古田史学会報
1997年 8月25日 No.21

古田史学会報

   二十一号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫
事務局 〒602 京都市上京区河原町通今出川下る大黒屋地図店 古賀達也
郵便振込口座 01010-6-30873 古田史学の会


大阪府高槻市安満(あま)宮山古墳 現地説明会(8月3日午後)より

青龍三年鏡を観る

ーこれは卑弥呼の鏡ではないー

東大阪市 横田幸男


(行程)
 冷夏とはいえやはり夏である。少しずつ汗がにじみ出てくる。JR高槻駅に古田氏を始め十名が集い、見学会向けシャトルバスに乗りました。駅ではバスに乗る人の行列が出来ていた。バスは15分程で高槻市北方向の名神高速を超えた丘陵に在る公園墓地に着きました。丘陵の中腹の張り出した部分に古墳はあり、晴れた日には淀川が一望出来るものと思われます。(ガスが多く景色が鮮明に見えない。)余り多くの人が集まったため、見学会のみとなり説明会は中止になりました。1キロ足らずの行列が出来、並んで地形観察や以前に発掘された古墳の説明板を読みながら、懇談しながら待っていました。葉陰は程よい暑さですが、日が当たるところでは汗がたまり、皆さんお疲れでした。道路沿いのテントに5枚の鏡と古墳の説明がパネルで展示してありました。張り出した部分にある古墳では、柵を設けて往復の見学路を作ってあり、墓穴を覗き見学しました。地表面 から以上に深い墓穴にはレプリカの5枚の鏡と鉄刀や鉄斧が発掘の状態で展示されていました。2時間待って、鏡1枚当たり5秒の見学となり、写 真を撮り要点を確認するのがやっとでした。後の話によれば土曜日2千名、日曜日四千名の見学者が訪れたとのことです。見学会終了後は、さっさとシャトルバスに乗り高槻駅に戻り、喫茶店で古田氏の講評を聞きました。帰るときに、青いテントが山の中腹に見え、見学した場所を再確認しました。それにしても、すごい人出に古代史ブームなのだと驚きました。

(遺跡の説明)
 見学に行った所(調査地)は安満御所の町(大阪府高槻市公園墓地内)、調査主体は高槻市教育委員会 埋蔵文化財調査センターです。
 鏡が出た古墳は安満山の中腹にあり、幅が二十から三十メートルの尾根上に東西約一五メートル、南北約二十三メートルの方墳あるいは円墳として築かれたと考えられます。標高が百二十一~百二十五メートルの中腹の張り出した部分です。後世の削平のため古墳の大半はすでに失われ、墓坑も上半分が削られていた。古墳の回りからは、後世の石組み・墓坑北側の平坦面 及び墓坑南側の階段状遺構がみられ、発掘者は古墳と一体とみています。つまり祭祀が考えられ、山麓に鎮座する磐手社神社がかって奉遷した磐座とその付属施設の遺跡と考えられています。安満宮山古墳は萩の庄古墳と共に安満山古墳群と言われ、近くに紅茸・奥山古墳群、梶原古墳群があります。降りた平野部に安満遺跡があります。位 置的にも瀬戸内に通じる淀川に面した三島という地に築かれた古墳です。
 古墳の特異点は墓坑の位置です。説明員に表土面(山の地肌面)を教えてもらい、そこから埋納木棺まで踏代が一・八メートル~にメートルもあり、墓が異常に深く見えました。墓坑そのものは、幅五・三メートル、幅一・三メートル、深さ一・二メートルとし、朱が見えました。埋葬木棺の形は今のところ分かりません。埋葬木棺の周りに排水溝をめぐらせています。
 さて副葬品は、舶載鏡5面(1~5号鏡)のほか、ガラス小玉五十点以上、鉄刀一振、板状鉄斧一点、有袋鉄斧一点、ヤリガンナ?二点が出てきました。
 鏡5枚の鏡の内3枚が布にくるんで1号鏡から3号鏡まで重なって出てきてとのことです。1号鏡は鏡背面 を上に向けて目の細かな布でくるまれ、2・3号鏡は鏡背面をうえにむけてやや目の粗い布でくるまれていた。後の二枚は、二十センチ離れており、上に四号、下に五号を直接積み重ね、二面 とも鏡背面を上に向けていた。ガラス小玉は、四・五号鏡のすぐ西側でおよそ四方の範囲でまとまって出土した。鉄器は西よりの南辺でひとまとめにして置かれていた。鉄刀は、刃先を西側にして、刃を外側に向け、鉄斧は二点とも刃先を東向きにしていた。以上の副葬品の配置から被葬者の頭位 は東と考えらています。
 素直に説明を信じ埋葬状況を勝手に考察すると、遺体は頭が東を向き、鏡が顔の回りに5枚、その内3枚は布でくるんで納め、枕として、後の2枚は胸に添え、鉄剣は右足の下あたりに置いて死者を葬ったのでは。学問的緻密さではなく、死者を弔う気持ちになってこのようなことを考えるのも一考です。そういえばやはり現代の祭壇はなかったな。私自身を含めて、写 真を撮ったり鏡の確認に忙しく、意地悪く言えば自分たちのルーツ探しに忙しい現代人の悲哀を感じたものです。

 注目の副葬品は鏡です。
 1号鏡(三角縁「吾作」四神獣鏡)
 画文帯環状乳神獣鏡の系譜を引くもので、鈕座に小突起をもち、内区の中央よりに四つの乳がある。画像はやや不鮮明だが、獣の背に座っている「東王父」などの四神が描かれている。・・・直径二一・八センチ

 2号鏡(「青龍三年」方格規矩四神鏡)
 後漢の方格規矩鏡の系譜を引くもので、扁平な半球状の中のまわりを方格で区画し、内部に直線的な文字で、十二支を配している。内区には線描の「青龍」「白虎」「朱雀」「玄武」の四神と瑞獣を起き、四方の要所にTLV字形の規矩文を配し、Lは正L字形である。乳は円座をもち、方格にしたがって八つある。外区は鋸歯文+珠点付複波文+鋸歯文で構成されている。銘文は時計回りに、「青龍三年 願氏作鏡成文章 左竜右虎辟不詳 朱爵玄武順陰陽 八子九孫治中央 壽如金石宣侯王」と記されている。魏の青龍三年は西暦二三五年に当たる。直径一七・四センチを計り、保存状態はきわめて良好。同型鏡として京都府竹野郡弥栄町の太田南五号墳の「青龍三年」鏡を確認している。

 3号鏡(三角縁「天・王・日・月・吉」獣文帯四神四獣鏡)
 画文帯対置式神獣鏡の系譜をひく三角縁神獣鏡の初期の作品。・・・方格には「天・王・日・月・吉」銘が時計回りに一時ずつ鋳出されている。・・・直径二二・五センチ
 
4号鏡(斜縁「吾作」二神二獣鏡)
 画像鏡や神獣鏡の画像文との親縁性や断面三角形を呈する周縁をもつことから、三角縁神獣鏡と兄妹の関係にある鏡式とみられるものである。・・・銘帯には「吾作明鏡自有己」からはじまる三四字が時計回りに記されていた。直径一五・八センチ

 5号鏡(「陳是作」半円方形帯同向式神獣鏡)
内区の画像文を一方向から見るように配置したもので、後漢の画文帯同向式神獣鏡の系譜をひく。内区には「伯牙」「東王父」「西王母」「黄帝」といくつかの獣形を配している。銘は反時計回りに「陳是作鏡君宣高官・・・子宣孫萬年」と記されている。・・・直径一七・六センチ、・・・

いずれも資料からの抜粋です。

 ところで、話題になった青龍三年の銘入の方格規矩(きく)鏡についてですが、私も含めて素人としては一様に本当に「龍」と読むのか疑問に思う書体です。漢字の偏(へん)は、「立」に「日」です。よく観れば、「月」です。旁(つくり)は「大」です。青[音大]です。「青龍三年」という考えがあれば、そう読めないことはないけれども、それ自体では読めないというのが、素人の素朴な発想です。毎日新聞(8月2日朝刊)に大きく「青龍三年」の写 真が出ていましたから、そこだけ確認しました。新聞には一応ちゃんとした文字が書かれていれば中国鏡という定説(「富岡四原則」)に従って舶載鏡(中国から来た鏡)として記事を書いています。新聞紙上で定説派の学者たちがこぞって「卑弥呼の鏡」と言っているのは、そういうことです。
 古田氏は、文字があっても、中国出土の鏡と比べてはっきり出来の悪い鏡は日本製、という説を出している。
(『ここに古代王朝ありき』など朝日新聞社、一〇〇ページ)
 このような龍と読めない鏡が中国鏡とは信じられない。それに中国の鏡の研究がきちんと日本に紹介されていないのに、どうして舶載鏡なのか。他の銘も不揃いの印象を受け、特に右回りがひどいと思いました。
 以上、古田氏に付き添った全員が別々に下した印象批評でした。

以下の古田氏の話は、道中での対話や懇談を元に構成したものです。文責は横田にあります。

(古田先生談)
 本日の見学会は、青龍三年鏡を中心とする鏡の確認と出土状況を中心とする遺跡の配置を確認に参りました。
 今私が夢中になって取り組んでいることの中に、『新唐書』の日本国伝の件がある。その中に、「其王、姓阿毎氏。自言、初主號、天御中主。至彦瀲、凡三十二世。皆以尊爲號、居筑紫城。」とある。これが九州王朝であり、隋書同様に阿毎(あま)を名乗っている。また「次用明。亦曰目多利思比孤。直隋開皇末、始與中國通 。次崇峻、崇峻死、欽明之孫、女雄古立。」とあり、近畿天皇家は初めて中国に通じたのは推古の時とある。それで話を元に戻して、この古墳は安満(あま)宮山古墳とあり、安満(あま)は同じで何らかの関係があるのではないか。また遺跡に宮山の名がある通 り、恐らく祭祀を行ったものと思われる。この祭祀の問題、及びこの古墳と回りの六世紀の古墳との間に継体が登場するということがある。
 鏡に関しては、(以前に実地に見聞した丹後太田南五号墳出土とも合わせて検討すれば)この青龍三年鏡は「卑弥呼の鏡ではない。」というのが、以前からの結論であり、今も変わっていません。その一つが、本日の掲示された出土したときの写 真にあるように、この鏡は絹と共に出土しないと言うことである。ご承知のように卑弥呼は絹の女王でしょう。もし絹と共に出土すれば、それが新聞発表されているでしょう。それと注目されている青龍三年の銘ですが、本日は新聞発表の通 りの形状と字体かどうか確認を致しました。これは青龍と多分読むのでしょうが、「龍」の字の旁(つくり)が「大」は問題です。中国で買った漢鏡の図録や金石文の一覧を持ってきました。この中に探してみてもそのような字体がありません。ですから漢や(曹)魏の鏡ではないでしょう。後可能性があるのは、鮮卑が作った王朝である(北)魏の異体字である可能性がある。彼らは漢民族が造った字体を元に、自分達でたくさん造っています。それともしかしたら日本側で作った可能性もあります。お手本の国(南朝ー宋・陳等)が無くなったのだから。明日でも京大へ行って、五世紀後半の北魏の異体字にあるか確認したいと思います。それで北魏の異体字で有っても良し。違っていてもそれはそれで評価すべきです。考古学者の方々は字体の研究を余りされないので、簡単に「青龍三年」を曹氏の時代の魏の「青龍」に当てていますが、まず鏡自体(字体)の確認が大事だと思いますが。

以上


仮説の発見と検証の豊前旅行(前編)

-- 豊前は九州王朝の第二の都の検証--

香芝市 山崎仁礼男

 今回七月二十四日より二十七日までまるまる四日、豊前・筑豊・宗像の地を、古代史の仮説を胸に抱いて、室伏志畔氏と一緒に仮説の検証の旅を続けることができました。まず、出発前の仮説を書きます。1. 豊前を中心とする百済系古瓦を出土する九州の古代寺院跡は白村江以前の九州王朝の時代の寺院であるとの仮説。2. 大芝仮説豊前は九州王朝の第二の都から豊前国分寺跡(百済系古瓦出土)と豊前国府跡の近辺が王宮のあった場所との仮説。3. 御所ケ谷神籠石山城を、御所の名の通り王宮と解し、王朝の逃げ城とする仮説。このほかに、神籠石山城の研究は現在遅れており鹿毛馬の神籠石山城(頴田町)を見て御所ケ谷と比較して見ること、椿井大塚山古墳と関連のある三角縁神獣鏡の出土する古墳を見ておくこと、装飾古墳の筑前と豊後の空白をどう考えるべきか。天皇制による九州王朝の古墳の破壊の仮説という視点から装飾古墳を見る、という目的をもって旅に出た。

(1)比売神信仰圏の仮説と天皇制による九州神社の祭神すり替え強要の仮説

 大阪より別府に上陸、大芝英雄氏に逢う。まず、国東半島の突端の白曜石の出土で知られる姫島に渡る。一時間毎に一便で片道二十五分。比売許曽神社を見て、白曜石を探す。
 宇佐神宮に向かう。祭神が応神天皇・比売神・神功皇后となっているが、拝殿を見ると左が応神、右が神功で、真ん中が比売神である。主神は比売神ではないか。この地方の本当の神は姫島の比売許曽神社の比売神であって、応神天皇・神功皇后は天皇制により強要されたものと直感した。ここで、天皇制によるる九州神社の祭神すり替え強要の仮説を立てることにする。この地方の神社が九州王朝滅亡後に生きて行くために、天皇制と妥協して一の神、二の神、三の神として、応神をトップに立てる報告をして、その実は二の神を中心に祭ったとすると、健全な抵抗の姿とも読めるのです。いずれにしても白曜石を中心とした地域の神は比売神信仰であるかどうか、この仮説が成立する条件です。
 弥勒寺跡(宇佐神宮内)は宇佐神宮の呉橋よりの所にあった。標柱が一本立っているのみ。百済系の古瓦の出土があり、宇佐神宮より古いかも知れない。法鏡寺廃寺(宇佐市大字法鏡寺)は地名は残っているが、案内板なく、標柱もない。神社の近くというが、礎石も分からない。虚空蔵寺跡(宇佐市大字山本)は礎石が残っていて、案内版もあった。天智天皇の近江京や川原寺の古瓦に極似する瓦が出る。白村江の敗戦の直後に九州王朝を滅亡させた天智は九州から工人を連行して近畿の地にて焼かせたものと推定。この原型と解する。というのも、何故天智の都の古瓦が宇佐に出土するのか、説明できないからです。小倉池廃寺(宇佐市四日市大字上元重字小倉池)は何もなく分からない。池が干上がって瓦などが出たという。

(2)椿市廃寺と二中歴

 二日目。宇佐の高森の三角縁神獣鏡を出土する赤塚古墳を見る。行橋市の椿市廃寺に飛ぶ。問題の二中歴の倭京二年(六一九)難波天王寺聖徳造るの天王寺を比定した椿市廃寺です。難波は行橋市方面 を指すこと、市民の古代十二集の九州の難波津発見(大芝英雄論文)を、また聖徳は播磨国風土記の聖徳王と同じで蘇我馬子をさすこと、拙書蘇我王国論(本年十月に発刊)参照ください。椿市廃寺は四天王寺式のガラン配置であり、この平野の西北の隅にあり後は山で、田川市方面 からの入り口にあたる。中心地でないのが蘇我氏の建てた寺としては相応しい。現在願光寺という寺があり、その入り口に発掘調査の結果 による原型復元図など展示されていた。願光寺の奥さんより古瓦の現物を見せてもらう。九州王朝実在の物的証拠の百済系古瓦を手にもつ感触またひとしお。感謝感激!

(3)御所ケ谷神籠石は山城のある都城制

 豊前国分寺・豊前国府跡(豊津町)を尋ねる。国分寺がちょっと高台で国府は平地にある。国分寺には百済系古瓦が出土しており、国分寺以前に、近江天智王朝により破壊された白村江以前の古代寺院の存在を想定しています。国府跡の大きさが気になるが、他の国府跡を見ていないので、なんとも言えない。今後の研究が必要。豊津町の歴史資料館で豊前国分寺・豊前国府の模型を見る。整然とした条理制が描かれており、この点も他の国府跡と比較する必要がある。
 車で五キロほどの御所ケ谷神籠石(行橋市御所ケ岳)を実見。まず、三百メートルほど登り中門を見る。あ!と驚く!切石(横1メートル縦六〇センチ程)が高いところ十段近く積み上げられている。西と東の門を見る。この城は新しい。王宮からの距離も近い。これだけ正確に石を切り積み上げるには鉄器が必要だ。西の門に馬立場とあり、地名からして馬のいた時代のものだ。これはいわゆる神籠石式山城ではない。これは大野城や基肄城のような王朝の山城のある都城制である(古田武彦著『ここに古代王朝ありき』参照)。
 事実豊津町の国府の発掘調査書でも白村江の後の書紀の大野城などの築城と同時代に比定している。しかし天智紀に御所ケ谷城の築城の記事はなく、この地に近江天智王朝が城を築く必然性がない。御所ケ谷城は九州王朝の豊前の第二の都の逃げ城に相違ない。大芝氏の御所を王宮とする解釈は正しく、大芝仮説豊前は九州王朝の第二の都は御所ケ谷神籠石により検証されたと言えましょう。城の頂上に景行天皇が祭られていた。この前つ君(盗まれた神話参照)こそ兄弟首長制の九州王朝の初代の大王なのです。また、隋書の十余国を経て海岸に達すはこの地のことです。なお筑後国風土記の磐井の死の場所は求菩提山等に比定されるが、この城はこの後で、六世紀のものでしょう。苅田町の石塚山古墳は町役場の隣にあった。九州で三角縁神獣鏡を七面 も最多出土する前方後円墳で古墳前期の九州最大のものです。

(4)廃寺を尋ね歩く

 三日雨。相原廃寺(中津市相原)は、民家の裏庭の境と近くの貴船神社と瑞福寺に礎石あり。瑞福寺の礎石は大きい。垂水廃寺(新吉富村大字垂水)は礎石が民家の石垣に転用されており、案内版も何もない。上坂廃寺(豊津町上坂)は高台の県道から降りた脇の公民館に案内版はあったが、礎石は田圃に埋め戻したと隣家の人が言う。木山廃寺(犀川町大字木山)は木山の部落の公民館の前に石碑があり、この石碑が寺の礎石を利用したもの。
 現地は探したが不明。田川市で天台寺跡(田川市東区鎮西公園)を見る。公園の入り口に案内版あり。されど公園のどの場所か不明。豊前の古寺と同笵の新羅系古瓦がでる。立岩(飯塚市)に行く。歴史資料館をみる。王塚古墳(嘉穂郡桂川町)の実物大の模型があった。文化の中心にない。田舎だ。
《以下、次号につづく》


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--環太平洋、幻の古代文明--
古田先生 テレビ出演
八月十七日、TBS系列で放送された歴史番組「神々のいたずら」に古田先生が出演された。縄文人が太平洋を渡り、南米へ土器を伝えたことを紹介。四国の上黒岩遺跡や熊本の阿高遺跡など現地撮影を交えて、解説。古田史学がテレビ界にも注目され始めたようだ。


◇◇ 連 載 小 説  『彩 神 (カリスマ) 』第五話◇◇
   枯 葉 の 琴 (1)
 --古田武彦著『古代は輝いていた』より--
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深 津 栄 美 ◇◇

〔前回までの概略〕
 冬の「北の大門」(現ウラジオストク)攻めを敢行した三ツ児島(現隠岐の島)の王八束(やつか)の息子昼彦は、異母兄淡島に海へ捨てられるが、天国(あまくに)に漂着、その子孫は韓(カラ)へ領土を広げ、彼の地の支配者の一人阿達羅(アトラ)は天竺(現インド)の王女を娶(めと)るまでになる。三ツ児の島の南の対岸に栄える出雲の王子須佐之男は、天国へ預けられた際知り合った越(こし)の国(現新潟~福井)の王子武沼河、及び吉備の国(現岡山県)の王子吉備津彦に父を暗殺され、自身、地下水脈へ突き落とされるが、鳥髪一族に救われ、彼らと敵対関係にある蛇(じゃ)宗徒の長(おさ)山田を倒し、その聖剣「草薙」を入手した上、鳥髪の王女櫛名田と結ばれる。

                  ◇       ◇
   パウポウ、パウポウ

 物悲しい鳥音(とりね)が闇に響く。かすかな羽ばたきが起こり、すぐに途絶えた。罠にかかったのか、或いは山奥へ駆けり去ったのか……?
 小さな足音が道を走る。辺りを伺(うかが)い、また、すばしこく弾む音は狼や猪ではない。兎か狐狸(こり)の類(たぐい)だろう。軽い響きは、薮のざわめきに飲まれて行く。海部(かいふ)村の隠居が宴の帰り、峠の木の下で一服していたら、土産を鳶に拐(さら)われたとか、八坂八(やさかや)浜の漁師が、せっかく手に入れた大蟹を孤狸に巻き上げられたとかいう話が、最近、急に増えた。昼尚暗い沼のほとりへ狩りに出たまま、帰って来ない若者も大勢いる。村人達は、主(ぬ し)に奪(と)られたのだろうと噂していたが、こう食べ物が不足しては、元気なのが取柄の狩人達も力が入らず、崖から足を踏み脱(はず)したり、岩に爪突いて沼に転げ落ちたりといった、普段ならあり得ぬ ような事故に見舞われたのだろう。

   パウポウ、パウポウ

 又、鳥音が聞こえた。何の鳥か、繊(かぼそ)く澄んで震えを帯びた……昼間聞くと、どんなに日が照っていても俄(にわ)かに翳(かげ)る気がするが、夜、耳にすると一段と物寂しい。狩人達の中にも、声の正体を突き止めた者はまだない。その為、村人達の間にはいつしか、山神の御使者(おつかい)の声だとして姿を見ると崇(たた)りがあるだの、いや、逆に運が向くだの、様々な伝説が作り出されたが、月美(つぐみ)にはそんな御大層な代物とは感じられなかった。文目(あやめ)も分かたぬ 闇の中、親子がはぐれぬよう注意し合っているような、もしくは恋人同士が呼び交わしているような……
 (恋人……?)
 月美の頬に血が上った。羽山戸(はやまと)の面影が浮かんだのだ。
 羽山戸は隠岐の島の世継ぎで、月美とは幼時からの許婚者(いいなづけ)だった。親達は対海(つみ=対馬)、一大国(いちだいこく=壱岐)、両児島(ふたごのしま=現福岡県沖の島と小屋島)を中心とする「天国」発祥の地であり、大国(おおくに=後代の出雲)や越、韓(=朝鮮)とも縁の深い「日栖(ひす)の宮」の王子と、阿波の姫との結び付きがもたらす「国益」を慮(おもんぱか)ったのだろうが、当の二人は会って好きになったから婚約したのだと考えていた。いよいよ二人共成年に達したので年明けには、月美は隠岐へ出発せねばならない。その前に月美は巫女長として阿波の新嘗祭(にいなめさい)に参加せねばならないが、羽山戸は見に来るだろうか……? 来るに決まっている。あの人はかねがね隠岐の暗欝な風土を厭(いと)い、緑と陽光に恵まれた阿波へ婿入りしたいと洩らしていたし、初めて会った時から私と躍るのを楽しみにしていたのだもの。
(羽山戸、会いたい……)
 宙に差伸べた手が、不意にひんやりした。
 ガタリ!と戸が開く。
「誰?!」
 はね起きて、月美は目を丸くした。
 月明りの下(もと)、片足から血を流して倒れていたのは、夜目にも白い子ギツネだったからだ。
                                      (続く)
                  ◇       ◇

〔後記〕
 今回の話は、「侏儒国」(しゅじゅこく)が舞台となります。但し、古田先生が解明された足摺岬ではなく、反対側の室戸岬と設定してしまいました。これを執筆中、先生はまだ足摺岬調査に乗り出してはおられず、『「邪馬台国」はなかった』(角川文庫版、三八一~四ページ。尤<もっと>も、先生はこの部分で既に、侏儒国は足摺岬とその周辺、と明言しておられます)中の「豊後水道東岸の人々」という一文を、私が勝手に拡大解釈してしまったのです。
 更に、作中に飢饉を取り入れたのは、会報で本野氏が室伏氏の本についての論説で引用されている、『日本書紀』神代巻の月神が、保食(うけもち)の神を殺した話を、冷害の神話化と解釈した為です。月は死神として恐れられた、と民俗学方面 での説がありますが、室伏氏が紹介された対馬の月神の社が荒れ果てたままなのも、その考え方が反映しているのではないでしょうか。又、『紀』における「月弓」は「月読」の転化ともいわれているようですが、私には月を死神とする考え方同様、大陸からの伝来--西王母が所有していた不老不死の霊薬を盗んで月へ逃げた「侍女」嫦娥(じょうが)と、その夫で弓の名手もしくは弓矢の神とされる(げい)の伝説が、関係しているように思えます。『記紀』の「三貴神誕生談」は弥生以降の筑紫で作られた神話の一つですし、これも古田先生が論証されたように、西王母が実在人物なら・嫦娥夫妻も実在人物だった可能性が出て来る以上、妻の方は「侍女」とされているところを見ると、「天孫降臨」の件(くだ)りの岩長姫と木花咲耶ように、二人は西王母より先に玉 (ぎょく)帝の国を治めていたのが、何らかの原因で西王母に国を奪われ、他へ逃亡したのかもしれません。
 また、壱岐・対馬は完全に海洋国家ですから、太陽や月以前に、目印となる星を神格化-星信仰が栄えた可能性も否定できません。古代ギリシャと違い、『記紀』ではすっかり隠されてしまっておりますが、『万葉集』第十巻(読み人知らず集)には長短合わせて四十九首の七夕の歌が収録され、憶良や家持(この二人の出自も、九州王朝の可能性濃厚。ちなみに、人麻呂は七夕に関する歌は作っておらズ。彼が仕えていた当時の大和朝廷では、この祭礼は知られていなかった……?!)も
 この星に関するお祭りの歌を作っているからには、早期より大陸の影響を受けていた九州王朝では、かなり後まで星信仰の名残りが尾を引いていたとも考えられます。この問題について、いつか室伏さんや本野さんの御意見を聞かせて頂けたらと存じます。 (深津)


古 田 史 学 と は 何 か 9

少女漫画と古田史学

橋本市 室 伏 志 畔

 わたしもまた天泣き、地騒ぎ、海が牙を剥く気分に見舞われると、必ず飛行機なら落ちてやる、自動車ならぶつかってやると思わないわけではないが、神戸の小学生殺しの犯人の心に一体何が起こったのだろう。殺しの愉悦を主張する異様さに、マスコミは総反撃の相変わらずの姿勢だが、わたしならそこに彼のつま先だった悲しい虚勢と共に、学校を含めた現代社会の異様な土壌を見るだろう。
 たまごっちゲームに夢中であるじゃりんこ達の一様の危惧は、塾に通っている間にたまごっちの中の動物が死に見舞われないかと気が気でないらしい。そこであちこちでママにお世話を頼んで塾通 いという思わぬ事態が生じ、うっかりママをもったじゃりんことの間で時ならぬたまごっちをめぐる悲喜劇が家庭で生じているらしい。うっかりママは自分のうっかりを棚に上げ、たかがたまごっちのことじゃないのとじゃりんこに取り合わないが、同じように塾通 いの子に気を許すことは決してないのだ。じゃりんこのママ不信とストレスは、この不公平な一方的な教育ママの御都合主義に向き合って無言の内に膨化肥大している。神戸の小学生殺しの異様さは、まさに現在の学校教育の異様さに見合った無言の内の膨化肥大であったことは確かであるのに、マスコミはうっかりママそのままにそのうっかりを棚にあげ、ヒステリックにこぞって犯人非難の大合唱に和して、それぞれの御都合主義の良識に立て籠もっているが、日々の教育不信のまっただ中にあるじゃりんこ達の無言の声に耳傾けようとしない限り、犯人は常にわれわれの傍らに棲息しているのである。それはブルセラ女高生が世のスケベおじさんの顔色を伺った風であったのが、いま援助交際する女高生として巷を闊歩するに至ったのと同じである。そしてこうした事件は残念ながら幾何級数的に増加するほかないのである。われわれはそれだけの土壌をすでに戦後用意してきたことを知らんぷりしていつまで教育ママの素振りをし続けようというのか。
 このとき誰もが一度は通過した「飛行機なら落ちてやる、自動車ならぶつかってやる」の絶望の思いがあちこちでひび割れて、そこから犯人が社会に飛び出さない保障を今の社会はまったくもっていないのである。このひび割れ現象はいつの時代に発したのだろう。
 作詞家の阿久悠はピンク・レディをはじめ、尾崎紀世彦(また逢う日まで)、沢田研二(勝手にしやがれ)、都はるみ(北の宿)、石川さゆり(津軽海峡冬景色)などのヒット曲を作り、数々のレコード業界の記録を書き換えた人だが、その作詞の魅力の移り変わりについてこう書いている。
 《「一九七〇年代は、すさまじい時代、どうなるかと思いながらも、それぞれの暮らしや、男女の関係に蜃気楼(しんきろう)みたいなものがあった。歌はちょっと先のカッコイイ、危険、高級というものにどう接近していくかが重要な要素だった。この時代が一番楽しかった。やがて、生活レベルが上がり、架空のものが現実になったり、実生活が豊かになったりすると、歌で描く世界が魅力的でなくなった。」》(産経新聞6/9夕刊)
 思えば古田武彦の鮮やかな登場もまたこの七〇年代であったのである。それは少年漫画に変わる少女漫画の台頭、フェミニズムのその後の隆起、そして吉本隆明が清涼飲料水の発売をひとつの目安とした高度消費資本主義社会の開始と別 ではなかったのである。
 歌が高度大量消費社会の中で、今まで大衆の夢の一歩先を伺うことであったのが、実生活が膨化肥大して架空と現実の隙間を埋めてしまったため、方向性を失い個別 的な世界に分化し、かつての国民的な愛唱歌の世界は望むべくもない時代に突入したのである。
 いまこうした中で七〇年代に始まった古田史学のブームの思想的背景に少し迫ってみたい。古田武彦が「邪馬壹国」を擱筆した日が東大時計台の落城の日であったことは象徴的である。いわゆる古田三部作はこれに続く全共闘運動の瓦解の果 てに結果した連合赤軍の浅間山荘事件の裏面に展開を見たリンチ殺人事件が明るみに出る暗い世相と前後して世に出たのである。このとき部落解放運動や上野千鶴子らのフェミニズム運動が学生運動の受け皿としたあった一面 を思い合わすとき、古田史学をその本質的な提起において受け取った者はむしろ少数で、実際は古代史ブームの延長としてまた、六〇年の安保闘争で味噌をつけ、七〇年代の連合赤軍ですっかり信用を失なったマルクス主義から疎外された反体制派の理論的代替物として飛びつかれる一面 もあったのである。しかし部落解放運動をはじめフェミニズムや古田史学をそれぞれの本質的な提起において見るのではなく、かつての社会理論の代替物として利用するしかなかった者は、それぞれの運動に党派理論を持ち込むことによってそれを硬直、混乱化させるほかなかった。
 連合赤軍事件の被告・森恒夫と永田洋子はそれぞれ獄中で自己批判をマルクス主義文献を読み直す中で行った。森恒夫がひたすらマルクス主義文献の中の教条的な語彙から拾った自己批判で済ましたのに対し、永田洋子は同時代の少女漫画に感性を開き、マルクス主義用語を少女漫画が切り拓いた果 てしないモノローグ中に一度解体させ、構成しなおす方法を選んだ。その自己批判が同志からの手厳しい批判にさらされたとき、森恒夫は戸惑い自殺するしかなかったのに対し、永田洋子はそれを咀嚼し反芻する余裕となっているのは大塚英志の『彼女たちの連合赤軍』(文芸春秋社刊)に詳しい。同時代の感性に窓を開かない批判と理論ほどおぞましいものはないのだ。
 この少女漫画の延長に吉本ばななが登場するのだが、モノローグ(内的対話)を知らない少年漫画の『巨人の星』や『あしたのジョー』の主人公が敵に対しては強いが、人間的悩みを抱えるや続かず、作者の梶山一騎が私生活においてもそこで行き詰まったことはわたしには教訓的である。また吉本隆明が八〇年代に『マス・イメージ論』を書き、高度消費社会の中で孤立分散して花咲かせているサブ・カルチャーを遅ればせに視線を転じ、批評の骨子を組み替えることによって九〇年代前後の世界的な情況を先取りしていったことは、吉本隆明が娘・春野宵子(漫画家)や吉本ばななの感性の優位 を認めたことに関わる。
 しかし戦後歴史学は、七〇年代に始まった構造的な転換とそれに対応した感性に見合った理論的枠組みを再構築することはついになかった。これに飽き足らず古田史学に近づきそれを擁して成立した「市民の古代」の会にあっても、市民的な数的拡大を目指しても、その会員の実証史学の方法は、七〇年代初頭から現実が急角度に幻想性を分離包含する二重構造として成立させていったのに見合う実証的方法を確立することなく、多くは古田武彦の多元的歴史展開の中にまどろむしかなかったのである。しかし九〇年代に入り一転して、古田史学を中傷策動の中に置くことによって、その本質的意味を葬るファシズム的宣伝に乗り出した安本美典の画策に晒されるや、古田史学の本質的な理解を欠き、時代の構造性に見合う歴史意識の構築を怠った者は、自己保身の党派的な駆け引きの内に「市民の古代」を分裂させるほかなかった。そしてその組織と蓄積資金を食いつぶすことによって成立してきた居残り会員による「市民の古代」の機関紙がその命運を予兆するかのように、九州王朝説に訣別 する半沢英一と丸山晋司の対話をいまや載せるに至ったのである。分裂直後であったと思うが、半沢英一が変わり身早く、遠賀川を遡行して邪馬台国を安本美典の比定地へもっていく文章をどこかで書いていたが、山崎仁礼男が言うように、「彼らはついにその正体を現した」のである。それは『季刊・邪馬台国』が右翼暴露雑誌の「ゼンボウ」とつるむしかその存続の余地を見出しえなくなったように、現在の「市民の古代」は、いま正体を露わにすることによって持続の保障を取っているのである。しかし雑誌が志しを失い、その持続にのみに関心を払うとき、それはすべて終わっているのである。
 九州王朝説の本質的な意味を自らに問う事を怠った点で、かれらの理解力は少女漫画に胸躍らせた子女以下であったことをいまや裏書し、今度はそれまでの史書、家伝はいうに及ばず、金石文すら破壊造作することによって創出された近畿大和一元史観の上にただ乗っかることによって、点としてのかすかな痕跡の断簡から真の歴史を復元する苦労多い試みに対し、それは単なる滲みに過ぎないと土砂降りかける役回りについたのである。
 内的対話を失った小学生殺しの「透明なぼく」がどうしょうもないまでに濁っているように、本質的な意味を一度として掘り下げることなく、体制の党派的な一翼を担うだけの言説は腐臭をともなってただ澱のように浮き沈みするだけである。
 それはかつてから今に至るまで孤独な探究者の清潔な位相を手放さない古田武彦と何たる違いであろう。 (H九・六・一〇)


古田武彦 関西講演会より

歴史ビッグバンの現 古田史学の会 代表 水野孝夫


会員総会の御報告

 六月二九日、大阪天満研修センターにて古田史学の会第三回会員総会が開催され、九六年度事業報告・決算・同監査報告・九七年度予算・人事などが承認されましたので、御報告いたします(決算予算は左表参照 略未掲載)。
 また、九八年度より賛助会員制度を発足させること、それに伴う会則4条(会員)の変更も承認されました。

《人事九七~九八年度》
1. 全国世話人会
吉森政博(札幌市) ・ 佐々木広堂(仙台市) ・ 青田勝彦(原町市) ・宮林勇一(相模原市) ・上城誠(静岡市) ・林俊彦(名古屋市) ・ 古賀達也(京都市) ・水野孝夫(奈良市)・山崎仁礼男(香芝市)・前田博司(下関市)
 
2. 役員
 代表 水野孝夫 
副代表 山崎仁礼男(会計兼務)
事務局長 古賀達也
会計監査 太田斉二郎

《賛助会員制度の設立》
会誌安定発行のため、九八年度より賛助会員制度(年会費五千円。会報会誌を進呈)を発足させる。一般 会員は現行通り年会費三千円のままとし、会報のみ進呈する。
《会則変更(第4条 会員)》
改訂前
会員は本会の目的に賛同し、会費として年額三千円を納入する。会員は総会に出席し決議に参加できる。また、会報並びに会誌の頒布を無償で受けるものとする。
改訂後
会員は本会の目的に賛同し、会費を納入する。会員は総会に出席し決議に参加できる。会費は一般 会員は年額三千円、賛助会員は年額五千円とする。一般会員は会報を賛助会員は会報並びに会誌の頒布を無償で受けるものとする。
                           以上

なお、会則に基づき水野代表より、次の任命がなされました。
◎会報編集責任者 古賀達也
◎会誌編集責任者 吉森政博
(敬称略)


御報告 古田武彦

 今回上梓した『海の古代史』(原書房刊)は数多くの方々の厚いお志しによって成った書物です。
 そのため、室戸汽船(土屋誠之社長)の御斡旋により、わたし名義の印税(全額)を神戸市市民福祉振興基金に入れ、震災復興の一助とさせていただくようにお願いいたし、その手続きを終了いたしました。  右、勝手ながら関係各位の御了承お願いいたしたく、御報告申し上げます。

一九九七年三月十八日
                               各位

(花時計賞  古田武彦様 善行 寄付

花時計の花のように人々の心に明るさとやすらぎをあたえ、住みよい神戸をつくるために寄与されたあなたの善行をたたえ、この賞を贈ります
      平成9年 4月 14日 神戸市長 笹山幸辰  印)


インターネット事務局注記(2001.5.1)
1. 古田史学の会1996年度会計報告、97年度予算案の印刷物は略。
2. 感謝状 花時計賞も印刷物ですので略。
3. 講演会案内、例会案内、会費納入のお願いも略。


 これは会報の 公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集~第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから

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