたちの「教養」とは異なった独特の漢字や読みをもつ地名が集まっているからだ。この現象を古田氏は中国江南の漢字文明圏に古代南九州は属していたからではなかったかと推測されているようだ。
 一方、古代から形成されてきた倭国の漢字文化の源流の一つとなったものが、本書千字文だ。四字一句の二百五十句でなる千字文は『日本書紀』にも記された古来より著名な書である。九州王朝の文字官僚たちも千字文で漢字を学んだことを疑えない。この千字文による漢字教養が現代日本の漢字文化の底辺にあるのだが、非千字文漢字文化と思われる地域が南九州だけなのか、今後の研究課題だ。 多元的漢字文化の解明。古田先生の学問分野は古希を迎えられ、なお豊かに広がる。注者小川環樹氏(湯川英樹博士の実弟)による解説も参考になる。(岩波文庫・本体七四八円)

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『三国志』と九州王朝

古田史学の批判的考察

         吉田尭躬著

 古田氏の著作の特色は、その読者から数々の研究者を育み、それら研究者による著作をも生み出したことであろう。本書もそうした本の一つだ。著者は本会会員でもあり、今まで発表されてきた論文などを一冊の本にされた。また、古田氏との対談(討論)も掲載されており、両者の共通点と相違がかいまみられ有意義な企画となっている。テーマはその名の通り、『三国志』と九州王朝。古田史学の中心領域である。副題に古田史学の批判的考察とあるように、古田説に立ちながらも、疑問点や異論を読者にぶつけている。また、九州王朝貨幣に関するわたしの小論も掲載していただいている。著者は末尾に「古田史学にとって最も重要なのはその学問の方法であり批判的精神である。古田教授の最近の議論には疑問が多くなっているが」と記す。この指摘については、別に述べる機会を得たい。(新泉社・本体一九〇〇円)

 


古田史学とは何か8

違和の中の未来図

橋本市 室伏志畔

 ミッシェル・フーコーは思い入れをしたがるあらゆる思想に対して、知の考古学の立場から言えばマルクスの思想は十九世紀の思考類型を一歩も出るものではなかったと突き放したのは記憶に新しい。このとき七〇年代から戦後史学の殻を打ち破り新たな展開に入った古田史学が、二〇世紀世紀末を超出しようとする思想類型とどれだけ共通 の課題を引き受けるものであるか、わたしは戦後思想を超克するために六〇年代以後悪戦苦闘してきた吉本隆明の幻想論と寄り合わせる『伊勢神宮の向こう側』を今度書き下したところ、それぞれの会員から別 個に吉本幻想論と古田史学についてもっと説明がほしかったというないものねだりにあった。わたしはこのおねだりにはたやすく乗れそうにないのは、「古田史学の会」も「吉本隆明研究会」も見事なまでにタコツボ的な党派思想を育んでいる事態の深刻さに、思わず身を引き締めないではおれなかったからだ。同時代の他の秀れた展開に目を暝って、情況をどう突き抜けようというのか。そんな憂鬱な気分に陥っていた矢先に埴谷雄高の訃報が届いた。戦後思想に屹立したこの人を古田史学はどう遇してきたかを思い、わたしはさらなる沈鬱な気分に陥った。
 三〇年代豊多摩刑務所の独房で、ひとり壁にに向き合っていた埴谷雄高は、己れを昨日まで囚えていたマルクス主義のドグマをひとり脱け出て、壁を突き破る向こう側の不可能性の彼方に思考を解放するという前代未聞の実験を牢獄で繰り返すことによって娑婆の世界に舞い戻った。この遥かな未来の《死》の視点に立つことを自らに課すことによって埴谷雄高は現実を容赦なく裁いたのである。死んだふりをして現実を裁くという埴谷批評は、戦後革命熱に浮かされた左翼にとって実践的でないとされたが、何の現実有効性も買おうとしなかった埴谷の政治理論が『幻視のなかの政治』としてまとめられたとき、左翼のスターリン批判がとりどりの声を競ったあげくに時と共に色あせた党派の馬脚を現すしかなかった中にあって、埴谷理論はだれよりも現実に妥協することなく屹立していることに人々は否応無く気づいたのである。そして存在の変革を伴わない現実変革の思想に対し、埴谷雄高は「レーニンはただレーニン全集の中にしかいない」という有名なテーゼを提出し、党派的レーニンもどきとしてのスターリン主義者を根底から批判したのである。のみならず、埴谷は大学や新聞社に寄職することをよしとせず、そうした位 置から発言することを自戒とし、その本質的思想をもった『死霊』を売文することなく、同人誌「近代文学」をもってその本来の発信場所としたのである。その後、吉本隆明が「試行」を拠点とし、大学や大新聞や大手出版社を発行母体に選ばず活動できたのは、多くをこの埴谷雄高に負っている。とするとき著名人の片言半句を羊頭のごとく掲げ、なりふり構わぬ 雑魚たちの狗肉を売っている『季刊・邪馬台国』という雑誌は、戦後思想のあり方から一体何を学んできたのであろうか。『神武東遷』の頃はまだ初々しい挑戦気がないではなかった安本美典は、最近は悪名高い右翼暴露雑誌の「ゼンボウ」の関係者にページを割くほどすれてしまったが、彼自身はだんだん顔が利くようになったと錯覚していることであろう。しかし思想や学問という奴は顔がきくようになったところが墓場であることは知る人ぞ知る秘密なのだ。常に本質的な問題はその初源においては現実への違和に始まるので、現実との妥協によって拓かれることは決してないのだ。
 『歎異抄』の蓮如本の「流罪記録」に見られる用字を「記憶の失われた表記法」として、それを誤写や誤字とする通説を排して古田武彦はこう書いている。

《この研究体験によって、わたしはつぎのような文献処理学上の重大な原則を学ぶことができた。
“わたしはときとして写本の中に、あまりにも不可解・不合理であり、当然不注意なミスであるかにみえる箇所を見いだす。そのとき直ちにこれを原文のあやまりと断定し、後代の目から理解しやすい形に改定してはならない。そうすると、かえってその本の生み出された時代の真相を見あやまり、その中にいきづいている著者の真実をゆがめてしまうこととなるかもしれないから”。

  この文献処理学上の注意は、理論化すればつぎのようになろう。すなわち、現代のわたしたちに「不審に見える」箇所は、いいかえればわたしたちのもっている常識に衝突する地点である。つまり、わたしたちにとって“異質なもの”が厳とそこに存在するのである。それこそ、わたしたちの生きている時代とは異なった常識の存在していた時代と、古写本というタイム・マシーンを通じてわたしたちがまさに出会った、その接点であるかもしれないのである。両時代をハッキリ別つ、その標識がそこにあるとき、それをわたしたちははじめ「不審に思う」という形で認識するものだからである、と。》
 この視点こそが邪馬壹国を邪馬臺国として疑わない通説に古田武彦を挑ませ、『三国志』全編から八十六個の壹と五十六個の臺を抜き出させ、その検証から従来の邪馬台国論がこぞってそれをヤマトと呼びたいための天皇制の罠の内にあることを論証したのである。のみならず、その著『「邪馬台国」はなかった』はその輝かしい発見にとどまることなく、邪馬壹国への行路記事の検証は、その論理のおもむく当然として、地球の反対側に位置する黒歯国と裸国にまで行き着いたのである。世の常識から見てさらに「荒唐無稽」なこの結論に朝日新聞の担当者はびびり、その章の削除を申し入れたのに対し、出版拒否をもって古田武彦が押し通 したことはよく知られている。この常識に対する違和が現在どれほどの成果となって戻ってきたかは『海の古代史』がよく証明している。
 こうした視点から現実を顧みるとき、産経新聞をバックにした藤岡信勝を中心とした自由主義史観研究会が、従軍慰安婦の教科書からの記述削除と国家の尊厳の回復を求めて、美談の発掘に狂騒している姿は一体何を語るのであろうか。 
 どんな残虐な軍国主義のもとにあっても人間がいる限り美談はあるであろう。ヒットラーのナチスが魔物の集団でなかったように、大日本帝国軍隊も鬼の集団ではなかった。かれらは郷に入れば、よき夫でありよき父であったことは自明のことである。しかし天皇制の共同幻想化において行動したとき、かれらはよき夫や父と逆立ちした軍鬼として行動することを躊躇しなかった。この逆立ちした日本の幻想に対して諸外国の批判があることを押さえなくて、歴史家の看板が泣くではないか。
  血に塗れた手だけを強調する戦後史学の動向に対して、彼らはきれいなお手てがあったと言いたいのだろうが、それは戦後日本政府が国家として血に塗れた手を諸外国はおろか日本国民に対して断罪することなくごまかしてきた当然のつけではないのか。戦後五十年を経過して、なお従軍慰安婦問題を始め毒ガス処理を自ら果 たすことなくまだ野ざらししておいて、いかに援助金をばらまこうが尊敬はされないという悪循環を生んでいるのだ。東京裁判で日本がアヘン戦争を超えるアヘンを中国に持ち込み、また林語堂が『北京好日』の中で何も知らない子供にまで日本人はアヘンを飴に交ぜて売っていると非難されているのをわれわれは知っているのだろうか。この悪名高き日本の共同幻想を根底から改変することなくして、非難の声は彭湃として決して止むことはないのだ。それは従軍慰安婦記述削除を求めても、今日跡を断たないキーセン旅行や東南アジア旅行に名を借りた買春旅行の赤恥を見過ごし、自由主義史観研究会が日本国家の尊厳を説くのと同じである。国家の尊厳は過去から現在に通じる日本国家の品位の回復の内にしかありえないのに、彼らは現在の赤恥を見まいとして過去をすらあった以上に美化したい「親父慰撫史観」(斎藤美奈子)の内で踊っているのだ。そして東京都は高三女子の援助交際は7%に達したというデータを公表した。そして渋谷を歩く女子高校生の20%はその経験者であると宮台真司はいう。外に春を買いに行った親父がいま自分の娘に誘われている因果に文句をいう筋合いはないのだ。
 この会の代表である藤岡信勝は、戦後教科書は、ソ連のコミンテルン史観とアメリカの東京裁判史観とアジア諸国の日本断罪史観の敵意と悪意のアマルガムによって作られたとして、日本の未来を託すこれからの子女に日本国の誇りを持たすために、これら史観を払拭したわれらの史観こそが未来を語るにふさわしいとしゃしゃり出て来ているというわけだ。しかしかれらは自らの史観を自由主義史観といくら美化しようと、それは戦後生まれては消え、消えては現れる反省なき悪名高い伝統的国家主義史観の茶番でしかないことは、おのれの悪に目をつむり、美談だけをついばむ彼らの歴史的「公正さ」がその素性を何よりも暴露している。
 そしてわれらの悲劇はこうした手合いの出現のたびに、戦後の社会科教科書の山野が荒らされ、いまはペンペン草も生えない禿げ山と化してしまったことだ。これでは現場はまったくたまったものではない。われらは歴史にあった以上のことも以下のことも求めてはいないのだ。わたしは東西の万代不易の古典歴史教材の抜粋が編まれ、薄っぺらな指導者意識丸出しの通史は須らくお引き取り願いたいと思っている。それほど戦後社会科教科書は、指導精神なき指導者の輩出に悩まされるという、日本の縮図を見事に象徴してきた。 そこには不可能性への挑戦も違和への深化といった未来への不屈の意志は微塵もなく、ただ過去の栄光の造作と現在へのやに下がった卑しい妥協があるばかりなのだ。どうしてこんな腐った魂が旗を振る歴史観に安心して子女を預けておくことができようか。これは笑えぬ話である。,(H9.3.28)

 


書 評 『古代天皇陵をめぐる』  藤田友治と天皇陵研究会編

方円墳と側面拝礼説の定着

        三一新書 (本体九百円)

 これは初代神武天皇から第四十一代持統天皇までの古代天皇陵をその関係文献と共に渉漁してその1. 所在地、2. 探訪記、3. 行き方、4. 古墳の現状を語るとともに、5. 治定までの経過から探究にまで踏み込んだまこと好箇な天皇陵のガイドブックとなっており、行楽や探訪の際のみならず、研究の折に手元に置いておきたいハンディな書となっている。
  これは三一新書の天皇陵シリーズの第四弾であるが、前三著にまして藤田友治の運動組織者としての一面 がより鮮明に出ており、高校の公開講座や市の教育講座に集まった一市民である白井良彦や四宮光弘を書き手としてまた地図作成者として世に送り出している手腕はさすがである。
 また探究面でもこの書は手頃なだけでなく蒲生君平以来、天皇陵といえば前方後円墳というわれわれの常識が、いかに危ういものであるかを海岸線との平行的位置関係から実証し、松本清張が唱えて以来の側面拝礼説を完全に裏付けているのは貴重である。これは前著『続・天皇陵を発掘せよ』で見瀬丸山古墳で藤田友治がすでに一歩を記した「軽の術の論証」での側面拝礼説の一般化であり、これによって今後、前方後円墳なる呼び方は学術上、方円墳と改めるにしくはないのである。このようにこの小著はわれわれの歪められ常識にいくつか挑戦しており、藤田友治は「記・紀」に神器なる呼び方はなく、正しくは、神宝もしくは宝物が正しいとした自己の神宝論の探究成果 を踏まえて、従来の「三種の神器」の呼び方に変えて「三種の神宝」なる呼び方を定着させているのも見逃せない。
 またこの本はこうした踏み込んだ新見解をちりばめながら通説はもとより古田武彦の九州王朝論にも配慮し、東アジアの政治情勢にも目配りした開かれたものとなっているのは、今後の啓蒙書の在り方を示すものであろう。
 さてその上で少しないものねだりをいえば古墳の年代比定の現在の尺度基準について個別ではなく全体的に少し触れてほしかったのと、古墳の形状変遷、つまり円墳、方墳、方円墳、八角墳等についての思想への踏み込みが少しはあってもよかったのではないかと思っている。わが国独特の方円墳の発達については、その裏に独自の古代人の願いががあったはずであり、わたしは死者の蘇りを願って女体に模した方円墳の胎内(子宮)に戻したのではないかという妄想を捨て切れないでいるが、天皇陵研究会がその実体的研究に止まることなく古代人の幻想領域にまでさらに一歩を進めてくれればさらにありがたいと思っている。しかし手堅い実証的研究で定評がある藤田友治が一カ所、幻視なる怪しげな言葉を弄んでいるのはいただけない。(結城慎次)


◇◇ 連載小説 『 彩神(カリスマ) 』 第四話◇◇

銀蛇の窟(5)

--古田武彦著『古代は輝いていた』より--
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇深 津 栄 美

 男が見えなくなるや否や、
「須佐之男様……!」
 二人のやり取りの間、声も出ずに震えていた櫛名田は一遍に気が緩み、傍目(はため)も構わず須佐之男に抱きついて泣き出した。
須佐之男は子守の経験は何度かあったが、成長した乙女を腕にした事はない。増してこの場合、向こうから身を投げかけられたのだ。天照(アマテル)に傷口を吸われた折の興奮どころではない。全身の血が頭に上って目が眩み、尻餅を突きそうになるのを、慌てて自分も櫛名田の背に両腕を回して踏み堪(こら)えた。
 櫛名田は須佐之男の胸に顔を埋め、身も世もあらぬ啜(すす)り泣きを続けている。
「あんな男、大嫌い……!幾ら父上が嫁(い)けとおっしゃっても、真平です……お願い、須佐之男様、私を助けて……!」
 途方に暮れて少女の背や黒髪を愛撫しているうちに、須佐之男は落ち着いて来た。古志郷は、珠洲岬や白山と因縁浅からぬ 仲だ。武沼河も言っていたが、越の国は目下、内紛(うちわもめ)が続いているという。うまく乗ずれば、父の仇を討てるかもしれない。
「私は恩知らずではありませんよ。」
 須佐之男は優しく言った。
「あなたの手厚い看護がなければ、私は今日まで生きては来られなかったのです。残念ながら故国(くに)を離れている為、ろくな力を持ってはおりませんが、私でお役に立つ事は何でもする積もりです。御安心下され。」
 須佐之男の頼もしい言葉に、
「有難うございます。何とお礼を申し上げて良いか……。」
 櫛名田は又、涙に暮れたが、きっぱり顔を上げ、
「須佐之男様の父君は、越の間者(かんじゃ・スパイ)に暗殺されてしまわれたとか。もし山田を倒して下さったら私はあなたの妻(もの)になり、鳥髪一族は上げて須佐に味方致しましょう。」
言うなり、唇を須佐之男の唇(くち)に押し当てた。

****************

「誰か、代わりの皿を洗って来てくれ。」
「玄関の松明(たいまつ)はどうしたの?一本しかついていないじゃないか。」
 手名椎(てなづち)夫人が指図する度に人影が室々を走り回り、器の触れ合う音や縄を切る音、包みを解く乾いた音や樽の蓋をこじあける鈍い響きが入り混じった。薪の上には大釜が据えられ、香ばしい湯気を立てて煮え返る穀物の波を、

 ∬枡(ます)で計った目方にかけて
 己れが命を俵に詰める
 えんやら一(ヒイ)、えんやら二(フウ)
 尺(さし)で計って鋏(はさみ)で切って
 己れが命を切り刻む
 えんやら一(ヒイ)、えんやら二(フウ)

<宇野浩二著「蕗(ふき)の下の神様」より>

  人々が歌いながら太い棒で突きほぐし、かき混ぜては酒を拵(こしら)えている。
 己れが命を切り刻むなどとは、まるで呪詛(じゅそ)ではないか。それとも鳥髪の人々は、せっかくの実りが外敵に荒されぬ ようにとの祈念を込めて、こういう歌を口ずさむのか……?,須佐之男の疑問に、
「いいえ、これは出陣の歌です。」
 櫛名田が答えた。
「自分たちを脅かす者には、こちらから出て行って片づけてやる。五穀を醸(かも)して和睦(わぼく)の酒が汲み交わされてはいるが、油断するな。お前達の命は後僅かなのだぞ--と、暗に敵を威嚇しているのですわ。」
須佐之男が出雲振根の息子と知って、鳥髪の人々の態度はにわかに明るんだ。それまでは、首長母娘が手厚くもてなすのでやむなく従って、という調子だった。警戒心の強い召使達には、地下水脈から救い上げられた若い他処者(よそもの)こそ、「俵歌」がふさわしいという気がしたのだろう。特に侍女達の中には、武勇も財力も優れた古志郷の山田にひかれている者が多かったので、日毎に須佐之男と親密になって行く櫛名田をふしだらだと非難していたのである。が、須佐の大王(おおきみ)の後継(あととり)と判ると、彼らも安堵した。振根は黒曜石の産地の直轄者であり、天国や白日別 (しらひわけ・北九州)との交易を一段と盛んにして大国の勢力(ちから)を高め、人望を集めていた。その人物の子息なら鳥髪の姫には怱体(もったい)ない程だ。
 しかし、許婚(いいなづけ)を奪われて、山田が黙っているだろうか?彼の背後には、越と白日別 がついているのだ。おまけに武沼河は吉備津彦とも仲が良く、南の侏儒国(現四国地方)をも味方に引き入れようとしている。これは余程うまくやらなければ、一大争乱になりかねない。
(そんな事をさせるものか……!)
 須佐之男は足名椎(あしなづち)に、秘かに軍勢を集めてくれるように頼んだ。昼間会った時、山田は今夜出直して来ると言った。それなら、わざと門戸を開放して山田を迎えるのだ。思い切った披露宴を張り、盛り潰してしまえば後はこちらのものだ。
「姫君、お支度を。」
 侍女のちはやが呼びに来て、櫛名田は須佐之男に一礼し、外へ出た。山田が来るまでに髪を結い、化粧を刻(ほどこ)し、晴れ着を着けなければ。回りは装いを凝らしているのに、自分だけ無造作な格好で出迎えてはおかしな事になってしまう。
「姫は須佐に輿(こし)入れなさるお積もりなのですか?」
 本当にあの少年は、須佐の王子なのだろうか?万一、振根の息子を名乗って鳥髪一族に潜り込もうとしている賎民(せんみん)だったらどうするのか?親子共々、対外的にも面 目を失ってしまう。
「ちはやは心配性ね。」
 櫛名田は笑ったが、侍女は言い募った。姫は前から山田を嫌っていたが、何が不足なのか?蛇(じゃ)信仰とは、即ち水を崇める事だ。麦も粟も水なくしては育たないし、人も獣も生きてはいけなくなってしまう。須佐の人々は始終深い穴倉の底に下りて黒曜石を採掘する為、気性が荒く、容貌も醜いと聞く。幾ら富み栄えていても義理人情を解さぬ ような国に、大事な姫はやれない。あの少年の身元が確認出来るまで、山田と争わない方が賢明なのではないか…?
「でも、父上はもう戦(いくさ)の準備を整えてしまわれたわ。」
 困惑する櫛名田の手を、
「私共が、古志のお郷へ知らせに行けばよろしいではありませんか。山田様のお力を以てすれば、化けの皮など簡単に剥がれますわ。さあ、今の中(うち)に--」
 ちはやは引っ張った。
 その背に、
「化けの皮を剥がれるのはどっちかな?」
 皮肉な男の声がかかる。
 振り向いた瞬間、ちはやは眉間を割られていた。衿元から、蛇を象った雲母(キララ)の首飾りが転げ落ちる。昼間、山田がかけていたのと同じ物だ。
「此奴(こやつ)、山田と密通(つう)じていた間者か……!?」
 須佐之男が顔をしかめた時、
「山田様のお成りィ!」
 玄関で声が上がった。
(続く)

************
【後記】
 作中の引用歌は、大正から昭和初期のベストセラー作家の一人だったという宇野浩二が子供向けに書き直したコロボックル伝説(新潮文庫版『赤い鳥傑作選』)に出ていた物です。横溝正史の『悪魔が来たりて笛を吹く』にも、民謡(作者の創作)として、「尺(さし)で計ってじょうごで飲んで」という一節がありますが、偶然の一致とはいえ、横溝の頭には宇野の作品があったのかもしれません。(深津)


秋田一季様、御逝去のご報告 和田喜八郎


和田家文書と秋田家 古賀達也


故秋田一季御霊に捧ぐ 古田武彦


□□ 事務局だより □□
◇冒頭からまずお詫びを。前号掲載の林氏の論文中、黒田節の歌詞に誤りがありました。「酒は飲め飲め飲むならば日之本一のこの槍を」が正解。原稿をいただいた際、福岡県出身の小生が気づくべきでした。就職で京都に来て、早二十年。故郷未だ忘れ難く、と思っていたのに何とも情けないことです。
◇続て、お願いを。会費納入の時期です。九七年度会費三千円をよろしくお願いいたします。また、額の多少にかかわらず、御寄付などいただけましたら有難く存じます。九七年度会員サービスとして、会報の他に古田史学論集『古代に真実を求めて』2集を進呈の予定。早ければ夏頃に発刊できそうです。
◇来る六月二九日、古田先生の講演会と会員総会を開催します。この一年間の数々の発見が発表されれます。古田史学は前人未踏の新たな領域へと進みつつあります。まさに「歴史学のビッグバン」と呼ぶにふさわしい局面を迎えたようです。◇本号では「東京古田会」の藤沢氏の報告記事を「古田会ニュース」より転載させていただきました。古代における太平洋を越えた文化の伝播が、いよいよ確かなものとなって多くの人々に受け入れられる時代が来たようです。
◇「古田史学とは何か」を連載中の室伏氏の著書『伊勢神宮の向こう側』を五木寛之氏が推薦している(四月二三日、朝日新聞夕刊)。五木氏は「室伏氏の言葉は、これまでとは違った意味でまた異相である。」と注目。実は、室伏氏の「文体」に早くから注目されていたのが、古田先生でした。『古代に真実を求めて』に掲載された氏の文章と文体をほめておられたのだが、古田先生が現代人の「文章」をほめられたのは、私の知る限りでは、室伏氏のみです。氏の第二著『法隆寺の向こう側』が早くも待ち望まれます。氏の活躍は本会の名誉でもあります。(古賀)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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