コバタケ珍道中(九州編) 竹村順弘(会報83号)
お断り:本会のホームページでは丸数字(○1)は、表示できません。○1は、(1)に変換しています。
放棄石造物と九州王朝
木津町 竹村順広
『筑後将士軍談』の「鏡山氏」の項は、「武内宿禰、亦名ハ玉垂命、亦物部保連ト稱ス」と題され、以下に続きます。※(1)
「日本書紀云、仁徳天皇五十一年(*)以武内為棟梁臣[高良縁起云、藤大臣、蓋棟大臣之誤矣、而玉垂命物部保連藤大臣等之説、中古以来多見矣]」(*景行五一年では?)
「大和名所圖會曰、宣化帝陵在高市郡鳥屋村傍、有小塚五、其中央有大者、土人曰、武内墓[八幡本紀云、武内墓在高市郡益田池坤。性霊集云、・・・]」
[ ]内は本文の注釈ですが、この「益田池」と言うのは、現在の奈良県橿原市白橿町に位置し、同地の橿原ニュータウンがスッポリと水没する規模です。
白橿町のホームページhttp://shirakashi-town.org/shirakashi/mukashi.htmによると、次のように、説明されます。
「平安時代の初め、日本中が大旱魃にあう。京都で雨乞いの請雨経があげられた。弘仁十三年、その対応策として大和国白橿に大池が作られた。畝傍山の西南裾に堤を築く、いわゆるダムである。その名も、田を益す。益田池と名づけられた。いつしか、堤もなく、水は干上がり、底にはナマズならぬ私達が住んでいる。」
そして、この「益田池坤(ひつじさる)」、つまり、益田池の南西部に、「益田岩船(ますだのいわふね)」と呼ばれる巨大な石造物があります。この南東約1キロメートルに、牽午子塚(けんごしづか)古墳があります。
当会の古谷氏から紹介して頂いた「東アジアの古代文化」(第二二号)一九八〇年早春号が、「日本古代の石造遺物」を特集しています。同誌に、この牽午子塚古墳の二連の横口式石槨の開口部を九〇度回転して、天井に向けたら、益田岩船になると言う説があります。※(2) 同様に、挙げられているのに、兵庫県高砂市竜山の「石宝殿(いしのほうでん)」があります。つまり、九〇度回転したら、横口式石槨になります。
間壁氏※(4) によると、この「石宝殿」は、現在、生石神社の御神体となっている。この神社は、延喜式には無いが、養和元年(一一八一)の「播磨国内神明帳」には記載があるので、延喜から二五〇年以上立つ間に成立したという。江戸中期(宝暦年間)に書かれた「播磨鑑」所収の「播州石宝殿略縁起」によると、大已貴命と少彦名が作ったとされている。しかし、最古の記事は、「播磨国風土記・賀古郡」で、次のように記載されている。
「原南有作石。形如屋。長二丈、広一丈五尺、高亦如之。名号曰大石。伝云、聖徳王御世、弓削大連所造之石也。」
つまり、風土記では、物部守屋が石宝殿を作ったと伝承されています。一方、高良記の第四四〇段に、「高良大菩薩・大祝・守屋の大臣は御兄弟※(5) 」とあります。同じく、同書に、九州王朝の主筋たる高良玉垂命の家系が、本姓が物部だと言うのを隠しているように見える文があります。古賀局長が例会発表された次の文です。※(6)
189 大善薩御記文曰 五性(姓)ヲ定ムルコト、物部ヲ為秘センカ也
200 大菩薩御記文 物部ヲソムキ、三所大菩薩ノ御神秘ヲ多生(他姓カ)ヱシルコトアラハ、当山メツハウタリ
495 同御記文之? 物部ヲ績(続カ)セスンハ、我左右ヱ ヨルコトナカレ
牽午子塚古墳には、被葬者は斉明天皇と言う説※(7) があります。でも、斉明天皇陵は、越智崗上陵のはず。『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』に出てくる「袁智天皇」は、陵の名前※(8) でそう呼ばれたとされている。
ところで、斉明天皇と言えば、「狂心の天皇」。そして、その大土木工事をしたのは、近畿王朝主体ではなく、九州王朝ではないか。※(9) 以上から、次の事を考えてみました。
【1】斉明期に、牽午子塚古墳型の横口式石槨の巨大石造物2基(石宝殿と益田岩船)を製作途上で放棄した。
【2】大土木工事は、九州王朝が主体で行なっていた。
【3】九州王朝は、近畿では、「物部」氏とか「武内宿禰」として、語られていた。
結論として、斉明期に、近畿で巨大石造物を製作させようとしていた勢力(九州王朝)は、或る事情により、製作を放棄せざるを得なくなった。その或る事情とは、白村江の敗戦と、サチヤマの捕獲に、起因すると思われます。
なお、大型の石造物としては、鳥取市国府町岡益の宇倍野陵墓参考地「岡益の石堂(いしんどう)※(3) 」 があります。安徳天皇陵だと言われ、陵墓参考地として、宮内庁の管轄に現在はなってます。しかし、『勝見名勝志』には、
「里人ニ尋ネレバ武内ノ御廟ト言伝フト云者アリ又ハ安徳天皇ノ御陵ナリト言伝フト云者モアリ|決セズ※(10) 」とあるらしいです。
これも、同様の理屈で言うと、九州王朝が噛んでいるような気がするんですが、如何なものでしょうか。
※引用文献
(1) 矢野一貞『校訂筑後史』筑後遺籍刊行会:1927
(2) 『東アジアの古代文化』第二二号 八〇年早春/特集 日本古代の石造遺物
間壁忠彦・間壁葭子:播磨の「石宝殿」神部四郎次:益田岩船について─横口式石槨説─
(3) 同
森浩一・古田武彦 日本古代の石造遺物─岡益の石堂を中心に─
川上貞夫:岡益の石堂
(4) 間壁忠彦・間壁葭子:『日本史の謎・石宝殿』六興出版・・1978/10/30
(5) 荒木尚 『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社:1972/07/01
(6) 古賀達也:『高良記』所引「大菩薩御記文」の紹介─『先代旧事本紀』との比較─・・2005/09/17古田史学の会・関西例会
(7) 菅谷文則『日本の古代遺跡(7)奈良飛鳥』保育社:1994/05/31
(8) 水野柳太郎:大安寺伽藍縁起并流記資材帳について(所収『大安寺史・史料』大安寺史編集委員会:大安寺:1984/11/.03)
(9) 古賀達也「天の長者伝説と狂心の渠」『古代に真実を求めて』(4):2001/10
(10)川上貞夫『復刻・岡益の石堂』牧野出版:1997/07/20
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。
古田史学会報74号へ
古田史学会報一覧へ
ホームページへ
Created & Maintaince by" Yukio Yokota"