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古田史学会報

二十九号

1998年12月 1日No.29

発行 古田史学の会 代表 水野孝夫

___________________________________________________

『新撰姓氏録』の証言

大阪市 三宅利喜男

 古代史の研究は、せいぜい縄文から奈良時代迄(続日本紀)で、平安以降ともなると歴史時代と見てかあまり関心をしめさない。『新撰姓氏録』は嵯峨天皇の弘仁五年神別 ・皇別・諸蕃の順に作成されたが、現存する写本は弘仁六年七月二十日、萬多親王により撰上された書である。皇別 ・神別・諸蕃と順序を変えて書かれている。不比等以来、権力の中枢に座った藤原氏は神別 氏族である。当初神別が上にあったのはその為で、皇別が上にくる現存『姓氏録』には(日本紀合・漏)と皇別欄に確認があり、『日本書紀』撰上時の系図一巻が利用されている。五年後の弘仁十一年『弘仁格式』が制定された頃迄に系図一巻は藤原氏により失われたと見る研究がある。『新撰姓氏録』序文には、蘇我氏滅亡時に船氏恵尺が火中より『国記』を取り出し天智天皇に奉ったと記されている。『国記』が旧で、『姓氏録』が新撰と書かれている理由とする研究者もある。研究は考証面 が多く、当時の氏族が各代の天皇をどう見ていたかの氏族側の視点が全く無い。別表の様に應神以前と継体以後と大きく二分される。最多の氏族がつながる孝元(東日流外三郡誌に即位 記事あり)の子孫は実に一〇八氏族にのぼる。内3分の2は武内系図、3分の1は大彦系図である。反面 『書紀』が聖帝としてたたえる仁徳や、倭の五王として江戸期以来の研究者があてる(履中・反正・允恭・安康・雄略)五人の天皇につながろうとする氏族はゼロで、各氏族から敬遠されている。仁徳〜武烈の十代はすべて子孫氏族ゼロで、『姓氏録』の氏族の地域は京・山城・大和・摂津・河内・和泉 の権力中心部を網羅する。(時代特定の為に仁徳・雄略と天皇名は出る)仁徳以降の時代を様々な面 から検証して見ると、(『日本書紀』の記事を)

1. 「百済三書」引用は百済記・百済新撰・百済本記と百済王歴によって編年順に書かれているのに、仁徳から安康迄五代は全く引用が無く朝鮮記事は大和自前記事である。三品彰英氏によれば、應神・雄略は間断なくつながると書かれている。その間干支二巡百二十年は引きのばされている。

2. 森博達氏によれば音韻による書紀区分は、雄略から中国人(続守言・薩弘格)により正確な音韻により書かれ、安康以前は倭臭の多い和風漢文である。『書紀』は雄略から始まっている。安康以前は後代に書かれた。

3. 雄略以後は旧暦(元嘉暦)で書かれ、安康以前は、持統の時に伝わった新暦(儀鳳暦)で書かれている。神代から安康は文武以後の編集である。

4. 仁徳〜武烈は兄弟継承が多く、動乱の時代とする研究も多い。仁徳から雄略の皇后は豪族の娘で、皇系の王女は他権力を滅ぼして奪ったものである。
 『姓氏録』の後裔氏族ゼロの仁徳〜武烈は他から盗用か、造作の疑いがある。

 『二中歴』の初めに「善記以前武烈即位」と書き込みがあり、ここから違う武烈紀の姿が見えてくる。仁徳〜武烈は動乱の時代であり『書紀』編者は「日本旧記」等を手元に置き、九州王朝史から盗用した王者に、造作の王を加えてこの時代につないでいったと考えられる。畿内の氏族は真実を知って、この時代に先祖を持つ事を避けたのであろう。
 継体以後でも、大和の直系とされる欽明は子孫氏族ゼロである。『記紀』では手白香の子として継体につないでいるが、幼名が全く書かれていない。蘇我稲目に擁立された欽明は天国排開広庭と名を持ち、後の用明の橘豊日と共に、九州へ行った?と書かれる斉明女帝の朝倉橘広庭宮につながり、地名から九州ルーツを思わせる。もっとも朝倉宮は三ヶ所の参考地を数度にわたり発掘したが何も出てこない。
 『姓氏録』の神別・皇別・諸蕃は弥生以来、モンゴロイドの数次にわたる日本列島への移動により、もっとも早い者が神別 、中間の天皇権力確立(継体以後)により皇別氏族が生まれ、それ以後の渡来は諸蕃とされ(一部協力者は皇別 に入れている)この意味では『姓氏録』は差別の書と言うべきである。
 仁徳については大阪の高津宮は定まった地がなく明治以来転々と場所を換えている。室伏氏の行橋説・米田氏の博多説といろいろ言われている。その事績と書かれている(書紀)茨田堤は淀川の寝屋川市から枚方市への間(書紀補注)と書かれるが正確な地は不明であり、『古事記』には秦氏の名はあるが、『記紀』共茨田氏筑提は無い。文武二年それ迄無姓・無位 であった茨田宿禰・連に外従五位下と異常な昇進がある。淀川の四回の決壊にも茨田氏の名は出ない。『姓氏録』の一例をあげると、

|ー茨田勝(山城皇別)
  景行天皇皇子息長彦人大兄瑞城命之後也
|ー茨田勝(河内諸蕃)
   出自呉国王孫皓之後意富加牟枳君也

茨田氏族で治水・河川交通氏族
|ー江首(河内皇別)
|  彦八井耳命七世孫来目津彦命之後也
|ー佐良々連(河内諸蕃)
   出自百済人久米都彦也  

『新撰姓氏録』は視点をかえて読むと様々な『日本書紀』の矛盾を見せてくれる。

皇別・各天皇子孫氏族 別表
 代   天皇     氏族

 1   神武     21
 2   綏靖      0
 3   安寧      2
 4   懿徳      4
 5   孝昭     44
 6   孝安      0
 7   孝霊      8
 8   考元    108
 9   開化     22
10   崇神     33
11   垂仁      9
12   景行     21
13   成務      0
14   仲哀      5
15   應神     12
16   仁徳      0
17   履中      0
18   反正      0
19   允恭      0
20   安康      0
21   雄略      0
22   清寧      0
23   顕宗      0
24   仁賢      0
25   武烈      0
26   継体      5
27   安閑      0
28   宣化      4
29   欽明      0
30   敏達     19
31   用明      3
32   崇峻      0
33   推古      0
34   舒明      1
35   皇極      0
36   孝徳      0
37   斉明      0
38   天智      3
39   弘文      0
40   天武      9
41   持統      0

  
備孝
孝元最多
仁徳〜武烈  十代 0

皇別・各天皇子孫氏族 別表

インターネット事務局2001.8.31
氏族数は(文字)全角です。数字ではありません。従って検索はできません。

続『日本書紀』成書過程の検証 編年と外交記事の造作 三宅利喜男(市民の古代第16集) へ

九州王朝説からみる『日本書紀』成書過程と区分の検証 三宅利喜男(市民の古代第15集) へ


『新撰姓氏録 』史料 批判の新視点  九州王朝と「旧撰姓氏録」 京都市 古賀達也


第三〇回 日本思想史学会大会で古田氏が発表

 倭国における「九州」の成立ーー日中関係史の新史料批判 編集部


古田武彦著 『失われた日本 』のすすめ 芭蕉自筆『奥の細道』を見る 京都市 古賀達也


書評 『失われた日本(Japan behind Japan)』を読んで

親鸞・芭蕉との出合に感謝


東大阪市 横田幸男

 古田氏の待望の近書が出た。氏の今までの仕事の総決算であり、歴史家・思想家としての古田武彦が、次の世代に向けて新たな提案を含む主張をコンパクトにまとめた本である。『和田家文書(東日外三郡誌)』の著者である秋田孝季に習い、格調高く簡潔に要領を得ている。この本の良いところは他の証明本と違って、古田氏の主張が生の形で表され、都合の良いところを自分勝手に輪切りにして利用できない点である。それだけに著者の主張を主張として理解する力量 が必要である。逆に言えば悪い意味のお経となり、「そらんじる」だけになる恐れもある。おそらくこの格調の高さに、戸惑いや反発があるだろう。残念なことにすでに古本屋に出回っているのがその証拠である。又気に入らない事項には、「これでは証明が不十分」であるから、もっと「詳しく証明せよ」と言う声も声高に聞こえる。(この本での証明は一つあるいは二つで十分である。何が「決め手」であるか理解したくない人がいる。)
 私には感激を伴って理解したのが、親鸞が本質論としての「阿弥陀仏道具説」の段階まで踏み込んでいたことの証明である。これはある程度予想されていたことであるが証明して頂いて大変嬉しい。しかし逆の心配もある。それは親鸞を理解していない人が逆に振り回すことである。「阿弥陀仏道具説」という、「本質論」は誰でも口まねは出来るが、親鸞の歴史の実体を捉えてこそ、親鸞の思いを知ることが出来るのである。言っても無駄 であろうが親鸞を背中にして、物を言う人間の安易な解釈が心配である。
 さて無謀にもこの本の書評を引き受けたのは、『失われた日本(Japan behind Japan)』の英文を、インターネットに掲載の要請を古田氏から受けた為である。もちろん英訳は別 の人であり、私の力量は及ばない。しかし掲載そのものは編集であり、若干の図版を整備するなど、作業が必要です。そのため編集の方法と方向を確認するために引き受けたものです。ですから、この本をどう理解するか。古田氏の「歴史理解」を方法としてどう理解すれば良いのか。古田氏の見解を、「見解」として捕らえ、事実との結びつきに於いてどのような理解に立っているかを捕らえればよいと思って引き受けたものです。もちろんそのような下手な解釈を書評で再現する気はありません。逆に現代人が事実と結びつけて理解できないこと、すなわち「古代の異質」を、「異質」と捕らえる事が出来なかったことを参考に、現代人の古田批判の分岐点を指適して参考になれば、この書評は役に立つのではないかと、思って述べる次第です。
 古田氏は結果として「古代の異質」を「異質」と捕らえることを主張しているわけであって、何も特別 の主張をしているわけではない。古田氏の主張の「異質さ」が逆に目立っているのは、現代人がいかに無批判に、現代の思いを古代に投入しているかの証拠でもある。「邪馬臺(ダイ)国」や、「神武東侵」での古田批判そのものが、これを証明している。古田氏を批判するところが、決まって現代の「方便」としての述べたところである。これらの古田氏の見解を批判しても事実(歴史の理解)には何の役にも立たない。
 一例を上げれば、「邪馬臺(ダイ)」は、“海に面した低湿地?としては日本語としてなじみにくい。「早良郡」は今でも沢や池が多い(五万分の一地図)という見解に疑問があり、5世紀の言葉を1世紀に遡らせるのは疑問だ。’という見解がある。これは古田氏の本来の主張「古代から現代の視点」を勝手に「現代から古代への視点」と逆転させている。
−−(第三章輝ける女王 九一頁より)
だから「邪馬臺」とは、“海に面した低湿地”を示す「日本語」である。その「日本語」の漢字表記である。
 わたしが先に示した、“博多湾岸とその周辺”はまさにそのような地形である。「不弥国」に当たる、室見川流域、姪の浜近辺から「南」に位 置する地帯は、“低湿地を平地化”した領域であり、今でも沢や池が多い(五万分の一地図)。
 この問題をどう理解するか。同じ古代の視点である。残念ながら私には論ずる能力は乏しいが、正面 から切り込む批判である。「邪馬臺(ダイ)国」問題では、「山(ヤマ)」、「海(ウミ)」「早良(沢羅 サワラ)」「山門(ヤマト)」の地名郡を弥生語(さらには縄文語)かという言語批判から「臺(ダイ)」を語るべきである。
 別の視点、現代から古代を観る視点たとえば考古学・科学から観るとどうなるか。
がある。一例が有田、野方、吉武遺跡の存在の理解である。有田・野方遺跡は模式的に言えば海抜5メートルラインにT字に突き刺さる微高地である。又吉武遺跡群は二つの川に挟まれた微高地であり、地表から遺跡は地下3メートル内外である。このような遺跡を海から視てか臺(ダイ)と呼んだのかどうかである。
(注1:現代から復元できる地形は古墳時代迄です。)
 以上の考えは「古代の異質」を「異質」として捕らえること、言葉を替えれば歴史の断絶を理解することなしで、歴史的想像力を組み立てることが出来ない問題である。そして私は古田氏の主張に賛成したり反対したりしているわけではない。そうではなく現代人として古代を理解するのに、距離を置いて理解すべきであると言っているだけである。古田批判は、その距離があることを忘れたところに起きる。
 多分この本の随所で、そのようなことが観られると考えている。そしてこのような古田批判が、「邪馬臺(ダイ)」、「邪馬台国」、「神武東侵」、「天孫降臨」に集中するのは偶然ではない。それは国名問題や日本国の創始者という、「日本人のルーツ探し」に関わるからである。結果 として現代日本人のイデオロギー状況を最も表すことになるからである。ここに感情を含めた本心が露出する。理論として「九州王朝」を支持していても、感情を含めたを自分の論理を、そして古代を探る自分の感覚を自覚することなしに、古代の真実に到達することは出来ないし、古田氏の見解を「見解」として受け取ることは出来ないと思っている。
 以上のことが明瞭に意識されず露出するのは科学や考古学の解釈である。先ほどの邪馬臺(ダイ)に戻れば、現代から復元できる地形は古墳時代迄であり、それ以前の地形は歴史的想像力の問題である。様々な調査に基づいて様々な見解が乱立すること自体が、科学や考古学が歴史学に対して機能しないことを示している。もう一度文献や地名群、そして伝説や神社群などを見直して、古田氏の見解が納得できないなら別 の実体(認識のモデル)に作り、科学や考古学と照らし合わせるのが望ましい。その上での古田批判である。歴史の実体(認識のモデル)なしに考古学や科学で問題を解明しようとする方法が間違っているのである。
 ここで私がこのような事を言うのは、科学や考古学の歴史学に対する限界を理解せず、考古学や科学を恣意的に取り上げ、無意識に自分の問題意識を乗せ(意識的な人もいるが)、古田氏の見解が考古学や科学の結果 を一見合わないように勝手に解釈し、その勝手な解釈を吹聴する人が多いからである。しかも古田氏がその人にとっての問題意識に対して、それなりの回答をしているにも関わらず、自分の問題意識を理解せず、説得力に欠けるという「万人の御題目」を唱える人が後をたたない。 自分の問題意識を理解していないから考古学や科学の解釈(説明)を鵜呑みにするのである。考古学や科学の解釈には既製のイデオロギーが付着していることを理解していない。自分で実体を作れない人は古田氏の見解を組み直すしか有りません。本当の問題は、古田氏に疑問を投げかける人の問題意識にある。(考古学や科学そのものと、その解釈は違います。実はこれも問題意識であり、結論です。)
 最後に私は古田氏に導かれて、親鸞や芭蕉と及ばずながら向き合う事が出来たことに感謝したい。私をそのことを『失われた日本』を買って、古田氏に反論と反感を選ぶ人に再度別 の立場から提起したい。そして僭越ながら、古田氏のこの本が武谷三男氏の『科学大予言』(大凶の未来を生き延びる法 かっぱブックス 光文社出版局)と並んで現代の実用の書となり、サルまねの日本が、真に創造の世界になることを願ってやまない。


◇◇連載小説『彩神(カリスマ)』  第六話◇◇◇◇◇◇
   
レ ン ゲ の 女(3)
 −−古田武彦著『古代は輝いていた』より−−
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深 津 栄 美◇◇
  ◇      ◇
「でも、そのお体で……。」
 狩りの様子を見に行きたいと言い出した羽山戸に、八上(やがみ)はまごついた。夫の帰りが遅いのは自分も気になるが、獲物を求めて山奥へ分け入れば時間がかかるのは当然だ。弁当を持参している訳でもないから、空腹になればその場で火を焚いて兎や鹿を料理したりもするだろう。羽山戸の心遣いは有難いが杞憂(きゆう)ではないのか……?。
「いいや、わしは行かねばならん。わしには三朝(みささ)の連中が、どうしても信用出来んのじゃ。」
 羽山戸は頑固に言い張って、とうとう駕篭(かご)に乗り込んだ。駕篭は初め、鉱石採掘に使われていた畚(もっこ)を落盤や出水の犠牲者を担ぎ出すのに転用したのだが、いつの間にか、足の弱い老人や女性の長旅用になったのである。
 自分と入れ違いに黒光らが戻って来て、狼藉(ろうぜき)を働いては……と、羽山戸に供を強要され、八上と木俣(くのまた)もしぶしぶ馬に股がる。身辺の貴重品は全部携えて行くように、などとは、まるでここを逃げ出すみたいだ。羽山戸は、それ程黒光らを疑っているのか……?。
 だが、山本の 森が見えて来た時、一行から少し遅れていた木俣は、自分達とは異なる方から松明(たいまつ)の一団が近づいて来るのを認めた。木俣はまだ幼かったが、羽山戸の心配には一理ありと感じていた。そんな折夜道で顔も判らぬ 相手と平気ですれ違える程、無用心ではない。木俣は素早く脇の木立へ馬を乗り入れ、向こうの正体を見究(みきわ)めようとした。
 駒の背に揺られて来るのは、岩根丸や国立(くにたち)だった。竹薮のように目も染まりそうな青や緑の衣褌(きぬばかま)が汚点(しみ)を被り、泥が飛んでいるのは沼にでもはまり込んだのか……?。
「いやア、今日は愉快だったな。」
 一人が皓歯(しらは)をむき出すと、
「全く、あの八千矛めを叩き潰してやったのだからな。」
 もう一人が身をのけぞらせて笑った。
「これで八上も嫌(いや)とは言えまい。女など、一度抱かれてしまえば、一日たりとも男なしではいられなくなるものよ。」
 ろれつの回らぬ声は、黒光である。
「八千矛は八上の他にも綾戸(アヤド)、八奴又、若(やぬわか)、玉村……と何人女を囲っているか知れん。それにも滅(め)げず、仕え通 した八上の健気(けなげ)さよ−−」
 国立がはだけた衿を直し、
「我らが八上を救わねばならん!」
 拳を振り上げると、
「貴様に譲るか。八上の夫は、このわしじゃ−−。」
 岩根丸が国立の肩を突き飛ばした。
「えらく自信ありげだな、岩根丸。」
「さては貴様、因幡と刺国(さしくに)に手を回しておいたのか?」
 冷やかしと野卑な笑い声が湧く。
 木俣は思わず口に手をやり、顔を背(そむ)けた。黒光らが通りすがりに吐きかけて行った酒気もさりながら、父母を貶(おとし)める彼らの対話(やりとり)に胸が悪くなったのだ。
女は一度(ひとたび)屈服させれば従うものだと?。子供の自分でさえ見とれてしまう程美優しい母だけに、男達が群がって来るのも仕方がないかもしれないと思っていたが、向こうはそんな下劣な魂胆を秘めていたのか−−「根回し」というのが、自己の勢力の浸透・拡大を狙っての高度な政略である事は、赤ん坊でも知っている。父が母以外の女を囲っているなど皆、でたらめだ。彼らは何とかして父母を落し入れて、自分達が権力を握りたいのだ。その為には須佐の大王(おおきみ)や「天(あめ)の日栖(ひす)の宮」も、平然と踏みにじるだろう。
「あれは? −−ああ、八千矛様!」
 急に母が声を立て、兵士らと駆け出した。
 次いで、
「八千矛殿、八千矛殿、しっかりしなされ!」
「誰か、早う練り薬を−−」
「蛤(はまぐり)の貝汁(つゆ)はどこじゃ?!」
 羽山戸がうろたえ騒ぎ、兵士らが総がかりで大岩を引き起こすのが映った。焼焦(やけこ)げ特有の臭気が鼻を突く。羽山戸の不安は的中していたのだ。 木俣は、血を吹く程唇をかんだ。
(三朝一族め……!)
(続く)
〔後記〕会報二八号で、山崎仁礼男氏が太宰府天満宮に触れられた際、「道真ごとき小者」と言っておられますが、「前つ君」初め九州王朝の主(あるじ)達に比べたら「小者」かもしれませんけれど、道真が生きていた時の九州は、実権は完全に大和朝廷に移っていたものの、松浦水軍の残党(従来は新羅の海賊とされている)が真珠の名産地を襲ったり、石見と対馬で国守が殺されたりと、風雲急を告ぐといって良い状態だったようです。道真の太宰府行きが、果 して従来言われて来たような「左遷」だったのかどうか、これも調べ直す必要があるのではないでしょうか。(深津)


関西例会 □□□□
「《例会報告》十一月例会は大芝英雄氏より、隠された『記紀』の倭国」と題して、氏の持論「筑豊王朝説」を展開していただいた。豊前難波説を更に発展させ、神武東征の地は筑豊(田川市)の地であり、近畿天皇家は斉明まで同地に君臨した筑豊王朝であり、天智に至り近江に遷都したとするものである。質疑が活発になされたのは言うまでもない。(古賀)

「白水眞人」考

日進市 洞田一典

 大和岩雄『「日本」国はいつできたか』(大和書房、一九九六)につぎがある。「後漢の光武帝(劉秀)を『白水眞人』というーー『白水』は劉秀が属する舂(しょう)陵侯家劉氏の故宅が、南陽の白水郷にあったから。この地の漁人を『白水郎』という。天武天皇は大海人皇子というから、光武帝の白水眞人にあやかって『瀛眞人』とも考えられる。弘文天皇(大友皇子)は王莽に擬せられるのである。」(同書一五一ページを要約)
 なるほど、三段論法だとそうなる。確かに『後漢書』巻一のはじめに、世祖光武皇帝、諱は秀字は文叔、南陽蔡陽の人、高祖九世の孫也とあるが、彼を白水眞人などと呼んだ話など聞いたこともない。念のため、光武帝紀をしらみつぶしに見ていくと、その最後のところに著者范曄による「論」があって、その中に「王莽の簒位するに及び、劉氏を忌み悪にく)み銭文に金刀有るをもって故に改めて貨泉をつくる。或いは、貨泉の字文を以て白水眞人となす。」とあった。王莽の話が突然出るのにも面食らうが、とかく漢文は簡潔である反面、意味が取りにくい場合も多い。
 ご存じの向きも多いとは思うが、少々解説を加えてみる。ーー漢室の姓「劉」を分解すると、卯+金+刀(りっとう)。前漢の武帝以来の唯一の貨幣五銖銭に加え、王莽が仮皇帝だった居摂二年(七)に大銭・契刀・錯刀の三種類の新貨幣を鋳造させた。しかし、彼が帝位 についた始建国元年(九)には、大銭以外の三種は廃止され、新たに重さ一銖の小銭を鋳造し大銭と共に通 用させた。「刀」字を避けたわけである。さらに四年後には、この大銭・小銭も廃止、代わって貨布と貨泉の二種の貨幣が制定された。貨泉は重さ五銖の銅貨で、表面 に「貨泉」の文字があり、五銖銭の再生である。このあたりの朝令暮改ぶりは、西嶋定生『秦漢帝国』(講談社学術文庫一九九七) に詳しい。以上の説明もこの本によった。
 銭字には「金」があるから、同音の泉にかえたわけである。 泉= 白+水は簡単だが、貨= 眞+人などは文字あそびとしても楽しい結論として、自身を「白水眞人」と名づけて新貨幣の上に刻んだのは、王莽であった。白水の由来は、『漢書』地理志の南陽郡の条に「舂陵(県)=侯国・故(もと)の蔡陽白水郷、また蔡陽(県)=莽の母功顕君の邑」とある事実による。王莽・光武帝ともに南陽郡蔡陽に縁があるのは、奇とする他ない。
 なお、この駄文をものするため、『漢書』(班固、三二〜九二)をめくるうち、王莽伝に次の文があるのに気がついた。「莽また奏して曰く『大后統をとること数年。(中略)越裳氏重訳して白雉を献じ、黄支三万里より生犀を献じ、東夷の王大海を度りて国珍を奉ず』と。」大后とは当時元始年間(一一五 )称制臨朝していた莽の伯母の元后をいう。このころ、莽の母親(?ー八)も列侯に封ぜられている。周の成王の故事になぞらえた元始元年(一)の白雉献上は、王莽の演出の気配が濃厚だが、これとペアをなす東夷王の貢献を、「大海を渡り」と表現する以上、周代の倭人は日本列島にいた、と王莽たちが認識していた可能性は大きい。ただ東夷王とよんで倭人といわぬ 点に、ちょっと引っかかるものがある。
 越裳による周王への白雉奉献記事は、知見の範囲での初出は『論衡』(王充、二七 ー 九一)で、古田武彦『邪馬一国への道標』(講談社、一九七八)二十四ページには、
「周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯草を貢す。」(巻八、儒増篇)
「成王の時、越裳雉を献じ、倭人暢草を貢す。」(巻一九、恢国篇)
と出ている。王充がいかなる資料に基づいてこれを書いたのか不明だが、王莽が自己を周公に擬した話が当時の常識であったことは確かである。たとえば、前述の元后への上奏文の後に
「泉陵侯劉慶、上書して言う。『周の成王は幼少、孺子と称せり。周公居摂す。今帝春秋に富む。宜しく安漢公に天子の事を周公の如く行わしむべし』と。群臣皆曰く、『宜しく慶の言の如くすべし』と。」と見える。今帝とは、平帝のことで元始五年崩、歳十四。居摂は「摂政の位に居る」
こと。ちなみに、前漢最後の三年間の年号は「居摂」でこの期間莽は仮皇帝と称した。また、「安漢公」は莽を指していう。
 しかし、顔師古にいたる諸家の『漢書』の注に、この「東夷王」に関するものが見あたらないのは残念だ。ともあれ、後漢の光武帝建武中元二年(五七) 、倭奴国王の奉貢朝賀に先だって、「大海」を渡った東夷の王の使節がいたとはビックリである。しかし、前漢最末期の混乱のせいか帝紀に該当記事は見当たらない。
(一九九八・十・十一)

インタネット事務局注記2001.8.30
本文は訂正済み
 会報二九号の訂正とお詫び
7頁四段四行目 平帝衍 → 平帝
以上、訂正いたし、お詫び申し上げます。(古賀)


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『道楽三昧 』第8号より転載

旗と旗印

 豊中市 木村賢司

 私はMさんが代表である「古田史学の会」の会員であるが、本号の「雲夢」(うんぼう)でも記した、古田武彦の「日中関係史の新史料批判」という講演で、先生は最後に、古田史学が現在世に受け入れられないこと考えてみれば当然である。千三百年間も誤って伝えられてきたものが、本当はこれが真実ですといって、論証したところで三十年やそこらで、変わるものではない。もっと、もっと永い年月が必要である。でも、なにも心配はしていない。必ず真実に正される時がくる、感情的になる必要はなにもない。正しい歴史の論証を積み重ねることが大切と述べられた。
 私は、自身の生死を超えた感銘深い言葉として受け止めたが、だからといって「古田史学の会」が古田史学のPRをゆるめてよい訳がないと思った。
 現在「古田史学の会」では、講演会や史学論集(『古代に真実を求めて』『新・古代学』)の発行、会報の発行等を重ねられているが、私は何か物足りなさを感じていた。会員(古田ファン)をもっと増やす手段の一つとして「古田史学の会」の旗を作ることをMさんに提案した。そして、その旗印であるシンボルマークは、古田史学の原点である「邪馬壹国」の「壹」しかないと主張した。
 Mさんは、会の役員の方や先生にもはかられた上で、旗を作ることと「壱」も了解した、デザインはまかすので私に作れと言われた。
 私は在職中、魚釣部の旗とワッペンのデザインを考え作成した経験があるので、知恵のないことであるが、その旗と同じ構図にすることと決めた。
 旗の中心の「壹」の字を古田先生に書いてもらうようMさんに頼む。旗印の権威を高めるためとこだわったが、後で知ると大変な要望であったことが分かった。何事も真剣にとりこむ先生、現存する最も古い『三国志』の版本にある「邪馬壹国」の「壹」を書写した。古田が書写した証として、最後の一筆を内側に跳ねたと言われた。
 九月十九日に豊中市立生活情報センターで二一世紀市民セミナー主催の『「邪馬台国はなかった」から「黒塚古墳」まで』と題する、古田武彦講演会があり、その日私が受け取るべき「壹」の字を示され、どうしてもと言われて書いた、と言われながら講演に使われていた。講演後に、その「壹」の字を受け取ったが帰って眺めるほど味のある書に見えた。署名も印もないが、これは大変な奇貨になるのではと思っている。
 十月十七日に「古田史学の会」の月例会があり、この日でき上がった旗を出席者に披露して、代表(Mさん)に手渡した。「壹」という字の立派な旗は出来た。さて、これをどう活用して、会員を増やすことにつなげるか、言い出しべいの責任もあるかなと思っている。「昔、邪馬壹国のことを邪馬台国と言っていたことがあったなあー」と言う時代になるまで、「古田史学の会」とこの「旗」が継承されることを願っている。(百年以上、数百年かかるかと思う。)

 壹という旗印、掲げて歩む、古田史学

〔編集部〕本稿は木村賢司氏(本会書籍部)の自分誌『道楽三昧』第8号(一九九八年十月)より転載させていただきました。

図一 古田史学の会 旗
図二 壱の書

 


会員の皆様へのお願い
古田先生の研究活動支援を
  会員の皆様のお力添えにより、論集発行やインターネットホームページの開設など本会の事業は着実に前進しており、深く感謝申し上げます。その一方で、本会の全国化が不十分なため、各地へ調査旅行される古田先生へのサポートが思うようにできていないのも事実です。そこで、会員の皆様で次のような協力活動が可能な方がおられましたら事務局まで御連絡いただければ誠に有難く存じます。

1. 車などでの現地案内
2. 現地の情報収集報告(地元新聞・図書館等)
3. 地域組織の世話役
4. その他、可能な協力
ご厚志のほどお願い申し上げます。
(事務局長 古賀達也)

□□事務局だより□□□□□□
▽経済学者森嶋通夫氏と古田先生の対談が行われた。『新・古代学』4集に掲載予定。その森嶋氏が雑誌「世界」十二月号で古田説を紹介。「日本古代史における最も妥当な説」と。
▽明石書店より『古代に真実を求めて』2集が刊行された。賛助会員へは一冊進呈。発送作業も木村さんの御尽力により完了。まだ届いていない賛助会員の方がおられたら、御面 倒でも事務局まで御一報下さい。なお、賛助会員は会報郵送宛名シールの会員No. の後に「98Y」と印刷してあります(一般 会員は98N)。
▽木村さんの発議により本会の旗ができた。関西・東海・仙台・北海道・事務局と五枚作り、それぞれに送られた。今後、地域組織が増えればお祝いに作って進呈したいもの。小さな旗だが、いつの日か全国研究集会などを開催し、何十本もの旗が林立したら。そんなことを想像したりする。夢ではないと思う。
▽古田先生が九州湯布院へ調査旅行へ行かれた。万葉集冒頭にある「天皇、香具山に登りて望国しましし時の、御製の歌」が九州王朝の歌で、その「天の香具山」は湯布岳の東の鶴見岳であったという新説を検証するためだ。万葉集は古田先生により本格的な史料批判の段階に入った。
▽これら古田先生の新説を、来年正月の関西例会にて先生に報告していただくことになった。新年の幕開けにふさわしい研究発表となろう。皆様、良いお年を。(古賀)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)

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