短里と長里の史料批判(補論) 論語と孟子の百里

古田史学会報
2002年 2月 5日 No.48


短里と長里の史料批判(補論)

論語と孟子の「百里」

京都市 古賀達也

 本紙四七号において発表した拙稿、「短里と長里の史料批判」において、『三国志』广龍*統伝に見える「百里の才」の百里が長里の可能性が高いとした。

 「統を以て、郊*陽(らいよう)の令となす。縣に在りて治めず、免官さる。呉の将、魯粛(ろしゅく)、先主(劉備)に書を遣(おく)りて曰く、『广龍*士元は百里の才に非ず。治中別駕(じちゅうべつが)の任に処(お)らしめば、始めて当にその驥足(きそく)を展(のば)すのみと。』」
 
インターネット事務局2004.6.30
 郊*陽(らいよう)のライは、郊の字の交編を來。
 广龍*統(ほうとう)のホウは、广編に龍
 

 その根拠として次の二点をあげた。一つは、广龍*統が縣令を任じられた郊*陽縣の広さが百里とすれば、短里では八キロメートル四方となり、縣の広さとしては狭すぎるように思われること。二つは、呉の魯粛から蜀の劉備に送った手紙の文面にある里数であることから、双方とも長里を使用していたという点であった。
 従って、基本的には魯粛も劉備も長里の認識で「百里の才」という用語を用いたと思われることについては問題ないのであるが、その後の調査により、この「百里の才」という用語そのものは短里の時代に成立していた可能性が高いことが判明したので、ここに前稿の補論として報告したい。

 周代に成立した『論語』と『孟子』が短里で書かれていたことは前稿にも紹介した通りであるが、当二書には百里や千里といった里数が距離や面積を表すだけではなく、政治的概念を示す用語として使用されていることを知った。例えば次の用例である。

 「曾子の曰く、以て六尺の孤を託すべく、以て百里の命を寄すべく、大節に臨んで奪うべからず。君子人か、君子人なり。」
 (『論語』泰伯第八)

 「孟子対えて曰く『地方百里にして王たるべし。』」
 (『孟子』梁恵王篇)

 「天子の制は、地方千里、公・侯はみな方百里、伯は七十里、子・男は五十里にして、凡て四等なり。五十里なること能わずして、天子に達らず諸侯に附くものを、附庸という。」「大国は、地方百里、(中略)次国は、地方七十里。(中略)小国は地方五十里。」
 (『孟子』万章篇)

 「天子の地、方千里なるは、千里ならざれば諸侯に待するに足らざればなり。諸侯の地、方百里なるは、百里ならざれば宗廟の典籍を守るに足らざればなり。」
 (『孟子』告子篇)

 これらの用例が示すように、天子の直轄領域が地方千里、諸侯(大国)が方百里とされ、従って、「百里の命」と言えば「諸侯の命」の意味になる。こうした周代に成立した『論語』『孟子』の教養の上に立って先の「百里の才」という用語が使用されたのである。従って、長里の時代であっても、短里の時代に設立した「方百里=諸侯(大国)」という政治的概念を前提として使用され得る。これは「千里の馬」と同様のケースである。
 以上、先稿において理解が不十分であった点を訂正補筆しておきたい。
(二〇〇二年一月二日記)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第七集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜七集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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