古田武彦氏講演会(四月十七日) 二つの確証について−− 九州王朝の貨幣と正倉院文書−−

古田史学会報
1999年 6月3日 No.32


古田武彦氏講演会(四月十七日) 抄録(文責 編集部)

二つの確証について

−−九州王朝の貨幣と正倉院文書−−

 本年一月に飛鳥池遺跡出土の「富本銭」が公開展示された。鋳棹つきで報道写真とおりの展示であったが、聞くと鋳棹と銭はバラバラに別々の場所から出土したものであるという。寄せ集めの展示だった。誤解を招く、良くない。しかし、この遺跡が生産現場であったことはハッキリした。富本銭は江戸時代から知られていた。好事家には知られ、絵銭とか厭勝銭(ようしょうせん)とか言われていた。今回の発掘で新しくても八世紀のものであることが明かとなり、厭勝銭説の奈文研の松村氏は、通貨であるとの説に変えられた。しかしまだ厭勝銭説の人もある。この銭が天武紀十二年に現われる銅錢にあたるという。そうすると厭勝銭とは思えない。まじない銭に詔勅を出すだろうか?。このときの詔勅では「今後、銅銭を使え、銀銭は使うな」とある。銀銭には反感を持っていて、使用禁止。『日本書紀』は信用できないか?。いや、この点は信用できる。「法隆寺再建論争」で喜田貞吉は『書紀』の記述のみを根拠に再建説をとり、結局正しかった。「焼けもせぬものを焼けたと書くか?」という論理しか根拠はなかった。『書紀』が信用できない点は、年代や人物のあてはめなどイデオロギーに関するものであって、事物や事件は基本的に「あった」のだ。さきの詔勅の三日あとに「銀を用いること止めることなかれ」が出されている。「銀は使え…(銀銭はデザインや文字は消して使え)」、私にはこうとしか読めない。近江神宮近くの崇福寺に伝わる十一枚の銀銭…写真を保存している…そこには読み取れる文字があった。「無紋銀銭」ということばは正しくない。天武が反感をもち、否定しようとする銀銭は「九州王朝の銀銭」だったと考える。

 「無紋銀銭」という用語は江戸時代の天明二年の吉川維堅『和漢銭彙』に現われる。昭和十五年の「文字有り銭」が無視されたのもこの先例があったからだ。

 『書紀』での「銀銭」の用例は天武時代が最初ではない。顕宗紀に「稲斛に銀銭一文」がある。学者たちは「中国文献を引用し作文していて、顕宗紀は信用できぬ」とするが、同文ではなく、引用作文だからウソだとは言えない。顕宗紀にはこの銀銭記事をはさんで、三月上巳の「曲水の宴」の記事が三年続いて現われる。曲水宴は天子が行う遊びとして中国南朝に伝統があった。顕宗紀の干支を二巡引き下げると六〇五〜七年となる。隋書の「日出処天子」の時代である。南朝・陳が滅亡(五八九)すると倭国は「天子」を名のる。日本列島で曲水宴を行った例があるか?。久留米の筑後国府跡から曲水宴遺構が発掘されている。最近の年輪測定を加味すると、従来の考古編年より百年繰り上がるのが常識らしい。この遺構の年代上限は七世紀初めか。だから銀銭と曲水宴の記事は九州王朝での事実として矛盾しない。

 更に発展があった。「正倉院文書」中の正税帳によると、当時の税は、稲、塩、酒、粟などを納めるのが普通だが、「筑後国」の貢納物は変っている。鷹狩のための養鷹人と猟犬。白玉、青玉、縹玉などの玉類など。鷹狩などの貴族趣味は大和にはなく、筑後にはあったことになる。筑後はそれまでの文化の伝統を受け継いでいた。正倉院文書は当時の文化の中心地が筑後にあったと証言している。

 「正倉院文書」日付の最も古いものは…大宝二年のものである。これは不思議である。平城京以前の都は藤原京であった。藤原京には大宝二年より前の文書がなかったのか?。なぜ引越しの時に持ってこなかったのか?。これはONラインが大宝元年(七〇一)であり、それまでの権力中心は九州王朝だったとする私の説と対応する。

 これ以前の文書があれば、『書紀』は都合が悪かったのだ。行政単位「郡」はこれ以前は「評」だったことが知られているのに、『万葉集』には郡はあっても評はなく、作者不明の歌が多い。九州王朝は消されたのである。
 奇想天外のテーマがある。富本銭が長野県飯田市から明治時代に見つかっていた。天武紀十三年に「三野王らを信濃に遣わす」の記事あり、このとき携行したのかとの説がある。都を移す候補地を探したというが、近畿天皇家の天武がなぜ長野に都を移そうとするのか?ウソっぽい。白村江戦後、唐の占領軍は九州へ来た。なぜ近畿へ来なかったのか?納得できる説明はない。九州王朝が都を移そうとし、『書紀』はこれを二十四年移して盗用したのではないか?。
 朝鮮半島の情勢に恐怖を感じて遷都を考えたことはありうる。なぜ長野か?。海岸から遠いから。太平洋戦争のとき松代に大本営を移すことを考えたのに似ている。

 貨幣史に関する私の研究課題を挙げておく。

1). 富本銭の文字中、「本」字は、夲(大と十:とう)である。日本を富ませるの意味だという説がある。

2). 和同開珎、この名前の貨幣を作ったと『続紀』は書いてない。隠す理由があったのか?。

3). 開寳か開珎(ちん)か論争があった。栄原氏により「ちん」だと論証された。当時、開元通宝は知られていた。唐と同じ字を使いたくないのだ。この姿勢は大和のものか九州か?。

4). 鋳銭司という役所。最も永続し、中心だったのは長門にあった。何故か?。九州王朝が最初に作ったからではないか?。

5). 周船寺、九州の古い地名。読み方はスセンジだ。ここも鋳銭司か?。

6). 江戸時代の絵銭として作られた富本銭は中心星を五星が囲む「梅が枝」紋(天満宮の紋)で、飛鳥出土品は七曜紋。写し誤り説には疑問。

7). 長野出土の富本銭。飛鳥のものより文字がシャープに見える。両者の先後関係は?。

8). 銀と銅の問題。中国貨幣はもっぱら銅銭。九州王朝は中国南朝の銅銭は受入れ、北朝のものは拒否したろう。南朝滅亡後は、天子を称して自前の貨幣を作る必然性がある。しかし銅銭では中国銭に負ける。品位の高い銀銭を作ったが、中国側から見ればこれは目の上のタンコブ。九州王朝をつぶした後は、則天武后は天武に銀銭をやめ銅銭にさせたのではないか。その後の皇朝十二銭も流通させるのに悪戦苦闘、結局使われたのは中国銅銭ばかりだった。だから江戸時代には大判・小判=金銀貨ばかり作った。これなら中国銅銭に負けずに生きて行けた。今後、日本でドルしか使われなくなったとしても私は驚かない。

(於大阪北市民教養ルーム 水野孝夫要約)


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