天の長者伝説と狂心の渠

古田史学会報
2000年10月11日 No.40


 天の長者伝説と狂心の渠(みぞ)

京都市 古賀達也

 福岡県浮羽郡浮羽町大字浮羽。この地は私の本籍であり、先祖代々の墓を今も一族の人々が守っている。今から約二百五十年前、全国屈指の百姓一揆、久留米藩宝暦大一揆はこの地から勃発した(注1)。一旦は勝利に終わるかに見えた一揆も、過酷な弾圧により多くの犠牲者を出し敗北した。その一人、浮羽郡西溝尻村百姓(庄屋)古賀勘右衛門は一揆の首謀者として梟首となり、見せしめとして晒された。私の七代前のご先祖である。
 この夏、古賀勘右衛門の墓に参った後、私は浮羽郡の地を徘徊した。目的は当地に伝わる「天の長者伝説」の調査だ。浮羽町大字三春字古賀の後藤家は、今も天の長者を祀っている唯一の家である。その当主後藤安全(やすたけ)氏にお会いし、古賀の集落にある十三弁の菊の紋章を持つ不思議な石祠(当地では「御大師様」と呼ばれている。明治三十二年の銘を持つ)についてお聞きするためだった。十三弁の菊は、九州王朝の末裔である稲員家の紋章でもあるという(筑後国府跡から出土した十三弁蓮華文軒丸瓦との一致も注目される。八女市の松延清晴氏の御教示による)。この調査結果 は別に報告することとしたい。
 後藤家がある古賀の集落は天の長者屋敷があった場所とされており、その南方にあたる「山北」丘陵頂上部に天の長者が作った「天の一朝堀(ひとあさぼり)」と呼ばれる巨大な渠があった。昭和五七年、合所ダム工事の排土捨て場となり、現在は跡形もなくなっている。更に「こがんどい」(古賀の土居)と呼ばれる、山北中園から古賀の集落まで南北に延びていた土塁も近年農地整備で破壊され、これもまた消滅した。この他、当地には天の長者にまつわる「竈の土居(溝尻)」「尼の捷道(ちかみち)」や一朝堀の排土で作ったとされる「男島」などの遺跡が存在する。
 中でも、天の一朝堀は山北の丘陵(大野原)を東西に延びる、深さ二十メートル、幅六十八メートル、長さ二百四十メートルの巨大な堀だったが、天の長者が作ったという以外、その使用目的も築造年代も不明の、一大土木工事跡である(注2)
 『筑後将士軍談』(注3)によれば、天(尼)の長者の所領は御井郡府中(現、久留米市御井町、高良山麓)より東は豊後の堺(現、浮羽町三春)までとあり、かなり広大な領地の主であったとされる。そうしたことから、私は天の長者は筑後遷宮期における九州王朝の天子のことではなかったかと、秘かに考えていたのであるが、再三再四にわたる現地調査にもかかわらず、確証を得られずにいた(注4)
しかし、今や状況は一変した。それは、「多元」三八号掲載の古田武彦氏の論稿「狂心の天皇」で示された、『日本書紀』斉明二年条の「狂心の渠」や「石の山丘」を九州王朝の水城や神籠石のこととする新説によってである(注5)。斉明紀二年是歳条に次のような記事が記されている。

 「時に興事を好む。すなわち水工をして渠穿らしむ。香山の西より、石上山に至る。舟二百雙を以て、石上山の石を載みて、流の順に控引き、宮の東の山に石を累ねて垣とす。時の人謗りて曰はく、『狂心の渠。功夫を損し費やすこと、三萬餘。垣造る功夫を損し費やすこと、七萬餘。宮材爛れ、山椒埋れたり』といふ。又、謗りて曰はく、『石の山丘を作る。作る随に自づからに破れなむ』といふ。」

 この記事に含まれている情報を整理すると次のように言えよう。
1 「狂心の渠」と表現されるような大掘削工事がなされた。
2 その渠が掘られた山からは石材が産出する。
3 その石材を舟で川の流れにそって運んだ所の山に石垣を造った。
4 その石垣は宮の東にある。
5 また、石の山丘と称される石垣が築造中にも転落している。
 以上のようであるが、このような痕跡が実際に存在する地域がある。それは私が徘徊した浮羽郡だ。次の通 りである。
6 「天の一朝堀」こそ、その規模といい用途不明の構造といい、まさに「狂心の渠」と呼ばれるにふさわしい。
7 一朝堀があった浮羽町大字山北は、山北石と呼ばれる安山岩質の有名な石材産地である(注6)
8 すぐ側を筑後川が流れ、舟による石材運搬が可能であり、そのすぐ下流には杷木神籠石が存在する。杷木神籠石はその最低部が筑後川岸にまで達しており、山北から舟で運ばれた石がただちに使用できる位 置にある。しかも山北石と同じ安山岩が使用されている(注7)
9 杷木神籠石は斉明天皇がいた朝倉橘広庭宮の東に位置する。また、杷木町内には杷木神籠石の西に「久喜宮(くぐみや)」という地名が現存する。
10 杷木神籠石の西に位置する高良山神籠石は、その北側斜面には列石がない。急斜面 のため転落したとする説、未発見という説、北斜面は築造されなかったなどの諸説があるが、転落した石の痕跡があるらしく、その場合、「自から破れなむ」という表現は誠にふさわしい(注8)

 このように、斉明二年条の記事と現地地理や遺跡が見事な対応を見せるのである(注9)。これらすべてが偶然の一致とはまず考えられないのではあるまいか。従って、天の長者の「一朝堀」や杷木神籠石・高良山神籠石が、斉明紀の「狂心の渠」や「宮の東の山の石垣」・「石の山丘」の最有力候補と思われるのである。こうして、天の長者を九州王朝の天子とする私の作業仮説は『日本書紀』という史料根拠を有することになったのである。もちろん、まだ断定はできないが、新たな一仮説としてここに提起させていただきたい。
わたしの「天の長者伝説」の調査活動は、古田武彦氏の新説に導かれて新たな局面に突入した。古賀勘右衛門が眠る地、浮羽は九州王朝古代史の輝ける未開の沃野だった。いわば日本のトロイである。そして山北丘陵はヒッサリックの丘か。自らの非力も顧みず、願わくは浮羽のシュリーマンたらんと思うのである。
(注)
1) 江戸時代、久留米藩では享保十三年、宝暦四年、天保三年と三度の大一揆が発生している。中でも、宝暦の一揆は過酷な人頭税(八歳以上全員への人別 銀)に反対して全藩一揆へと発展し、その参加者は十万人とも二十万人とも言われている。一旦は百姓側の要求を認めた藩も、一揆解散の後、約束を反故にし、各郡の一揆首謀者の取り締まりと処刑を行った。処刑者は延べ三十七名にのぼり、その規模と弾圧の過酷さにおいて、江戸時代の代表的一揆とされる。
 浮羽郡の一揆頭取として古賀勘右衛門はさらし首となり(享年四十歳)、古賀家は庄屋の任を解かれ没落した。その年、久留米藩では一揆への報復として過去最高の年貢が取り立てられた。なお、現在では勘右衛門の命日八月二七日には墓前祭が行われるようになった。
2) 一朝堀は大字山北字宇土国道二一〇号線沿いの北側、西見台記念碑の東にあった。現在は埋めもどされ、跡地に「道の駅」が建築された。
3) 嘉永六年(一八五三)発刊。幕末の久留米藩の学者、矢野一貞の著。矢野一貞は当時の卓越した歴史学者であり、岩戸山古墳の調査報告など貴重な史料・文献を数多く著している。「実物に就きて古風を察るの外なし(古葬考)」という、秋田孝季の「歴史は足にて知るべきものなり」に相通 じるような名言も残している。
4) 九州王朝の筑後遷宮に関しては、拙稿「九州王朝の筑後遷宮……高良玉 垂命考」、『新・古代学』四集(一九九九年刊、新泉社)を参照されたい。
5) 斉明紀二年条の同記事を神籠石と関連づけた考察が、『東京人類学会雑誌』第十五卷百七十三号(明治三十三年)に、八木奘三氏より発表されている。もっともそれは、斉明天皇による石垣築造工事を、九州の豪族が真似たものが神籠石とするものである。
6) 『浮羽町誌』(一九八八年刊)による。山北石は現在は産出されていないようであるが、江戸時代までは鳥居や筑後川の堰(大石堰、袋野堰、いずれも浮羽町)の石材として使用されており、筑後地方を代表する石材であった。
7) 杷木町教育委員会発行「史跡杷木神籠石保存管理計画策定報告書」(一九八五年刊)による。なお、杷木神籠石に使用された安山岩は近くの針目山のものとする見解もある。本調査にあたり、同町教育委員会の末石敏恵さんのご協力を得た。今後の現地調査のテーマとしては、各種ある安山岩の中で、山北と杷木神籠石の厳密な同定作業が残されている。この点、地質専門家のを御教示を得たい。
8) 高良山神籠石はほとんど地元高良内産の片岩が使用されており、杷木神籠石とは石質が異なるようである(『久留米市史』第一巻、一九八一年刊)。北側斜面 については「石垣を毀ちて、久留米城に使用した」「崖崩れで巨石墜落して人家を破損した」と『福岡県史蹟名勝天然記念物調査報告』に記されていることが『久留米市史』同巻に紹介されている。
 当初、わたしは「宮の東の山の石垣」と「石の山丘」を同じものと考えていたが、斉明紀の記事を厳密に読むと、その表現が異なり別 の神籠石を指していることに気づいた。
9) 奈良県の明日香村から出土した遺構を「狂心の渠」とする説は、川の流れの方向や石上山や香具山との位 置関係、そしてその規模からしても全く一致せず成立困難である。
〔本稿は 「多元」三九号から転載させていただいものです。〕


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