和田喜八郎氏に捧ぐ 古田武彦

和田家文書の中の新発見(『新・古代学』第2集 特集和田家文書の検証)

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遺稿 北天の誓者は強し 和田喜八郎 故和田喜八郎氏に捧ぐ 誤字「屈ける」の証言 京都市 古賀達也

古田史学会報 1999年12月12日 No.35
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遺稿

北天の誓者は強し

和田喜八郎

 和田家当主和田喜八郎氏が九月二八日御逝去された。享年七十三才であった。氏の御遺志にそえるよう、古田史学会報へ御寄稿いただいたものより、未発表稿をここに掲載し、故人のご冥福をお祈り申し上げたい。なお、原稿は修正の手を加えずそのまま掲載した。(編集部)

 シサム・シヤモとは、クリル族が倭人をいう言葉である。
 古来より北方の覇にあった安倍一族が、廚川柵を末期に敗北したあと、源氏の一党が渡島に渡り、クリル族のエカシ(長老)を捕いて、安倍安國以来、渡島の地に蓄積していた砂金を奪取せんとしたが、一人のエカシをも捕うことが出来なかった。
 依て、空しく軍勢を引揚げたが、これで十三湊に安東水軍を起した廚川太夫貞任の遺子高星丸が北海の覇者となり、一族の再興が速進したのである。
 安倍氏を改め、安東姓を以て山靼交易を旨として、渡島のマツオマナイ(松前)、樺太のナニオ湊を東日流(津軽)十三湊の配湊として交易を盛んに利益を得た。
 黒龍江(アムール河)を山靼往来として、モンゴルまでも往来し、北方諸族と安堵の盟約を交して信条を得ていた。
 これをクリルタイというが、元冦のとき、幕府も朝廷も國難として築紫の海辺に軍陣を挙兵していたが、安東船は支那揚州に交易していたことは倭史に一行の記事もない。
 揚州には、マルコポーロが知事をして、安東船だけは交易をゆるされていた。
 また樺太島に、元軍が上陸し、地の長老グウエイエカシが応戦していたが、安東水軍がこれを不法として、元王フビライハンに断判状を、マルコポーロをして屈<届>けた。
 ただちに樺太島より元軍は引揚げ、兵糧など安東水軍に与へて去った。
 折しもこの年は東北日本は凶作で、この糧秣で飢餓は救はれ、マルコポーロやフビライハンを救世主として寺社に祀った。
 今でもこの像が弘前の長勝寺や、盛岡の報恩寺に祀られ現存している。
 これも倭史には一行も記述のないことで、北日本國のみの史実である。
 こればかりではなく、東北史全般にかかはる公史は、いづれも史実の記行を著しているものはなく、西高東底に完末している。
 これを覆えす程に記録されていた文献が『東日流外三郡誌』であった。
 だが、この文献を私が偽造したということで裁判で争う事件が起った。
 一審から高裁、そして最高裁まで、二百号に余る上告証が提訴され、テレビ、新聞、週刊誌などマスメディアを擁して、私への中傷と人格毀損も甚々しく、執拗なまでに手段を選ばず続刊し、判決を前にして偽書成立の確定もどき記事で一般大衆に宣布していたが、裁判に於ける判決は、最高裁まで上告を重ねても彼等は敗北の終止符が打たれて了った。
 北日本の史実も知らぬ者が、神代を歴史の筆頭にした公史といわれる「記紀」を基本に、東北史を云々する勿れと『東日流外三郡誌』に記行されている如くであった。
 天皇系を中心に一元の作説になるいままでの深層に久しく民を洗脳してきた公史も、『東日流外三郡誌』に記される史実は発掘に依て従来の定説が覆えされ、公史にかくされた東北日本の史実は世に光芒を放っている。
 今まで学校の義務教育に依って、一元支配に洗脳されてきた超古代記項は、少か一行にもたらぬ記述で了った古代縄文時代には、日本史の根元があり、人祖のルーツに於ても神話でない史実の証明が東北日本にあるのだ。
 私は史家でもなく、津軽に於て農業する他知識もないが、私を『東日流外三郡誌』の偽造者として裁判に依って葬むらんとした輩は赦せない暴挙であったことを厳に宣言する。
 この報復は、彼ら自らの前途に天罰が破むるものと私は神に祀呪してやまない。
 私でなければ今までの苦渋を知るものはいないからだ。
 子供が、この偽書裁判中に苛めの対象となって、帰校に血まみれできたとき、学校への登校を拒否したこともあり、これはだれよりも先生や当時の教育委員会でも既承している事件でもある。
 有難いことには、私の祖来に祀る石塔山の信者であり、裁判中に於ても、全國からアラハバキ神の、神通力が霊験の灼かなことを知り、ホテル宿りに散財も省りみず参拝に欠くことはなかった。
 然るに、裁判判決の前後をして、三度に渡って遺物を盗まれる盗賊侵入事件があり、警察捜査中にもかかわらず盗難に依って破<被>害を蒙った。
 いづれ捜査の網にかかるだろうが、盗まれた刀剣や仏像らが案ぜられてならない。
 裁判と盗難、子供らの苛めに、私の精神を乱すものの破<被>罰を神かける現在であるが、必ずや心の晴れる日のあることを私は信じて、これから古田先生に頼み一万三千巻の文献を世に出したいと祈念している。
 私も寄る歳にそなえて、史料館を建固に建立したいのが現在の念願である。
 これから、神々が私の心になにかを悟らしめるまで石塔山に篭り宿行したい。
 昔から、この聖域は怖れて人々は入峯するものはなかったのに、私が山道を施し、新宮を建立して以来、神々しいまでに再興がなって、苔埋まった安倍一族の墓も崩れた五輪塔などが復現された。
 なにごとのおはしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼるる
 かく古歌あるを、この石塔山に想うはなぜだろうか。
 鬱蒼たるヒバの原生林、峰を吹く枝渡る風、渓の瀬音や蛙の声、みなながら神の声と相と想うこの頃である。
 祭壇に向って太鼓を打鳴し、三礼四拍一礼をして祭文を称へる宿行と、墓地を拝せば、はるか北辰の夜空にまたたく北極星が、青い淡光を放って霊降して来る感覚に私は声をかぎりに称へ奉るは太古ならである。
「アラハバキ、イシカ、ホノリ、ワッカウシ、カムイ。カンドコロ、モシリ、アトウイ、カムイ。ヌササシ、イオマンテ、イワクテ、カムイノミ、イナウ、オブニレ、カムイヌサ。オーホホホーフツタレチユイ。ホーホホホー、バコロ、イソノレアイ、アマクー。」
 火は宇宙の神へ、タシロ(山刀)は地の神へ、チブ(舟)は海の神へと献げ、いづれもカムイノミ(神火)に焼くのが古代式祭典である。
 メノコ(娘)たちは、祭のイナウ(木幣)を焼くとき、素焼にするカムイチセカタシロ(土干の土偶)を焼き、それをコタン(村)のチセ(家)に祀るイコロ(宝)とする。
 これは次の祭り前にチセ(家)のヤントラ(墓地)に埋める。
 これが古き世の祭りであり、伝統である。 今では、仏教や、倭神に化度されたものとなり、消滅されたと言っても過言ではない。
 ただ古代のままに遺るものは、イタコ(霊媒)ゴミソ(神司)オシラ(占)の名称だけである。
 これも世襲であり時代の過却であると想いながらも、若しも日本将軍が東北日本を独立していたらと古代を偲ぶときもある。
 前九年の役は東北日本の覇者、安倍氏が、頼良をして多賀城の誓書を信じ、承久の和睦を信じて、一族反忠の底を抜かれた裏切行為に敗因があった。
 だが廚川太夫貞任の遺子高星丸が、平川の藤崎に館を築き、十三湊を開湊し、福島城を 築いて渡島と往来し、安東水軍を挙勢して千島及び樺太までも日本領として、原住のエカシ(長老)を立て、オホーツク海及び黒龍江(アムール河)をのぼり、山靼往来を交易したことが、一族再興の隆因となり、モンゴルのテムジンとクリルタイ(盟約)を結んだ。
 これが、西のトルコやギリシア、シキタイ、ペルシア、コプト、シュメールなどの駝駱商人と交易するようになった。
 渡島の砂金は世界の貨幣として通用し、その交易を近して山靼のワニ湊が取引の場となり、オホーツク沿岸民族で、エブエン族やアムール川の両岸民族でエブエンキ族、ネギダール族、ナナイ族、ウリチ族、オロチ族、ウデヘ族、ウイルタ族らもこの市場に集まって、北海の幸が商易された。
 安東水軍は一航の船団を、水先、前後左右に防人船を配し、三隻の安東船を護った。
 この流通を倭史では知る由もなかったから、倭史に記述もなかったのだ。
 これは、北方世界とのつながりを皆目知ることのできなかった倭人のながく歴史のかなたに埋もれてきた理由である。
 江戸時代に至って、松前藩がアイヌから手に入れた蝦夷錦や青玉などを、北前船が江戸庶民の人気を集め利益を得た。
 だが、鎖國の國禁を犯す嫌疑を恐れ、これら品々の出自を秘密としたが、一七八八年、幕府巡見使に随行した古川古松軒でさえも、その著書『東遊雑記』にはこの品につい<て>は、「詳かならず」といっている。
 依って、更に永く北方の文化圏を知る由もなく、間宮林蔵が一八〇九年に、アムール河の下流のデレンに赴き、樺太は島であり、大陸の間は海峡であることを幕府に報告した。
 北方を知ったのはひれが始めての公聞であり、安東水軍が交易したときより何世紀もあとであることはいうまでもない。
 倭人が前九年の役を記した『陸奥話記』でさえ、巻末にこれは、又聞の書であるから誤記があったら訂正をと請うとある如く東北日本の倭作のものは史実に遠い。
 その史実を遺した『東日流外三郡誌』を、私が造った偽書として、裁判に訴訟した野村孝彦や、これ<を>支持した輩の各号証にあるものを明細に刊行して皆さんの評定批判を仰ぎ、古田史学会の参考にしたい。

〔編集部〕文中、誤字脱字と思われるものは編集部が<>で訂正補足を行ったが、最小限にとどめた。氏独特の用語・用字、津軽弁もそのまま掲載した。なお、本稿は一九九九年三月二三日消印で編集部へ郵送された。絶筆ではあるまいか。原稿(清書)の筆跡は和田章子さんのもののようである。


故和田喜八郎氏に捧ぐ

誤字「屈ける」の証言

京都市 古賀達也

 和田家文書明治大正写本等で、歴史を学ばれた和田喜八郎氏は、用語や用字の多くにそれら和田家文書の影響を受けられていた。例えば本号掲載の遺稿中にも「届」を「屈」と書く“クセ”が清書者を介しても現れている。このクセは明治写本の筆者、末吉や長作にも共通して見られる。この誤字が喜八郎氏のヌレギヌをはらす証拠となることに、私は「偽作」裁判の結審間際に気が付いたのであるが、発表する機会を得ないまま、今日に至った。ここに氏の御霊前に報告したい。
 裁判の直接の事由となった、野村氏の写真無断転載の件について、生前、喜八郎氏は他者に編集を任せていたので、なぜ写真が使用されたかは分からないと述べられていた。その本は『知られざる東日流日下王国』というもので、問題の写真は最終章の第十五章「特報!世襲に消えた幻の耶馬台城」に掲載されている。同書では今回指摘した「届ける」という字が「屈ける」という誤字のまま使用されてるのだが、問題となった十五章のみは「届けてくれた」(P.249)と正しく使用されている。他の6例は全て「屈」が使用されている。次の通りだ(筆者調査による)。
1) P.52「聞屈けず」 2) P.198「見屈けられた」 3)P.219「見屈けてください」 4) P.225「屈かぬ」 5) P.270「見屈けて」 6) P.277「屈(とど)かぬ」 <※ 5) 6) は「あとがき」中のもの。>
 このように問題の十五章以外は全て、喜八郎氏の誤字を「正しく」反映して編集されているのである。このことは、問題の十五章に関しては他者の文である可能性が高いことを示す。私にはそのように思われるのである。
 本小文を天国の喜八郎氏に捧げる。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜五集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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