「二倍年暦の世界」 古賀達也(『新・古代学』第七集)へ

古田史学会報 2002年10月 1日 No.52

新・古典批判「二倍年暦の世界」 2 仏陀の二倍年暦(後編)

仏陀の二倍年暦(後編)

京都市 古賀達也>

パーリ語経典の二倍年暦,仏陀生没年の二説存在

 仏教の多数の諸聖典のうちでも最も古く、歴史的人物としての仏陀の言葉に最も近いとされる経典は『スッタニパータ』(パーリ語)であるが、その中にも二倍年暦が見える。

 八〇四 「ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。」
 
一〇一九(師はいわれた)、「かれの年齢は百二十歳である。かれの姓はバーヴァリである。かれの肢体には三つの特徴がある。かれは三ヴェーダの奥儀に達している。」

 中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫、一九九九年版。

  同じくパーリ語経典で、仏陀の没伝が記されている『大パリニッバーナ経』にも次の記事が見える。

 「アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。」

「スバッダよ。わたしは二十九歳で、何かしら善を求めて出家した。スバッダよ。わたしが出家してから五十年余となった。正理と法の領域のみを歩んで来た。これ以外には〈道の人〉なるものも存在しない。」

 中村元訳『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』岩波文庫、二〇〇一年版。

 これらパーリ語による原始仏教経典はいずれも漢訳されておらず、先の『長阿含経』や『法華経』とは趣を異にして、素朴である。ブッダの生の声を最も忠実に伝えているといわれるパーリ語仏典においても、「百二十歳」という二倍年暦としか考えられない年齢表記が見え、仏陀の時代が二倍年暦であったことは確実と思われる。そして、仏陀自らが八十歳の老齢に達したと述べていることから、これも二倍年暦であり、実態は四十歳のこととなる。

 

仏陀生没年の二説存在

 仏教史研究において、仏陀の生没年は大別して有力な二説が存在している。一つは仏陀の生涯を西紀前五六三〜四八三年とする説で、J.Fleet(1906,1909),W.Geiger(1912),T.W.Rhys(1922)などの諸学者が採用している。もう一つは西紀前四六三〜三八三年とするもので、中村元氏による説だ。他にも若干異なる説もあるが、有力説としてはこの二説といっても大過あるまい(注13)
 前者は南方セイロンの伝承にもとづくもので、アショーカ王の即位灌頂元年を西紀前二六六年と推定し、その年と仏滅の年との間を南方の伝説により二一八年とし、仏滅年次を前四八三年と定めたものだ(注14)
 後者はギリシア研究により明らかにされたアショーカ王の即位灌頂の年を前二六八年とし、仏滅の一一六年後にアショーカ王が即位したという『十八部論』などに記された説に基づき、仏滅年次を三八三年としたものである(注15)
 すなわち、仏滅の約二百年後にアショーカ王が即位したとする南方系所伝(セイロン)と約百年後とする北方系所伝(インド・中国)により、二つの説が発生しているのだ。この現象はセイロンなど南方系所伝が二倍年暦で伝えられ、北方系所伝が一倍年暦により伝えられたため生じたと理解する以外にない。このように、仏滅年次の二説存在もまた二倍年暦の痕跡を指し示しているのである。

  ちなみに、古代ローマの政治家・博物学者である大プリニウス(二三〜七九)は、最長寿の人間はセイロン島に住み、その平均寿命は百余歳だとしていることから、一世紀に於いてもセイロン島では二倍年暦による年齢表記がなされていたことがうかがえる(注16)。従って、セイロンでは仏滅やアショーカ王即位年などが二倍年暦で伝承されてきたこともうなづけるのである。
結論として、仏滅の実年代は中村元氏による西紀前三八三年とするべきであるが、生年はそれから八十年を遡った前四六三年ではなく、四十年前の前四二三年となること、仏陀の没年齢も二倍年暦による八十歳であることから明らかであろう。この二倍年暦の史料批判による仏陀の生没年「西紀前四二三〜三八三年」説をここに新たに提起したい。

(注)

13 この二説の他にも西紀前六二四〜五四四年とする説もあるが、これは十一西紀中葉を遡ることができない新しい伝承に基づくものであり、学問的には問題が多いとされる。
14 中村元『釈尊伝ゴータマ・ブッダ』一九九四年、法蔵館。
15  同14.
16  ジョルジュ・ミノワ『老いの歴史』(一九八七年。邦訳は一九九六年、筑摩書房刊)による。


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