石(いわ)走る淡海 古賀達也(会報72号)
ホームページ「古賀事務局長の洛中洛外日記」より転載
第73話 2006/04/23
大野城から刻木文字が出土
京都市 古賀達也
このところ太宰府から興味深い考古学的ニュースが続いています。その筆頭は、四月十五日に新聞報道(日経、他)された、大野城跡から出土した木柱に「孚石部」と彫られていたというニュースでしょう。
日経新聞によれば木材に彫られた文字としては国内最古級のもので、年輪年代測定により六四八年以降に伐採されたものとされています。更に重要な指摘としては、「部」は「都」とする専門家の意見も紹介されていることです。たしかに新聞やインターネットに掲載された写真を見る限り、「部」よりは「都」という字に見えます。
そうすると、この「都」は九州王朝の都である太宰府を指し示すものと考えられます。出土した場所も大野城の正門、太宰府口門であることも示唆的です。このように今回の発見は九州王朝説にとって大変有利な内容を含んでいます。
文字の「孚石」(うきいし)については木材の産地との見方が強いようですが、九州王朝の都の名称というアイデアを私は抱いています。ただこの場合、現地に「ウキイシ」というような地名が遺存していてほしいところですが、今のところ見つけていません。やはり、産地名と考えるのが良いのかも知れません。
この柱の伐採年代が年輪年代測定によれば六四八年以降とされている点も要注意です。『日本書紀』の記述から、通説では大野城の完成を六六五年、すなわち白村江以後とされているからです。普通、木材は有効利用するためにそんなに外部を削ることはしないと思われるので、六六五年の伐採とすれば、この柱は十七年分の年輪部分を削ったことになり、ちょっと不自然なように思います。やはり、古田説のように大野城や水城は白村江戦以前に太宰府防衛の為に築造されたと考えるべきです。そして、そう考えると、通説のように太宰府の成立を八世紀初頭としたのでは、大野城や水城は何を防衛したのか全く意味不明となってしまいます。太宰府もそれ以前(七世紀初頭)に作られたとするべきです。この点、拙論「よみがえる倭京(太宰府)」(『古田史学会報』五〇号)を参照下さい。
それにしても、すごい刻木文字が発見されたものですね。六月二五日まで太宰府市の九州歴史資料館で公開されるそうです。
〔補注〕下関市豊田町に「浮石」という地名があり、注目されます。「第七四話」にて紹介しました。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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