-銅鏡の軍事的意義ーー考古学者の回答を求めるーー

古田史学会報
2001年 6月 6日 No.44


銅鏡の軍事的意義

ーー考古学者の回答を求めるーー

古田武彦

    一

 日本の考古学界の懸案の一つ、三国志の魏志倭人伝における邪馬壹国(いわゆる「邪馬台国」)の所在地等につき、簡単にして明瞭な論証を提起したい。

 第一、銅鏡の軍事的意義について
 倭人伝中、魏の明帝の詔書が

 「還り到らば録受し、悉く以て汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむ可し。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」

として結ばれていること、周知の通りだ。これは「魏の天子ーー卑弥呼」間の“緊密な関係”を誇示したものと言えよう。
 これを逆に見れば、

“ここで与えた「金」や「錦」や「銅鏡百枚」等々を、他(倭国周辺の諸勢力)が襲撃し、奪取するならば、我が(魏の天子)呵責なき報復を覚悟せよ。”

という、鋭い軍事的恫喝を背景にもっている、その一事が重要だ。なぜなら、もし、他からの奪取があっても、中国(魏)がこれを易々として“見すご”し、容認するとしたら、東アジアにおける中国の天子の権威は地に落ち、侮蔑の対象となるほかないからである。
 とすれば、これらの「下賜品」は「中国の貴物乃至産物」でなければならぬ。「金」も「錦」も「鏡」その他も、あくまで「中国の物」でなければならぬ。当然だ。東アジアで知られた「中国の物」であることが、不可欠の条件なのである。たとえば「錦」にしても、「中国の錦」であって、「倭国産の錦」や「和国風の錦」或は「倭国向けの錦」などでないこと、言うまでもない。この点、「降地交龍錦」といった特定の図様を明示したものと、「白絹」といった形で“材質名”のみを記す場合とを問わないであろう。いずれも「録受」と「悉示」の対象だからである。
 従って問題の「銅鏡」についても、同様だ。東アジアに知られた「中国の物」としての「銅鏡」でなければならぬこと、同の道理である。
 すなわち、この「銅鏡」は「中国の鏡」として、東アジアに周知の「漢式鏡」でなければならぬ。決して「中国になき三角縁神獣鏡」などではありえないのである。
 この点、“今後、どこかで、若干の出土があるかもしれない。”といった期待で、ことを「解決」することはできぬ。そういう性格の問題ではないこと、右の道理によって明らかであろう。

 第二、漢式鏡の集中地について
 以上の道理のしめすところ、漢式鏡の集中出土地こそ問題の邪馬壹国の所在地(の中枢域)に当てられるべきこと、当然である。それは三雲・須玖岡本・井原・平原(「多鈕細文鏡」では吉武高木)、さらには立岩などの遺跡をもつ糸島・博多湾岸周辺以外にない。
 従来は「先ず、考古学編年によって、右の遺跡を『特定年代』に当てる」(たとえば、一〜二世紀)という手法が一般であった。そのため、右の領域を、いわゆる「邪馬台国」の中心領域から除き、その上で他に右の領域以上の(漢式鏡等の)出土を期待して、すでに(明治以降)百年以上を経過した。しかし、右の領域からはさらに出土地(遺跡)が増したけれど(平原や吉武高木)、他からは未だにこれらを上回る出土域を見出しえないのである。
 いわゆる「考古学編年」が“絶対の基準”ではありえないこと、近年の「年輪測定法」の出現によって明らかとなった。従来の「考古学編年」より約百年遡るものが珍しくない。また逆に、百五十年下るもの(狭山池)すら報告されているのである。
 従来の「考古学編年」による「指定」は(貴重な学的成果として)いったんこれを「保留」し、右のような、人間共有の「道理」に立って再思することもまた、学的研究者にとって決して恥かしいからぬことなのではなかろうか。このような事態は、たとえば自然科学の発達の中でも、くりかえし経験し、さらに大いなる前進をしめしてきたこと、研究史の赤裸々にしめす通りなのであるから。

 第三、矛について
倭人伝中に次の一節がある。

 「宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。」

 卑弥呼の「宮室」等が「兵」に囲まれていたことが記されている。魏の使者はこの「宮室」に至ることを目標として来たのである。

 「兵には矛・楯・木弓を用う。」

 その「兵」(兵器)として「矛」の存在が特筆されている。「楯」が木質の場合、遺存しにくいのに対し、「矛」の場合は金属(銅)であるから、遺存する。従って遺跡や遺構の中から、当然「出土」すべきだ。すなわち「卑弥呼の宮室」の所在地周辺からは、数多くの「銅矛」が出土しなければならぬ。なぜなら、「一本」や「数本」の矛を宮室の周囲に見たからといって、右のような「記載」にはなりえない。そのような書き方なら、他の武器類も、色々書かねばならぬであろう。ここはやはり“代表をなす武器““多数存在する武器”として、特記されていること、当然だ。
 このように考えてみると、すでに全日本列島中、右の状況に当たりうるところ、それはやはり糸島・博多湾岸、ことに博多湾岸の周辺が、「銅矛の鋳型」の出土を含めて、特出した中心領域であること、周知である。(銅矛そのものは、対馬にも多出するけれど、鋳型は少ない。)
 右の点から見れば、考古学上において「卑弥呼の宮室」の所在があるべきところ、それは博多湾岸周辺以外にはないのではあるまいか。わたしはいわゆる「邪馬台国」論において、この「矛」の問題を、特に考古学者が強く、深く指摘しようとしないこと、それが年来の不審だ、その点の教示を得たい。

 第四、戈(か)について。
 わたし自身の立説(女王国の中心域を以て糸島・博多湾岸周辺とする。)に関しても、一個の疑問があった。博多湾岸や対馬などが「矛」の中心的出土域であること、前述の通りであるけれど、同時に「戈」もまた多く出土すること、著名である。しかし倭人伝には「戈」に関する記述がない。この疑問だ。

 この疑問を今回(四月十日〜十八日)の中国への研究旅行の中で“解決”することができた。左に報告する。
 すでに林巳奈夫氏等の周密な研究論文によって知っていたことだけれど、中国の現地(博物館)の出土遺物によって確認したところ、「戈」は殷(商)においては代表的兵器であったけれど、周・漢・三国では激減する。代って「矛」と「戟(げき)」が代表的武器となっているのである。
 それ故、糸島・博多湾岸周辺領域の場合、「矛」と「戈」が両存しているのは、東アジア的には(特に中国の視点では)、やや「異例」である。「殷戈」と「周(以降)矛」とが共存しているのだ。
 わたしにはこの点、殷からの「亡命」者、箕氏(箕氏朝鮮)の“感化”(文化伝播)によるもの、そのように考えてきた。
 その上で、今回、実物展示に接して感じたところ、それは左の点だ。

 「魏朝の使者にとって『兵』すなわち“兵器”と見えていたのは、『矛』であり、『戈』ではなかった。」

と。すなわち、すでに「戈」は「兵器」としてではなく、「祭器」として用いられるに至っていたのではあるまいか。だから「兵」としては“あげられ”ていないのだ。この点、明治以降の日本考古学界においては「矛」も「戈」も、共に「祭器」と呼ぶことが慣例化されるに至っていたから、かえってこの「重要な差異」が看過されてきていたのではあるまいか。
 確かに、「戈」は農具用の「かま」の発達した形式の武器として、原初的な器具だ(「國」という文字の重要構成要素)。だが、実践の場においては「矛」のもつ直截な突撃力には及ばないであろう。これが「殷戈」が「周矛」にとって代られた、戦史上の原因ではあるまいか。
 有名な「矛盾」の逸話も、この最先端武器としての「矛」の効用に関するものであろう。
 従って倭国においても、実践的武器としてはすでに「矛の時代」に入っていた。これに対し、「戈」は“倭国の古い伝統的淵源”と“箕氏の感化の文化的受容”を誇るべき(神殿等の)「祭器」と化していたのではあるまいか。それ故、魏使は「兵」としてこれを記していなかったのである。

 (「戟」は、矛・戈を「止揚」した、一段と複雑な武器。諸侯など、リーダー用か。日本列島では出土が少ない。)
 ともあれ、「倭人伝における『戈』の不在」という。永年の疑問に対し、一定の解答をえたのであった。


    二

 日本の考古学界において、研究者はみずからを「専門家」と見なし、他分野の研究者の批判を「不問に付す」、そういう慣例があるかに見える。
 確かに、考古学界には考古学界の伝統がある。学的累積も、明治維新以降のみでも百三十年に及ぶのであるから、斯界の「学的常識」が成立し、その「共通理解」の上に立って論文が書かれる。報告書が作られる。それのみが学問的専門家の執るべき正道。そのように考えられていること、十二分に理解しうる。無責任な、自由勝手な、他分野の論家の諸論述に対しては、いちいち相手にせず。それも実際上、一線を引くべき学的節度、そのように見なすことができよう。
 けれども、その反面、次のような問題がある。考古学界といえども、一般の人間界から孤立し、別在しているわけではない。当然である。それどころか、厖大な考古学的発掘の費用の問題一つとってみても、それは「国民醵出の費用」であること、言うまでもない。国家や公共団体であれ、民間の会社であれ、落ち着くところ、「国民の出費」であること、変わらない。
 とすれば、その醵出者側に対する「説明責任」は、これを避けることができないこと、当然である。そのためにこそ各地の現地説明会やシンポジウムが行われている。周知のところだ。
 だが、その「現地」で「現在の考古学編年」の問題について聞いたとしよう。“通り一遍”の答や“当惑”した答以外は、現地の学芸員に期待するのは、酷であろう。
 また公共団体や各新聞社等の主催するシンポジウムでさえ、「異説」はあらかじめ(巧妙に)排除されていること、これまた現在は“知る人ぞ知る”状況となっている。
 「国民との接点」における、このような「専門家の態度」それに問題は果たして存在しないのであろうか。それで本当に、人間の「学問」なのであろうか。
 かって戦争中、軍人という名の「軍事専門家」は、己が常識、その専門的ルール(たとえば「統帥権干犯」という名の“軍部への批判無視”)によって墓穴を掘り、国の運命をあやまった。周知のところだ。
 平和の今、考古学者という名の「平和専門家」が、己が常識を固守しつづけて、再び学問の運命を、ひいては国の運命をあやまらなければ幸だ。
 思うに、戦前も「軍の独立」という大義名分によって、“他からの批判に、一切答えず。”としたこと、それが彼等、軍人専門家にとって“もっとも居心地よき状態”であったこと、疑いがない。
 あやまちを再びせぬことを切願する。はなはだ不遜ながら、やがて消えゆく老齢の身、何とぞ御寛恕賜らんことを乞う。

〈注〉
 (1)日本側(国産)の「三角縁神獣鏡」が“文化伝播”によって、朝鮮半島や中国本土から出土する可能性もあろう。

 (2)鉄矛も若干出土する。これも、近畿中心の分布ではない(弥生期)。

 (3)新たに注目すべきところ、それは「倭人伝における『祭事』の記載の欠落」である。例の卑弥呼の「鬼道」記事のもつ“目立つ印象”から、見のがされやすいけれど、倭人伝には「祭事」そのものの記載が乏しい。「倭人はどのような祭器を使って、どのような神を祭っているか」に当る、具体的記述がないのである。三国志の東夷伝でも、韓伝などではこの種の記載があるところを見ると、著者、陳寿の“せい”ではなく、倭国に赴き、その「軍事的報告書」を魏・西晋朝に呈した報告者(張政等の軍人)の“せい”ではあるまいか。「元・資料上の欠落」である。彼等は、実際の「鬼道のあり方」について観察し、描写する能力(或は資質)をもたなかったのではあるまいか。「関心の欠如」だ。これを逆に見れば、倭人伝のもつ軍事的性格は特に看過できないのである。

 〈補〉
 平原の漢式鏡の多くが「国産」であること、わたしの年来の主張だ(朝日カルチャー講義)。最近柳田康雄氏も類似の立場のようである。「漢式鏡の模造」は中国側への順応の立場に立つ。三角縁神獣鏡の方は「準造」である。

  ーー二〇〇一・五月十五日、記了ー


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