『秘庫器録』の史料批判(1) 古田先生と「三前」を行く

古田史学会報 1999年 8月 8日 No.33


プロジェクト「貨幣研究」第2報

『秘庫器録』の史料批判(1)

京都市 古 賀 達 也

 第1報にて紹介した『秘庫器録』が公に報告されたのは、明治十八年『史学協会雑誌』二七号誌上のようだ。齋藤美澄「古代貨幣沿革考」という論文である(注1. )。『秘庫器録』が収録されている『日本経済大典1』滝本誠一氏の解説には次のように紹介されている。

「本書は羽後の和学者齋藤美澄に因って近年始めて学界に紹介されたる古佚書の残闕本である、或る書(書名は失念せり)に天長八年(約一千一百年前)に滋野貞主が勅を奉じて撰みたる秘府略と、源恒が其の後一百年を経て矢張り勅を奉じて撰みたる秘庫器録とは共に一千巻以上ある二大部書であると云ふ旨意を記るしあるを見たることありしが、今この大典に収載せるは、其の第三巻だけであって、此の第三巻は嘉元々年(六百二十六年前)三月二十九日、金澤文庫に於て、前中書王の蔵本より寫し置きたる古寫本を、照井璞平と云ふ和学者が、安政六年に金澤文庫より寫し来りたるを、其の門人なる齋藤氏が借寫したるものを底本としたものである、本書は普通何れの書目録にも所載なく、又現在の金澤文庫にも勿論存在せざる由なれば、果してこんなものがあったことなるや否明確ならざれども、現に余の文庫中に収蔵しある齋藤氏の親寫本は、同氏の筆跡には疑いもなく、其の没後、滋賀県の南部と云ふ人の手に帰したるものと見へ、同人の署名及蔵印ありて齋藤氏の旧蔵本なりしことは明かである、本書全体の様子を見るに二三誤写ではなからうかと思はるゝ点なきにあらざるも、徳川時代の人などが、故らに偽作したものでもなさゝうに見受けられ、又勿論照井氏や齋藤氏の悪戯に出たものにあらざることは、此の両人の人格に徴しても疑を容るゝの余地はないのである」

 この解説を滝本氏が書かれたのは「嘉元々年(六百二十六年前)」から逆算して、昭和四年のこととなるが、明治十八年に齋藤氏が史学協会雑誌に発表された後、学界からの応答はなく、偽書として無視されたようだ。そのような学界の状況に対して滝本氏は次のように続けられている。

「本書が若し果して後人の偽作でなく、真に古佚書の残闕本であって、而かも此の第三巻中に引用しある秘府略の本文が此の通りであったとしたならば、我が国の経済史上貨の事幣問題の第一頁は全然書き直さねばならないことゝなるであらう」

 そして『日本書紀』顕宗二年条の「銀銭」記事は史実と認められることになると述べているのである。このように、『秘庫器録』ならびに引用されている『秘府略』の記事が史実の反映であれば、日本古代貨幣史はおろか経済史さえも大きく塗り変えてしまうであろう。ただ、残念ながら『秘庫器録』古寫本の所在は不明であり、江戸期写本(照井書写本)の行方もわからない。現在、金沢文庫にある写本は、同文庫目録によれば昭和十年の「播磨 奥平昌洪書写本」とある。岩波国書総目録によれば東大にも写本があるとのことなので、これが齋藤書写本ではあるまいか。今後、調査したい。
 さて、このように全く孤立した『秘庫器録』であるが、その文中に引用されている『秘府略』(八三一年成立、千巻、大百科事典)も現存するのは2巻(『続群書類従』収録)のみで、『秘庫器録』に引用された記事も含めて、その他は散逸している。従って、『秘庫器録』中の『秘府略』引用記事が偽作か否か、ただちには判明しない。しかしながら、わたしは『秘庫器録』引用『秘府略』の類似記事を『和漢三才図会』に見いだしたので報告したい。

「按本朝銭始未知何世。或記云。『反正天皇二年。木莵宿禰、大前宿禰議曰、上古以米買物、今則求玉買物。共無由。仍著文於銅通穴貫緒用之則安。勅曰、龍能布雨、馬能負物。龍至靈不輙、以馬為文隹。此時始造此珍、世用大足、百民皆喜。人云龍足、銭高下、以、金銭一文買銀銭十文、以銀銭一而後勅、令足文買銅銭十文、銅銭一文買米一升。』」
 (『和漢三才図会』「金石部・銭」) <、。『』は古賀による>

『』内に対応する記事が『秘庫器録』に次のように引用されている。

「秘府略曰、反正天皇二年五月、木莵宿禰議如漢室新造銅幣通方孔著銘文。將施行天下詔許之。至是始作此珍、止用寶玉、世用大足公私便之。」<、。は古賀による>

 いずれの記事も反正天皇二年五月に銅銭(孔と文がある)を初めて作り、宝玉に替えて使用させたことを記している。『和漢三才図会』の記事の方がより詳しく、『秘庫器録』からの引用とは考えられないので、共に反正天皇の時代に銅銭鋳造が始まったという伝承に基づいていることがうかがえよう。したがって、『秘庫器録』引用の秘府略記事は『秘庫器録』編者による造作とは考えにくいのである。

 なお、『秘庫器録』編者はこの秘府略の反正天皇二年記事を受けて、直後に次のように記している。

「謹案、所蔵五十一枚、四傍有文如卍字耳<編 著案スルニ卍字ハ禾ノ古字、禾ハ稲ナリ>」 (<>内は細注)

 『秘庫器録』の編者、源恒の見解として、反正天皇二年の銅銭と推定される貨幣五十一枚が皇室の秘庫に存在し、孔の四方に卍の文があると述べているのだ。ところが、この卍文に似た刻印を持つ銅銭の存在が今日でも知られている。たとえば、江戸時代の貨幣図録『泉彙巻上』「日本銭歴代」に「無文銅銭」の図がある(図参照)。正確には「卍」ではないが、丸に十の字が刻印されており、源恒はこの銅銭の文を卍文と記したのではあるまいか。もっとも、『泉彙巻上』ではこの「無文銅銭」を天武十二年条に見える銅銭であるかのように紹介している(注2. )。『秘庫器録』に記された「卍文銅銭」が現存していることは、同書真作説に有利な事実である。
 このように、『秘庫器録』を冷静な史料批判の目に晒すと、とても偽書とは思えない点が少なくないのであるが、それらについて引続き次報にて詳述させていただく。

(注)
1. 『史学協会雑誌』は九州大学や東北大学等に所蔵されていることが、調査の結果判明 した。内容を実見の上、後日報告したい。なお、調査は室蘭の村井洋子さん、仙台の佐々木広堂さんの御協力を得た。
2. 『泉彙巻上』(静嘉堂文庫所蔵本)には、この無文銅銭と共に無文銀銭も紹介されているが、いずれも「文」(刻印)が記されており、「無文」の表記は不適切であること、古田氏の指摘の通りである。
〔『泉彙巻上』「日本銭歴代」の「無文銅銭」



古田先生と「三前」を行く

京都市 古 賀 達 也

 六月十八日、JR京都駅で古田先生と落ち合う。先生と御一緒するのはこれで何回目だろうか。今回の行く先は山口、福岡だ。雨模様の天候が気になる。この日は山口県の二つの鋳銭司跡(周防・長門)を訪ねる。まず、新小郡駅で下車し、タクシーで鋳銭司郷土館へ向かう。郷土館の前方に広がる長沢池が美しい。鋳銭司跡は掲示板があるだけで地元タクシーの運転手もその場所を知らなかったが、なんとか見つけ出した。だだっ広い空き地で、まだ学術発掘はされていない。今後の発掘が待たれる。
 新幹線を乗継ぎ、新下関で下車。前田博司さんの出迎えを受け、雨の降り出す中、氏の車で長門鋳銭司跡、次いで功山寺へ。高杉晋作の「功山寺決起」で有名な、あの功山寺だ。土塀の町並みが美しい。境内にある長府博物館で和同開珎の鋳型を特別に拝観できた。案内していただいた前田さんの御人徳で、博物館側の応対も大変親切だった。
 新幹線の時間待ちを兼ねて、関門海峡沿いの異人館という喫茶店で、しばし懇談。由緒ある建物らしい。近くでは最古の古代迎賓館跡が最近発見されたとのこと。対岸は豊前の国。目と鼻の先だ。下関にも豊浦という地名があることから、本来はこの下関側も含めて豊国ではなかったか、という古田先生からうかがっていたテーマを実感できた。「九州」の成立や範囲に関わる重要なテーマだ(注1. )。
 前田氏との別れを惜しみながら、新幹線で博多へ。翌日、福岡で古田史学の会主催古田武彦講演会が開催される。会場近くのホテルに着くと、学生時代の友人が出迎えてくれた。友人たちに先生は丁寧な挨拶をされる。先生をホテルに残し、私は旧友たちと夜の博多へ乗り込む。夜中の二時まで飲んで、ホテルに戻った。
 十九日午前中、先生は散髪。わたしは福岡県立図書館へ。五年ほど前に訪れた時に見つけた本を閲覧コピーするためだ。ところが、いくら捜してもその本が無い。書名も忘れているため、検索もできないし、館員に尋ねても判らないという。その本を読むために、わざわざ京都から来たというわたしを気の毒に思ってか、一般の人は入れない収蔵書庫まで入れていただき、ようやく目的の本を見つけることができた。『靖方溯源 伏敵編付録』。明治二四年に出された本で、日本に攻めてきた異国を撃退した歴史を編年体で記したものである。その中には「開化天皇ヨリ天智天皇御宇ニ迄ル外冦異説」や九州年号が掲載されており、以前から注目していた書物であった。いずれ詳しく紹介したいと思う。
 午後二時、水野代表や木村さんと合流し、講演会々場のアクロス福岡に入る。元、県庁があったというかなり大きなビル。地下鉄天神駅からも近いし、会場としては最高の所だ。既に十数名近くの人が開場を待っておられ、あわてて受付を始めた。古田史学の会としては初めての福岡講演であり、現地組織もなく、はたしてどのくらいの人に集まっていただけるか心配だった。もっとも、福岡在住会員の皆さんには、会場予約から宣伝まで協力いただいていたが、やはり不安だった。心配していた天候も回復し、結局、定員七十の会場は九十名近くの方で超満員。椅子やレジュメが不足して、他の部屋から椅子を借りてきたり、レジュメをコピーしたりと、嬉しい悲鳴をあげた。地元連絡先を担当していただいた山本晴太弁護士(氏の法律事務所に連絡先を引き受けて頂いた)によれば、新聞各紙に講演会の案内が出る度に電話問い合わせが殺到し、中には、七十名の会場で足るわけがない、というお叱りの電話まであったそうで、山本さんも会場が狭すぎるのではなかったかと、だんだん不安になったそうである。
 ともあれ、三時から夜九時まで、途中の夕食休憩を挟んで、古田先生の熱弁は冴えわたった。演題は「九州王朝の大いなる光と影−倭国における貨幣と原万葉集」。万葉集、富本銭、筑後国正税帳、正倉院文書など最新の研究テーマが、これでもか、これでもかと展開され、熱気につつまれて講演会は盛況のうちに終った。終了後もホテルの喫茶店に場所を移し、十名近くが十一時頃まで先生を中心に懇談した。
 翌二十日も梅雨の合間の好天に恵まれる。古田先生とわたしは西鉄大牟田線に乗って、小郡に向かった。小郡駅では内倉さん(朝日新聞記者)と恵永次男さん(吉野ケ里遺跡全面保存会)に出迎えていただいた。挨拶もそこそこに、内倉さんの車で次なる目的地、肥前に向かう。
 まずは千栗八幡神社。千栗と書いて、チリクと読む。地元の人でなければ、ちょっと読めないだろう。そして、筑紫米多国造の都紀女加(つきめか)古墳。目達原(めたばる)古墳群の中で破壊を免れたほとんど唯一の古墳だ。現在は宮内庁陵墓参考地として保存されており、墳丘部分には立ち入れない。戦時中、陸軍飛行場建設のため破壊された他の目達原古墳五基が七分の一のスケールの「古墳」に改葬され、都紀女加古墳に隣接した地に並んでいる。案内していただいた恵永さんから、地元の考古学者松尾禎作氏が古墳を護るために苦労された話や、破壊された大塚古墳が都紀女加王の墓と地元では見られていたが、陸軍の圧力などで現在の都紀女加古墳(上のびゅう古墳)に比定されたため、大塚古墳は破壊されたことなど、感慨深いお話をうかがった。「改葬」されたミニチュア古墳には、発掘された遺物が納められているとのこと。地元考古学者による陸軍への最後の抵抗であり、被葬者に対する最低の礼儀だったのであろう。
 こうして目達原古墳群はほとんど破壊されたが、松尾禎作氏らの努力により当時の発掘調査報告書が昭和二五年佐賀県より発刊されている(注2. )。報告書によれば、全ての古墳が盗掘されており、瓢箪塚古墳を除く四基は石室などの主体部を持つが、瓢箪塚古墳のみは主体部が無く、弥生のかめ棺が多数出土したとのこと。従って、瓢箪塚古墳は弥生墳丘墓ではあるまいか。吉野ケ里以前の報告書であるから、弥生墓の上に古墳が造られたのではないかと、慎重な扱いになっているが、吉野ケ里の墳丘墓を知っている今の時代であれば、迷わず弥生墳丘墓と判断したであろう。松尾氏のスケッチを参照されたい。
 移動の車中、恵永さんの吉野ケ里遺跡保存運動時の苦労話や逸話をうかがいながら、一行は肥前から筑前、筑紫野市二日市町へ。柳澤義幸さんのお宅へうかがい、黄金の王冠(男女用一対)を見せて頂く。昔、太宰府近くの古墳から出土したものを知人から買い取ったものだそうだ。学者は立派すぎるという理由で、朝鮮渡来のものと判定しているらしい。
 国立東京博物館にも似たような王冠があり、国宝になっているらしいが、それよりもはるかに立派な王冠である。しかしながらというか、おかげでというか、こうして間近に見ることができた。この王冠は九州王朝の天子のものだったに違いあるまい。九州王朝説が世に認められた時、この王冠もまた国宝に指定されること疑えない。柳澤さんは九十歳近くの御高齢にもかかわらず、お元気だ。翌日から南米に行かれるという。
 帰りの新幹線の時刻がせまり、後ろ髪を引かれる思いで、わたし一人帰路につく。三日間の短い日程だったが、古田先生に同行しての豊前(山口県も含む)・筑前・肥前の「三前」旅行は、好天と良き人に恵まれて、素晴らしい旅となった。この八月には、故郷久留米を訪れ、東京古田会主催の高良玉垂命の調査研究に参加する予定。そこでも良き人と好天に恵まれんことを祈りつつ、「三前」行紀の筆をおく。

(注)
1. 同テーマと関連して、『九州を論ず』(仮称)という本が(古田先生、福永晋三氏、古賀による執筆)、多元の会・関東の編集で発刊される。
2. 『佐賀県史蹟名勝天然紀念物調査報告 上・下』として青潮社より復刻されている。


 これは会報の 公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜四集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail sinkodai@furutasigaku.jp


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