天皇陵の軍事的基礎〈II〉(『古田史学会報』No.43 )へ
天皇陵の軍事的基礎
古田武彦
一
前稿(「日本国家に求める ーー箸墓発掘の学問的基礎」)において、わたしは箸墓について論じた。より正確に言えば、考古学者達が言及し、或は暗黙のうちに“前提”としていた「箸墓の被葬者=卑弥呼、或は壱与(台与)」説を「否」とする論証をのべたのである。
箸墓が「円部」のみで“直径、一五六メートル”の巨大規模をもつのに対し、三国志の魏志倭人伝中の「径、百余歩」、この卑弥呼の墓について記載された、簡明な一句の指示するところは「二十六メートル以上」、おそらく「三〜四十メートル」クラスの墓、いわゆる墳丘墓だ。そのように論じたのである。今は“地平”に「削平」されているけれど、日本列島中、随一の「三種の神器(宝物)」を蔵する、糸島・博多湾岸の弥生の五王墓(吉武高木・三雲・須玖岡本・井原・平原)はいずれも本来(「削平」前)は、そのクラスの墳丘をもっていたもの、そのように見なしたのである。もちろん、いずれも「偶然の手」によって発見された、この「五王墓領域」(前原市、福岡市、春日市)周辺には、同規模、もしくはそれら以上の「三種の神器」類を内蔵すべき遺跡が、地下になお眠っている可能性は決して少なくはない。
これが、わたしの前稿の論証のおもむくべき地平であった。
二
なお前稿において触れなかった、重要な一点について「追記」しておきたい。
三国志の魏志倭人伝中、魏朝の天子の第一代、文帝紀の中に、陵墓に関する、陸離たる名文が「文帝の詔勅」として掲載されている。
先ず、古えの堯・禹の事例をあげ、彼等の場合、決して広大なる帝王陵などは建設されていなかったことを力説する。
「寿陵は山に因りて体と為し、封樹を為すなし。寝殿を立て園邑を造り、神道に通 ずる無し。1) 」
そして
「夫れ、葬なるは蔵なり。人をして見るを得ざらしめんと欲するなり。」
と結論する。それゆえ、自家の営む墓はあえて後代においてその処を“知らせない”ようにする、と明言している。それゆえ
「葦炭を施すなく、金銀銅鉄を蔵するなし。」
と言う。そして「珠襦・玉匣」を施すのは、諧愚俗の為すところとして排斥している。
さらに、後漢の光武帝の「原陵」があばかれたのは、広大な陵墓を造成した、(次代の)明帝自身の「罪」であると、これを痛烈に指弾する。
そして末尾に「千古の名言」が現れる。
「古えより今に及び、未だ亡びざるの国有らず、亦掘られざるの墓なきなり。」
と。これは単に「薄葬令」などという“うすっぺら”な術語では尽くせぬ、統治者の真の哲学、その千古の指針の叙述と言うべきものではあるまいか。なぜなら「権力の史的相対性」を、権力者自身がよく自覚し、史家(陳寿)がよくこれを明記しているからである。
三
わたしがこれをあえて「追記」した理由は何か。
“径、一五六メートル”の「円部」をもち、さらに「方部」ともで「二七六メートル」もの“全長”の巨大古墳である箸墓が、もし「卑弥呼、もしくは壱与(或は台与)」の墓であったとしたならば、彼女等は、表では魏晋朝への「臣従」を誓い、「親魏倭王」の称号を下賜されながら、裏では、右のような「魏の天子の意志」に対して全く背反し、これを一切尊重しようとせぬ、いわば「面従腹背の狡徒」とならざるをえないのではあるまいか。この問題だ。
従来の論者、箸墓を以て、正面から、或は暗々裡に、「卑弥呼、或は壱与(台与)の墓」に比定してきた論者たちは、この「面従腹背」問題に対して一切“答え”ず、“他(よそ)を向いた”まま、今日に至っていたのでなければ、幸いである。 2)
四
本稿の中心課題に移ろう。
それは次のテーマである。
第一、
「箸墓という巨大古墳はなぜ造られたか。」
前稿で引用した近藤義郎氏の論稿「箸墓古墳築造の意義」(E)で指摘されているように、箸墓において「未曾有」の巨大古墳は“はじめて”成立した。埴輪などの様式は吉備の様式を“継承”しているものの、その古墳の規模は一変した。突如、これほどの巨大古墳が出現した。その事実を、右の(E)は明晰に指摘しているけれど、「なぜ、出現したか。」との一点には答えることがない。むしろ、考古学者の「立場」から、その問題に立ち入ることをあえて“避けて”いるようにさえ見えるのである。
しかし、少なくとも、歴史学の立場からは“避けうる”問題ではないこと、言うまでもない。これについて論述しよう。
日本書紀の崇神紀によれば、箸墓は「崇神天皇の時代」に築造された、とされる。古事記には、この箸墓に関する記載はないけれど、“代って”と言うべきか、オホタタネコをめぐる三輪山伝説が記載されている。
「崇神天皇の時代」が、近畿天皇家の発展にとって「画期」をなす時間帯に属すること、記・紀ともに伝えるところである。
(A)古事記・・・三道進出。
「又此の御世に、大毘古命をば高志道に遣はし、其の子建沼河別命をば、東の方十二道に遣はして、其のまつろはぬ人等を和平(やは)しむ。又日子坐(ます)王をば、旦波(たには)国に遣はして、玖賀耳之御笠を殺さしめき。」
(B)日本書紀・・・四道将軍進出。
「(崇神十年)大彦命を以て北陸に遣す。武渟川別をもて東海に遣す。吉備津彦をもて西道に遣す。丹波道主命をもて丹波に遣す。」
右の二書には(A)「三道」と(B)「四道」の差異がある。これは(A)の方が本来型、(B)の方が「改増型」であると思われる。なぜなら、いずれも同じく、近畿天皇家内における「所産」である以上、
(1). (A)に「一道」(西道)をプラスして(B)の「四道」の形に“改めた”、という可能性はあっても、その逆の
(2).本来、(B)の「四道」型であったものを、あえて「一道」(西道)を削除し、「三道」型へと「改削」すべき理由はないからである。
すなわち、古事記のしめす「三道」が本来型である。
五
「崇神天皇の時代」のしめす画期性、それは次のようだ。
「大和盆地内を征服し終えた(第九代、開化)あと、大和盆地外の三方向へと進出し、征服を進めた。」
これが「初国知らしし御真木天皇」(第十代、崇神)の業績だ。「初国」とは、従来の多くの論者によって“誤解”されていたような「始祖」をしめす表現ではない。「新征服地」をしめす表記である。3)
六
以上は、文献上の「史料批判」だ。これを考古学的出土物との対応関係から見れば、そのポイントは次の一点だ。
(α)「九州の分流として、この大和盆地に侵入した『神武の系流』は、『三種の神器』の文明シンボルを背景とする。
これに対し、被侵入者側(大和盆地、在来の勢力)は、異質の『銅鐸』を文明シンボルとする勢力であった。」
と。
このテーマは、次のテーマへと進展する。
(β)「右の侵入勢力は“第一代(神武)から第九代(開化)の間”において、大和盆地全体の銅鐸勢力を駆逐・征服することに成功した。」
(γ)「この近畿天皇家の系流は、第十代の崇神天皇の時代に至り、大和盆地周辺の『三方』の銅鐸勢力を襲撃し、これらの領域を『初国』として征服し、併合するに至った。」
以上の状勢は、これを「軍事的状勢」の視点から大観すれば、
「(復讐心に燃える)銅鐸勢力側からの軍事的反撃に対し、用心と警戒のさ中の崇神側(大和盆地内勢力)」
という対立図である。
七
以上のような、熾烈なる一大軍事対立の、当の時間帯において、果して「平和なる鎮魂と祭祀」のめたの、巨大古墳の築造を“発想”し、かつ“遂行”しうるものであろうか。 ・・・これが本稿の基底をなす「問い」だ。疑問の発起点なのである。なぜなら、このような巨大古墳築造のためには、巨大なる労働力と経済力と政治力を必要とすること、およそ疑いがないところだからだ。近畿周辺の熾烈なる「敵意」の面前で、なぜこれほどの「一大労働力」を動員する必要があるのか、そしてそれが可能だったのか。およそこの一点は、歴史を真摯に考えようとする者にとって、疑いがたき「問い」なのではあるまいか。
この「問い」に対して、わたしは本稿の論述における「根本の仮説」を立てようと思う。それは、次のようだ。
「一旦緩急あったとき(現地が交戦状態に陥ったとき)、巨大古墳は屈強の軍事的要塞としての、すぐれた機能を発揮する。」
・・・この仮説である。
八
今城塚古墳(大阪府高槻市)は、論者によって「真の継体陵」に擬せられることのある、著名な巨大古墳であるけれど、その現状調査(高槻市教育委員会
4) )によれば、近世(戦国期)において軍事的要塞(砦)として使用された痕跡が歴然として残されているのである。
それは、頂上部だけではない。二重の周濠の中の内濠は埋められ、代って土塁が築かれた。今もその跡が深く残されている。おそらく近世における、鉄砲などの“より発達した攻撃手段や攻撃方法”に対応するためであろう。
他にも、中世末から近世初頭の間において古墳が「築城」目的のために、軍事用の要塞(砦)として使用せられていたこと、周知のところである。5)
これらの報告に接し、従来、わたしたちは、「本来は、神聖なる墓域であるのに、むごたらしいこと!」と嘆ずるのを常としていた。しかし、本当にそうか。
なぜなら、中・近世の軍事的プロ集団(将軍や兵士たち)の「目」にとって“屈強の砦”として“見えていた”ということは、その時期をさかのぼる、原築造期と三・四世紀以降の時代、すなわち「弥生末期から、古墳時代の全体」の時期においてもまた、同一の使用価値、すなわち軍事的要塞(砦)の側面を、「楯の、もう一つの面」として保有していた。言いかえれば、「(祭りのための)墓」としての姿と、同時に反面の軍事的使用価値を「併有」していたのではあるまいか。この問題だ。
もちろん、そのさい、特記すべき諸点がある。
その一は、箸墓を筆頭とする、これら「天皇陵」(たとえば、崇神陵など)が、常時「砦」すなわち軍事的要塞としての設備が“設置”されていた、などというのでは、全くない。あくまで、一旦緩急あった、非常のさい、すなわち敵軍が侵入してきたとき、「そのための用意」だ、という一点である。
その二は、当陵墓上に位置すべきは、当然ながら“全軍”ではない。あくまで「指揮集団」と「見張り兵」などが“こもる”べき要地である。この点、近世の軍事集団のプロたちの「使用方法」もまた、同一であろう。
その三は、敵軍と交戦するさい、このような「指揮集団の依拠すべき軍事拠点」の有無は、軍事上において、大きく“優勢”と“劣勢”を別けるであろう。なぜなら敵の大軍は「木津川沿い」などの“平地”を通って侵入して来る可能性が高いからである。
その四、この時点(「崇神天皇の時代」)において、敵対勢力たる銅鐸文明圏の中心部は、東奈良遺跡(最大の銅鐸産出地帯〈鋳型出土〉。大阪府茨木市)周辺にあった、と見られるから、「木津川沿岸」は最大の「想定侵入ルート」となったもの、と見られる。(有名な椿井大塚山古墳は、大和盆地への入口に当たっている。)
その五、これに対し、崇神天皇側の宮処として伝えられる
師木の水垣宮(古事記)
(崇神三年、秋九月)都を磯城に遷す。是を瑞籬(みつかき)宮と謂ふ。(日本書紀)
は、今の「奈良県桜井市金屋付近」(岩波、古典文学大系本、二三七ページ、注三三)とされるから、「木津川沿い」の侵入軍にとって、「箸墓」などは、まさに「侵入ルート」に当たっていることが知られよう。とすれば、この「箸墓」のある位置は、決して“偶然の位置決定”ではなかったようである。
前稿でのべたように、すでに早くから「大市」として存在し、いわゆる「神前町」として商業的繁栄の中枢にあった、この地をえらび、あえてこの巨大古墳を「新造」したこと、必ずその「故ゆえ」(理由)があったはず。そのようにわたしの考えること、果して不当であろうか。
中国の古典にも「墳墓の地」の故事がある。
管子、対(こた)えて曰(いわ)く、故国墳墓の在る所、固きなり。
(管子、小問)
平和なる「墓の祭事」と、故郷の地の「軍事的防禦」と、この二者は“表面”は別にして、その“内実”は、意外にも「表裏」をなして“分かちがたき”ものだったのではあるまいか。
九
次ぎに考察すべきは、労働力の問題だ。
箸墓のような巨大古墳を築造するために、厖大な労働人口の必要なこと、論ずるまでもない。では、そのような労働人口は、“どこ”から得られたか。
一に、大和盆地内部の「旧、被支配者」たちであることは当然ながら、二に、大和盆地外の「新、被征服民」(銅鐸圏の住民たち)を動員して、はじめてこれをなしえたこと、これを疑うことはできまい。
なぜなら、第一代(神武)から第九代(開化)の陵墓に対し、この「崇神天皇の時代」に建造された陵墓において、まさに飛躍的、画期的な巨大化がなされているからだ。右の「二」の要素を抜きにしては、この「画期」を説明することは不可能である。
十
この点、さらに決定的な「終着」ともいうべき画期は、第十一代、「垂仁天皇の時代」に来た。
記・紀ともに、この時代に「サホ城の一大落城譚」の存在を記している。垂仁の「妃」とされたサホヒメ(沙本毘売)と、その兄サホヒコ(沙本毘古)に関する説話である。本居宣長の『古事記伝』をはじめ、従来の記・紀読解はすべてこの「サホ」を以て「大和のサホ(奈良市)」と見なしてきたけれど、わたしはこれを「否」とした。その理由は
(一)古事記の文面の
「(垂仁)玉作りし人等(ども)を悪(にく)まして、其の地(ところ)を皆奪ひたまひき。」
は、後代写本による「改削形」だ。最古の写本たる真福寺本では
「皆奪二取其地一。(皆、其の地を奪ひ取る。)」
となっている。宣長以降、すべての注釈家は、垂仁のお膝元(奈良市内)ともいうべき「サホ」の地に対して、「奪い取る」の一語を“不穏当”として、「取」の一字を“削除”し、“改ざん”したのである。
(二)この「サホ」が「玉作り人等」の本拠であるように前提されているけれど、奈良市内の「サホ」の地には、そのような「玉造り遺跡」は存在しない。
これに対して、わたしはこの「サホ」の地を以て、摂津の「サホ」(大阪府茨木市)とした。(近畿内では「〜国の〜」と、国名を表記せぬこと、珍しくない。)
(三)摂津の「サホ」は、銅鐸圏の中枢であり、最大の銅鐸鋳型出土地である。「三種の神器」側の「垂仁天皇の勢力範囲」ではなかった。「奪ひ取る」という、決定的な一語に対してピッタリと適合している。
(四)摂津の「サホ」からは、銅鐸の鋳型群と共に見事な「ガラスの勾玉の鋳型」が出土している。北部九州を除き、近畿では類例なき、或は稀に見る出土地である。
この事実も、右の「玉作り工人の本拠」とする「サホ、奪取」伝承と一致している。
その他、種々の論証については、すでに『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社、一九七九刊)に詳記した。
以上によって、わたしたちは知ることができる。この時点以降、近畿天皇家は大和盆地とその周辺(三方)のみならず、全近畿とその周辺領域、すなわち旧銅鐸圏の全体を「奪取」してその手に収めた。そして日本列島中、最大勢力としての地歩を確立するに至ったことを。
これが、わが国最大の墳墓たる「応神陵」や「仁徳陵」などが叢出しえた、その史的事実の母胎をなすべき「史実の核心」であった。
十一
次の問いにおもむこう。
第二、
「『応神陵』・『仁徳陵』などの巨大古墳群が、なぜ大阪湾周辺に造られたか。」
これに対する回答、そのキイ・ポイントは次のようだ。
〈その一〉
当時(四世紀後半から五世紀前半)は、朝鮮半島では、倭軍(及び百済軍)と高句麗軍(及び新羅軍)が「継続した激戦期間」のさ中に当っていた。
従来の、すべての考古学者・歴史学者たちは、この「倭」をもって「大和朝廷」或は「大和を中心とした連合勢力」と見なしてきた。前者は“戦前”、後者は“戦後”の表現である。
(他に、この「倭」をもって“海賊”と見なす見解 ーー韓国・北朝鮮側ーー があるけれど、この場合、「海賊」なるものの実体が不鮮明であるため、厳密な論議(反論)の対象とはなりにくい。)
〈その二〉
しかしながら、右の見解は不当である。なぜなら、一方で、朝鮮半島における「継続せる激戦」(高句麗好太王碑の証言による)を行いながら、他方で、あれほど巨大なる古墳群を建造しつづける、というのは「人間わざ」のなしうるところではない。超能力だ。
なぜなら、当の相手たる高句麗の好太王の陵墓(太王陵、もしくは将軍塚)を見れば、直ちに判明するように、日本で言えば、せいぜい中型古墳(の中・下程度)であり、決して「巨大古墳」などではない。これは「激戦継続中」の高句麗であるから、当然だ。好太王以外の陵墓でも、日本で言う「巨大古墳」の建造された形跡は一切存在しない。
これは、彼等が「陵墓を軽視した」ためではない。「今なお、交戦継続中」の当事国として、それこそが自然(ノーマル)な姿である。
これに比すれば、近畿の「巨大古墳群の主人公」をもって、対戦する「倭」の“朝廷”もしくは“連合の中心勢力”と見なしてきた、従来のわが国の古代史界の「非、常識」がその本質において怪しまれざるをえない。言わばこれは「超、能力主義史観」である。
〈その三〉
これに対し、北部九州における諸古墳(一貴山銚子塚古墳から、筑後の装飾古墳、石人・石馬古墳まで)は、まさに中型古墳(その中・小クラス)であり、「交戦中の倭王墓の規模」として、適正なのである。
〈その四〉
右はすでに、わたしのくりかえし(講演などで)のべてきたところだ。だが、新しい問題は、次の一点だ。
「朝鮮半島における『倭(九州中心勢力)と高句麗の激突』に対し、近畿天皇家(倭の分王朝)は、一切無関係であったか。」
答えは「否ノン」だ。同じ「三種の神器」を文明シンボルとして捧持する、近畿分王朝が、これに対し、「風馬牛」をきめこんでいたはずはない。またもし、かりにそのように“よそおった”としても、高句麗側は決してそのようには「認め」なかったであろう。
すなわち「倭の従属的・応援勢力」これが近畿分王朝の基本姿勢とならざるをえなかったであろう。近・現代史における「イギリス」と「アメリカ合衆国」との関係と、基本的には類似していよう。
〈その五〉
そのため、近畿分王朝側は、一見「平和」的ながら、その内実において十分に“一旦緩急あるさいの「軍事要塞」(砦)として転化しうる”機能を持つ、「巨大古墳群」の築造に対して、異常な精力を傾注しつづけることとなった。これが「応神陵」「仁徳陵」などの「巨大古墳、築造の秘密」である。
〈その六〉
その真の「主要、防禦対象」は、実は河内(大阪湾)ではなく、大和(奈良県)である。なぜなら大和盆地を取り巻く「四囲の山々」は、さながら“大自然の手による、軍事的防壁”である。この地域こそ、近畿分王朝にとって「神武以来の墳墓の地」であり、“最後の軍事拠点”であった。
その大和盆地への「侵入ルート」たる大和川の上流、大和盆地との「接点」に、河内における最初の「超、巨大古墳」たる「応神陵」が築造されたのは、決して「偶然の択地」ではなかった。「侵入ルート」を想定した「必然の撰択」だったのである。
さらに、「仁徳陵」。大阪湾から「大和盆地への侵入路」へと向かう海岸部(「新大和川の河口」近辺)に当たる堺の地(百舌鳥古墳群)に、最大の「超、巨大古墳」が建造されたのは、まさに高句麗との「激戦継続中の期間6) 」のさ中だったのである。
この時期に、軍事的目的や軍事的意義を全く「等閑視」して、次々とひたすら“平和的な目的”のみの「造墓」が果して行われうるであろうか。世界の常識ある人々は、すべて「?」とし、やがてクールに「ノン(否)」と告げることであろう。わたしもそう信ずる。これが核心問題である。
〈その七〉
右の「巨大古墳」群の造営に“動員”された人々、それが“すでに征服された、旧銅鐸圏の住民”を主勢力とするものであったこと、すでに右の論述によって、改めて縷説すべき必要を見ぬところであろう。
(高句麗好太王碑によれば、好太王の陵墓に対し、被征服民なる「韓・穢*の民」が「守墓人」とされたことを詳記する。)7)
穢*は、禾偏のかわりに三水偏。JIS第三水準、ユニコード6FCA
十二
次の問題に移ろう。
第三、
「神武侵入以来、近畿天皇家(の祖)は、飛鳥という根拠地を中心とし、『孤立した、必死の軍事集団』として存在しつづけてきた。」
右が、本稿の研究思想の原点である。
〈その一〉
戦前の「皇国史観」の時代、「神武東遷」という用語が用いられた。「東遷」とは「東方への遷都」の意である。すなわち、“日向(宮崎県)から大和(奈良県)へ都を遷された”というのだ。しかし、これが「記・紀」に書かれているかのように“称していた”のは、本質的に「偽称」であった。
なぜなら、南九州の「中心の王者」が大和へ「都を遷す」のに、一旦の敗退後とはいえ、熊野の山道や間道を通 るべき“いわれ”はない。これは「王都の移動」などではなく、「ゲリラ的侵入者」であり、「軍事的インベーダー」であったこと、その一事は「記・紀」ともに明白に証言しているところなのである。
それなのに、戦前の「皇国史観」者流の歴史学者や国家の教科書は、いかにも「大義名分」において「記・紀を尊重する」かに“偽称”しながら、その実、「記・紀の描く、真実(リアル)な神武像」をまさに弊履のごとく捨て去って、これをかえりみなかったのであった。
すなわち、近畿天皇家は「出発点」とその「誕生の秘密」において“孤立した軍事集団”以外の何者でもなかったのである。
〈その二〉
その“孤立した軍事集団”にとっての最初の拠点、それが飛鳥の地であった。神武天皇の和名である「神倭磐余いわれ彦 8)」の「いわれ」は、飛鳥の一隅、香具山の周辺の地名である。(「磐余池」あり。)
この地における、いわゆる「大和三山」(香久山・畝傍山・耳成山)は、いずれも“天然の軍事拠点”“侵入者に対する、絶好の見張台”であったこと、疑いを入れない。
ただこれを「文学」と「観光」と「風流」の目から“眺め”出したのは、日本列島が“平和”に、統一されたからにすぎないのではあるまいか。外界からの「武装侵入者」にとって、そのような“優雅なる見地”はなかった。少なくとも、“優先”されてはいなかったのではあるまいか。
先述したように大和盆地全体が一個の軍事要塞であった。いわば“大自然の手”による「万里の長城」であった。
これに比し、「大和三山」に囲まれた、この飛鳥の地は、いわば「千里の長城」に内包された好地、と見えていたのではあるまいか。
そして肝心の一事がある。先述のような「一旦緩急があったさいの、軍事的要塞」としての「巨大古墳」建造の、歴史的モデル、その「原形」こそ、この「大和三山」に他ならなかったのではないか。・・・これがわたしの仮説だ。 9)
〈その三〉
大和における弥生遺跡として有名な唐古・鍵遺跡において「細型銅矛からの再製品(『ノミ』)」と「巴型銅器の残欠」が見出された(田原本町、実物展示)。いずれも、北部九州(唐津湾岸〈桜馬場等〉や糸島博多湾岸〈三雲等〉)の文明シンボルである。すなわち「北部九州→大和」の文明移転は明白である。
1. この考古学出土状況から見れば、津田左右吉による「神武侵入譚、架空説」は「否」であった。同時に、「神武実在」をうけ入れずにきた、すべての戦後史学は根本においてあやまりであった。
2. 「神武の大和侵入」について、古事記はその出発点を「日向」(吉武高木遺跡の地)としている。「北部九州、出発」の立場である。
これに対し、日本書紀は「日向ひゅうが」(南九州)を出発地とする。「南九州、出発」説である。
右の「細型銅矛」「巴型銅器」の残有物の出現は、「古事記の是」「日本書紀の非」を証明した。(現在の歴史学者、民俗学者にも、後者〈日本書紀、南九州〉の立場をとる者が多かった。)
3. 「記・紀」ともに、「神武の軍事集団」が近畿に侵入する直前の寄留地は「吉備」であった。ことに古事記の場合、「日向ひなた」を出発して「宇佐」「岡田(筑前)」「安芸」を経由し、一定期間滞在したあと、最後の滞留地の人々、従って「近畿侵入」のための直接の協力者は、吉備集団であった。「神武武装軍事集団」とは、「吉備の勢力を支援母胎とした軍事力」だった。
このような見地からすれば、箸墓という「巨大古墳」において「特殊器台」という名の“吉備式埴輪”が出土していること、極めて自然なのである。
4. ともあれ、近畿天皇家の“出生の原点”は「孤立した軍事集団」であるという一点にあった。この一点に立つとき、先述の「第一」と「第二」の命題は、きわめて自然なる歴史的展開であった。わたしたちはそのように見なしうるのではあるまいか。
十三
最後の問題は次の点だ。
第四、
「四〜五世紀に盛行した巨大古墳が、六世紀中葉(「欽明天皇の時代)前後から、にわかに“縮小”しはじめる。いわゆる『終末期古墳』である。この“縮小”の理由、いかに。」
従来、この“縮小”そのものの事実は知られていたけれど、その「理由」は必ずしも解明されてはいなかったように見える。なぜか。
〈その一〉
この同じ日本列島の西日本において、右の「巨大古墳の縮小」という現象と軌を一にして、逆に、これと「交替」もしくは「交錯」するように「発起」し、「増大」してきた、一大土木事業群がある。・・・「神籠石」群の築造である。通例、六世紀後半から七世紀前半とされている。
近来の「年輪年代法」によって、いわゆる考古学編年が“約一〇〇年さかのぼる”必要が出てきた(一般例として)ようであるから、右の「交錯」期には、やや変動があるかもしれないけれど、いずれにせよ
「“巨大古墳の縮小”化と、“神籠石の築造”とが、時期的に『交錯』もしくは『対応』関係にあること。」
この相関関係は疑いがたい。いずれも“壮大なる土木事業”である以上、上述のように「巨大古墳」がその隠れた一面として「軍事的要塞」の側面をもつとすれば、いよいよ両者の間の「相関関係」は無視しえぬところなのではあるまいか。
〈その二〉
従来、神籠石は、その分布が筑紫(福岡県)と肥前(佐賀県)と周防(山口県)にまたがるところから、“当然”その地帯の労働力を利用したもののように“思いこまれて”きた。
しかし、高句麗や新羅などに対する「倭国」の中心勢力は九州(北部)であったとしても、その分家(分王朝)なる近畿やその以東の勢力もまた、この「神籠石、建造」に対して“協力”していたのではあるまいか。
とすれば、一方の「九州」で、これほどの一大土木事業の協力をしながら、他方の「近畿」において、依然として「巨大古墳」を造りつづけることが果して可能であろうか。これもまた「超、能力」に非ざる限り、不可能である。
従来は、一方の「巨大古墳」は“単なる祭祀のための墓”、他方の「神籠石」は軍事的要塞(砦)、として、全く別個の現象と考え、その「相関関係」は一切考慮の外にあったのではなかろうか。
十四
さらに付加すべき問題がある。
それは「巨大古墳」の周辺に“厖大なる武器類”が「埋納」されている、という事実だ。メスリ山古墳には、数百人分の鉄製武器が内蔵されていた。また「履中陵」の陪塚(七観山古墳)にも、おびただしい武具類の埋納されていたこと、著名である。他にも、例は少なくない。
1. これらは、一見「死蔵」のように見えるけれど、それは“結果論”であり、たとえ鉄製であったとしても、「埋納状態」(粘土や朱など)によって時として遺存状態は“各種各別
”であったことが知られている。 10)
2. またわたしたちが「鉄製武器の存在」を認識できるのは、「掘り出して使用されなかった」ケースに限られる。実際の「武器埋納」は、“現在の遺存出土部分”より、はるかに“大だった”。 ・・・当然そのように考えるべきではなかろうか。
以上のような「巨大古墳の内部や周辺における、鉄製武器の大量埋納」という、著名の事実も、本稿でのべた仮説に立てば、容易に理解しうるのである。
十五
「巨大古墳のもつ、もう一つの側面、それは軍事要塞である。一旦緩急あったときの砦の機能をもっていた。」
これが、本稿の中心をなす仮説である。この仮説に立つとき、従来の「難問」が次々と解決してきた。
一に、「箸墓という巨大古墳がなぜ、突如出現したか。」という問い。
二に、「『応神陵』・『仁徳陵』といった、超・巨大古墳が、なぜ大阪湾岸に、なぜ朝鮮半島における激戦継続中に、築造されたのか。」という問い。
三に、「神武侵入後の『孤立した軍事集団』としての基本性格とその後の拡大期との相関関係は何か。」という問い。
四に、「巨大古墳の“縮小”化と神籠石の築造との相関関係はあるか。」という問い。
五に、「巨大古墳の内外に埋納されている、大量の鉄製武器の意義は何か。」という問い。
いずれも、従来から容易に解きがたき「難問」であったけれど、ここで採用した「仮説」によってみれば、次々と解答を見出しえたのである。
もし、この「仮説」に対して反対の立場に立つ論者あれば、これを深く歓迎しよう。ただ、その人には、みずからの立場(「仮説」)から、右の各「難問」に対して、より的確に回答することが必ず要求せられよう。学問として、当然だ。
十六
本稿で論及できなかったところ、それは種々存する。
たとえば、雄略天皇の時代、従来は「倭王武」に“当て”られてきた、近畿の王者であるけれど、その「宮処」は
長谷の朝倉宮(古事記)
泊瀬の朝倉(日本書紀)
とあって、泊瀬は「奈良県桜井市初瀬町・黒崎町の辺」(岩波、日本古典文学大系本、四五六ページ注一)とされるから、大和盆地内の東に奥まった一角にあったものと思われる。
これに対して、同じ雄略天皇の陵墓は
河内の多治比の高[亶鳥]わし(古事記)
丹比の高鷲原陵(日本書紀)
とされる。
[亶鳥]は、亶に鳥。JIS第3水準ユニコード9E07
これは「大阪府河内郡南大阪町(今、大阪府羽曳野市)内の大字島泉字高鷲原と大字南島原字丸山にまたがる(陵墓要覧)」(岩波、大系本五〇五ページ、注一九)のようであるから、右の「宮処」(大和盆地内)とは、はるかに離れた河内(大阪湾岸)にその陵墓が設けられていることが知られる。
これは「宮処と陵墓」の“近隣性”という通念からすれば、一見不自然だ。だが、本稿で論述したような、
「高句麗・新羅の侵入に対する、軍事要塞」
としての性格から見れば、その「侵入ルート」の一角に当っており、きわめて適切の地であると言いえよう。
十七
本稿の論述するところ、当然、近畿以外の巨大古墳、たたとえば造山古墳・作山古墳(岡山県)、オサホ塚古墳(宮崎県)、天神山古墳(群馬県)などについても、「同一の視点」からの再考察が必要となろう。
また諸地域の中・小古墳についても、この視点からの再吟味が不可欠となろう。すなわち、本稿では「巨大古墳」に焦点をあてて論じたけれども、やがて古墳一般に対する再検証を逐次必要とするに至るであろう。
十八
現在、中国地方の山陽本線は、なぜか海岸線(瀬戸内海)をはなれて貫通している。これは、建造当時(明治時代)、清国側の軍艦の定遠や鎮遠によって海上から砲撃されるケースを顧慮して“海岸からはなれて”貫通
せしめたものであると言われる。 11)
ということは、現在のJR、昔の国鉄は、「軍事的輸送ライン」として“構想”され、“築造”されていたことを意味するであろう。
逆に、現在日本列島各地に存在する、アメリカ軍の「軍用飛行基地」もまた、いつの日か、そのような「軍事目的」が忘れ去られる日が来たとすれば、将来の人々はその「平和的航空基地」が、昔は「軍用」であった事実をやがて忘れることとなるのではあるまいか。
東京の市街の道路が、四通八達ならぬ「四歪わい八曲」の迷路をなすこと、はじめて東京を車で訪れた人みなの驚くところ、これが江戸時代の「軍事的用意」にもとづいていたこともまた、今は周知のところである。
現在、わたしたちが、或は日常の平和生活に、或はジョギング通路として愛用する道路も、かって明治・大正・昭和(二十年まで)には、いずれも“軍事的視点”抜きには「企画」し、「実施」されなかったこと、おそらく当時の常識に属していたことであろう。
このように考えてみると、一見“奇異”に見えた、本稿の依拠した「仮説」もまた、実は何等“奇矯”とすべきものではなかったのかもしれぬ
。
逆に、現在、わたしたちは戦争の時代を過ぎ、平和裏に毎日をすごす時間帯に生きているため、かえって「歴史」という客観的存在に対しても、“平和風の視野”に押しこめて強いて「解釈」しようとする、そういう「癖へき」を現代人はもっているのではあるまいか。
たとえば、現在の「天皇」を以て「平和なる」国民の象徴と解したいために、あえて
「昔から天皇はいつも平和的存在だった。」
というようなイデオロギーを「歴史」に押しつける。そういう「癖」は、現代の論者や史家に果して存在しないであろうか。
明治時代の詔勅の中でしばしば“描かれ”た、いつも「軍事大権の中心でありつづけた天皇」というイメージが、当時の“軍国的な時代嗜好”に合わせた「歴史への曲解」であったのと、実は同一だ。
わたしには遺憾ながらそのように思われるのである。
いずれの時代の、いずれのイデオロギー的要望にも一切妥協することなく、歴史を歴史として見つめる。わたしには、それ以外に為すべき道はない。
〈注〉
(1) 漢文の訓読としては「寝殿を立て国邑を造る無し。神道に通ず。」とも訓みうる。
(2) 「三種の神器」は「金銀銅鉄」類とは別個の意義をもつものであろう。
(3) 他の問題点については『ここに古代王朝ありき』第二章、参照。
(4) 「史跡・今城塚古墳ーー平成9年度・規模確認調査」(一九九八・高槻市教育委員会)
(5) 森浩一『巨大古墳』(講談社学術文庫)九六ページ、一五三ページ参照。
(6) 昨今「仁徳陵」の陪墳出土の遺物から、或は当古墳の成立が五世紀末か六世紀初頭に当るか、との疑義が提出されていた(右の〈5〉注書等参照)。しかし最近の「年輪年代法」によれば、従来の考古学編年より約一〇〇年“さかのぼる”可能性のあることが注意せられよう。
(7) 藤田友治著『好太王碑論争の解明』(新泉社、一九八六)参照。(なお日本列島側の「天皇陵」の場合、朝鮮半島側から渡来した「守墓人」の存在の有無は不明。)
(8) 「倭」は「チクシ」と訓みうる。(この点、別
述)
(9) この点、本稿の「基本仮説」にとって「系」に相当すべき、第二次仮説である。
(10) 沢田正昭「保存科学、そして鉄」『鉄の文化史』(東洋経済新報社刊)参照。
(11)谷沢永一「これでは羊頭狗肉ではないか」(産経新聞、平成十二年十一月十九日)
>二〇〇〇・十一月二十八日 稿了
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
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