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古田史学会報 2003年 2月11日 No.54

新・古典批判「二倍年暦の世界」4 ソクラテスの二倍年暦

新・古典批判「二倍年暦の世界」 4

ソクラテスの二倍年暦

京都市 古賀達也

古代ギリシア哲学者の死亡年齢

 ソクラテス(七〇歳没)やプラトン(八〇歳没)に代表される古代ギリシア哲学者の死亡年齢が高齢であることは著名である。たとえば、 紀元前三世紀のギリシアの作家ディオゲネス・ラエルティオスが著した『ギリシア哲学者列伝』によれば、〔表1〕の通りであり、現代日本の哲学者よりも高齢ではあるまいか(注1 )。これら哲学者はいずれも紀元前四〜五世紀頃の人物であり、日本で言えば縄文晩期に相当し、常識では考えにくい高齢者群だ。フランスの歴史学者ジョルジュ・ミノワ(Georges MINOIS)は「ギリシア時代の哲学者はほとんどが長生きをした」(注2 )とこの現象を説明しているが、はたしてそうだろうか。やはり、この現象は古代ギリシアでも二倍年暦により年齢が計算されていたと考えるべきではあるまいか。そうすれば、当時の人間の寿命としてリーズナブルな死亡年齢となるからだ。ヨーロッパの学者には古田武彦氏が提唱した二倍年暦という概念がないため、「ほとんどが長生きをした」という、かなり無理な解釈に奔るしかなかったのであろう。
 その証拠に、古代ギリシアでの長寿は哲学者だけとは限らない。クセノファネス(紀元前五〜六世紀の詩人、九二歳没)や(注3 )、古代ギリシアの三大悲劇作家のエウリピデス(七四歳没)、ソポクレス(八九歳没)、アイスキュロス(六九歳没)もそうだ(注4 )。このほかにも六〇歳を越す詩人は少なくない。このように、古代ギリシアの著名人には長寿が多いのであるが、こうした現象は二倍年暦という仮説を導入しない限り理解困難と思われるのである。

〔表1〕『ギリシア哲学者列伝』のギリシア哲学者死亡年齢
名前          推定死亡年齢   ディオゲネス・ラエルティオスの注と引用
アナクサゴラス     七二歳
アナクシマンドロス   六六歳
テュアナのアポロニオス 八〇歳
アルケシラス      七五歳      ある宴会で飲み過ぎて死亡。
アリストッポス     七九歳
アリストン       「老齢」
アリストテレス     六三歳      ディオゲネスはアリストテレスの死亡年齢を七〇歳としたエウメロスを批判しており、それが正しい。
アテノドロス      八二歳
ビアス        「たいへんな老齢」  裁判の弁論中に死亡。
カルネアデス      八五歳
キロン         「非常に高齢」   「彼の体力と年齢には耐えきれないほどの過剰な喜びのため死亡」と言われている。オリュンピア競技の拳闘で勝利した息子を讃えていたときのこと。
リュシッポス      七三歳      飲み過ぎて死亡。
クレアンテス      八〇歳      B・E・リチャードソンによれば九九歳。
クレオブウロス     七〇歳
クラントル       「老齢」
クラテス        「老齢」      自分のことをこう歌っている。「おまえは地獄に向かっている、老いで腰がまがって」。
デモクリトス      百か百九歳
ディオニュシオス  八〇歳
ディオゲネス 九〇歳        自分で呼吸をとめて自殺したとも、コレラで死んだとも言われている。
エンペドクレス     六〇か七七歳   祝宴に向かう途中馬車から落ち、それがもとで死亡。
エピカルモス      九〇歳
エピクロス       七二歳
エウドクソス      五三歳
ゴルギアス       百、百五もしくは百九歳
ヘラクレイトス     六〇歳
イソクラテス      九八歳
ラキュデス       「老齢」      飲み過ぎで死亡。
リュコン        七四歳
メネデモス       七四歳
メトロクレス      「非常に高齢」   自殺。
ミュソン        九七歳
ペリアンドロス     八〇歳
ピッタコス       七〇歳
プラトン        八一歳
ポレモン        「老齢」
プロタゴラス      七〇歳
ピューロン       九〇歳
ピュタゴラス      八〇か九〇歳
ソクラテス       六〇歳
ソロン         八〇歳
スペウシップス     「高齢」
スティルポン      「きわめて高齢」   老いて病身、「早く死ぬためにワインを一気に飲みほした」。
テレス         七八か九〇歳    「裸体競技を観戦中、過度の暑さと渇きから疲労し、高齢もあって死亡」。
テオフプラストス    八五か百歳以上   「老衰で」死亡。
ティモン        九〇歳
クセノクラテス 八二歳
クセノポン       「高齢」
ゼノン         九八歳       転んで窒息死。


 プラトン『国家』の二倍年暦

 プラトンが著したソクラテス対話篇『国家』第七巻に、国家の教育制度と教育年齢についてソクラテスが語っている部分がある。その要旨は次の通りだ(注5 )

  十八歳〜二十歳     体育訓練
  二十歳〜三十歳     諸科学の総観
  三十歳〜三十五歳    問答法初歩
  三十五歳〜五十歳    実務
  五十歳〜        〈善〉の認識に対する問答法

 これらの修学年齢も一倍年暦とすれば遅すぎる。国家の治者を教育するプログラムとしても、三五歳まで教育した後、ようやく実務に就くようでは教育期間としては長すぎるし、体育訓練が十八〜二十歳というのも人間の成長を考えた場合、これではやはり遅過ぎるのではあるまいか。ところが、これを二倍年暦と理解すれば、一倍年暦では次のような就学年齢となりリーズナブルな教育プログラムと言えよう。
  

  九歳〜十歳       体育訓練
  十歳〜十五歳      諸科学の総観
  十五歳〜十七・五歳   問答法初歩
  十七・五歳〜二十五歳  実務
  二十五歳〜       〈善〉の認識に対する問答法

 前回紹介した『礼記』や『論語』の年齢記述と比較しても矛盾の無い内容ではあるまいか。更に『国家』第十巻には人間の一生を百年と見なしている記述があり、これも二倍年暦による表記と考えざるを得ないのである。

 「それぞれの者は、かつて誰かにどれほどの不正をはたらいたか、どれだけの数の人たちに悪事をおこなったかに応じて、それらすべての罪業のために順次罰を受けたのであるが、その刑罰の執行は、それぞれの罪について一〇度くりかえしておこなわれる。すなわち、人間の一生を一〇〇年と見なしたうえで、その一〇〇年間にわたる罰の執行を一〇度くりかえすわけであるが、これは、各人がその犯した罪の一〇倍分の償いをするためである。」
 プラトン『国家』第十巻(注6 )

 この百年という人間の一生も『礼記』や『列子』に記された二倍年暦表記の百歳という高齢寿命とよく対応しており、この時代、洋の東西を問わず、人間の最高寿命が百歳程度(一倍年暦の五十歳)と認識されていたことがわかる。すなわち、ソクラテスやプラトン等古代ギリシアの哲学者たちは二倍年暦の世界に生きていたのである。


アリストテレス『弁術論』の二倍年暦

 プラトンとほぼ同時代(紀元前四世紀)の哲学者アリストテレスの『弁術論』にも次のような興味深い記事が見える。

 「ところで、壮年(最盛期)とされるのは、身体で言えば三〇歳から三五歳まで、精神のほうでは四九歳あたりである。」
 アリストテレス『弁術論』第一四章年齢による性格(三)─壮年(注7 )

 古代よりはるかに寿命が延びているはずの現代においても、身体的能力の最盛期は二十代前半とされ、精神的能力も三十代半ばまでと一般的には思われるが、このアリストテレスによる身体と精神の最盛期はあまりにも遅すぎる。しかし、これも二倍年暦と理解すれば、一倍年暦に換算した身体の最盛期は十五歳〜十七・五歳、精神的には二四・五歳となり、これもまた寿命が現代よりも短い古代であれば極めてリーズナブルな年齢となるのである。ちなみに、プラトンは身体的最盛期を二五歳から五五歳、精神的最盛期を五〇歳とするが、これも二倍年暦による表記である(注8 )
 またピュタゴラス(紀元前六世紀)は人生の諸年齢を四季に見立て、少年時代を春(〇歳〜二〇歳)、青春期を夏(二〇歳〜四〇歳)、青年期を秋(四〇歳〜六〇歳)、老年期を冬(六〇歳〜八〇歳)としたが、これも二倍年暦であればやはりリーズナブルである。そしてこのことから、古代においては一倍年暦で三〇歳から四〇歳は老人と見なされていたことが分かる。別の哲学者ソロンも平均寿命を七〇歳としているが、これも二倍年暦であり、一倍年暦の三五歳に相当する(注9 )


 『オデュッセイア』の二倍年暦

 古代ギリシアにおける二倍年暦はいつ頃までさかのぼることができるだろうか。管見ではギリシア最古の大英雄叙事詩『オデュッセイア』(ホメロス)が二倍年暦によると考えている。その理由は次のような事である。オデュッセウスが故郷イタケを二十年間留守にしている間、妻ペネロペイアに群がる求婚者とその息子テレマコスとの諍いが描かれているだが、少なくとも二十歳以上となるテレマコスが幼く描かれている。このことについては従来から疑問視されてきたようであり、たとえば次のような疑義が出されている(注10)

 「かりにテレマコスが、父の出征後に生まれたとしても、二十年の歳月が過ぎた現在ほぼ二十歳ということになるが、本篇ではせいぜい十代後半位のイメージで描かれているように思われる。」

 「オデュッセウスが出征して二十年が経過していること、また出征時にテレマコスが既に出生していたことから推定すれば、オデュッセウスはおよそ五十歳、ペネロペイアも四十歳に近く、テレマコスもまた少なくとも二十歳に達していたとせねばならない。二十歳といえば既に一人前の男子であるが、冒頭で彼がまだ幼さの抜け切らぬ少年の如く描かれているのは、少々奇異な感を与える。」
 ※ホメロス『オデュッセイア』(岩波文庫、一九九四年刊。松平千秋訳)の訳注・解説による。

 このオデュッセウス出征後の二十年間が二倍年暦であれば、一倍年暦の十年間となり、息子テレマコスの年齢も十歳プラスαとなり、彼が幼く描写されたことも自然な理解が得られるのである。また、オデュッセウスの年齢も三十歳代となり、帰国後、求婚者たちと戦って勝利することも可能な年齢となる。更に言えば、妻ペネロペイアの年齢も二十代後半位となり、求婚者が群がるほどの美貌が維持できる年齢ではあるまいか。
 このように、『オデュッセイア』は二倍年暦で読まなければ、その描写や背景にリーズナブルな理解が得られないのである。また、次の場面も二倍年暦を指し示す例である。オデュッセウスが変装して自宅に二十年ぶりに帰ってきたとき、愛犬アルゴスはオデュッセウスに気づき尾を振り耳を垂れたが、近寄る力もなくそのまま息絶えてしまう。アルゴスはオデュッセウス出征前から優秀な猟犬であったと記されていることから、もし二十年が一倍年暦ならアルゴスは二十歳を越えることになり、犬の寿命としては長すぎる。二倍年暦であればアルゴスの年齢は十歳代となり、犬の寿命としてリーズナブルである。この点からも、『オデュッセイア』が二倍年暦で著述されていることは間違いないと思われる。
 ホメロスは紀元前九世紀の人物とされていることから、ギリシアでは少なくとも九世紀以前から二倍年暦が使用されていたと考えられるが(注11)、それがいつまで使用されていたのか、その下限はまだ不明であり、今後の研究課題である。


 ヘロドトス『歴史』の一倍年暦

 以上のように、古代ギリシアにおいて二倍年暦が使用されていたことを論証してきたのだが、ここに注意すべき問題が残されている。それは一倍年暦との併存、あるいは暦は一倍年暦で年齢のみ二倍年齢を使用するという可能性の問題である。たとえば、古代ギリシアの歴史家で「歴史の父」と称されるヘロドトス(紀元前五世紀)の『歴史』には、天文暦に基づき一年を三六五日と明確に認識している記述が存在する。

 「さて人間界のことに限っていえば、彼らの一致していうところは、一年という単位を発明したのはエジプト人であり、一年を季節によって十二の部にわけたのもエジプト人が史上最初の民族である、ということである。彼らはそれを星の観察によって発見したのだといっていた。暦の計算の仕方はエジプト人の方がギリシア人よりも合理的であるように私には考えられる。なぜかというと、ギリシア人は季節との関連を考慮して、隔年に閏年を一カ月挿入するが、エジプトでは三十日の月を十二カ月数え、さらに一年について五日をその定数のほかに加えることによって、季節の循環が暦と一致して運行する仕組みになっているからである。」
ヘロトドス『歴史』巻二(注12)

 この記述からわかるように、当時既にギリシア人は一年を三六五日と認識している。従って、彼らは一倍年暦のカレンダーを使用していたと考えざるを得ないのである。そうすると、明らかに二倍年暦としか考えられない年齢表記はどのような理由によるものであろうか。本連載前回(「孔子の二倍年暦」)末尾にて指摘したように、古代ギリシア人はカレンダーは一倍年暦で、年齢表記は古い二倍年暦の慣習に従っていた(二倍年齢)、というケースが想定される。もう一つは、古い二倍年暦と新しい一倍年暦の混在・併存のケースだ。あるいはその両方のケースもありうるであろう。これらのうち、個々の史料や当時のギリシア社会一般がどのケースであったのか、現時点では判断し難い。慎重に留保し、これからの研究に委ねたい。


 ソクラテスの二倍年齢

 ルネッサンス芸術の傑作の一つ、ラファエロ画「アテネの学堂」のソクラテスは老人の風貌で描かれている。しかし、本稿の結論からすればソクラテスやプラトン等古代ギリシア哲学者の高齢は二倍年暦に基づく表記、すなわち二倍年齢であることから、彼らの没年齢はほとんどが三十代、四十代となるのである。たとえば、ソクラテスは三五歳没、プラトンは四十歳没となり、いわゆる現代でいう「老人」とは異なる。こうした理解は既に論じてきた仏陀(四十歳)や孔子(三七歳)の没年齢とも対応し、古代の人骨の考古学的調査結果とも矛盾無く対応する。従って、古代ギリシア哲学は三十代から四十代の人々により完成されたのであり、そうした視点からの再理解が必要のように思われる。二倍年暦という概念はこうした古代の思想や宗教、哲学に対する従来の理解や学説にも影響を及ぼすことを避けられない。これが、本稿のもう一つの帰結である。
 なお、古代ギリシアにおける二倍年暦の用例として、マケドニアのアレキサンダー大王や古代オリンピックに関する伝承などもあるが、今回、調査が及ばなかった。後日、報告したい。(二〇〇二年十二月三一日記)

(注)
1 ジョルジュ・ミノワ『老いの歴史─古代からルネッサンスまで─』(筑摩書房、一九九六年刊。大野朗子・菅原恵美子訳)所収の表を転載した。

2 同1.、七二頁。

3 ルチャーノ・デ・クレシェンツォ『物語ギリシャ哲学史─ソクラテス以前の哲学者たち─』(而立書房、一九八六年刊。谷口勇訳)

4 同1.、六六頁。

5  田中美知太郎編『プラトン?』(中央公論社、一九七八年刊)の解説による。

6 同 5. 所収『国家』(615a)。

7 アリストテレス『弁術論』(岩波文庫、一九九二年刊。戸塚七郎訳)

8 プラトン『国家』(460e,540a)

9  同1.、七七頁。

10 西村秀己氏(向日市在住、古田史学の会々員)のご教示による。

11 『イリアス』『オデュッセイア』の舞台ともなったトロイ戦争が紀元前一二〇〇年頃のことであるから、論理的可能性から言えば、ギリシアでの二倍年暦はその時点までさかのぼることも十分想定できよう。

12 ヘロドトス『歴史』(岩波文庫、一九七一年刊。松平千秋訳)

〔筆者後記〕
 本稿執筆にあたり、西洋古典はいずれも邦訳によった。そのため、史料批判上、一抹の不安がぬぐい去れない。ラテン語、ギリシア語に堪能な方のご批判とご援助を切にお願いする次第である。


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