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馬門(まかど)
武雄市 古川清久
「大王の石棺」搬送の物理的基礎
熊本県の宇土市から西の天草諸島へと伸びる宇土半島の中ほどに馬門(まかど)という小集落があります。昨年、ここから切り出された石棺を舟で畿内まで運ぶという考古学上の実験が行われました。「百聞は一見に如かず」の喩えのとおり、現地を訪れると多くの事が分かります。
「仮に『大王の棺』だとしても、なぜ、わざわざ宇土半島から運んだのか?」などと考える前に、「その石が宇土の馬門石と判るのか?」という疑問を抱く方もおられるかもしれません。地質学、火山学はそれをクリアしますが、経費と人手の問題からか通常は石棺などの様式から判断しているようです。ただ、馬門石の中には「阿蘇ピンク石」と呼ばれる特殊なものがあるために判別ができ、それが一般にも脚光を浴びたのかもしれません。
凡そ九万年前、阿蘇山が噴火を繰り返していた時代に大火砕流が到達し、火山礫、灰などが固まった熔結凝灰岩の中に赤みを帯びた特殊なものが生成されました。この石は適度に柔らかく加工しやすかったために、江戸時代の細川領では広範に使われたようです。
熊本大学の渡辺一徳教授によると、「馬門地区のほか熊本市北部や大分県臼杵市など限られた所に分布している。なぜ限られた所にしかないのか。また、なぜ石が赤くなったのかなどよく分かっていない。馬門ほど広範囲に阿蘇ピンク石が分布しているところはほかにない。」とのことですが、細かい分布については、宇土市教育委員会の高木恭ニ氏などの調査により、網引(あびき)町の野添、藤ノ迫地区、隣接する網引町の清辻、這坂地区の東西一キロ、南北一.五キロの範囲に分布している事が分かっています。
その場所ですが、半島の北側(有明海側)をJR三角線と国道五七号線が並走しています。そのJR住吉駅東にある踏切を南に超え県道五八号線に入り、網津川に沿ってニキロも進むと馬門地区です。当初、地図で見ると馬門は内陸にあるために、山深い崖地を想像していました。しかし現地に行くと認識は一変します。切羽である以上崖地ですが、実際には集落の背後にある里山程度のものだったのです。集落の中心部には異形の大楠を持つ大歳(おおとし)神社があります。そこから比較的なだらかな道を五、六百メートルも進むと石切場があり現在でも生産されているのです。実験航海の石棺もここで加工されました。一〜二トンの修羅に乗せて曳き出せば五〜十トンの石棺といえども搬出は可能であり、恐らく大歳神社付近まで運んでいたでしょう。古代においてはこの場所まで潮が入っていたと思われます。地区を北流する網津川は感潮河川であり、現在でも干拓堤防の樋門を開けばさらに奥の馬立地区までは潮が入ると思われます。JR三角線から大歳神社までは二キロほどの距離しかありません。有明海沿岸の陸化のペースを考えると十分過ぎるほどであり、千五百年前のこの地は海がすぐ傍まで迫り、波が洗う大きな入江であったと思われます。恐らく石棺は間際まで湾入した入江に停泊した舟に積み込まれたと考えられます。これを想像させるのが網津川の上流にある割井川という地名です。ここは網津町の最奥部ですが、割井川とはどう考えても自然には入ってこない舟や船を上の集落まで引き込むために人為的に掘を割ったという地名に思えます。
大歳神社は宇土市住吉町の住吉神社の宮司(近藤盛親氏)が兼務されていますが、お話によると、“かつては馬門地区よりも上流の網引(あびき)町の馬立(またて)地区辺りまで潮が入り、さらに上流でも小舟を曳いて上がっていた”とのことでした。現地には小舟という集落もあります。してみると馬立とは舟から荷を降ろして馬を仕立てた場所のようにも思えます。
大歳(おおとし)神社
現地を見て一番驚いたのは、馬門が全くの低地にある集落だったことでした。集落の中心部でも海抜五メートル以下、河床は二メートルは下がりますので、高くても三メートル程度で有明海の潮汐振幅の枠内に入りそうです。大歳神社は中心に位置していますので大王の石棺がここで切り出されていたならば、何らかのセレモニーが行われた事はほぼ間違いがないと思われ、この神社の持つ意味は非常に重要になってきます。
大歳神といえば須佐之男命の子ですが(但し『古事記』の表記は大年神、『日本書紀』にはこの神は登場しません)、この神社の名は九州ではあまり耳にしません。しかし、調べると福岡県筑紫野市の筑紫野インター西の山口川沿いの山口地区に同名の神社があります。また、宮崎県や長崎県(諫早市)にも数社があるようです。
一方、京都の西京区にも大歳神社があります。こちらはオオドシと呼ばれていますが、式内社であり養老二年(七一八年)創建とされています。祭神は大歳神とされ農業神のようですが、併せて石作神と豊玉姫が祭られています。石作神は代々石棺を造っていた氏族の祀る神のようです。一方、豊玉(とよたま)姫は豊玉彦神の娘、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の妃であり、海人族=海神です(その子が神武天皇の父)。この神社は兵庫県に三百社以上あるとされていますのでこの神を祀る古代氏族は兵庫を本拠地としていたようです。
もしも、この京都の大歳神社が馬門の大歳神社と同一起源のものとすると、石棺の製造と搬送の神がセットで祀られる事になり良く符合し、普通は京都から馬門に分社されたのではないかと考えるでしょう。可能性が高いのは言うまでもなく細川氏です。馬門石の生産が最盛期を迎えるのは江戸の半ばです。細川領では御用石として水管、鳥居、橋などに大量に使っています。細川氏は室町以来の守護大名であり京都の大歳神社を移したとするのは決しておかしな話ではないでしょう。
前述の住吉神社の宮司によると「大楠が祭神だったのではないか」とのことですが起源については良く分りません。しかし、先回りした議論をすれば、祭神が京都と同一起源として、馬門の祭神が異形の大楠だけで石作神や豊玉姫が併せて祀られていないとすれば、馬門の方は古い形態を残している事になります。それは、細川氏がこの神社を京都から持ち込んだとすれば石作神を祀らなかったはずはないからであり、さらに京都の大歳神社も本来の祭神は大歳神で境内は栢(かや)の森と呼ばれ、社も栢の社とされているからです。と、すると、戦慄すべき仮説がよぎってきます。それは、水野論文の「阿漕的仮説」において「不知火海から伊勢神宮移築」を考察した事と同様に、「大歳神社も九州から移築」されたのではないかと考える必要性も出てくるのです。京都の大歳神社を祀ったのが古代氏族の紀氏とされ、その初期の基盤が福岡県筑紫野市から佐賀県の鳥栖市や基山町周辺だったとされていることは、九州からの移築(移設)を予見させる材料でもあるのです。
大年神社のこと
表記は異なるも福岡県八女市に隣接する黒木町に「大年神社」があります。八女古墳群を思い起こしますが、周辺の上陽、星野町、矢部村と併せた一帯は筑紫の最深部であり、磐井の拠点とされたところです。黒木町釈形(しゃかた)地区に同神社があります。地名にも驚きますが、隣に柏の木地区があります。京都の大歳神社にも栢の森と栢の社があり、同じ意味を感じます(柏と栢は同字)。また、黒木町役場から北に小山を越えると上陽町北川内地区ですが、ここは米田良三氏が『逆賊磐井は国父倭薈だ』で磐井の墓と比定された所です。大年神社は八女市に隣接する立花町白木地区にもあります。
馬門、馬立の周辺
馬門、馬立とありますので、馬(ま)の音と意味を考えていました。九州北部には表記は異なりますが、間(ま)の付く印象的な地名が並んでいます。東から和間(宇佐八幡宮の神事“放生会”が行われる和間ノ浜で有名、大分県宇佐市)、中間(北九州市の隣の中間市)、赤間(宗像市赤間、赤間神宮で有名な下関市赤間)、福間(福津市福間)、野間(野間大池の福岡市南区野間)・・・海岸部もありますが、多くは内陸部の地名です。しかし、中間は古代においては古遠賀湾奥の土地ですし、他も五世紀あたりは湾奥の土地だったのです。
「ま【間】 ○8 船の泊まる所。ふながかり。」(広辞苑)
佐世保市のハウステンボス対岸の城間(じょうま)、有明海側の佐賀県鹿島市の鹿島(地形から島とは考えにくく、対岸の間の意味か)、福岡県久留米市の三瀦(みずま)、夏目漱石の随筆『草枕』の舞台、熊本県玉名郡小天町の小天(おあま)、また、山口県防府市の勝間、兵庫県の播磨や神戸の須磨それに大阪の水間もそうかもしれません。さらには、生の高級マグロ漁で有名な青森県の大間(おおま)も恐らく同じ意味の地名でしょう。
馬と間の表記の違いもありますが、古代においては馬門が湾奥の地名であることから、「間」地名についてふれましたが確たる心証を得ません。一応、馬立については舟の溯上限界で馬を仕立てた山道の入口地名ということで良いようですが、港は「湊」であり、古形は水の門です。『「ま」(「ま」と「み」が入れ替わるとすれば)「か」(格助詞)「と」』とも考えられます。普通は『馬(うま)の門、「ま」、「か」(格助詞)「と」』して良いのでしょう。
み・な・と【港・湊】(「水の門」の意)
○1河海などの水の出入り口。みと。瀬戸。万葉集(7)「ーーの葦の末葉(うらは)を誰かたをりし」○2湾や河口を利用し、また防波堤を築いて、船が安全に碇泊できるようにした所。港湾。(和名抄(1))(広辞苑)
馬の話が出ましたが、実は馬門にはやはり馬が関係しています。というのは、馬門石の切羽のさらに山手に牧(まき)神社という社があるのです。牧は「御牧(みまき)」です。古代の官道がこの地を通っていたと思われるのです。「良い馬は献上し悪い馬は里に下げられていた」との話を住吉神社宮司からお聞きしましたので、細川領の御用牧かと考えましたが、どうも古代の朝廷への献上であったとの話のようで、古代の牧であると感じたのです。肥前国の官道は大宰府から武雄付近を経由し船越(諌早)に出て島原半島に向かい、山田を経由し野鳥の駅家から舟で肥後国の宇土半島先端の三角辺りに上がり宇土市に通じていたと考えられますが、その途中にも恐らく駅があったはずであり(「船越」参照)、駅の付近に牧、牧神社があり官道があったことも十分に考えられるのです。
大歳(馬門)神社は「肥後國史」、「肥後國神社誌」にも祭神は年ノ神、大歳神としか記載されていません。気になるのは、馬門石の切羽に向かう手前右手の小丘に赤石(あかいし)神社なる祠があることです。赤石はピンク石の事ですから、石作神が大歳神社に併せて祀られているのならば、赤石神社が別に存在するとは考えにくく、これは馬門の大歳神社に石作神や豊玉姫命が祀られていなかったことを示唆します。赤石という言葉は細川家が使っています。石切場付近には“赤石場見締”なる役職があり、御用石として管理していた事が伝えられています。繰返しになりますが、細川が赤石神社を置いたのか、それ以前からこの場所にあったかは調査が必要ですが、赤石神社が細川によるものでも、逆に古代からのものであっても、大歳神社が楠を祭神としている事が確実ならば古形を留めているわけであり、京都の大歳神社も九州が起源との可能性はあるのかもしれません。
舟で運ばれた石棺
実験航海では、加工された棺が舟上に乗せられ、島原半島南岸を西に向かい長崎の西岸を北上して畿内に向かいましたが、平戸の東の釜田、関門海峡の門司港などを経由して瀬戸内海に入り、宮津、鞆ノ浦、牛窓港、芦屋港といった名だたる港に錨を降ろしながら約一ケ月かけて大阪南港に着いたのでした(計二四港)。私は、蓋と合わせて十トンに近い石棺を舟上に載せるのは復舷性を考えると危ないと思いましたので、筏併用か舷側にでも吊るし、石棺自体の浮力を利用したのではと考えたのですが、水の抵抗や石の脆さを考えると、舟底に置いて運ぶのが順当かもしれません。ただし、航路については「船越」(延喜式に登場する「船越の駅」経由の一部陸路利用)で書いた有明海〜諫早=船越〜大村湾というルートもありうるのではないかと思います。海が安定する夏場でも、南西風が卓越する長崎南、西岸は通りたくないと考えたからです。諫早の大歳神社が本名川沿いにある(付近には歳神社もあり古代は潮が入っていたとされています)ことを考えると、このルートも気になるところです。
馬門地区の干拓地先には住吉神社があります。当時この場所は間違いなく馬門沖に浮かぶ島であり、その高さからも有明海南部の目立った島だったはずです。神社の縁起を見ると、当然ながら住吉三神の表、中、底筒男命(ウワツツツオノミコト・・・)、気長足姫神外が祀られています。海路畿内まで石棺が運ばれたと聞き、必ず附近に海洋民の痕跡があると探しましたが、直ちに住吉地名と同神社を見出し、「やはり」と思ったものです。そこで宮司にこの事をお尋ねすると、「神社の創建は菊池氏によるもの」との、お答えを頂きました。
菊池氏は鎌倉末期から南北朝騒乱期にかけて九州中央部に盤踞し、南朝方として一時期、太宰府を制圧したほどの豪族ですが、熊本市西部の松尾地区などを拠点に明国との貿易も行っていたとも言われており当然かとも思いましたが、網津町に隣接する住吉町附近には、先行して住吉の民が定着し、住吉の神を祀っていたと考えます。大阪の住吉大社にしても、その起源は対馬、壱岐のはずですし、当地の住吉もそれを起源とするもののはずです。古代も馬門を出発した石棺舟は住吉の神に航海の安全を祈願して畿内を目指したはずです。
石走る淡海
さて、ここでさらに踏み込んだ話をしたいと思います。万葉集には「淡海(おうみ)」が出てきます。淡いという言葉は広辞苑を開くまでもなく薄いという意味ですが、薄い海とは何でしょうか、普通は海でありながら大河などの影響を受け、塩辛くない水域のことと考えるでしょう。一般的には琵琶湖のこととされています。ただ、「琵琶湖に鯨が泳いでいた」と言えば、大笑いされるでしょう。しかし、万葉集に関しては、大まじめに琵琶湖には鯨がいるとされているのです。
『万葉集』巻二、百五十三番 天智の妻の歌、太后(おおきさき)の御歌?
いさなとり,あふみのうみを,おきさけて,こぎきたるコウ,へつきて,こぎくるふね,おきつかい いたくなはねそ,へつかい,いたくなはねそ,わかくさの,つまの,おもふとりたつ
鯨魚取り 近江の海を 沖放けて 漕ぎ来る[舟エ]辺付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の嬬(夫)の 思ふ鳥立つ
(原文)鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来[舟エ]邊附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波袮曾 邊津加伊 痛莫波袮曾 若草乃嬬之 念鳥立
これも天智天皇の妻の歌、太后(おほきさき)の御歌となっているが、内容がおかしい。
定説の読み下しは、「鯨魚取り 近江の海を・・・」と成っている。鯨が取れる近江の海となっている。いくらなんでも琵琶湖では鯨は捕れない。(古田武彦講演会 二〇〇一年一月二〇日(日))
一方、「阿漕的仮説」 ーーさまよえる倭姫(奈良市 水野孝夫)において、「淡海は球磨川河口の海」という仮説が提出されています。これは『倭姫命世紀』という古文書によって万葉集の淡海を球磨川が注ぐ不知火海と論証するものでしたが、さらに「石棺」と「淡海」をキー・ワードに一歩進める仮説が提出されました。「古賀事務局長の洛中洛外日記」第五二話「石走る淡海」です。
氏は「石走る淡海」という歌枕について問題とされている事に対して、『・・・淡海は本来は琵琶湖ではないという問題については、熊本県の球磨川河口とする西村・水野説が有力・・・とし、宇土半島から阿蘇ピンク石が産出するという事実・・・ピンク岩の巨岩を復元された古代船で近畿まで運ぶプロジェクト・・・を「淡海」を「石走る」である』と考えられたのです。蛇足ながら、「・・・阿蘇ピンク岩の巨岩を復元された古代船で近畿まで運ぶ・・・」とありますが、正確に表現すれば、現地で加工された石棺が運ばれています。
では、古賀仮説は成立するのでしょうか。半島南の不知火海の球磨川河口を淡海とすることについては、水野氏が論証を試みておられますが、初めに思ったのは、普通は馬門地区は半島北側に位置し、どのように考えても北の有明海にしか送り出さないはずであり成立しにくいという事でした。ただ、調べていくと、どうやらこの仮説は成立するのです。
ピンク石を含めた九州外石棺の分布
第一に、ピンク石だけが大王の棺として九州から調達されたように言われていますがそうではありません。凝灰岩の石棺は馬門地区の他に菊池川水系(熊本県玉名市から有明海に注ぐ)と氷川水系(熊本県氷川町から不知火海に注ぐ)でも造られ、その一部が瀬戸内海沿岸から畿内に運ばれているのです。
第二に、大王の石棺が遠く九州から運ばれたことが事実だとしても、それは、畿内から調達されたものなのか、逆に、九州から畿内に贈られたものなのか?という問題は残ります。ここには、ある時点で調達と贈与が逆転するベクトルの変化があるはずで、現在のところ菊池川水系、馬門地区、氷川水系の石棺製作に時期的な差があり、それが畿内と九州の力関係の変化と関係しているのではないかとの仮説を立てています。
第三に、ピンク石石棺の九州での出土例はないとされていますが、鴨篭(かもご)古墳(不知火町:非ピンク石)は馬門産出とされています。ただ、少ないのは事実で上記の理由が関係しているのかもしれません。
ピンク石については、会報 No.七〇「『大王のひつぎ』に一言」の伊東義彰氏作成の一覧表を見てください。私の関心は産出地域にあったために本稿ではその観点で考えます。
第4ー4 九州外阿蘇石製石棺一覧表から略記
(1).菊池川下流域:蓮華寺石棺(愛媛県松山市)ほか、観音寺丸山古墳など、愛媛1、香川3、岡山1、大阪府2(七例)
(2).宇土半島:造山古墳前方部石棺(岡山市)ほか、築山古墳など、岡山2、大阪3、奈良8、滋賀2、参考1(一六例)
(3).氷川下流域:御津山朝臣石棺(兵庫県揖保郡)ほか、八幡茶臼山古墳など、兵庫、京都、和歌山(三例)
(4).参考:伝、息長広姫陵古墳?(滋賀県坂田郡)ほか、黒姫山古墳?など滋賀1、大阪2(三例)
『新宇土市史』通史編第一巻抜刷「原始古代編第四章 古墳時代 ーー倭王の時代」
このように菊池川水系石棺は瀬戸内海沿岸に運ばれています。注目するのは不知火海の氷川水系石棺が畿内に運ばれていることです。兵庫県の御津町朝臣石棺、京都府の八幡茶臼山古墳、和歌山県の大谷古墳です。周辺や佐賀県などにも運ばれていますが、不知火海沿岸から搬送された事は間違いがなく(球磨川河口だけが淡海で、不知火海全体までも淡海かという問題は残りますが)、古賀仮説「石走る淡海」は成立する可能性があるのです。このことは淡海が実は不知火海であり、万葉集のかなりの部分が九州を舞台に歌われた可能性や、作者や書かれた背景にも多くの改竄があるのではないかという戦慄の予想を感じさせるのです。
※本稿はHP「有明海・諫早湾干拓リポート」掲載の原稿を三分の一に縮小したものです。字数の制限から多くの資料、論証を略載しています。詳しくは同HP四月号118を見て下さい。馬門現地の写真、九州外阿蘇石製石棺一覧表、図、周辺地図等も見る事ができます。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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